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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

本の紹介

統合失調症がやってきた統合失調症がやってきた
(2013/08/07)
ハウス加賀谷、松本キック 他

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ある研修会で、精神保健福祉士の講師から紹介された本です。
 「松本ハウス」という漫才コンビの片方ハウス加賀屋さん統合失調症を発症するまで、そして発症してから相方松本キックさんと漫才コンビを組むまで(このときも病気を隠しながら仕事をこなしていました)、病気はが悪化してコンビ活動を休止し、入院加療に至るまで、そして退院し再びコンビを再開して現在に至るまでの様子を当事者のハウスさん、そして相方のキックさん双方の立場から書かれたものです。

 親に反抗のなかった小学生時代、いい子の仮面をかぶり親の要求に本音を殺して応えようと頑張ってきた。しかし、小学校高学年のころから幻聴中学生になると幻視も出現し、次第に学校生活にも適応できなくなる加賀屋さん。
 その後二人はそれぞれが、お笑い芸人の道を目指すこととなり、偶然コンビを組むことに。一時期は売れっ子芸人としてテレ出演も多くなったが、そういう環境の影響から病状が悪化し、とうとう入院なければいけなくなり10年近くのブランクが・・。

 この本で一番印象深いのは、相方の松本キックさんの、統合失調症を抱えるハウスさんへの自然体で見守る姿勢です。病気が悪化し活動を離れている間も、決してつかず離れずの距離で相方を見守る、その見守り方が本当に自然体でいいのです。
 そして統合失調症を持つ芸人として今では、逆にそれを武器に統合失調症の理解や啓発を漫才のネタにも盛り込んで活動されています。
 
 一度読んでみる価値のある本だと思います。

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人減らしが招いた心の病

 グローバル競争が激しさを増し、企業は生き残りをかけて人減らしに走る。追い詰められた働き手らが自殺に追い込まれたり、うつ病になったりするサラリーマン世代が増加しています。
 新聞などでは「追い出し部屋」と称する部署に追いやられて、本来の業務から外されてしまう40代~50代の働き盛りの社員の現状が掲載されています。
 景気が上向いているときは重宝がられても、いざ業績が悪くなれば「お払い箱」となってしまう。
 家族の生活もあり、退職勧奨にも抵抗を示せば、「いやがらせ(ととらえられるような・・)」という手段にでようとします。

 そんな風潮のなかでは当然、ストレスから精神的なダメージを受け、うつ病になる人が年々増えてきてしまうのは当然のことでしょう。

 職場の人間関係も、この10年足らずのあいだになんとなくギスギスしてしまい、話す会話も自分の係以外の人たちと休み時間に話すこともなく、昼休みも皆黙々と黙って昼食をとるか、デスクの前のPCを眺めながらの休息風景が多くなっています。

 少ない人員で多くの業務をこなさなければならない余裕のなさに、相手を思いやる心も少なくなり、能力のない職員には容赦もない陰口が叩かれたり、みんなで補い合ってという空気が薄れてきています。

 「仕事もしないで給料泥棒」という陰口をメンタルで休んでいる職員に発せられたり・・・。

 いくら、国の施策で「自殺予防」「こころの健康」のための事業を展開しようにも、その行政レベルで考える施策(事業)なんて、せいぜい講演会レベルの啓発活動止まりに終わっているし・・。
 事業企画をする当事者側ですら、そういうメンタル障害の人たちに対する視線がきつい(ある自治体ではメンタルで休職している職員が数十人いるという県内の自治体もあります)。

 こういう「自殺予防対策」や「メンタルヘルス」対策は、社会の構造と密接な関係があるわけで、小手先のやり方では効果なんかあるはずがないと思っています。

 なんか、とても人間関係がせちがらい時代になってきたなあと思います。

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引きこもり体験者が語る・・「今の自分」容認して

 北海道新聞記事より (H24年6月21日)

 「きっかけは、信頼できる人ができたこと」
 他人と会話ができない障害の影響で引きこもりとなり、ネットゲーム依存や自傷行為に及ぶまでに至りながら、現在は堅実な学生生活を送ることができるようになった札幌学院3年の大橋伸和さん(28)が、同様に障害に苦しむ人の参考になるようにと、自らの体験を語った。

 ―― どのような障害があったのですか。
 「当時は自覚していなかったのですが、幼稚園のころから孤立していました。小学3・4年生くらいになると、家の中で家族と話す以外はまったく話せなくなりました。意思表示が必要な場面になると、すごく緊張して体が固まってしまうのです。『はい』『いいえ』も答えることはできず、何か欲求があっても、すべて我慢して諦めていました。自分がどういった障害なのか、病院からはっきり聞いたことはなかったと思います。中学生の時は、いじめの対象になったこともあり不登校でした。」
 
 ―― もっとも厳しい状態だったのはいつですか。
 「高校卒業後、働いて自立したいという気持ちがあって、一定程度の支援を受けることが可能な仕事がないかと就職相談窓口を訪ねたのです。でも、そこで『人と話すことができないとアルバイトも難しい』と言われ、もう自分は生きていても迷惑をかけるだけだ、と絶望的になってしまいました。それから外に出る気力もなくなり、引きこもりになりました。自分を罰する気持ちで手首を刺したこともあります。

 ―― ネットゲーム依存にもなったそうですね。
 「声を出して話せない自分にとって、唯一他人とコミュニケーションをとることができたのが、ネットを介して役割分担するゲームの世界でした。仮想空間では、私を必要とする人がいました。」

 ―― 立ち直りのきっかけは。
 「20歳前に通い始めた就労支援事業所です。喫茶業務の中でいろいろな役割が与えられ、『居場所』ができました。さらに、そこで信頼関係を築けた職員らと会話ができるようになったのです。ネットゲームに依存することもなくなりました。ただし、そうなるまでには事業所に通い始めてから、3・4年は必要でした。大学に入る1年前には、かなり話をすることができるようになりました。」

 ―― 今は何を目指していますか。
 「話ができるようになってから、大学に入って障害のある子どもたちを支援するための勉強をしたいと考えました。25歳で大学入学を果たし、3年になった今は、社会福祉士や精神保健福祉士、教員の資格をとるために勉強しています。」

 ―― かつての自分と似た状況の人に伝えたいことは。
 「自分はまだ困難を完全に克服できているわけではないと考えています。だからこそ、いろいろな人と関わって、『生きにくさ』について一緒に考えていきたい。また、他人と自分を比較する必要はないことや、相談しうる信頼できる人をつくること、自己否定ばかりするのではなく、『今の自分』を容認することの大切さを伝えていきたいと思います」

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投薬の弊害


薬がいらない体になる食べ方 (青春新書INTELLIGENCE)薬がいらない体になる食べ方 (青春新書INTELLIGENCE)
(2012/08/02)
溝口 徹

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(本文より) 
◎海外に比べ、心の病の投薬量が多すぎる日本
 

 日本の精神科や心療内科の現場では、多くの場合、身体的なチェックは行わず、患者さんが自主的に訴える“症状”だけで病名が決められ、投薬がおこなわれている。日本の投薬量の多さは、他国に比して突出しているというのが現状だ。
 例えば、パニック障害の診断基準には13の項目があげられているが、子の診断の項目は、鉄欠乏や低血糖症に伴う症状がいくつも重なっているのだ。つまり、投薬を行う前に、「他軸評定」が行われなければ、鉄欠乏や血統の不安定性がないかなどをチェックすることができ、パニック障害だけを想定した薬が何種類も処方されるのは避けられるということになる。
 原因に対する治療ではなく、あらわれる症状によって投薬が決められることが問題なのは、ひとつの薬が効かないとなれば、さらに別の、あるいはより強い薬が投与されることになるというのだ。違う症状を訴えれば、さらにまた別の薬・・・。
 精神疾患に日本ほど多くの薬剤を使っている国は他にない。他国では1剤、あるいは2剤にとどめた治療が一般的だ。

◎向精神薬が、かえって心のトラブルを引き起こす 
 
 そもそも睡眠導入剤や安定剤というのは、鎮静作用が働く前に、“脱抑制”として作用する。つまり、緊張をとって少し気持ちをリラックスさせてから、その先に鎮静作用が働くようにデザインされているのだが、抑制をとったとたん、異常な行動を示すケースは多くある。
 また、攻撃性を示すことで問題視されている抗うつ剤にSSRIというものがある。20歳未満には使用してはならないとしている。現実にそのとおり守られているかは、はなはだ疑問だし、20歳を過ぎたからといって処方されることが許される基準がどこにあるかも大いなる疑念が残る。
 「躁転」とは、抗うつ剤などを飲んで妙に元気になったり、活動的になったり、ハイな状態になることをいう。患者さん本人は、沈み込んでいた気持ちが上昇するため、調子がいいと感じているのだが、薬によって「うつ」から逆転、「躁」の状態が作り出され、また逆転、うつの状態に落ち込んでしまう。うつと躁の間を揺れ動く症状が繰り返されることがあるのだ。
 こうした症状に対して、最近、心療内科や精神科では、「うつの治療をしても治らない病態が発言した」として、新しいカテゴリーを打ち出している。統合失調症においても、従来の投薬治療で期待した効果が得られないタイプを「治療抵抗性統合失調症」なる名称を付けている。
 いずれにしても精神的な症状が生じる根本的な原因について検査をおこなわず、表面に出ている症状だけで診断し治療していることが原因なのではないか、と感じずにはいられない。栄養や代謝のトラブルが多くの症状の原因になっていることを理解し、治療へ応用する医師が増えなければ、効かない薬が投与され続ける不幸な患者さんが救われることはない。


 似たような経験を利用者の支援を通して感じさせられたことがあります。
 ある高齢の男性は前立腺がんの治療の後遺症で尿失禁が出てしまい、そのことが原因でそれまでな何の問題もなかった生活が一変してしまいました。足腰のしびれもあり歩行も不安定でまた、尿漏れを気にして外出をさけるようになると、いろんな不定愁訴(イライラ・寝れない、腰痛、不安感など・・)が出始め、泌尿器科のほかに、整形外科、そして心療内科では症状を訴えるたびに薬が増え、親族からの相談で訪問した時には、安定剤や睡眠導入剤だけでも4種類を服用していました。トータルでは13種類の薬を服用していました。
 素人目にも精神科の薬が本当に効果があるのか疑問でした。症状はよくなるどころがその後は体に見合わない行動をとるようになりました、できないのに木にのぼって植木の作業をしようとしたりして転落。圧迫骨折となり、その時から介護保険を申請して要介護状態となりヘルパーなどを利用していきました。
 同居している妻(虚弱者 要支援)への嫉妬妄想やいらだちから妻への攻撃も始まり、別居している長男も毎日のように見守りに来て世話をしているにも拘わらず、「息子は何もしない」となじり、何回か家具や包丁を持ち家族にも攻撃を向けるという行動が徐々に増えてきていました。

 ある時息子さんからケアマネジャーに「今、家で暴れている。助けてくれ」と電話が入り、担当先のケアマネジャーの助言で警察の介入となりました。休日だったため主治医は不在。伝言で保健所に介入してもらうようにということでしたが、結果的に措置入院とはならず、受け入れてくれる精神科病院が見つかり、搬送しました。
 この利用者は、前立腺の治療のほかに、内科でも診察を受けており甲状腺の機能がかなり低下していることがわかりました。また脱水や脳梗塞の疑いも感じられました。

 しかし、この男性が前立腺がんの後遺症で身体不調を発したときに、その不調の訴えに次々と精神科の投薬を処方されたことで、ますます身体面のみならず精神的によくなるどころか悪くなる一方になっていったのではないかと何となく疑っていました。しかし、利用者はその心療内科の主治医を信頼しており、「薬を多くくれる先生=いい医者」という認識がまだまだ多くの高齢者がもっているのではないでしょうか。

 精神科(心療内科の含めて)選びって、本当に難しいし、でもそこで行われる治療方針によってはその後の生活にもかなり左右されていくのではないかと感じさせられます。

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自分の中の枠組みと偏見

 先日とあるワークショップに参加して学びの機会をえました。

 「援助者、支援者」といわれるひとは、いつも自分の「内なる予断と偏見に向き合わなければならない」

 ある触法少年の面接を仕事としている女性の方がご自身の成育歴を通して考察してくれました。

 「やんちゃな弟はいつも問題をおこし、自分はいつも「あいつの姉」という見方を周囲からされてきたこと、自分の祖父が法に触れる行為をしたことがあること、それゆえに、自分の中では「自分だけは優等生のいい子」でいなければならない、人から後ろ指をさされない生き方をしなければならないという枠組みを価値観として取り入れてきたこと。
 従って、目の前の触法少年を前に面接していると、「悪い事をした少年」という見方になり相手を批判し糾弾している目線に立つ自分がいること、そういう態度で接している限り、子どもは自分に心を許して話してくれることが少ない。
 自分がこういう少年を見ているとき、やんちゃな弟とダブって感じる自分がいる、あのとき私も「いい子」を演じるのではなく自分もはめをはずしたかった自分がいたんだと改めて自分の心の本音が見えてくる。そして、自分がそういう枠組みをはずして相手と対面した時には、ぼそぼそと相手の少年も胸の内を語ってくれるのだ。」と。

 心はデリケートです。だから、とても奥深いものです。そしてその心に対人関係として学ぶものがあれば、“高尚”化してしまうことさえあります。
 一方で「どうしてそう考えてしまうのか」といったように理解不可能な混乱を与える心に対しては、“見下す”こともあります。私たちの人間関係において、心は常に“偏見”とともにあるのです。 たとえば心を小説やお芝居として読んだり見たりしている限りは、対岸のことで安心して納得したり、批評したりできたりします。
 しかし、その心が直接わが身に迫ってくると、他人事として済ませているわけにもいかず、偏見や差別で自分の心を守ったりするのです。

 だから、「私は誰に対しても差別や偏見を持っていない」という人がいたら、それは他人事としていられる人間関係の中にいるだけなのかもしれません。関係が一歩深まると、その心はとてつもない偏見に満ちたものになる可能性があるのです。身勝手な心と歩んでいる自分を忘れないでいたいものです。
 
 同じ入院でも精神科への入院は、心に抵抗があったりします。入院する当事者にとって、それはかけがえのない“不可侵”な自分の心を“治療”される恐怖感です。そこには「そのこころではいけない」といった偏見がみえたりするからです。また、まわりにいる家族も、かけがえのない人の心を「正常な悩み」とは受け入れられない苦しみを抱えます。
(富田富士也さんの文章より)

 
 
 心の癖や偏見を持つというのは、人が人と関わる人間関係のなかであるのがむしろ当たり前なんだということ。
そこにはあきらめ、恐怖などネガティブな感情が絶えず付きまとう。
 私達はそれぞれの自分の成育過程のなかで、自分なりの心の癖を持ち、自分なりの枠組みを持ってその中で人間関係を築いてきた。それはそう思ってこなければ逆に生きて来れなかったともいえる。先の触法少年の相談業務に関わる女性のように、周囲の環境や親との関係性の中で、自分はそういう生き方でしか自分を守れないといったこと、そしてそれが今の自分の人格の一部を作ってきたことも紛れもない事実。
 しかし、対人援助の業を行う時には、自分の枠ぐみで生きてきたその価値観が揺さぶられる。だから相手の方も支援者の価値観の一端が垣間見えたときに、心の中で反抗したり信頼関係を築くことに抵抗したりということになるのかもしれない。
 自分の中の偏見(枠組み、価値観)をいかにすこしでも枠を広げ、相談者と同一化していけるか・・。同一化の中で信頼関係を築けるか。(自己一致)
 しかし、その関係が権威主義になったら自己一致でなくなる。相談を受ける側は、常に権威から遠さかることが大切。
 権威とは「たより、たよられる関係」。「私が~してあげよう」となったときに“上下の関係”になってしまう。「お願いします」と頼られる関係からは信頼関係は生れない。そんな権威主義からカウンセラー(支援者)はいつも遠ざかることが大切。

 偏見を持つという心は、ある意味人間関係を持とうとしたら必然的に双方の心にはおこるものだということ(専門用語的にいえば、カウンセリングでいう転移と逆転移ということのなるのでしょうか?)。
 援助するとは、自分の心がえぐりだされる作業。


 富田さんが、ワークの中でおっしゃった。
「教員を相手の研修をしていて、そういうことをワークでやっていくと、先生たちはとてもしんどくなるようだ。日ごろ生徒と「指導」的にしか接していない人は、なおさら自分の心の枠組みや偏見と向き合うことにとてもしんどくなり、しばらくは研修にもお呼びがかからなくなる。今の先生たちは、「学力向上」というノルマや教員評価にさらされている中で子どもたちと向き合うことができなくなっている。子どもたちと向き合えないということは自分の心とも向き合えない。評価主義的な発想に縛られ、何も考えずとも目の前のノルマを達成した教師は出世の対象となり、結果自己一致することのないままに教師ができてしまっている・・・。何でも権威で押し通そうとすることになる。」

 学校現場にも教員評価制度が浸透したことで、効率のいい指導ばかりが優先され、心を触れ合いや自分を見つめる作業すらできにくい状況になってきている。(学校に限らずだが)子どもたちはますます心を置き去りにされそうな気がしてならない。


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メンタルでの休職2か月目

 職場の生活保護行政を担当している職員が、この4月から休職しており、2カ月目に入りました。

 昨年、新入職員として入職し、いきなり「生活保護」担当に回され、先輩(といっても3年目くらいの経験)と一緒に仕事をしていたのですが、その先輩も別な部署に異動となり、新しく配属された職員も、今年入職した新入職員。
 本来ならこの新入職員と経験2年目の職員で「生活保護」を担当するはずでした。

 しかし、大学で「福祉」などまったく学んでこなくても、文系出身者の中で「3科目主事(大学で法律や、心理、社会学など3科目の履修歴のある者)であれば、「ケースワーカー」として生活保護担当には回されるのですが、それでも現場は一人いない職員の穴埋めもあり、また新人への事務指導もありけっこう大変な状況もあるようです。

 休職中の彼は、どちらかというと大人しくナイーブな印象を受けるタイプで、高校も県下一の進学高へ入り、国立大学を卒業したエリートです。きっと学生のころは親にとって「いい子」だったようなタイプです。仕事の場面でもほとんど自己主張することなく、気の荒い体育会系の先輩職員の「手下」となり影の雑用を一手に引き受けるようなタイプです。

 これまでの彼の生活の中には、きっと生活保護受給者のような人たちとの関わりや接点はほとんどなかったと思います。

 それがいきなり、社会の貧困や困窮家庭の人たちと関わることになり、それまでは先輩職員の背中を負うだけでアシスタント的にふるまっていればよかったところを、突然自分が、後輩を指導する立場に(2年目にして)代わり、プレッシャーも大きかっただろと察することができます。

 生活保護行政といっても、単なる事務的な手続きだけじゃなく、「ケースワーカー」としても、定期的に訪問したり、相談に乗ったり、時に助言したり、一緒に病院や施設などに同行したり、場合によっては死後の面倒までも(市長が身元引受人になる場合)見なければならず、かなりいろいろな支援を展開しなければいけない部署です。 だからそれだけ人生の機微を感じるセンスなども持ち合わせていなければ、うまく関わりができないのではないかと思うわけです。

 本来、そういう部署に配属される人には、福祉的な学びの経験がある人か、ある程度の勤務経験のある職員を配属するのが望ましいと思うのに、現場がそう訴えても人事を司る上層部は、福祉現場は人生経験の浅い新人でもいいという見解なのか?福祉が軽んじられているのか?

 結局、人事配置しても、こうしてメンタルを患ってしまうのであれば、やはり「適材適所」な配置とは言えないのではないかという気がします。

 同じ課のある係には、これまでメンタルで休職していた職員が、トライアル勤務ということで午前中だけ出勤しています。
 

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若者の自殺 倍増

   『就活に失敗し、自殺する若者 4年で2.5倍』 

 今の雇用情勢など社会の仕組みが、若者たちの未来をしぼませているような気がします。特に男子の自殺者の割合が8~9割とのこと。

 少子化で、子どもに将来を託したくなる親の気持ちも大きい。
 
 自分の子だけは「勝ち組」にと、必死になって小さいうちからいろんな習い事や塾に通わせ、きっと親の思い描くレールを歩かされた子どもたち。

 何度も就職活動での面接に落ちてしまうと、自分自身の人格が否定されたような感覚になってしまう。
 
 親が敷いたレールを歩いても、結局は失敗だったじゃないかと、その時になってから初めて、自分の人生って何だったのだろうかと悲観的に考えてしまう。

 いろんな人生やいろんな道があるからといっても、そんなに世の中、昔ほど夢が無くなってきつつある。

 人と会話をしなくても、技術があれば、あるいは製造の現場にいて黙々と与えられた仕事をしていても周りから認められた時代は過ぎ去った。
 今は、サービス業界が主流を占め、人とのコミュニケーション能力がないと、企業もおいそれと雇ってはくれない時代。
 就活のエントリー時の自己アピール力や、面接時のプレゼンテーション能力もかなり問われる。
 発達障害のある若者なんかはその時点で、すでにふるいにかけられている。
 
 そういう就職事情を親も知っているが故に、小さい頃から将来の就職を見据えて、わが子を周りに遅れさせまいと躍起になるし、みんなが進むベルトコンベアーに乗っていないと却って不安になる。
 そして親の思いこそが、当事者である若者の目標になってしまう。

 しかし、何度トライしても採用が決まらないことへの挫折感や虚無感だけが心の比重を占め、「生きていてもいいことがない」と人生を比較的簡単にあきらめてしまう・・のかもしれません。

 でも、未来ある若者が生きにくい世の中って何なんだろう・・・?

 いくら「自殺予防対策」などと、声高に叫んでも、世の中の情勢が変わらなければあまり目先のことだけの施策になってしまうのではないか。
 
 その根本に、親からの育てられ方や教育の問題がかなり背景にはあるような気がするからです。男子が多いというのも、それだけ男の子に期待をかける世の中の反映でもあると感じます。

 人生何も、企業や会社に就職するだけが能じゃないと堂々と言える親や教師って果たしてどのくらいいるでしょうか。

 たくましく生き抜く力を育てることが難しい。


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スクールカウンセラーの功罪

  ジャパンマシニスト社刊の雑誌より(『おそい・はやい・ひくい・たかい NO66』)

 「こころの相談の副作用」について

 学校でカウンセリングを行う「スクールカウンセラー」が導入されて17年。このシステムははたしてプラスだったのか、マイナスだったのかを振り返る特集が掲載されています。

 ・・・実際に、スクールカウンセラーとして仕事をした経験や養護教諭などからのコメント(引用)・・・・

 ・教員との関係がよくないと、仕事にならない。教員の見方を理解しようとすれば、教員と違った見方を強く主張することを避ける傾向になる。そうなると、本来スクールカウンセラーを導入する目的の一つだった「外部性」は失われることとなる。
 
 ・学校秩序を問題視するスクールカウンセラーは非常に少ないといえます。学校に「適応」できない生徒を「問題児」ととらえる傾向が強く、「不登校」に関しては学校復帰を当然の目標として動いている人が多いのです。教育委員会が設定する目標がそうですし、校長や教員もそれを求めるのですから、そういう形で動かざるをえないのです。

 ・しかし、学校の外で「不登校」経験者と出あっているフリースクール・フリースペースのスタッフの多くは、「不登校」を「問題行動」とは見ていませんし、学校復帰を目標として掲げてもいません。学校の先生方とは違う見方をしているのです。でも、スクールカウンセラーはそうではありません。

 ・教員の仕事は忙しくなってきて、そのぶん「困った生徒」をすぐにカウンセラーにゆだねたり、アドバイスを求めたりする傾向が強まってきています。

 ・また、「発達障害」にスクールカウンセラーが関わることが多くなっています。ある生徒を強く叱る先生を見て、スクールカウンセラーが助言すると、その先生の態度が急変する、そういう役割をスクールカウンセラーが果たそうとしているのです。しかし、生徒個人がそれぞれ違っているにもかかわらず、「障害」とくくることによってパターン化された見方、接し方を進めていく。

 ・子どものことで、教員が頭や心を痛めなくなったということ。学校にいるいろいろな人たちが協力して、子どもにとってよいことを考えていこうという姿勢が薄れてしまう傾向がどんどん強くなってしまっている。世の中全体が専門家に任せることで、責任を果たすという風潮です。スクールカウンセラーの問題は、学校にその風潮を強めるはたらきをしているのではないでしょうか。

 ・子どもの問題を解決しようとして、ああでもない、こうでもないと考えること自体がなくなり、子どもたちがタライ回しのようにされています。人から人へと対応が変わってしまうことは、かえって子どもの大人への信頼感を失い、心を閉ざすことにもなりかねません。

 ・本来カウンセリングというのは、患者と対等で平等な契約関係で成り立つもの。ところが、学校というところは、まずもって、子どもと大人の対等・平等の前提が無い。子どもを未熟な者として大人が権力を持ち、教育する場所です。カウンセリングの基本的なルールがそこでは成立しません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 学校のシステムや教師の対応など、学校側の問題や課題があったとしても、スクールカウンセリングというものでは、「学校」が舞台になっている限り、相談したクライアント(子どもや親)の「こころの在り方」だけが問題になってしまう・・・。
 
 カウンセラーの立ち位置(学校側の視点に立っているのか、子どもの視点に立っているのか)によって、かなりそのあとの進展が変わってくるでしょう。しかし、所詮はスクールカウンセラー自身が、学校のシステムを批判することなんて(嘱託で雇われている立場上)できないんですよね・・。

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カウンセリングの日常化

子ども家庭教育フォーラムを主催している 富田富士也さんは、長男の子育てに悩み始めた頃に、書籍を知り、またワークショップにも参加させていただきご縁をいただいている方です。

 「引きこもり」という言葉を最初にネーミングした方でもありますが、先生はその言葉がある時からひとり歩きしてしまい、本来自分が言いたかったものとは違う形で今、世の中で使われてしまっていると言います。
 そして、「カウンセリング」とは、専門家が行うものではなく、あくまでも日常生活の中で、「せめぎ合って、折り合って、お互いさま」の人間関係の中でこそ営まれるものであるとして、カウンセリングマインドの大衆化を目指して全国的に講演やワークショップ開催に、また個別相談活動に忙しくしていらっしゃいます。

 『カウンセリングを問う』(富田さんの言葉から・・・2005年 教育新聞より)

 「私はカウンセリングの日常・生活・大衆化を願って各地で1日10時間のワークショップを開いている。一般的に、カウンセリングは、“心の危機”に対する援助として相談活動をイメージしている方が多い。そこになにか特別な専門性を感じたり、あえて“JISマーク”付で語るカウンセラーもいる。
 また、最近では事件や災害が起こると、“国境なき医師団”のようにカウンセラーが現地入りして心理的危機への援助活動をするようになった。足元で苦悩を分け合っているなかに、どんな心の援助をするのか、よく分からないが、それほどまでに私たちの日常の人間関係は希薄になっているのかもしれない。
 だとしたら、カウンセリングは、相談という枠を超えた人間関係そのものだということもいえるのではないだろうか。つまり、カウンセリングと仰々しくいわなくても「関わり」で十分である。
 カウンセリングは、このような時代背景の中で、まるで癒される人間関係の“特効薬”のような形で知れ渡っていったのではないだろうか。
 私にとってカウンセリングは、関わりの基本姿勢である人と人との向き合い方の原点を問いかけるものである。だから、カウンセリングの学びはマインドの学びであり、日常から離れた知識やテクニックではない。治療的な発想で技術や方法論に偏りすぎると、いつの間にか権威主義になって上下をつけたカウンセリングになりかねないと思っている。
 そこで私は、人と向き合う仕事の中でも、とくに生活の臭いのする学校や相談現場、あるいは保育・福祉に関わる方を対象にしてカウンセリングを日常の人間関係に引きずりおろす研修をしている。世間的なレクチャーと身近ななにげないやり取りをデフォルメしたワークをちりばめている。だから、自分の“素”とふれることが多い。
 さらに参加者同士の分かち合い、振り返りの時間をワークのたびにとっている。10時間を1.5時間ずつ6コマに分けて、そのコマの終了にあたっては個別に私との振り返りも入れている。
 そこで参加者と私は、少なくとも1日6回の人間関係を“強制”される。互いにうっとうしさを感じれば分かりあうためになんらかの関わりの努力をする。なぜなら10時間に辿りつくまではその場の人間関係から逃れられないので、相手に思いをかけていくしか心が解放される術はないのである。
 つまり、本当の思いやりは逃れられない関係の中でしか育たないのである。だから足元の人間関係を軽視したグローバル化は見捨てられ感を招いたりする。
 そこで、ワークの多くは、「せめぎ合って、折り合って、お互いさま」の感覚を日常の人間関係に戻していけるように若干の工夫も取り入れている。人間関係は自分の思い通りに進むものではない。手間をかけていくその営みこそが肯定的関係を築いているのである。
 私は、カウンセリングは避けがたい現実を逃げないで受け入れていくための“気休め”だと思っている。一人ひとりが背負わなければならないそのにっちもさっちもいかない気持ちを休ませるためには、心の危機を足元で聴き合う人間関係が大切である。
 

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“悩み”も“病”も人格形成の一つ

 子どもの“悩み”と“病(つかれ)”に寄り添うカウンセリング

 今年の夏に開催された子ども家庭教育フォーラム主催のカウンセリングワークショップに参加した時の内容です。

 日ごろ私も感じていたこと・・・人格障害、強迫性障害、統合失調症、気分障害・・・など、 今はあまりにも個性(特性)と思えるものまで“病気(やまい)”として診てしまうことへの疑問。自分の子ですら、ちょっと「人付き合いの苦手な子」なだけなのに、「社会不安障害」「気分障害」「対人恐怖症」などという視線をなげかけてしまってはいなかったか?など
 ちょうどそんな疑問に応えてくれそうなワークショップに出会い参加したのでした。
 
(ワークの要点  心に残った部分だけ)

 ・精神的な病、治るとはどういうことか?
 ・悩みと病はどう違うのか?それはお医者さんでもわからないというのが結論。
 ・症状がなくなるとしたら、一生治らない。自分の症状は自分の声を言葉として表現できないから、これからは言葉にして自分のことを語っていこう。それが自分を肯定することになる。

 ・これまで境界線の子どもたちに数多く会ってきた。それに共通するのは、人とコミュニケーションをとるときのTPOがわからない。
 ・「悩み」と「病」の境界をたずねて名づけた「引きこもり」はコミュニケーション機能不全
 ・コミュニケーションのイロハがわかっていないと、感情調整がうまくいかない
 ・コミュニケーションの機能回復とは、感情と言葉と行動が「つながった」と実感すること。
 ・愚痴や弱音も自己表現。これができればコミュニケーションは健全。
 ・その人にとって自己表現していればよい。
 ・医療に結びつけるかのポイントは、自己表現ができるか?と言う視点。
 ・幻聴の女性は、カウンセリングの場でその幻聴を絵に表現して見せてくれた。それはその人自己表現でありこの世に生まれた意味を表したもの。見えないものを(絵にして)見せてくれることで自分を受け入れ、自分と向き合えた。
 

 《悩みとしての表現》         《“病”に置き換えられた表現》
  人と話すのが苦手         →  社会不安障害
  痩せたい             →  摂食障害
  友達がぼくのことをばかにしている →  統合失調症
  やる気がない           →  気分障害
 
 ・対人関係における緊張感が善玉の場合は“悩み”となり、悪玉の場合は“病気”

 ・カウンセラーは心の豊かさを提供できるか? 心の豊かさとは、多様な人の心を提供すること。美化されたものだけでなく、どろどろしたもの、悪意・憎しみも含めて。

 ・病気か否かの見分け方
  ●自我のまとまりがない ●基本的生活が破たんしている ●6か月も風呂に入っていない ●親と口をきかない、部屋から出てこないなど

 ・「悩み」も「病」も人格形成の一つ 
 ・悩みとか病気は人格形成になる。人格は刻々と変わっていく。
 ・思春期うつ症状は、病気であるか悩みであるかわからない
 ・引きこもり相談窓口・・事業化するにはガイドラインが必要だが、その背景はどんどん社会が合理化されたため、コミュニケーションに効率性を求めるようになっためが故にそのような「ガイドライン」を作らないといけない時代になった。

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Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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