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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

親の会のその後

 先日地元の不登校を持つ親の会に参加した。
 3年くらい前から細々とやっていたのだったが、最近はネット(ブログやHPなど)からの情報を見つけて参加する当事者の親も増えてきた。
 人数が増えるに従って、まだ子どもの不登校に右往左往している状態の方から子どもの学校復帰はあきらめて、子どもの今を受け入れて明るくしゃべっている親もいたりでそれぞれの心境もさまざまだ。
 そうやって不登校経験者の親は「先輩」として自分の経験談を語りたがる。
 参加している親の中にもいろんな葛藤が渦巻いている。それは、子ども自身の問題だけではなく、子どもと自分(親)との関係だったり、自分と夫(妻)との関係だったり、自分と舅・姑の関係だったりする。また子ども同士(兄弟間)の関係だったりする。
 そういう一人ひとりは個別の家庭環境や個別の価値観を持つ人同士が「不登校」というカテゴリーをテーマとして何か一つの方向にまとまってくことがいい(?)みたいな雰囲気に誘導されるような感じがしてくることもある。
 
 ある母親が先日他の「親の会」に参加した感想をしゃべってくれた。
 そこでは同じ「経験者」の元中学校の先生が娘の不登校を通して学んだことや現在は同じように悩む親御さんの「伴奏者」となるべく電話相談をしているということだった。
 そこで語られた(伝達された)内容は、「仕事に忙しくて幼いころから愛情をかけてあげられなかった」「子どもは祖父母に面倒をみてもらっていた」「高校生になってリストカットをしたことも知らなかった」「育てなおしを位置からはじめた」「その後は10年以上かかったが、高校・大学・大学院そ卒業し、今は結婚して子どももいて幸せに暮らしている」「とにかく子どもを認めること、どんな小さなことでもいいから“褒めること” 」だったそうだ。
 そして今は(たぶん年齢的には60代後半)地元自治体の不登校相談サポーターとして電話相談に対応しているそうだ。
 親からの電話にいつでも出られるように、フリーダイヤルにして24時間対応できるようにしているとか。だから今悩んでいる親としてはいつでもどんなときも電話をかけることができ、アドバイスがもらえるのだとか。
 「今、子どもがこんなことをした(言った)。先生どうしたらいい?」・・・「じゃあ、○○してみては?」「今は××したらダメ。こういうことを言ってはいけない」などと適切な(?)答えをいただけるので、親御さんたちが頼りにしているのだとか。
 その話を伝達してくれた親も現役の教師だが自分の娘とはうまくいってうないらしい。彼女の個性と娘の個性がぶつかり合うのだろうと思う。
 講演を聴いてよほど共感した部分があったのだろう、まるで自分が講演者でもあるかのように、元教師の話の内容を上手に要約して参加した他の親たちに滔々と話していた。
 世話人はじめ不登校の何たるかを熟知(?)した親たちは、「わが子を褒める」などところどころ自分に共感できる内容のところでは、大きくうなずいたり「そうそう」と言葉で相槌をうったりして、その伝達話に賛同して聞いている。

 ある一人の元教師の体験談としてはエピソード的には参考になる程度のことだと思うのだが、それがそのままわが子に当てはまるかと言えばそうではないと私は思っている。
 あくまでも「参考」として聞くけど、そのあとの「じゃあ、私は今の家庭環境で、今目の前にいる子どもとどう向き合うか」ということを「考える」ことに主眼を置くべきだ。
 だってもし、その講演の内容が「子どもの不登校に対して厳しく学校復帰を求めて立ち直った人の話」で、「だから子どもはある程度社会の厳しさも教えていかなければならない」という教訓の話だったらどうだったのだろうか?
 「褒めて育てる」「叱って育てる」・・・どちらも正解でも不正解でもない。
 今回話してくれた内容は「子どもを何でも褒めること」というキーワードにほとんどが共感をしていたが、「だからわが子も褒めて育てないと」と思った親もいたかもしれない。本音の部分では「今のわが子の現実」を受け入れられなくても、親の会でそんな話を聞いたからさっそく実行しなければと思う親がいてもおかしくない。
 私がもう一つ、聞いていて腑に落ちなかったのは、タイムリーな相談を受け付け助言したいというその元教師はどういう立場でいたいのか?
 また相談をしたがる親たちも自分で「考えること」をせず、何でも安易に「答え」を求めたがる傾向に陥りはしないか?「ハウツー」を求めたい人もいるから、それで満足できるならいいのだが・・。
 
 「親の会」を毎回開催していると、次なる展望が世話人の頭にあるらしく、親の居場所と相談できる場を今のNPOの傘下から離れて(今はあるNPOの下部組織的な立場なので自分のしたいことも上に伺いをたてないとできないというしがらみもあるのだろうが)立ち上げたいとの願望があると言う。
 そこで助成金便りで民家を借り、そこに当事者の親が交代で常駐し、電話相談や対面相談に応じたり、親や子どもの居場所・学習支援の場にしていきたい。そして子ども食堂的や役割も担いたいと、自分(世話人)の夢を語り、実行委員を募集したいという。
 何となく参加している人たちもそういう考えに表だって「反対」できる立場にはない。だってやろうとしていることは、人によっては「必要」なことかもしれないから。
 でも、親の会の発展形として、そういう組織的なものを立ち上げようとする場合にそこまで賛同できない(しない)人もいる。
 親の会に参加したから、そういう組織や団体を作って親同士もつながっていたいという孤立感予防のために活動したからといって何か阿変わるわけではない。多くは自己満足の域だと思う。
 親の会に参加するのも「自分ひとりだけが悩んでいるのではない」という安心感。そういう団体を立ち上げて人の相談に乗ってあげたいという思いも「自分が必要とされる」という「自己満足」。
 私が親の会に参加する理由は何なのだろうか」といつも自分に問う。不登校や発達障がいに関することなら本を読んだり研修会に参加したり、専門家の意見を聞いたり、ネット媒体からの情報収集だったり・・・。これまで数々の媒体から情報収集はかなりしてきたつもりだ。
 しかし、人間の気持ちや心の持ち方というのは、自分の生き方につながるものだ。あくまでも子どもの問題は問題とする私の問題だ。
 親の会に参加することで、人の考えを聞き、それを自分の考えと照らし合わせながら、自分の生き方を考える・・・そんな情報源の一つとして私にとっての親の会はあるのかもしれない。
 だから、親同士が集まって何かを企画し、同じ悩める人のために助言しようなどというおこがましいことはできないと自分自身は思っている。

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不登校の親の会

  不登校の子どもを持つ親の会に参加して感じることです。

  その会を主宰する人は自身も二人のお子さんが不登校を経験し、自分が悩んできたことやその後の子どもの立ち直りなどの経験を、同じ悩みを持つ親同士で共有したいとの思いで立ち上げた会です。
  その会は比較的最近立ち上がった会なので立ち上げから参加していました。
  そこも、あるNPO法人がバックアップしているため、微妙にそのNPOの思想がはいってしまう面もあります。
  
  親の会に参加した母親(父親の参加も少数あり)たちは、顔を合わせるたびにみな一言ずつ最近のわが子の様子や親の心模様をしゃべり、同じ経験のある親や悩みを克服した親たちから共感の言葉や助言などもあり、お互いに情報を共有したり安心感を得る場にもなっていることも確かです。
 しかし、中には毎回参加しても子どもの状況は変わらず、親の心模様も晴れないままにみんなの話を聞いていなければならない方もいたりします。
 自分の中でいろんなことが消化されない親たちは、徐々に足が遠のき来なくなったりもします。
 また、口では「学校なんか行かなくても、楽しく生きていければいいよ」と悟ったような言い方をしていても、話題に上がるのは、「でもやっぱり学力は必要だよね。学習支援をしてくれるところはないか」と言う話になり、「高校はどうする」という話題になります。
 不登校そのものを否定はしなくても、先の将来への準備としてはやはり、基礎学力を身につけさせたいという気持ちはみな共通するものがあるようです。
 「親が変われば子どもも変わる」とばかりに変わった子を持つ母親は、自分の体験談(成功談?)を語っていくのですが、ぜんぜん進展がない親にとっては、そういう話を聞くことは心のなかでは苦しくせつなく感じることもあるのではと思います。
 誰かの成功(良い方向に変わったこと)はわが子の失敗を見せつけられるような感覚になり、親としてのいたらなさをつきつけられるような気分になります。 
 ある母親は4人の子どものうち3人が不登校・引き子もり体験者で、現在進行形。おまけに唯一問題がなかった子どもさんも大学生になった1年目に不登校になりかけています。
 そのお母さんが「○○さん(代表世話人)が、お子さんが学校に行くようになってよかったのだけれど、なんだか周りがいい方向にいくとかえって気分が沈んでしまう自分がいる」と率直な感想を話してくれたことがありました。

 たしかに学校信仰でがんじがらめになっている頭の中の価値意識を変えることで、子どもも救われ本来の自分を取り戻し学校以外の居場所や、新たな生き方を求めて立ち上がろうとする親や子どもは素敵です。
 「普通の」(といわれる)であれば。学校へ行かなくなっても、自分なりに別の場所や環境に居場所を見つけたり、勉強の機会(塾やフリースクールなど)を持つことは(本人の意欲さえされば)できます。
 しかし、中には子ども自身の持つ本来の特性からなかなか抜け出ることができないお子さんもいることも事実です。
 社会不安障害や対人恐怖、強迫性障害、うつ症状など何らかの精神症状を併せ持つ子どもさんにとって、不登校や引きこもりはある意味必然のことだったのかもしれません。
 親がこういう会に参加して親としての学びをえたとしても、それがそのままわが子に応用できないこともあります。
 学校に行かないだけでなく、生活からも引きこもる子も。
 そういう子を持つ親にとっては、いい方向に変化していくほかの親子のエピソードは、顔では笑っていても心では正直な気持ちとしては自分だけが取り残されていくような心境になるのかもしれません。
 発達障害の二次障害といえるようなものや精神症状も併せ持つタイプの子どもを持つ親にとっては、単なる不登校というカテゴリーの部分だけで話を進められてもどこかピンとこない複雑な思いがあるのです。
 

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不登校の子どもを持つ親として

 子どもが発達障害だったり不登校だったりする親として、また多少は福祉や医療畑にいた立場として、私自身の性格的なものや、仕事・個人的な子育てへの興味関心から学び取ってきた知識的なものも含めて、あくまで個人の見解として思うところをこのブログ通して考えてきました。
 また同じ悩みをもった人のブログを読ませていただいたり、同じカテゴリーのブログの内容をいろいろ渡り歩いてみたり・・。
 
 不登校について書かれてあるブログで多いのは、わが子の不登校をきっかけに親も学びなおしの機会を与えられ、親が変わったら子どもの変わった。だから、この成功体験をなんとかほかの悩んでいる人に教えたいというもの。
 もうひとつは、子どもの毎日の動向をつぶさに観察し(今日のわが子の様子など)、一喜一憂し、ブログに書くことで自分の気持ちの内面を吐き出し心の整理と共感して欲しいという切なる心の内面を吐き出すもの。まるで子どもの観察日記のようなもの。
 そのほかには、いわゆるその道の自称「専門家」という人たちの「相談受け付けます」と講座的内容のブログ。
その「専門家」は必ずしも国家資格のような肩書きでなくても、「○○カウンセリング認定コース」とか、「○○コーチング養成講座」の受講後に認定資格のライセンスをいただいた方も多く、不登校マーケティングに進出し、カウンセリング(電話・メール・対面)料金をいただき支援したがる人が多いようです。
 
 その中でも 不登校のわが子を持つ方が、子どものことを知りたいという動機からお金をかけて自分もそういう講座に参加するのは自由ですが、自分の子どもが不登校から立ち直り学校復帰したとたん、今度は自分が認定セラピストなどの資格を活かし、(お金をかけて認定証はもらったので)、1時間○千円、○万円、××コースの研修受講費○十万円とか、たった1~2年足らずの体験でさえもその成功体験を有料で支援しようとしている人の多いことに気づきます。

  そういう親(特に母親が多いですが)のブログで共通しているのは、「最初は子どもが学校に行けなくなったことにショックで、落ち込み苛立ち、一時期は親も子も修羅場をくぐった。しかし、親自身も子どもの気持ちを理解しなければと思い、某カウンセリング講座等に参加し学ぶことで子どもへの接し方が変わったら、子どもも変化しだした。」というもの。そしてこの「変化」もたいていは「学校復帰した」というもの。
 だから、こういう人たちのブログは「不登校のわが子をいかにして学校復帰させるか」のノウハウ的なものになるきらいが大きい。もちろん「親の価値観や考え方がかわったから」と、言葉の上では表現していても本音の部分は変わらないのだから、再び不登校になりはしないかと、どこかはらはらしながら子どもを見ている。
 そういう人が書いているブログを一通り眺めてみると、あんなに「私は子どもの気持ちがわかり、理解した母親です」といっているのとはうらはらに、相変わらず、子どもの動向に一喜一憂していることには変わりない内容もいまだ持って多いことに気づくのです。
 頭の知識では理解しても窮極の目標は「学校に行けること」にあるので、自称カウンセラー母親たちは、そういう「商売」をしてしまった以上、わが子が再度失敗すること(不登校になること)にとても神経質になっているのが文面からも伝わってきます。

 不登校への支援は子どもよりも先に、親の精神状態の安定や、親自身もこれまでの生き方や価値観を問われるものになるわけですが、そういう場が最初は必要なのは理解できます。
 多くは既存の地域にある各種親の会に参加したり、数多くの体験書籍を読み漁ったり、講演会や研修会などに参加して知識を吸収し、それを自分の問題としても捉えなおすことができれば、何もお金をかけてまでカウンセリングを受ける必要もないような気もするのです。
 私の場合は身近にいる職場の人や価値観が煮えいる不登校を持ったことのある知人のお母さん(仕事を通しての仲間)の体験談や昔当事者たっだ人の思い(あのとき親にどうしてほしかったのかなど)を聞くことで、いまの自分の立ち位置を振り返ることができたような気がします。それは必ずしも学校復帰がゴールではありません。退学したり、学校に行かないことを選択した当事者の思いをしっかりと尊重しながら親としてできること(愛情)をどうかけていくか、どんな境遇に陥ったとしてもけっして見捨てずにあきらめない、そんな親のあり方というものを学びました。
 でもそういう機会に恵まれない人やネットで情報を得たい人にとっては、かっこうのターゲットになるのだろうなあと思いながら読んでいました。
 あげくのはてにあるブログでは「不登校の子どもが学校に行けるようになるまでのノウハウを伝授します」といいながら、「半年間は講座を受講してもらいますが(それでも何十万円の受講費がかかります)、学校復帰できなくても当方は責任を負いません」なんていう内容のものもあり、子どものための支援というより、自分の承認欲求を満たすための目的じゃないのかとすら思えるものが多いです。
 

虐待の疑いをもたれた母親

  不登校支援や若者支援をしているあるNPOのスタッフの方で、子どもさんが小学生で不登校のお母さんがいます。
 自身も不登校の経験をお持ちで、自らもフリースペースのお手伝いをしているので、不登校になるわが子の気持ちは普通のお母さんたちよりは理解しているため、一緒に親の会に参加している姿も子どもの思いを大事にしている様子が伺えます。
  しかし、だんなさんと夫側の家族は学校に行かないことを是とする妻や嫁に対しては意見が合わず、結局子どもを連れて別居を決意。母子家庭になるため、役所とも公営住宅や学校とのやりとりなど事務的なことを相談している矢先に、夫側から役所に「子どもを学校に行かせないで虐待している」と”通報”。
  虐待の通報があれば、行政は事実確認をし、虐待の有無を判断しなければならない責務があるのですが、そのとき母親のとった行動は、NPOの活動の場に(お子さんは参加者やスタッフとは顔見知りで事情もみんなわかっている人ばかりなので)、役所の人に見学にきてもらうことを要望し、先日担当の方がお見えになりました。
  まず、誰がどう見ても活動風景の場をみれば、「虐待」(この場合は学校に行かせないという養育の放棄にでも該当するのでしょうか)なんてありないことは明らかです。
 お子さんは多くの利用者やスタッフからも可愛がられ、母親の態度もなんら問題ないわけですから。
 結局、その担当者は、活動風景を見学するだけでは手持ち無沙汰だったようで、スタッフと一緒に活動のお手伝いをするはめになり、そそくさと帰ってしまいました。
 役所に戻ってなんて報告するのでしょうか?

 つい最近大阪の中学校でネットアイドル活動をしている中3の娘に対し、母親が娘の活動を応援したいということで学校に行かせなかったことを、「学校教育法(就学の義務)違反」で訴え、逮捕されるというニュースが流れたばかりでした。
 でも、その後の記事や当事者の訴えによると、小学校からいじめにあい、不登校だったが、姉と一緒にアイドル活動に居場所を見つけ、母親も、最初から学校を否定していたわけではないが、本人たちの思いも尊重したいということもあったよう。  
 学校としては再三、6回も登校指導をしたのになしのつぶてで、去年の夏には東京に転居届けを出したことが「就学の義務違反」として逮捕の要因になったようですが。
 しかし、そもそもいじめがあったことや子ども自身の悩みなど学校(担任)は把握していなかったのか、母親もその辺については学校とも相談をしていなかったのか、まず警察に相談する以前の問題だろうと思います。

 そして、なによりも教育現場が誤解しているのが、学校教育法の解釈の仕方にあり、就学の義務は必ずしも学校に行かせる義務ではないこと。教育を受けさせる義務の解釈が問題。
 でも、こういう話題が一度マスメディアを通して世間に広がると、不登校を抱える親御さんの心境はこれまでよりももっと複雑になってしまうだろうとこのニュースを聞いたとき、不安になってしまいました。
 「教育を受けさせる義務=学校に行かせる義務」という解釈がまかり通ると、不登校支援をしていた個人や団体もまたその解釈の訂正に翻弄されてしまうかなあと思ったり、今回の例のように、家族で意見が合わず母親が悪いとばかりに責任転嫁してしまう。
 子ども自身が学校に行かないという選択をしたとしても、周りからは「学校に行かせない親」という認識になり、その認識がひいては「養育の放棄=虐待」というカテゴリーに組み込まれてしまうことに、恐ろしささえ感ぜずにはいられません。
 当事者(母子)の知らないところで、そういう情報は公の機関に伝わっているという現実。
 日本の教育現場や行政は、みな『学校信仰機関』(教育行政をつかさどるところは不登校児が増えたら困るのですから)ですから、増え続ける不登校対策にはなんら手を打たず(打てず)、その分民間の不登校の支援団体が多く立ち上がり、教育の多様性を訴えても変わることは難しいでしょう。
 たとえ国の政策が変わっても、地方に浸透するまでも10年はかかるといわれていますし、昨今のいじめの問題も昔となんら現場の先生たちの態度も変わっていない。
 いじめ、不登校、逮捕、虐待・・・・結びつかないキーワードです。


不登校関連書籍より

不登校児が教えてくれたもの―3000超の症例が発する日本の父母へのメッセージ!不登校児が教えてくれたもの―3000超の症例が発する日本の父母へのメッセージ!
(2000/09)
森下 一

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 (本文より)

 精神科だろうとカウンセラーであろうと、専門家をそのまま信じてはいけないのだ。どれだけ多くの若者たち、子どもたちが彼らの誤った判断の犠牲になっていることか。
 その一つの方向が、子どもの心を無視して強制的に登校させるやり方であり、もう一つは、逆に子どもの心が荒れるにまかせるという方法である。ともに、子どもたちの心の奥底にひそみ悩みを抜本的に救うという最重要の作業が顧みられていないのである。
 なぜ自分が学校に行けないのかを理解しようとしないで強引に登校させようとする父親に絶望した。必死に抵抗する自分をかばうことなく、ただ傍観する母親への不信。
 「医者の指示があったとしても、現実に泣きわめくわが子を目の前にして、それをかばおうとする母親としての自然の情になぜあなたは従わなかったのですか」
 すると、教師である母親は不満顔で私を見て、
 「わが子を学校に行かせたいと思うことが、そんなに悪いことなんですか」
 と、私にくってかかったのである。 
 こんな母親の情けない言葉を目の前で聞かされた彼は、さぞつらかっただろう。私の横で、おいおいと泣き続けた。

 彼は、父親も母親も信頼していない。事実、両親とも、わが子の立場から考えず、わが身中心の価値観、世間体、見栄にこだわる態度を、最後の最後まで捨てなかった。
 この貴重な中断例から私が学んだことは二点ある。第1点は、本人が登校するかしないかよりも、本人がその子なりの人生を送れる存在になるように、親も心がけ、カウンセラーもサポートすることが最優先されるべきであるということ、第2点は、親、ことに母親に対する信頼を絶対に失わせてはならないということである。


 不登校児が激増する最近の傾向に応じて、学校側は適応教室と称して、「登校がつらい生徒はどうぞお休みください」とばかりに、学校内に「ぬるま湯の部屋」を作っている。カウンセラーを用意している学校もある。雨後のタケノコのように、不登校児の安らげる居場所やカウンセリングが増えている。不登校に関する書物も数多く出版されている。そして不登校児を抱える親たちは書物を読み、カウンセラーに会い、不登校についてすぐにわかったつもりになってしまう。しかし、それは上っ面だけの理解である。何となく不登校のわが子に対する理解を示して、親と子の間では表層だけが優しく、お互いに理解し合っているようでも、親子双方の心の中の相互猜疑が残ったままの生活が続く。やがて子どもたちは、中身はどろどろのまま表層人間化してしまい、アパシー(無感動、感情欠如)、閉じこもりの大群を形成することになる。

 学校も、親も、本人も、現実を少しでも楽に過ごせるように、と流れている。すなわち、問題を直視せず、先送り、先送りへと流れている。
 不登校の問題は、実は若者たちの主体的な自我形成と深く結びついていることを知らねばならない。若者たちの自我が、柔らかに成長できるときは長くはないのだ。二十歳を彼らが迎える時、自我の変容は、主体的にも環境的にも、とてつもなく困難な課題となるからだ。

 心の扉は簡単には開かない
 子どもたちの人に対する猜疑心の深さである。少々の寛容さや、普通の親切や、給与相応の参加など、そんなことで子どもたちの心が開けるものではない。ことばではなく、日常の行動で、子どもたちへの祈りと関わりと配慮を深める中で、子どもたちは、注意深い観察と日常の触れ合いの中で、やっと敵か味方かを嗅ぎ分けるのである。そしてその人に対する感謝が蓄積されるとき、重い重い猜疑の扉は開かれる。信頼に基づいた関係が開かれるのである。このようにしてはじめて、人に対する積極的同一視は可能となる。
 専門家と称する人々の一時間程度の診察やカウンセリングなどが、信頼の扉を開けようとは私にはとうてい信じることができない。せいぜいそこに形成されるのは、知的防衛程度のものである。

 おそらく、その生活史において、多くの子どもは、その内的欲求と本音に基づいて積極的能動的に外界に働きかけることを何回も試みたであろう。しかしそのつど外界はそれを抑圧し、子どもの心に精神的外傷体験を蓄積したであろう。それは子どもにとって、人への不信と猜疑をつのらせていくものとなる。子どもの魂、本来の関心、感動や喜びを圧殺することになるからである。
 したがって不登校現象は、子どもの立場からみれば、合理に従おうとする理性と、自分らしくありたいという魂が求めることとの激しい矛盾の過程である。多くの人々は、この合理に従い、再び登校できるようになることを「治療」と呼んだ。しかし私は、子どもたちの魂の再生に力を注いだ。

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不登校児の親の会

 私の住んでいる市には、親や民間団体が中心になっている「不登校児の親の会」というものがありません。

 以前は、ある方が(当事者の親)立ち上げたものがありましたが、みなさん不登校が解決したり、不登校からそのまま引きこもりにいたったリして、「不登校」という看板だけで会を運営することへの抵抗感などもありわが市では親たちが主導の会はあまり活発ではありません。以前より行政(教育委員会)が主導の「親の集まり」はあったようですが・・。年に1回この時期に小中学生の不登校児を持つ親に市報で呼びかけ「親の会」と称して講師を招いての講演会や、その後は(希望者のみ)個別相談会(市の教育相談員が対応)があるというものです。

 今回の市報にも案内が載っていたので内容を見ていたら、講師は現役の中学校の校長先生、話の内容が「今の子どもたちの人間関係」というもの。
 それに、参加申し込みは各学校を通じての申し込み(直接もあるが)。
 
 やはり主催者が行政(教育委員会)だと、こういうからくりになるんですね。これまでも、講師に招かれていたのは、大学の先生だったり学校関係者などの身内の人たちばかりです。
  昨年はじめてそういう会に参加してみたら、講師の先生は「不登校児の家族支援」を専門にしている大学の先生の話でしたが、概論的な内容ばかりで、肝心の「じゃあ家族がどう関わればいいのか」というところの話に入ろうとしたら、時間切れで結局何にも収穫のない講演だったなあと・・。そう感じたのは私ばかりでなく、他の参加した父母たちも「一番聞きたかったところで終わってしまった」と嘆いていましたね。(そもそもあまり大学の先生や学校関係者の不登校に関連する話ってあてにしていないですけど・・。)

 自分も今、行政に勤めているので、何とも言えませんが、たいてい講師を誰にするかなどというのは、結局その業務の担当になった人の人脈で選ぶか、関係者で無難にまとめるというのが相場です。講師派遣料もありますから予算の関係もありますし(学校関係者ならタダですね)。

 それに講演会を聴いたあとは、そのまま親同士の交流も話し合いも悩みを言い合う場もないままに、個別相談のある人だけが何人か会場に残ったまま終わってしまったのでした。

 なんのための「不登校児の親の会」なのかわかりませんでした。

 だから、あまり行政主導のイベントや講演会などを期待するよりも、自分で本を読んだり、情報を見つける方がいいと思うようになりました。
 多少お金と時間をかけてでも本当に自分が参加したいもの、親や子の立場を理解し、当事者たちの側から発信していただけるような場所に身を置く方がよっぽど勉強になるように思います。

 私が時々参加しているところは、(田口教育研究所という民間の機関)ですが、主催者は畑違いの先生ですが、不定期に不登校や発達障害に関する講演会や研修会を開催しています。
 講師の方々はそれぞれ学校関係者とは一線を画した人たち(医療者、NPO実際に支援している人、カウンセラー、親の会の代表者、大学の先生(あくまで子ども目線の立場の方)や発達障害指導に慣れた学校の先生、フリースクールの主催者など当事者や親の目線で話される方々を招いての講演なので勉強になります。

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研修会に参加して(1)

 先日、全国webカウンセリング協議会主催の不登校支援、家族セラピー関連の研修会に参加してきました。

 これまでも、自分の関心や、子どものことなどいろんな背景もあり数多くの講演会や、研修会などには参加してきましたが、今回の二日間かけての講座はとても有意義なものでした。

 講師の安川先生のお話は、現場中心(子ども中心)から培われた内容で、どう子どもの心に共感するかといった親や教師、支援に携わる人への助言も実に納得できるものがありました。

 実践に裏打ちされた話は、説得力があります。

 学校の先生や保育園の先生、そのほか子どもに関する支援を展開している人たちなど、多くの参加がありました。
 まあ、こういう場に来ている人は、子どもたちへの向き合い方について学びたいという人たちだと思うので、日ごろの仕事の中でも、何らかの気づきにつながっていくのではないかと思います。

 私自身も、日ごろの子どもとの関係を見直す機会にもなりました。

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専門家による認識の違いについて

いまどきの思春期問題―子どものこころと行動を理解するいまどきの思春期問題―子どものこころと行動を理解する
(2008/07)
平岩 幹男

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 正直言って、この本にはどこか違和感を覚えてしまいました。

 著者は小児科医としてある自治体の健康センターの勤務経験を通して、その中でも特に「思春期の問題」に焦点をあてて書かれたのが本書です。

 医師という専門家が書かれた本として、広く行政分野や教育関係者、医療関係者にも読まれているのかも知れませんが、先に読んでいた児童精神科医の書かれた本(このブログでも紹介しています)と主張するところが違っていて、違和感を覚えます。
 このように物の見方を違う視点でみてしまえば、書かれた内容も当然違ったものになりやすいものです。同じ「子どものために」書かれた本であっても読者からすれば、一つの本しか手にとらなかったらその本に書かれている内容を信じて助言された通りにして対応してしまう危険性をはらんでいるように感じました。

 不登校・ひきこもりについて書かれた部分の違和感・・・

 (本文)「私にとって、不登校の解決とは、その子が単に学校に行けるようになることではなく、将来目標をもって生きていけるようになること」だと言っておきながら、そのあとに「小中学生は、学校教育法によって通学は義務であること、保護者にも通わせる義務があることが決められています」と書かれています。 
  ↑
 これは明らかに矛盾しているし、第一義務教育の定義を取り違えて解釈しています。「子どもは学校に行く義務、保護者も学校に通わせる義務」なんていう言葉は学校教育法の中には一文も出てきません。あくまでもその本質は「親は子どもに教育を受けさせる義務がある」と言うことであり、その先が必ずしも「学校」である必要はなく、必要な環境の中で教育が受けられればいいのです。

 (本文) 「私に言わせれば、実際に23%の子どもたちが就労も就学もしていない状況にあることのほうが大きな問題なのです。ですから不登校のその後の経過というのは、ひきこもりの問題も含めて、決して良好とはいえないと思います。」 
  ↑
 これも、不登校の子どもは将来ひきこもりになりやすい、そして就労・就学しない生活を送ることがいかにも失格のような烙印を押さんばかりの発想で書かれています。

 (本文)「学校に行っているときを考えてみましょう。学校には先生も多くの友だちもいます。自分は学校の一部であるという認識が自然に生れてきます。ですから誰か新しい転校生が突然入ってきても、クラブ活動で、レギュラーから外されて少し落ち込んでも、対応もできますし、立ち直ることもできるでしょう。」
 ↑
 学校に行くことそのものに困難を持っている子どもたちだから、不登校という選択を最終的な手段として選ばざるをえないのに・・。先生や友達との関係がうまくいかないから(それは往々にして学校側の問題ということの方が実際は多い・・)行けない子どもたちなのに・・。子どもが学校に行きさえすれば物事が解決するとでもいうのでしょうか。問題を子どもの精神論でとらえるのはもういいかげんやめてほしいとすら思います。

 (本文)「しかし、学校に行かなくなると、自分が社会の一員であるという認識がなくなり、自分にとっての社会は、限られた人間関係だけになってしまいます。こうした結果として起きてくるのが、社会的不適応です。その状態が続けば、そこから抜け出すことも困難になってきて、長期化した不登校の一部はひきこもりになっていきます。」
 ↑
 学校に行かないことがそのまま社会の一員でないとどうして決めつけるのでしょうか。必ずしも学校だけが社会性を育む場所ではないし、今は学校批判も多く語られているし・・。


 この本を書いた先生(医者)も、所詮根強い学校信者なんだなあと思います。そして、あくまでも援助の方向性とは、「将来ひきこもりにならないように、社会性を身につけさせるために、集団生活の基本となる学校復帰をさせる」ということにつながっているようです。あくまでも、子どもや当事者の立場から書かれた本ではなく、教職員や行政の職員(保健師など)や心理・医療関係者向けに書かれた本(自身も保健センターに勤務していたという経験から)だと思います。
 
 そして、このような考えで、支援にあたっている支援者の方が実際は多いのだろうと思いますし、親もこういう本を目にしたときに、わが子の不登校やひきこもりを「なんとか改善させなければあとで困ることになるのだ」というふうに思わされてしまいかねない・・・。


 不登校関連の本などは、実にさまざまな視点から書かれたものが巷にあふれかえっている昨今、何が本当の支援の在り方なのか、本質を見極めていかないといけないと思います。
 
 権威のある医療者の書いた本なだけにやっかいです。
 
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何に対して援助するのか・・不登校、ひきこもりへの援助(2)

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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(引用)
●子どもたちの苦悩について
・学校を休むとこれからの社会参加が不利になる。社会経験が不足する。だから早く学校に戻らないといけないと考えてしまう大人たち。そこに見えるのは、実に悲しい勘違いの行列であるが、現代では「社会参加」がほとんどお題目のように無批判に受け入れられているため、その悪循環を吟味しようという動きがほとんど存在しないのである

不登校の子どもたちが手に入れられずに困っているのは、疑似経済活動的な学校ではなく、人間本来の自然な生き生きとした生活であり、多様な社会行動のあり方を保証する時間的空間的なゆとりなのだが

・ある場所のある集団の中で、手に負えないような人間関係の軋轢や、そこに居り難いような苦痛な状況が起きた時に、代わりに行く場所、参加する場や仲間があれば、誰でも新しい場所や仲間を選ぶだろう。それぞれにあった集団を選べる状況があれば、たとえ子どもであってもいろいろな対処が可能である。他に行くところがなく参加する別の集団がなければ、一人を選ぶしか避ける方法はない。
 
ところが、それを見た大人たちはあわてて「社会参加していない」という新しい問題を作ってしまったのである。人は社会参加しなければならない、さもないと社会から脱落してしまうと恐怖心をかき立て、子ども家族を動かそうとする大人。親切顔をして社会体験の大切さを懇々と説く人。どれも悪気がなく、一所懸命な分、自分たちの勘違いに気がつかない。自分たちが共有した社会が、広がりや奥行きのある、さまざまなありようの可能な社会であると助言すればすむことなのに、たった一つの目の前の集団だけが社会への通路であるかのような錯覚を押し付けてきたのではないだろうか。

・不登校と言われている状況にある子どもたちは、不登校になる前に相当の重荷や困難を背負っているのがふつうである。この時点ですでに彼らは特別の援助を受けるに十分な資格を持っている。それらへの援助は残念ながら不十分で、彼らはいつしか撤退を余儀なくされていく。

・精神医学的な症状をみても、よく指摘されてきた不安症状や恐怖症的な症状、被害関係念慮などにとどまらない。うつ病と診断するべき時期は経過中に珍しくなく、死ぬことについて真剣に考えたと多くの子どもたちが教えてくれる。いじめられるなどのつらい体験の侵入(フラッシュバック)に苦しむ子どもたちは少なくなかった。さらには自律神経系の調節障害、睡眠覚醒のリズムの障害、知的な障害を重複しない発達障害、家庭内での攻撃性や支配被支配の関係など、今日注目を浴びているたくさんの知見がそこには詰まっていたのではないだろうか。不登校について私たちは30年以上に及ぶ豊富な経験を持っているはずなのに、これらの問題を専門家が十分ていねいに拾い上げてきたとはいえまい。

・登校することが標準的な行動と考えられている中で、学校へ行くことに焦点をあてた援助は、大きな精神的負担となる。沢山の子どもたちが、自分の対処行動に家族や関係者の支持を得られず、なだめられたりすかされたりする苦労は、成人のうつ病患者が周囲の励ましに苦悩するのとよく似た状況である。

・彼らは参加する力がないのではなく、参加する場所がなかっただけ。こうした援助が遅れたのは、なぜか大人たちが代替え的なあり方を嫌い、多様性を認めようとしなかったからである。学校に行かないと社会的な体験が不足する、これから社会に参加していくのに必要な能力が身につかなくなってしまうと焦る教師や親は少なくない。しかしそれは決して正しい見方ではないのだ。

・「社会参加」という言葉にだまされて、私たちは十分な理解に達することができず、適切な援助を提供するのに遅れをとり、子どもたちを苦しめたまま、いたずらに長い時間を過ごしてしまったのだと思う。そして現在では多くの専門家が、十分な振り返りもないままに流行の別の問題に興味を移し、不登校から目を離そうとしているのではなかろうか。
 不登校やひきこもりへの援助の目標が、素朴で窮屈な「社会参加」に陥ってしまった弊害は何度繰り返し述べても言い足りない。専門家の責任は末永く問い続けられるべきだろう。このような悲劇をもたらしてきた背景に、援助の専門化に伴う大人たちの想像力の欠如が存在するだろうことをこころから憂うものである。


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社会参加をめぐって・・不登校やひきこもりへの援助(1)

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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不登校やひきこもりへの援助について、臨床家としての著者の見解を述べています。

(引用)
・不登校やひきこもりという現象は、主に「社会参加」について問題を持つという理由から「病理」的と判断されている。しかし、そこで私たちは、「社会参加」の意味するものについて十分に考えた末に、このような判断を下しているのだろうか?
・不登校やひきこもりに関わろうとするとき、どこか息苦しい想いを感じるとしたら、それは限られた範囲の社会参加というものに無理やり自分たちをはめ込む落とし穴に入り込んだためではなかろうか。彼らへの手助けを考える時、社会活動の目安として私たちが現在使っているような意味での「社会参加」がふさわしいとは思えない。
・このような使い方では社会参加の方法をきわめて限定してしまうため、かえって社会に参加しにくくなるのではとさえ危ぶんでいる。そもそも年齢が若く、ある種の保護を必要としており、生産的な活動に携わるときに不利な条件を持った人たちに対して、わざわざ乗り越えにくい条件を持ち出すことに配慮があるとはいえないだろう。

●「社会参加」が広まったわけ
・「社会参加」ということばが広まった背景は、生産活動の場としての「社会」と、消費生活の場としての「個人」の生活の間に境界が存在するようになったといえるかもしれない。・・・そこでは、社会の圧力に押しつぶされず、社会の中で確固とした位置を占め、社会そのものに影響を与えるようになることが、理想的な社会参加というものなのであろう。
・「社会参加」というときに私たちが頭に描く社会は、年齢、自立、経済活動などの側面が強調された社会全体の一部にすぎない。そのことを忘れてしまった結果、本来一部にすぎない社会の産業的な側面に参加することが、まるで人が行う社会活動のすべてであるかのような錯覚を招くことになった。

●不参加と不在
・不登校やひきこもりという問題に向き合ったとき、私たちはまずその現象を解消しようと考えてしまいがちである。そこでは必ずといってよいほど、この「社会参加」というハードルにぶつかってしまうことになる。限定された「社会参加」にこだわるがために、無理やり細長い穴を通り道にしようとして、多くの人が傷ついてきた。逆にあえてこだわりを捨てようとすると、今度は単独主義という落とし穴が待ち受けていたりする。このジレンマは不登校が問題となって数十年になるにもかかわらず、十分の解決したとはいえないままになっている。
・不登校について、多すぎる専門家が多様すぎるほどの(勝手な)意見を述べてきた。不登校の問題にめどがついたとは言い切れないにもかかわらず、高名な専門家たちが不登校の問題から離れていったのは、子どもたちではなく自分の意見だけに興味があった証拠といえるだろう。


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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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