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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

卒業式

中学校の卒業式が先日行われた。
 次男1年の2学期からクラスに混ざれなくなって、1年目はフリースペースに居場所を求め、2年目は別室登校、それも午前中だけを卒業式前日まで過ごした。
 毎回、学期末ごとに「次学期はどうする?」と学年主任と担任からは面談を通して質問(尋問?)され、そのつど子どもと親と学校の考えをすり合わせながらやってきた。
 学校というところは、何かと学校のルール(教育委員会の決め事)を押し付けてくる傾向がある。
 適応指導教室に通っていても、当教育委員会の考えは3年性の2学期までしかそこには通えず、3学期は嫌でも学校(クラス)に戻らなければならない仕組みだ。卒業まで通えないのかとある不登校児の親が掛け合ったときは、「高校へ行く準備とするためにも集団で過ごす期間が必要」との判断だからだそうだ。
 学校側(教育委員会)は、先々の課題を考えての措置をとっているのだろうが、当事者の親に言わせれば「クラスに混ざれないから不登校しているのだ。適応指導教室でうまくやれているのにまたプレッシャーをかけたくない。教育委員会の考えは納得できない!」と怒っている。
 
 しかし、実際には卒業式間際になってもクラスに混ざれない子はいる。それはそれで対応するしかない。結局のところは子どもの状況次第。
 今回の卒業式の本番を1次会とすれば、わが子は2次会の方に出席。みんなと一緒の式には『出ない』と自分で決めて出席した午後からの卒業式へ。本人だけかと思っていたら、5人いた。
 学年の先生全員と校長・教頭・学年主任・副主任の書く先生たちの前での卒業証書授与式。在校生もクラスの生徒もいない中で、それでも「式次第」は儀式どおりに流れていく。
 なんか、会場(多目的ホール)で間つけている先生たちの顔はどことなくこわばっているというのか、緊張感のある雰囲気を感じた。
 校長の祝辞もどことなく心からの「祝福」にはうけとれないような感じ。ほとんどの子はいろんな事情で学校に正規通学できなかった子どもたち。その子どもたちを前に「卒業証書」を校長から手渡す。
 校長祝辞のなかで「中学校の過程を卒業したことを証する」ということはどういう意味をもつのか?を考えろと言わんばかりの口調で次へのステップに期待しているというような言葉をかけていた。
 私には「学校に来れなくては本来は卒業単位は上げられないのかもしれないが、一応義務教育だから卒業させてやるんだからな」という口調にもとれた。だって本当に顔はほころんでいないし、目つきは厳しかったもの。各担任からのはなむけの言葉も口調は顔は笑っていても目はいつも笑っていない。担任もぎりぎりまでクラスメイトと一緒に授与式に臨ませたいと働きかけてきたが、そうされればされるほど子供の方が気持ちがついていかなかったから、担任としてもどこか未達成な部分もあったかもしれない。
 長男の時には長男が参加できたことで、学年全員が一次会の卒業式には参列できた。そのことが校長はうれしかったのであろう、「この学年は全員卒業証書をこの場でもらうことができた」と祝辞の際に第一声だった。
 あとで聞いたところによると、次男が帰ったあと夕方からの3次会もあったとか。午後からの式にも出られない子どももいたらしいが、学校の方針としては校長先生から「手渡し」で証書をもらうことが原則だったようだ。校長からもらうことでこの中学を卒業した「証」としたいのだろう。親だけがもらうこともだめだったようで、とにかく子どもが来ないと渡してくれなかったようだ。
 不登校親の会の大御所たちは、「小学校や中学校は学校に行かなくても卒業させてくれるんだから行かなくてもいいのよ」という助言をよく各親の会で言っている。そんな学校の言い分に振り回されないでいいといいたいのだろうが・・・。

 それぞれの教育委員会や学校の立場や考えはさまざまだろう。その中でも当の子どもの思いや親の考えもさまざまだから、一概に「行かなくても証書はもらえるんだからいいんだ」と安易に考えるのはどうしたものかとも思う。
 自分が体験したことがすねての不登校事例に当てはまるわけでもないと思うし、そのときの個人(子どもや親・先生)間の関係性と学校組織の体制や考え方などが皆違うからだ。
 そんなことを考えながら5人の卒業式に親として参列したのでした。 

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「いじめ」の相談

 あるジャーナルに投稿した文章のなかで、次のような一文がありました。(投稿したのは、某学校に勤める養護教諭でした)

 (引用)
 「あなたはいじめられたことがありますか?そのいじめは今も続いていますか?」という質問には、「よくこんなこと、聞けるねぇ。いじめられて死ぬほど辛い人に、『はい』に○をさせようとしているんよ。それってひどいことだと先生たちは思わないの?『はい』に○ができる子はとっくに先生に言っているよ」とも言われました。
 私自身、こんなことは思ってもみなかったことで、いじめ問題の渦中にいる子どもたちならではの言葉だと思いました。
 数年前、いじめにより不登校になった中3の女子生徒に、「先生たちは『いじめがあったら言え』って言うけど、いじめは学校の恥だとか、自分のクラスでいじめがあったら自分の評価が下がるとか思っている先生には、絶対に言わない。そんな先生には言っても分かってもらえないから」と言われました。彼女の思いがこもった強い口調に圧倒されたことを覚えています。


 思春期の子どもたちの感覚の鋭さがうかがえる文章ですね。
 子どもたちは大人の態度や言動のなかに、この大人は自分たちが信じるに値する人間かをしっかり見抜いていると思います。また、いじめられていると教師に言える子どもは、よほどその先生を信頼しているか、学校自体も一生懸命にいじめ問題に取り組もうとしているところかもしれませんが、大部分の多くの現場は、この生徒の心情と大人〈教師)が考えることにはギャップがあるのではないかと思います。
 
 今朝のニュースである中学校の女子生徒がいじめられて自殺したできごとを、その学校自体が生徒や保護者に「口止め」していたということが明るみになったとして、ワイドショーで取り上げられていました。
 大人社会(それも学校という教育現場)のいやらしさがこういうニュースを聞くたびに信頼を失墜させるようになってしまっています。
 いじめがない学校として外部評価を気にする校長、いじめがあるクラスとわかれば自分の教員評価が下がる・・・いろんな思惑が働くのでしょうか?
 そしてそれを黙認する教育委員会や教育行政に携わる職員。なにか、マスコミが騒ぎはじめて、ようやく重い腰をあげて対策に乗り出す。

 
 

新聞報道より・・・(2)

●発達障害児にいじめ( 神奈川新聞 2012年7月13日)

 金沢区に住んでいた市立小学校6年の発達障害の男被害児は4月以降、同じクラスの男児3人から、学校内や下校途中に障害児を意味する「ガイジ」というあだ名で呼ばれたり、蹴るなどの暴力を振るわれたりするいじめを継続的に受けた。
 被害児はいじめを隠したが、自宅で壁に頭をぶつけたり、「死にたい」とカッターを手首に当てたりとたびたびパニックを起こした。母親が4月下旬に学校側に相談。担任教諭らは「一方的な暴力はあったが、(加害児を)指導した」等と保護者に説明し、いじめを否定したという。
 6月1日の下校途中には、被害児は両膝や肩などに1週間のけがを負った。保護者は「安心して通えない」と同4日、市教育委員会に転校を申し出た。手続きが素早く進まなかったため、自ら住民票を区外に移し、同8月に転校した。被害児は今もパニックに陥るなど不安定という。
 「学校は訴えを真剣に受け止めなかった」。被害児の母親は憤りを隠さない。
 被害児は発達障害の一つ「高機能自閉症」。知的発達の遅れはなく絵画や漢字は得意だが、人前で話したり自分の気持ちを伝えたりするのが不得意だという。
 いじめの実態は、当事者間で食い違いがある。だが、母親が加害行為をした男児に直接聞いたところ、「聞いたことにすぐ答えないのが嫌だ」と話したという。こうした障害の特性がいじめのターゲットになったとみられる。
 保護者の訴えに対し、学校側が「いじめ」と認識したのは5月末。「4月に指導して解決した」はずのあだ名で呼ぶ行為が、その後も続いていたことが分かってからだった。
 被害児は6月にけがをした後も、自分からはいじめを被害を告白しなかった。保護者に「転向する」と聞かされ、ようやく「5年生のころからいじめられていた」と打ち明けたという。
 被害児はことし4月から、「自分はいらない存在」「障害者だから何をやっても駄目」と自己否定の言葉とともに泣き叫ぶようになったという。母親は「その理由がいじめだった。学校側に何度も調査を依頼したが、そのたびに『何もなかった』と言われていた。悔しい」と唇をかむ。


●障害児にいじめ 教諭謝罪後も“脅し” (神戸新聞 2012年7月14日)
 
 児童の障害や個性に配慮した教育が求められる特別支援学級で、担任による暴力や暴言が繰り返されていた。
 神戸市教育委員会は、13日この男性教諭(60)を同日付で懲戒免職にした、と発表した。
 教諭は昨年の2学期、担任をしていた男子児童の頭を拳で圧迫したり、軽くい叩いたりする行為を繰り返したほか、カッターやはさみを見せて、「おなかを切って給食を入れた方が早い」などと発言した。
 児童が「学校に行くのが怖い」と関係者に話したことから発覚、校長が厳重注意した。
 今年1月には、授業中に何度も児童をからかう発言をし、児童を泣かせた。校長と市教育委員会が再度指導し、教諭は児童や保護者に謝罪。しかし5月にも、「雷が怖い」と話す児童に「電気なら、ここにもあるで」と針金の片方をコンセント、もう一方を児童の顔に近づけ、脅した。
 教諭は学校や市教委に対し「じゃれ合う意図でやった。深く考えずにやってしまった」などと釈明したという。


 発達障害・特別支援教育などと声高に叫ばれていても、いまだに現場ではこのような対応や理解のなさが教育現場ではびこっている・・・。
 
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素直な生徒がいい?

以前、二男の授業参観をしたときのこと。
参観後の懇談会には、30人足らずのクラスなのに、参加したのは6人程度の母親でした。
いつもの光景ですが、以前長男が低学年の頃の懇談会では、わが家のみたった一人ということがありました(担任も教諭ではなく、講師でした)。

 その時は、人数が少ないということもあり、それぞれの家庭での子どもの状況や今抱えている悩みなどについてざっくばらんに言い合おうということでしたが、結局皆表面的な悩みに終わっているような話題提供で終わりました。
 ああいう懇談会という場所では、担任の先生の進行のしかたで、話題も変わっていくと思います。先生があたりさわりのない話に終始し、時間稼ぎ程度にしか思っていなければ、保護者から出される話題も表面的なものに終わってしまうだろうし・・。そもそも担任も自分のクラスの問題点などについてはあからさまに親にも言わないでしょう。
 「この学年は皆素直でおとなしい学年です。」という評価を担任は話しました。
 “素直でおとなしい”=よいことの代名詞にとらえられますが、見方を変えれば、子どもたちも個々人の思いを自由に言えない雰囲気なのかとも感じてしまいます。
 皆が皆素直で教師の指示を反抗もしないで聞いてくれる学年だという評価が保護者向きの社交辞令としてなのか、本当にそういう学年なのかはわかりませんが、少なくとも教師が児童をそういう評価をしているということは、自分たちにとってやりやすいという結果にもなるのかもしれません。

 今の学校の先生たちって、やんちゃしている児童、生徒の存在って、「やっかい」に思っているのだろうか?
 昔の教師はやんちゃしている子どもにも、それなりの愛情を注ぎ、目をかけてくれていた。案外そういう生徒の方が教師にとってもいつまでも思い出に残るような存在だったかもしれません。。
 でも、今は一通りクラスが波風立たず、自分が担任をしている間は無難に過ぎてくれればいいと思っている教師集団が多いような気がします。

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いじめ問題・・・著名人からのコメント(新聞記事より)

 大津のいじめ事件報道のあと、朝日新聞に特集された「いじめている君へ、いじめられている君へ」と題して各界の30人の著名人が投稿した記事。

 その中で一番心に響く文章だったと感じたのが最終日に掲載されたタレントの春名風化さん(小学校6年生)の文章でした。読んでいて、これが6年生の書く文章かと感心したのと同時に、内容に感動もしました。

 (朝日新聞を取っていない方のために紹介します)

 いじめている君へ 

 ぼくは小学校6年です。タレントだけど、ふつうの女の子です。
 今から書く言葉は君には届かないかもしれない。だって、いじめている子は、自分がいじめっ子だなんて思っていないから。
 いじめがばれた時、いじめっ子が「いじめていない」って言うのは、保身のためだけじゃなく、正直な気持ちじゃないかなと思います。
 ただ遊んでいるだけなんだよね。自分より弱いおもちゃで。相手を人間だと思ってたら、いじめなんてできないよね。感情のおもむくままに、醜悪なゲームで遊んでいるんだもんね。
 ぼくもツイッターでよく死ねとか消えろとかブスとかウザいとか言われます。顔が見えないから体は傷つかないけど、匿名なぶん、言葉のナイフは鋭いです。
 ぼくだけでなく、時には家族を傷つけられることもある。涙が出ないくらい苦しくて、死にたくなる日もあります。
 けれどぼくは、ぼくがいくら泣こうが、自殺しようが、その人たちが何も感じないことを知っている。いじめられた子が苦しんで、泣いて、死んでも、いじめた子は変わらず明日も笑ってご飯を食べる。いじめは、いじめた人には「どうでもいいこと」なんです。
 いじめを止めるのは、残念ながらいじめられた子の死ではありません。その子が死んでも、また他の子でいじめは続く。いじめは、いじめる子に想像力を持ってもらうことでしか止まらない。
 いじめゲームをしている君へ。
 あのね。キモい、死ねと連日ネットで言われるぼくが生まれた日、パパとママはうれしくて、命にかえても守りたいと思って、ぼくがかわいくて、すごく泣いたらしいですよ。それは、ぼくが生意気になった今でも変わらないそうですよ。
 想像してください。君があざ笑った子がはじめて立った日、はじめて歩いた日、はじめて笑った日、うれしくて泣いたり笑ったりした人たちの姿を。君がキモいウザいと思った人を、世界中の誰よりも、じぶんの命にかえても、愛している人たちのことを。
 そして、その人たちと同じように笑ったり泣いたりして君を育ててきた、君のお父さんやお母さんが、今の君を見てどう思うのか。
 それは、君のちっぽけな優越感と引き換えに失ってもいいものなのか。いま一度、考えてみてください。


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いじめ問題に思う

 いじめ問題がまたクローズアップされています。

 朝のワイドショーでいじめ問題を支援しているNPOの関係者がゲストに呼ばれて話していた内容です。

 「なぜ、いじめを学校がわは認めないのか?」

 「今のいじめ報告では、いじめがないことが前提の報告になっていて、それが学校の評価になる。正直にいじめの件数をあげ、その問題に真剣に取り組んでいるというプロセスや実績を評価したものになっていない」

 「いじめがあることを認めることは、その学校や校長の評価が下がってしまう。またいじめをだした担任教師は問題教師となり、指導研修の対象になってしまう。」

 「養護の先生なんかはいじめがあると思って対応していたのに、いざ親が訴訟をおこし証言台に立たされる立場になると、とたんに“いじめとは断言できない”と言い分がころっと変わるのです。」

 「訴訟を起こすと、おこした側が“いじめと自殺の因果関係を証言しなければならない”という。親は学校で何が起こっているかわからないのに、因果関係を被害者側が証言しなけれなならないという矛盾がある」


 教員といえども、所詮は組織人。聖職ということばは遠い昔のよう。結局文部科学省に追随し、教育委員会、学校長の顔色をうかがいながらでしか現場の教員は動けないのでしょう。

 「くさいものにふた」をしたがる管理職であれば、いくら一生懸命に取り組みたいと考える現場の教師たちも、かかわりの士気が下がってくるし、かといって一人で奮闘しても出る杭は打たれるで、結局みな保身に走ってしまうのです。教師だて月給をもらって生活している一生活者ですから・・。良心的な教員であればあるだけ自身の信念や理念と実際の現場の対応のギャップに悩むことかもしれません。

 いじめのある学校は、教員集団もチームワークがうまくとれていないか、管理職の事なかれ主義などにより現場の先生たちのストレスや不満も大きい学校のような気がしないでもありません。
 親の価値観もありますが(たいていは、人を蹴落としてでも学力を伸ばせ、人より抜きんでろとしつけられた子どもさんが自分より弱い立場の人間をターゲットにストレスを発散する場合が多いとか)・・・。

 その学校の管理職や教育委員会の上層部の人たちの価値観や考え方次第で、学校現場やその地域の教育行政の在り様は感じ取ることはできるでしょう。

 長男が小学校のころも、いじめ自殺の連鎖が世間を騒がし、当時の文部科学大臣が児童生徒一人ひとりにメッセージをだしたことがありました。

 当時の校長先生は、学校便りに連日いじめ問題をテーマに、今学校で起こっていることや学校の考えなどを保護者に情報提供をしていました。
 子どもたちにも、朝礼で「いじめはいじめられている本人がいじめだと感じたら、それはいじめだ。いじめは絶対許さない。この学校の全ての先生全員が相談にのるから安心して何でも相談しなさい」と話しているということや、実際のいじめの実態についても隠すことなく報告してくださいました。

 そういう学校側の意識や覚悟があるかないかということが、子どもたちにも保護者にも大きく影響すると思います。

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教員の不思議

 私は、教師と接していて、この人は世間というものが、まるでわかっていないのではないかと感じることがある。
 私には身分が安泰の教師が、社会の荒波を乗り越えていかなければならない生徒を育てられるとはとても思えない。
 働こうと真剣に動いているのもかかわらず、学校を出ても働けない生徒が珍しくない。
 教師なら少なくてもそうした厳しい現実と鋭い痛みに対するイマジネーションを持てなければならない。
 保障の世界にどっぷり浸かっている教師に何ができるのか。
 民間の教師がよく、公務員の教師が悪いと一概には言えない。
 最大の問題は実感としてこの教師は、子どもを預けたくない、この人には子どもの教師であってほしくないと思っても、当人がその立場と仕事に一生留まれることだろう。
 (和田 創さんのブログ)


 教師や公務員などへの世間が思う評価を言いえているブログかなあと思います。
 教師集団って本当に狭いし、一般の世間的常識を知らない人もいる。

 発達障害児学習塾を経営していた先生がかつて、絵本や教育関係の出版社に勤めていた時、よく教員の集会に教材の営業も兼ねて伺うことが多かったそうです。
 そのときに、たいていの先生が教材のサンプルを眺めて、欲しいものがあると購入するかといえば、「ただでくれるんじゃないの?」と言ってみなさんそっぽを向かれるのだそうです。
 「教員というのは教育メーカーからサンプルをいただける世界にいるから、何でもただでもらえると錯覚しているんじゃないんでしょうかね。」と嘆いていたことを思い出します。


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発達障害の指導をめぐって

 長男に週2回勉強を教えに来てくれる家庭教師の学生さんは、大学で看護学科出身で、今養護教諭を目指して勉強中の女子学生さんです。これまで何人か学生さんの家庭教師を頼み前の学生さんからの引き継ぎで彼女が3人目なのですが、いつも最初にわが子の特性を説明し、子どもの理解度に合わせてもらうように頼んでいます。
 受験を目的としたものでもなく、中学校の学習進度についていけるようにというものでもなく、あくまでも長男の分からないところから戻ってじっくり1時間だけでも机に向かって学習するということを目的にしているのでした。
 そういう意味では、看護学科出身で養護教諭を目指しているという彼女の志望進路や、彼女自身が醸し出す性格が長男の特性が合うのか、「○○さんの教え方はわかりやすい」と言って、プロの家庭教師にでも頼んだらとも思ったのでしたが、それを拒否して3年間ずっと来てくれています。
 彼女にとってもいきた発達障害児が目の前にいるわけで、実際にかかわるときの参考になってくれればいいなあと思います。
 
 この夏休みが終わると、学校での養護教諭の実習がはじまります。
 いわゆる「保健室の先生」としての役割のほかに、不登校や保健室登校などのお子さんにも今後対処していかなければならないかもしれません。

 大学では看護の専門分野の学習が終わり、「発達障害」や「不登校」「障害児教育」等の分野もを学んでいるといいます。
 「障害児教育」の担当教官は私も知っている○○教授だそうで、その教授はLD親の会の顧問もしています。私も以前その会に所属していたので、その教授の話を聞いたことがあります。

 その教授はさかんに「不登校になる子は発達障害児なんだ。」「発達障害児には必ず検査をして、プログラムをたてるべき」という主張をしている方であり、大学の講義でも同じような見解を語っていたそうです。

 教授の「こうあるべき」という主義主張の強さに、「この先生も自分の主張が正しいと信じ込んでいて、もしかしたらそういう(発達障害の傾向がある先生なのかな」と彼女は思ったそうですが・・・。


 大学で発達障害や不登校のことなども学んでいるということですが、大学の先生たちってけっこう「個性が強い人が多い」「自分の持論を展開し、“こうあるべき”といういい方をする傾向がある」と彼女は講義を聞いていて感じるところがあったそうです。

 発達障害や不登校の子どもさんとじかに接したこともなく、机上の学習や大学の講義(それも自論の展開の強すぎる教官からの)だけで、さも発達障害はこうだ、とか不登校はこうだ、などと簡単に学生も定義づけしてしまうう危惧を感じてしまいました。

 どこの大学の、どの教官に教わるかで、その後の学生の発達観や障害観も変わってくると思います。
 
 仕事柄知っている大学の先生もいますが、あるいは個人的に各種の講演会に参加して、大学の先生たちの話を聴いたりする中で、中には自分の研究テーマの主張するところをさも正しいとばかりアピールする方もいます。
 
 その大学で受けてきた講義の内容をうのみにして、社会に出てその道に進んだ時に「それがさも正しい」かのように思われて実践されても困る時があります。

 発達障害の指導をめぐっても賛否両論が言われています。
 いわゆるきちんと診断し、検査してそこから得られたデータをもとに個別支援教育プログラムを立てて指導すべきという論破と、障害名や検査にこだわらず、子ども理解は日々のかかわりの中で感じ観察し、教師として当たり前に指導すべきことを行い、関係性の改善を図っていくという論破。

 だから学校側・教員側がどういうスタンスで子どもをみるかという視点が大切なのですが、全ての子どもに検査をしてプログラム通りに進めなければならないという主張に反論者もいることも確か。あまりにもそういう主義主張を周囲にも強制するあまりに、その教授の支持者が教育の現場の先生たちの中では少ないのも実際です。
 それを「○○市は自分を講演に呼ぼうとしない。ぼくの主張には耳を傾けるなと言っている教育委員会がある」と自分を被害者たらしめて親の会で愚痴をこぼしているのでした。
 

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障害名などなくても・・・・

 発達障害の勉強をいくらしても、ふだんの授業に行かせない教師がいる一方で、そんなに勉強などしなくても一人ひとりを尊重して授業できる教師もいます。障害名など関係ない
 わかっている人はずっと前からわかっているし、分からない人はどんなに勉強してもわかりません。
 授業がやりやすいよう、落ち着きがなく学習障害の子は排除したいと教師が思えばそれまでです。

 そもそも障害名などなくても、子どもを教育するプロであれば、子どもたちの様子に気づき、特別な配慮を誰に教わらなくてもするものです。
 そういう子どもを配慮できる教師とできない教師がいる。
 理解して受け入れられる親と受け入れられない親がいる。
 その割合は今も昔もそんなに変わっていない。
 
 だから、どんなに診断名がついても、勉強会をしても、理解されないで苦しんでいる子は減りません。
 別に診断がなくたって、配慮も理解もあって当たり前なのに、いつのまにか診断名がまるで印篭であるかのようなことになってしまっています。

 親たちは自分の力で子どもを育てられないから、社会に投げて支援してくれと訴えた。
 その結果、健診で引っ掛かるような子どもだけが増えた。
 現場の教師は、診断が出たというだけで手に負えないという。支援学級に行ってくれという。
 これが今の支援の実際。
 親がわが子と向き合う力量を鍛えることなく、講演会に行けば子どものことを本当に分かるか。支援があればそれに頼る。自分で考えなくなってしまう。

 診断をつけるだけつけて、学校の支援学級の人数がふくれあがるという異常事態をおかしいと思わないのだろうか。
 それまで普通学級でそれなりにやれていた子どもたちまでが、特別支援学級に入れられたがっている。
障害を大事に扱ってくれる教師なら、その人はすべての子どもに気を配ることができる人なのです。
 アスペルガーですといったところで、空気が読めないことぐらいで、他人を排除するような人は、障害名があろうが無かろうが、平気で他人を排除します。
 人間的に温かい人は、障害名がなくても困ったことがあったら助けてあげるよと言ってくれるでしょう。
 人間、組織に合うか合わないかとか、自分にとって有益かどうかという視点でしか見れない人たちには、どんな障害も同じこと。
 むしろ、障害名や病名をつけないと、配慮できない人間が増えている。
 
 病気や障害でどんなに配慮してもらっても、それは配慮であって、同じ人間として認めたわけじゃないことが、いつかわかる時がくる。
 必要なのは、配慮ではなくて、どんな個性でも普通に生きていけることじゃないか。
 障害名は自分の安心材料にはなるけど、一生を保障してくれるものではないのだから。
 それよりも、自分の特質を知ってどう生きていくかを学ぶことこそ、障害の名前を知るより大事なこと。
 自分が感じることには自分しかわからない。
 どんなに有名な医者にも、自分の感覚はわかってもらえない。

 障害について学ぶことは。自分の中にある「普通」を、「当たり前」を疑うことです。
 知識で子どもをとらえるのではなく、親の感性、感覚で子どもをとらえる。
 知識だけを学び、相変わらず「世間の常識が私の常識」「子どもはこうあるべき」という考え方を持ったままでいると、いつまでたっても子どもを理解できない。
 子どもの人間性や成長を疑っている人ほど、必死で障害について勉強される。
 このままでちゃんとした人間になってくれるだろうかと思うから、どんなにおかしな知識でも信じてしまう。
 大丈夫、ちゃんと育つよと思っていれば、知識をチョイズして子どもにふさわしい環境をあたえられるはず。
 知識優先、訓練重視で発達障害をみようとすることに、どれだけ常識、当たり前をかぶせて世の中を見ているか、どれだけ自分自身を人に合わせて生きようとしているか。
 (くーひなさんのブログより)
 


 「みんなと同じことができない」「人よりちょっと変わっている」という子どもたちは、発達障害というレッテル貼りや「診断」をつけて区別されることが多くなりました。少子化の時代にあって、今や学校は「特別支援教育」の名のもとに支援学級の乱立です。
 その傾向はなにも子どもたちをとりまく場面だけではありません。大人社会でも「個性的な人」は普通人の範疇でとらえられるのではなく、「自分たちとは違う異質な人」となり、障害名などついていなかった個性的な人たちは、「広汎性発達障害」だとか、「アスペルガー」だとか「高機能自閉症」だとか、(これらの診断名もいずれ“自閉症スペクトラム”に統合されそうとしていますが)いろいろと区別され、それがひいては「排除」につながる結果ともなっています。
 大人社会でも、そういう人たちへの配慮もないままにいじめのような扱いをうけることもある。

 しかし、障害名などにこだわらず、また個性を特性として認めてあげられる人は、最初からそういう視点ではみません。ひとりひとり違う個性を持ち合わせる人として、配慮が必要だったらさりげなく配慮した行動をとっくに取っています。
 長男の小学校5・6年の担任だった先生は、そういう先生でした。障害名や発達障害があるという前に、子どもを先生なりによく観察し、ひごろの学校生活の中での行動や会話などから息子の特性をつかみ、それに応じた関わりをしてくださいました。
 そういう教師であれば、子どもだって「この先生ぼくのことを分かってくれる」となるし信頼もうまれるでしょう。発達障害だから特別扱いということでもなく、クラスの一員として当たり前の(配慮も含め)態度で接してくれた先生だったと思います。
  
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保身に走る行政

 大津市の中学2年生の生徒の自殺をめぐっての報道がマスメディアで取り上げられています。

 「いじめとの因果関係は不明」との調査結果の結論をだした教育委員会。あれほどの生徒たちからの聞き取り調査の結果の記述がたくさんあったのにもかかわらず、それがいじめと認められないというのです。

 いつの時代も同じことの繰り返し。何年かごとに、大々的にニュースで取り上げられるたびに、また文科省まで登場するはめになり、「いじめをなくそう」キャンペーンが繰り広げられることになる。

 役所や教育委員会というところは、損害賠償請求をされないようにと保身に走ります。最初から非を認めないようにといわれているようです(顧問弁護士がついているから)。まずはその弁護士のシナリオどおりに進んでいくことになるのでしょう。だって、賠償金も市民の税金ですから・・・。

 しかし、今回この大津市の市長になった方は最年少市長としても名が知れ渡り、なおかつ市長ご本人も小学校3年生と高校生の頃にいじめにあった当事者だとテレビのニュースでインタビューに答えていました。
 生徒が自殺したのが昨年の10月で、市長に当選したのが今年の1月。その時の公約が「いじめのない社会」。生徒の親が損害賠償請求をしたのが2月。
 最初は事の成り行きを裁判で明らかにしたいとお考えのようでしたが、次第に考えが変わり、「もう少し早く何らかの手立てをする必要があった」といって、再度外部有識者も交えて事実関係を明らかにするという決意を表明していました。
 いじめられた当事者としての経験もあり、行政の長として訴えられている立場でもあり、はたしてこの市長がどういう判断をくだすのか気になるところです。

 
 私が以前関わらせていただいた障害者の男性がおりますが、彼は中学3年生のときに校内マラソンで路上を走っている際に交通事故に遭い、脳挫傷となりその後約9年間寝たきりの生活を送りました。
 ご両親は、学校側を相手に損害賠償請求をしました。請求をしたということは、学校側にも落ち度があったと両親が判断したからかもしれません。
 地方の山村部の中学校ですから、当然村中に知れ渡っていたことでしょう。中には損害賠償請求をしたことへの批判的な考えの保護者や学校関係者、役場の職員たちが多いなかで、裁判が結審するまでの期間、ご両親はスーパーに買い物にいくのも、人目を忍んで夜遅く行ったりしていたそうです。
 そのころがそうとう精神的にきつかったと、後々お母さまは話されたことがあります。損害賠償をおこす側の保護者も、その地域の人からは同情の視線と「何もそこまで・・」という冷たい視線を投げかけられるのです。

 
 またある市では予防接種の副作用で障害をおってしまった娘さんがいました。そのお母さんは、「行政が予防接種を推進しておきながら、いざ接種して副作用がおきると、とたんに『それはお母さんが接種に同意したでしょう』となり、親にその責任があるかのような発言をしてくる」と気持ちのやり場がなく、いろんな関係機関へ相談していました。子どもさんはアナフィラキシーショックで一時は生死の境をさまよいました。
 行政は予防接種を積極的に推奨しながら、いざそういう事故がおきると、予防接種と事故の因果関係はないかのようにあしらわれてしまうのが実際です。そもそも接種後の事故はおきないとの前提だから、予防接種による被害者救済のための予算もとっていないから賠償金を要求されても困るからです。そしてなにかにつけて『因果関係はない』という結論にもっていこうとするのです。
 たしかに、予防接種による後遺症か、はたまた子ども本人の体質によるものかの証明は難しこともありますが、こういうことがおきると、なんでも行政の言いなりではなく、親自身の判断がしっかり問われてくる場合もあることを私たちは知っておかなければなりません。

 お母さんは著名な小児科医にも相談しましたが、予防接種被害に詳しいその医者は「裁判になると厳しい。たいていは負けることが多い。」とアドバイスしました。
 また何度も市の窓口に訴えましたが、剣もほろろに突き返されていたようです。しかし、最期の切り札として遠縁の親戚筋に(その当時の)県の医師会長がいるということを伝えると、今度は手のひらを返したように応接室へ通され、偉い上司が対応したということです。「本当はこういう手段はあまり使いたくなかったんだけど・・」とお母さんは言っておられましたが・・。(行政なんてしょせんそんなもんです)
 最終的には30万円で示談が成立したと、新聞には掲載されていました。
 
 
 とにかく、役所だけでなく、病院での医療ミスもしかり、大企業の不始末でもしかりで、身内をかばい、隠蔽に走る。
 確率は少なくても、実際にそういう事件や事故にいつ遭遇しないとも限らない。ましてやそれが何千分の一の確率でわが子に降りかかった場合ということも考えると、本当に役所や教育委員会の言うとおりにしていていいのかと・・

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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