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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

親の在り方を問う子の存在

 引きこもりや精神障害等で悩む親達、またそれらに関心のある人たちのワークに参加したときのこと。
 ワークの講師は10年以上の引きこもりの末、教員として中学校に勤務する方。これまでの自分の歩みと家族との葛藤などが語られました。
 ワークのあとに、参加者からの感想や振り返りを述べる場面で、あるご夫婦で参加していただんなさんが感想を述べました。
 「自分たちは二人とも教員で、自分は30数年中学校の教師として退職した。現職の頃は、わが子にも家庭では学校にいるような言動を子どもたちにしてきた。教員の子として後ろ指をさされないようにと厳しくあたってきたように思う。長男が大学には入ったが引きこもっている。いまさらながら自分の子育てを反省しているし、今このときからが自分の子育ての学び直しと思って、カウンセリングや様々な勉強会に参加したいと思っている。」と。
 そして、「今の中学校はとにかく生徒にとってもストレスが多いと思う。教員も生徒もゆとりがない。子どもたちも可哀想だ。」

 教員を離れて客観的に今の教育環境を冷静に見つめれば、そんな感想もでてくるのでしょう。ましてや自分のお子さんが引きこもっていれば、どうしても教育者の自分と親としての自分の在り方を改めて問い返す必要もあったでしょう。
 現職の頃は、周囲の教員同士の子育ての価値観(教員の子として恥ずかしくないように育てる、いい学校に進学・就職させたいなど・・)を自分達もあたりまえのように引き受け、家庭でも教師面でわが子に接してきたのでしょう。そういう子育てでも立派に自慢の子どもとして成長し、何も問題なく進む子どももいれば、同じ兄弟姉妹でも中には、感受性が強く結果的に親に様々な問題を突きつける子もいます。
 そういう問題を突きつけられて初めて親は、自分の子育てを振り返るチャンスを与えられるのでしょう。

 
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子育て支援

新年度の予算が決まろうとしています。

 目玉としてどの部門に予算を多くつけたかが、各自治体によって差がでてきますが、たいていの自治体は「子育て支援」にいろんな理由をつけて新規事業を立ち上げたり、予算を増額しているようです。

 わが市でも、乳児訪問を専門とする嘱託職員を新たに採用することでの予算が認められました。
 でも、その実態はといえば、正職員での保健師等の採用が難しいため、年間170万円で、訪問専門の人員を採用するというものです。
 これまで保健師たちが赤ちゃん訪問をになっていた部分です。
 
 これまで職員としてになってきた部分が、国や県の事務移譲のためにますます、地域に密着した業務ができなくなり、安い人件費で賄おうとする。
 そんな管制ワーキングプアの人たちがどんどん増えていきます。
 
 「子育てするなら○○市」とうたっているある自治体。
 そこの自治体に住む、3歳の男の子のお子さんを抱えるお母さんと話すきっかけがありました。

 子育てに一生懸命と行政は言うけど、実際はどうなのかと聞けば、「確かに他の自治体よりは子どもの遊び場のようなハコモノは立派だけど、それだけ?っていう感じ」だとか。
 そのお母さんも旦那さんの転勤に伴い、県内を転々とし、今の市に住んで半年。お子さんも心臓疾患があり、投薬で様子をみている。予防接種などに不安があり、子育ての悩みなど気軽に相談できる人も場所もない、と言います。

 子育て支援に力を入れていると言っても、その内実は子どもの医療費の無料化の年齢の引き上げや児童手当等の経済的援助だったり、○○センターのようなハコモノの建設だったり、安い人件費をつかっての職員の増員だったりです。
 ○○センターのような遊び場を作っても、そこで子どもを遊ばせている親たちは、子どもと一緒に遊ぶどころか、皆ホールの隅に列を組んで座って、それぞれが自分の携帯やスマホとにらめっこ。ましてやほかのお母さん達とおしゃべりするようなこともしていない。そういう場所にきていてさえも、母親たちは孤独なのだなあと感じます。
 以前、わが子がまだ小さいときにその遊び場につれていったときの光景です。

 本当の子育て支援って何なのでしょうか?
 子どものことを支援する前に親支援(それも単に物理的な支援ではなく、親自身を肯定してもらえ、子育てに自信をもってもらえるような支援・・)。
 今は、どうしても、子どもの状態によって親を評価するような眼差しがあまりにも多すぎます。

勘違い

 間違った組織に安住すれば、破壊の道へつながる。
 間違った環境や場所でいくら素晴らしい実践をしたとしても、間違った思考回路で動いている限り、その人がどんなに素晴らしいことをしようが、間違ったままになる。
 今、やっている仕事がどうだとか、主義が素晴らしいとか、全然関係ない。システム自体、自分の思考それ自体おかしければ、多くの人は全く気づいていないか、気づいてはいても目をふさいで見ないようにしているかどちらか。
 
 組織と言うのは、学校や地域でもそうですが、他人の評価を最も大切にしなければ生きていけません。
 自分で自分を評価できるかどうかが一番大事。
 たとえ、組織に属していても、自らの評価だけで生きている人は強い。
 安定を求める周囲の評価を気にするそういう人たちがやっていることは、ただひとつ。他人を操作する。
 組織の中で嫌われないように生きている限り何もできません。

子育て支援

 「子育てするなら○○市」のスローガンで子育て支援に力を入れていた○○市で母親が生まれて間もないわが子を殺してしまった事件がまたおきてしまいました。「また」というのは、昨年も同じような事件が起きていたからです。
 昨年の事件を受けて県や市町村では「子育て支援対策」を打ち出していました。保健師による訪問指導の強化や子育てサロンなどの開設などなど・・・。しかし、また同じような事件が起きたわけです。
 
 こういう事件が起きるたびに、マスコミがわっと駆けつけることとなり、「県や自治体は何をしていたのか」という追及が始まります。それを逃れるためにも、「これだけの施策をやっていました」と弁護に走る上層部のコメント。
 
 県では、各自治体に子育て関連の実態調査を要求してきます。リスクのある家庭や育児に悩む母親がどのくらいいるか、訪問回数は足りていたのか・・・など。
 さらに保健師たちは「虐待の徴候」を見逃さないようにと、乳幼児健診や家庭訪問指導でも母親の悩みにしっかり耳を傾けるというよりも、「子どもの体に傷はないか?」「母親の心理状態がどうか」などと、「職業的な感覚」で母親を「査定」し、その中でちょっとでも育児不安を訴える母親は、「ちょっと気になる母親」「リスクのある母親」としてカウントされ記録に残されることになる。
 それはそれで「業務」としては必要なことだと思うけれど、もっと根源的な「子どもを育てていくことの本質」(悩みがあって当たり前でありみんな通る道であること)を伝えてくれる人の存在が必要なんじゃないかと思います。それが昔は経験者だったりするわけだけど、(自分の母親だったり、姑だったり、祖母だったり、近所のおばちゃんたちだったり・・・)なかなか今はそういう環境の少なく、若い母親の「孤立感」はますます高まっているのでしょうか。

 こういう事件が起こるたびにその背景をしかりと見つめ、表面上の対策だけでは解決しない問題がはらんでいるような気がします。
 行政が考えるような「子育て支援策」をいくら打ちだしても、このような母親達の根源的な悩みや不安は簡単には解決しないような気がします。
 

子育て支援策のうそ

  先日、ある認可外保育園を経営する園長先生とプライベートでお会いしてお話した時のことです。
 その園長先生は長男を最初に保育園に入れた時に当時その保育園で働いていた保育士さんでした。
 訳あって、その保育園をやめることになり、自ら新しく無認可の保育園を作って、今年で13年目に入ろうとしています。
 認可保育所は県や市の補助金が一定程度は入りますが、無認可の場合はその10分の1程度の予算しかつかず、経営的には大変です。
 しかし、認可外保育園ならではのメリットもあり、(途中入園にも対応できるなど)、子育てのお母さんたちのニーズもあり、保育料は高くても10年以上も運営できてきたのだと思います。

 その園長先生がいうには、「行政は〝うちの市は待機児童がゼロです”と窓口で自慢げに話してくれたが、あれは年度途中での入園児をカウントしていないから。だいたい保育園の入園募集は秋ごろにあるから。実際わが園に子どもを入れたいとくる親は年度途中で産休や育休が明け、そこから保育園を探そうとすればすでに4月の時点で認可保育園は定員が埋まっているから、どうしても、仕事復帰しなければならない母親は、多少お金が高くても、こういう認可外保育園に入らざるをえないのです。」と。

 認可保育園に入れる子どもさんは、もともとが共働きであることが条件なのだから、専業主婦だった人がこれから仕事を見つけて働くためにも子どもを保育園に預けたいという条件では、最初からに認可保育園に入れる条件からははずれているというのです。
 そして、そういう親御さんほど、子どもを預かってくれるところがなければ仕事もできず、経済的にも大変になってきたりするわけです。そういう制度の隙間を認可外保育園はその役割を担ってきているともいえるでしょう。
 しかし、「待機児童がゼロ」というのは本当にそういう隙間の人たちのニーズをくみ取らない矛盾をはらんだ数字だという気がします。しかも、その数字が市の計画作成のためのデータに公表されるわけなので、実態を知らない人からみたら、「○○市は待機児童がゼロで、子育て支援が進んでいる」という外部評価につながったりもするのです。
 数字でその市の実態を見ていくということの矛盾を感じてしまうのです。
 
 今は国をあげて、「子育て支援策」をあれこれ考えていますが、いつも役人が考えるのは机上の空論です。
 自治体職員や教員などの公務員や、大手企業に勤めていれば、育児休暇も最高3年まで取得できたりもします。また授乳のための育児時間や看護休暇なども柔軟にとれたり、福利厚生なども手厚くなってきています。男性も育児をということでの「イクメン」という言葉も流行ったりもしました。
 男性の育児休暇取得率をあげようと、ある県では積極的に男性に育休をとらせて見本を示そうとしている自治体の紹介記事も以前新聞に載っていました。

 しかし、最近の新聞のレポートで読んだ実態はこうです。
 育児休暇明けに職場に復帰したら、以前のポストには新しいスタッフがすでに配属されていて、「あなたの居場所はない」と言われ、辞めさせられた。
 子育て中なのに旦那さんも単身赴任で家にいなかったり残業が多い中では、女性である母親自身も長時間労働を強いられ、とても正社員での就労が難しい現実。
 それまで正社員で働いていたのに、職場復帰したら、いきなり「契約社員」を命ぜられた。
 自分だけ子育てのために残業せずに早めに切り上げるのを、他の同僚たちが冷ややかな目でみているので、やりにくい。

 結局子育て支援をうたっても、こういう会社や職場の現実はいまだに多いのが実際でしょう。
 若い夫婦が、子どもをつくりたがらない社会構造を見て見ぬふりをして、出生率を上げんがための姑息な手段(施策)が多くの若い女性たちの反感をかってしまったことがありましたが、役人や国会議員だって自分たちのレベル(経済的余裕のある人たちの)でしか施策を考えられないから、なんとかやりくりしている世代や階層の人たちにとっては、その政策がいかにも「絵に描いた餅」「夢物語」でしかないのです。
 
 子どもを育てていきたくても上記のような職場の実態があるならば、だれだって子育ては大変という認識でしかなくなります。そして一部の恵まれた職場以外の大部分の職場はまだまだ子育てするのには厳しいところがあるというのが実態ではないでしょうか。

児童虐待増加の背景にあるもの

 今朝の新聞で児童虐待の件数が過去最多6万件を超えるとのデータを示し、記事にしていました。
 
 全国の児童相談所が2012年度に対応した児童虐待の件数は6万6807件で、前年度より6888件増えた。昨年度は10年前の2.8倍に・・。
 統計を取り始めてから22年連続で過去最多を更新。虐待件数は児童相談所が18歳未満の子どもについての被害通報を受け、対応したケースを集計したもの。
 厚労省は児童虐待の高まりや児相と警察の連携が進んだことなどで相談・通報が増えたほか、虐待そのものも増えているとみている。


 避難長期化、ストレス子どもに  虐待被災地で深刻化

 福島や宮城の被災地の仮設住宅に住む人から「子どもを殴ったり叩いたりしている」という通報が役所に入った。
 「お前なんかいらない」30代の母親が金切り声をあげながら、幼い長男を叩く様子が住民に目撃された。
 「仮説は狭くて、隣の部屋との壁も薄いのに、子どもは静かにしない。イライラをぶつける先がなかった」と面談に訪れた保健師に、専業主婦の母親はこう打ち明けた。
 「震災前は児童虐待の通報はゼロだった。隣近所が気になるストレスが親にあるのは間違いない」と保健師は話す。
 
 震災と原発事故に見舞われた福島県大熊町では、震災からこれまでの2年4カ月で12人の子どもが、虐待やその疑いなどで児童相談所に一時保護され、うち6人は児童養護施設などに入所した。
 同じ仮設住宅の住民らの通報や学校からの相談がきっかけでわかり、多くは親が育児を放棄するという「ネグレクト」という。親が「もう育てられない」と助けを求める例もある。

 「最近イライラしてしまう。子どもの寝顔を見てると、何であんなに強く叱っちゃったんだろうって」
 「福島にいた時は夫や両親、近所の人の助けがあったが、今は慣れない土地で子どもと自分だけの生活。自分がしっかりしなければと肩に力が入る。ストレスや不安から、つい子どもに当たってしまい、お母さんも自己嫌悪になっている」
 避難生活の疲れから、本来は入院が必要なのに、「自分が倒れたら子どもを見る人がいない」と、点滴を打ってしのぐ母親もいるという。



 こうやって新聞にデータが掲載されることはいったい、何を意味しているのでしょうか。
 行政は市町村→都道府県→厚労省(国)という順序で虐待の件数を一生懸命かき集めようとします。国は各自治体から集められたデータをこうやってマスコミの取材に対して提供します。
 こうしてマスコミがそのデータ新聞やニュースで取り上げることで、母親たちの子育て事情をさらに大変なものにしてしまうような感じがします。

 昨今は隣の家から子どものわめき声が聞こえるだけで「もしかしたら虐待をしているのではないのか?」と先走りすぐ行政に「匿名での通報」をしがちです。
 特にアパートなどの集合住宅では隣室との壁も薄く、母親たちは子どもの足音や騒ぎ声にはかなり神経質になっている家庭もあります。
 本来、その年齢で当たり前に発達したりすることすらも大人の都合で制止させられてしまう今の子育て事情の方がむしろ異常なのです。
 「子どもは騒ぐもの」「泣きわめいたりわがままを言って親を困らせるもの」という昔だったらある程度社会に受け入れられていた価値観までもが、今は社会からも否定されてしまっている。

 以前、子どもが保育園に通っていた時に園の日課で近所を散歩していると、子どものはしゃぐ声に、とある家の住人は、「散歩させる時、子どもの声がうるさい」と園に抗議をしてきたことがあったようで、それ以後、その家の前を散歩で通る時は、保育者が子どもたちに「ここの家の前では静かにね」と言って人差し指で「シーッ!」というしぐさをして注意しているのだと、わが子から聞いたことがありました。
 そこの家は高齢の方が住んでいるようでしたが、高齢者であってもは孫世代の乳幼児をかわいいと思わない、かえって声がうるさいと思う人たちも現実にはいるということです。

 本来、隣の家が子育て家庭であるとか、母親一人で子育てに奮闘しているなどということがわかっていれば、お互い声を掛け合い、母親のストレス解消のために何か地域でできることを考えていけばいいことなのでしょうが、世の中、職場でも家庭でも地域でも、みな「自分のことで精いっぱい」な状況で、「他人のことなどかまってられない」風潮がますます強い傾向にあります。行政に通報することで、なんとか公で対応してもらい、「人のことには関わりたくない」という風潮。
 まずは近隣住民も「虐待」と騒ぐ前に(行政に通報する前に)、もっとその家庭の事情にも関心を向けてほしいものだと思います。
 明らかに虐待の要素があると言うならまだしも、今は「疑わしきはとにかく通報を」という啓発の仕方をしているので、先にあげた避難者の母親たちが感じる、ストレスからくる子どもへの八つ当たりまでもが「虐待」として「通報」されてしまうのです。

 そのような社会的時代の変化の中で子育てしている母親にとってみれば、確かに昨今は育てにくい環境にもあるわけです。
 今は、若夫婦の3割は不安定な経済状況のなかで子育てをしているわけです。就職も安定せず、いつ首を切られるか分からないという不安定な社会情勢のなかでの子育て。夫は人員削減のあおりを受け、残業続きの毎日。ほとんど子育てを母親一人でしているような家庭も多いはずです。
 ましてや被災地であればなおさら夫と離れて自主避難していたり、仮説住宅の狭い空間で隣室に子どもの騒ぐ声が聞こえないようにと気を遣いながら子育てにストレスを抱えながらの母親。
 そんな状況のなかで、母親自身を肯定されず、母親への精神的・肉体的ストレスを解消できる場所や支援もないままに、母親の子育てを批判されているような錯覚を生じさせてしまうのではないか?

 国や都道府県は、いつも虐待の件数をデータとしてあげろと市町村に要請してきますが、ただ件数をあげることばかりに躍起になってしまう職員もいないわけではありません。「うちの市(町)ではこれだけ虐待の件数をあげて実績を出しているんだ」「虐待に一生懸命取り組んでいる市町村」と自慢したがる行政の職員。
 件数をあげる前に、もっと母親たちを孤立させないですむような方策や支援を本気になって考えていかなければならないのではないでしょうか。
 そういう支援を優先させずに、ただ通報があったことですぐ「事実確認」したり「「監視」的な視線をおくり、「虐待(疑いも含めて)している母親」という目でレッテルを貼りたがる見方をしがちな職員もいますし・・。
 だから、新聞のデータの何割かは過剰にカウントしている場合もあるため、あまり信用できないというのが本当のところです。

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子どものことをどうとらえるか

 子育てにおけるわが子への見方と、支援者としての対象者への見方って、何か共通するものがあると感じます。

 職場でいつも、自分の子ども自慢をする人がいます。その方はわが子の勉強面や部活動での活躍場面をなにかと話題にだしてきます。ケースの話になる時には、どこの学校を卒業したか(「ああ、あの息子は○○高校卒業だから頭がいい」と人を学歴で判断しがちです。ましてや養護学校や特殊学級出身などのケースの場合は最初からそういう目線で判断しがち)
 また、いつも自分の子どものことを話すときに絶対ほめずに自分の思い通りに育っていないことに不満タラタラで話す人もいます。そういう人は、他人のことを話すときにも決して相手をほめるということはしません。なにかかしら欠点が先に見えてしまって批判的な評価になりがちです。

 
 よく参考にしているブログの中で私と同じような考えを書いている内容を読み、納得したりしています。

 他人に自分の子どもを話すとき、自分がどう見ているのかはっきりします。
 「うちの子はさ~~」の後に続く言葉があなたの心を表しています。
 もし、本当にそう思っていないのに、他人にあわせているだけであっても、言葉にすると言葉どおりに子どもが動く、あるいは言葉どおりの子どもに見えている可能性があるのです。
 自分で自分の子どものダメ出しをすることで、自分がまるで子供をよく見ている親だと自分自身の評価を間違えられている気がします。
 私から見れば子どもの良さを見つけられない人だという風に見えます。
 親の発言は、子どものことを語っているのではなく、自分が子どもをどうみているか、どういう風にしかみていないかを映しているわけです。
 何かについて語るとき、そのもの自身が問題なのではなく、そのものをどうとらえているかが、語ることで明確になるのであって、自分自身をいつも表現しているのです。
 子どもをどうとらえているかがわかれば、その人の思考回路や経験や知識、価値観がわかります。
 自分のことを語っていないから、大丈夫だと安心して子どもをこきおろしている人は、知らず知らずに自分の価値を落としていることに気づいていません。
 子どもの悪口を陰でこんなに言うんだから、さぞお友達の悪口も言うのでしょう、と思われていることに気づいていないのです。
 支援者が支援する子どもについて語るのも同じです。
 このカウンセラーはどうだろう、スタッフはどうだろうと見抜くのは、その人が自分の子どもをどう観察しているかを語ったときです。
 それぐらいしか分からない人なんだなあと思うと、信用できません。子どもにそう対応するかが、その人そのものなのです。
 (くーひなさんのブログより)


 支援者自身が自分の子どものことを語るとき、また自分の身内のことを語るとき、そこにその支援者としての人となり(価値観)が浮き出てきます。
 いくら認知症者への支援をしていても、認知症になっている身内のことを非難したり、発達障害の子どもの支援をしていても、「ああいう子どもたちの将来は大変だ。自分の子がそういう子でなくてよかった」という心理が見えるような言い方をしたりしていると、いくら表面上プロフェッショナルを装っていても、経験年数を積んだ支援者であっても、相談したいとは思わなくなります。

 実際には、私たちはどの相談者に相談したらいいかというのはわかりません。相談者は支援者を選べないからです。たまたま初回相談に乗った人がその後も担当する場合が多いですが、その支援者が本当に信頼に値するかという判断基準は、意外と自分の身内や子どものことを語らせてみれば分かるのではないでしょうか?

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子どもをどう見るか?

●金原ひとみ(元不登校児の芥川賞作家) 
 小4で完璧に不登校になった。
 「何だかあらゆることが面倒臭くなってしまったんです。授業を受けなきゃいけないとか、先生の言うことを聞かなきゃいけないというのが・・・。」
 強制的にムチを打って教え込むのが英才教育だと思っている人が多いのだが、内部に眠る才能を自然な形で引き出すのが本当の英才教育なのである。
 そもそも読めと言わなければ読まないようなら、その子どもに才能があるとは言えない。

 中学にも行かなかった。ジャンパースカートに丸えりのすっごく可愛くない制服で、こんなの着るんだったら死んだ方がまし。
 当時は昼間は家にいて、繁華街で遊んでいたというが、大学の創作ゼミに来てみないかと誘われて、それに参加することになる。(彼女の父は翻訳家兼大学教授なのである)

●さいとうたかを(ゴルゴ13 漫画家) 
 「お上」が懇切丁寧にすべてのことを教えてやってきたために、日本人はみんな自分の頭で考えなくなってしまった。
 今の日本人は、人間は本来自分の価値観を持っていないと生きていけないはずなのに、それが全く必要なくなってきている。とにかくマニュアルに従って生きていけますからね。
 親に本当に求められることは、子どもが生きるため、生きていくために必要な何かを、親の権限を用いて提供する実力だ。
 現実には、その権限やプライドを持っていても、実力を兼ね備えていないことも多い。むしろ、そういう親の方が多いかもしれない。
 結論から言えば、その実力のない親の犠牲になった者に対して、妄想だの幻覚だの自己中心的だのと言いがかりをつけて、統合失調症で一蹴するのが、精神科医の主な社会的な仕事である。
 だから、精神医学、精神科医自体に、その責任があるわけではない。本当の問題は、実力のない親が存在することだ。

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母は子どもを拒絶する

 母親自身が真実に直面することを避けるための防衛に、子どもは巻き込まれるのである。
 子どもの話を母親の不安や葛藤に従って聞き、それで叱って、子どものために叱ったと思っている母親がいる。
 子どもの話を、子どもの言わんとすることを、ありのままに受け止めることなく、母親の劣等感に従って反応し、子どもを評価する母親がいる。
 母親がもし本当に子どもに対して共感的理解を示せるなら、子どもの心には葛藤はおきないだろう。
 自分が嫌いなことでも、子どもが好きなことがある。自分がしたいことでも子どもがしたくないことがある。そんなように、子どもを自分とは別の人格として感じることができる親が初めて子どもを理解しているのである。
 子育てにとって、何より大切なのは、親の情緒的成熟である。親自身に依存性が強く残っていては、どんなに熱心に子育てしても、子どもの心はゆがんでいくだけであろう。
 劣等感は伝染する。親が劣等感のかたまりであって、子育てに熱心だったら、間違いなく子どもは劣等感の強い子になる。


 悲しいことが多いのは、自分のことしかわからないからだ。
 つらいことが多いのは、感謝を知らないからだ。
 苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるからだ。

 悲しみや苦しみを知らない人はいない。
 しかし、悲しみや苦しみだけで終わってしまったら、それこそ哀れむべき人生である。
 自分をどう慰めてみても、自分の淋しさをくれるものは生まれてこないからである。

 親と子は、かけがえがないという。
 それだけにどうすることもできない子を持つ親は、そのつながりのせつなさに涙する。
 どんな子にも必ず光がある。
 それが見えない親は、子によって育てられているといういうことを知ろうとしないからだ。

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受容するということ

 以前ある媒体を読み書き留めておいた内容です。

心が治れば、肉体の病理現象も治る

 自分の生んだ子がいなくなってくれればと思うおそろしい自分、自分の理想に当てはまらない気に入らない人間を切り捨て、排除しようとする殺人の心、それが私の心の中にあることがわかりました。
 
 受容ということの中には、苦があります。これが人を生かすのであると思います。受容されて人は「居場所」ができます。
 しかし、人を受容するということは、まず自分が粉砕されて神に受容され、莫大な精神的富と平安を頂かなければならないのです。
 そのことなしには、真に人を受容できない。受容のみが人を生かす。受容ということの中には苦があるのです。

 頭だけヒューマニズムの精神だけでは受容にならない。受容できる人間になるには、自らがいったんどん底に、「一番下」に突き落とされて粉々に砕かれ、十字架で贖われて生まれ変わったその時に初めてそのことが可能な人間にさせられるのです。
 「一番上になりたい者は、皆の一番下になれ、皆の召使になれ」
 不登校がなぜ起きるか、その医学的な原因はまだ不明だが、治った生徒には共通の現象がある。それは、親がある悟りを開いたということだ。

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TTmama

Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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