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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

合格発表

 公立高校の合格発表のシーンをテレビのニュースで流していた。どのテレビ局も県下一の進学校の合格発表場面を取材していた。
 進学校だけあって、生徒は夜中まで受験勉強に励んだことや親も一緒に闘ってきたことなど、合格者の感想を喜びいっぱいに語っていた。
 どうしてこういうシーンはいつも進学校ばかりを取材するのだろうかと不思議に思えてならない。
 子どもの成功(進学校=頭がいい・学力が高い)は親の成功(立派な子育てをした)と言う構図につながるから、親も子どもを通して認められたと思う。
 この(放映された)学校に入った親の子どもが不登校だったり、子ども自身もやっとの思いで合格して入学したのに不登校になってしまい戸惑っている親たちが不登校の親の会に入っている。
 
 地方では都会のの事情とは違い、私立高校は公立高校が落ちた人が滑り止め受験で入る人か、最初から公立高に入れる学力が足りずに専願で入るところと相場は決まっている。
 だからたいていは高校のランクで偏差値もわかってしまうのだが、何よりもステイタスを狙いたい親たちはとにかく、子どもを進学校へ送りたい一身で早期から塾通いをさせる。
 職場でも学力の高い子どもを持つ親は、誰が聞いたわけでもないのに高校名を頻発させてわが子の話をしたがるし、今回の受験でも二人の受験生を持つ親は県下1・2の進学校合格に興奮冷めやらずだ。
 同様たちに合格したことをわざわざメールで教えるくらい鼻が高いのだろう。
 一人の親は子どもが多く、中には発達障がいの子もいるようだが、勉強が嫌いな子ども、学力が低い子どもでもそれなりに親としては皆平等に可愛いのだが、
やはり職場で話題にしたがるのは、今回県下一の進学校に合格した3男のこと。唯一親の自慢の息子としてみんなにアピールしたいのだろう。周りから「すごいねえ」と賞賛され、本人も優越感に浸れるし・・。
 わが職場はまだまだ学歴信仰者が多いから・・。不登校なんていうのは「子どもがおかしい」と本音の部分で感じている同僚は多い。自分の子どもはたまたまそういう子がいなかっただけ。
 
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内なる差別と偏見

 「内なる差別を見つめて」  朝日新聞の記事より(引用)

 6人きょうだいの中で、ある「障がい」を持って生まれた兄に、父は強い差別意識を見せて接しました。親が子に優劣をつけるという宿命的な感情を末っ子として見続けるなか、幼いなりの正義感から父を憎みました。
 一方、そんな自分の心にも、「兄がいなければ」という内なる差別が潜んでいたことも、確かな事実です。
  (名古屋外国語大学学長  亀山郁夫)


  「差別はいけないこと」だと理屈のうえでも体験的にも感じてきても、時によっては兄弟であっても、いや兄弟だからこそ差別意識を持ってしまうことはあると思います。
 誰の心にも多かれ少なかれ「差別や偏見」は持ち合わせているのです。「私は人を差別しません」などという人がいたらその人は偽善者です。 自分の中にある差別意識を見つめること。

  今、「福島原発いじめ」の話題がニュースをにぎわせています。子どもたちだけでなく、大人も避難先の地域や職場でいじめにあっているという実態があります。
 何か事件や大事にならないと、こういう話題は見えないものとしてかき消されてしまうのです。
 子どものいじめはその親の会話や偏見・差別意識がいじめる子どもたちへも浸透していることを意味しているものと思います。
 
 「弱者マウンティング」・・・・(たとえば)自分たちは毎日必死で働いても生活が厳しいのに、福島の親子は働かなくても賠償金をもらって悠々と暮らしている、といった周囲の見方。そんな考えに至る人たちだっているかもしれません。


 話は変わりますが、 昨今の健康ブームや病気予防のテーマでの講演会や研修会に参加すると、講師の医師や研究者たちはたいてい「福島産の野菜は放射能が高いから食べないほうがいい」「福島沖の魚には放射能に汚染されているから体に悪い」という発言をする人が多いのです。
 そういう話をする講師たちは、たしかに自分も健康には人一倍気を遣って食生活からしてもストイックな生活をしていますし、足りない栄養素を補うべく大量のサプリを食し、お金にはいとめもつけずに体にいい食材を追求している人たちです。
 でも、そういう話を一般庶民が聞くと、「福島の食べ物はあぶない」という情報だけが独り歩きし、「福島は放射能汚染がまだやまない」と思い込み、日ごろ家庭でそういう話が伝達されれば、子どもも次第にそんな感覚に陥ってしまうことを誰が否定できるでしょうか?
 福島産の野菜や魚を買ってくれる市場がなければ福島の生産者の生活も立ち行かなくなります。
 「福島県人への差別や偏見をなくそう」と掲げても、実際大人たちはそうやって不買運動をしたり(表立ってではないにしても、スーパーの店頭に福島産とそうでない品物が並んでいたら、自分はどちらを買っているかということです)しているではありませんか?
 それこそ「内なる差別や偏見」だといえませんか?
 だから、原発いじめの問題はそのいじめの当事者だけの問題ではないと思います。
 私たち一人ひとりの心の中に問われるべき問題だと思います。

 

他人への評価は自分への評価の裏返し

引用

●人の批評ばかりする人の心理
 ・批評家はlコンプレックスを抱えている。
 ・自己顕示欲からくる批判
  自分より下の人に対して偉そうにふるまうことで、自分は詳しいとかすごアピールをすると同時に、下を育てないことで、自分よりも上になる可能性をつぶし、自己顕示欲を満たし続けることができる。

  その心理は  ・自分に自信がない
           ・実は注目されたい
           ・自分の人生に不安がある
           ・自分の考えが正しいと思い込んでいる 
           ・親が厳しい
           ・承認欲求が強い  
           ・恐怖心が強い 
           ・ストレスを抱えている


●人の悪口(陰口)を言う人の心理
  ・プライドが高く、劣等感の強い人、勝気な人
  ・いつも自分と他人を比べている人
  ・いつも自分をよく見せたいと思っている(自分がその人より上位に立ったような気持ちが生じるから)
  ・自分が褒められたいため、他人を貶め、気分を代替
  ・仲間との絆の確認のため
  ・常に順位を意識して生きている(学歴・容姿・金持ち・貧乏・性格・恋愛・環境等で全てにおいて上下関係に敏感、そういうのに劣等感を感じる人)
  ・人一倍傷つくのが怖い
  ・他人に言う悪口、実は自分への悪口でもある⇒⇒ 人は自分の悪い面を認めたくないとき。他人にその悪い面を押し付けてしまうという心の働きがある。自分に強いコンプレックスを感じている人は、他人の短所にひどく反応する。
    
 攻撃のメカニズム 
 ・自分の身を守りたいから
  人間がある程度一貫した行動をとり、周りから普通の人だと思われるためには、心の中の要素が矛盾だらけでは困る。心の中がある程度一貫していないとだめだ。
  しかし、実際には人間の心の中にはお互いに矛盾する観念や欲望がいっぱい詰まっている。
  そこで人間は自分の一貫性の邪魔になる観念や欲望に対して、攻撃をしかける。
  自分が自分の内部の要素に攻撃をする。内部の葛藤は耐え難いので、攻撃対象を自分の外部に投影してそいつを攻撃するようになる。
  これが自分の外部に対する攻撃のメカニズムである。内部に矛盾を抱えていない人はいないのだから、人間は誰でも外部を攻撃する。
 自分が勝手に思い込んでいる規範で、他人を裁いている。

●人を見下す人の心理

 ・コンプレックスや精神不安から自分のプライドを維持するため
 ・嫉妬心があるから
   見下す人は他人の噂話が好きな傾向にある(人の悪い噂話を楽しそうに話す)
 ・優越感が快感になってしまう(他人をばかにすることで、ストレス発散)
 ・周りにちやほやされている(天狗になっている)
 ・自分の信じている選択肢以外は論外
   自分の信じてきた道を正当化しようとする心理
 ・なんでもできると思い込んでいる
   実際に実力で劣ってしまった時に、負け惜しみで人を見下す。口だけの人間のパターンが多い。
 ・自慢話ばかりする人ほど見下している  
   見栄をはりたいための噂話やネット情報の知識自慢が多い。


 こういう感情を支援者・専門職の方の中でもだいぶ持っている人は多いと思います。実際に前の職場にも、今の職場にも一定数はおります。ここにあげたような特徴を持つ人たちは、本当にみなさん共通しているんですね。障害者や弱者を見下し、馬鹿にし自分の仕事に自信があり、人から指示されることは嫌い、そのくせコンプレックスやストレスを多く抱えている人たち。
そういう人たちの支援で共通しているのは、「○○してあげる」「やってあげている」という言動や態度。そこに「させていただく」当事者から学ぶ思いなどはあまりありません。
 
 程度の差こそあれ、みなその個人の置かれてきた環境や背景は様々であり、そういう環境や背景があったからこそ、今自分はこの仕事に就いているのだともいえるのかもしれませんし、それが自分の人生の必然だったのかもしれません。
  
   

親の会

 以前学習障害児(LD)の親の会に参加していた時期がありました。
 初めてLD児の親の会に参加したときは長男が小学校の4年生のころでした。
 最初は保育園や幼稚園で悩みを理解してもらえる親や先生も(あの当時は)ほとんどいなかったこともあります。
 話をすると、「みな同じような悩みを経て今に至っているんだ」と同感や共感の言葉をいただき、自分だけが悩んでいるんじゃないって安心感をもらいました。
 たいていあとから参加するときは、すでに立ち上がっているところに入るので、最初に会を立ちあげた人の思いや立ち上げたきっかけをも聴くことになりますし、また古株の親たちのお子さんも高校生や社会人となっている例も多いです。
 そこに、幼児期・学齢期の子どもを持つ親たちも何かヒントを得たくて自分が参加したい親の会の情報を探して参加の門をたたきます。
 しかし・・・定例で開かれる会に参加するにつけ、初めて参加してきた人たちの何人かは徐々に足が遠のき次第にドロップアウト。退会しなければいつまでも幽霊会員のままでいるか、思い切ってその会と決別してしまう結果になります(私も)。

 何がそうさせるのか・・?親の会の主催者の意図や会の雰囲気と自分の求めていたものとのギャップ、対象となる子どもたちの障害の特性や年齢層の違いなどからくる話の共有性の問題などいろんな要因があげられます。
 そのLD児の会のほかにも、地域にはアスペルガー児の会、ADHD児の会、自閉症児の会、知的障害者の会など障害名を細分化したような大小さまざまな親の会がありました。
 そこでは単に親の愚痴や悩みを言い合うだけの会もあれば、行政等にも提言するために組織固めをしようとしたり、全国組織の支部的役割を担っているところなどとさまざまです。
 
 私が参加したLDの会の会長さんは知的障害を持つお子さんで当時は養護学校から作業所(就労支援事業所)に通所させている方でした。学習障害といっても狭義の読み書き計算が苦手な子どもさんではなく知的障害をベースにしているので、本来定義されているLDの会というものでもなく、当時の障害名のトピックになっていたのが、LDやADHDという言葉でした。(障害名はそのブームとともに変わりうるものです)その当時立ち上げた親御さんたちも何人か参加していました。
 だからLDの会とはいうものの、ほとんどのお子さんは知的障害や発達障害児(ADHDや自閉症酢ペクトラム、アスペルガーなど)の子どもさんでした。

 確かに先輩親子の現状を聞くことは、まだその年齢に達していないお子さんの親たちにとっては、学校とのやり取りや進路などの情報については一つの参考にはなるかもしれません。
 しかし、会に参加するにつれて、次第に自分が今悩んでいる内容と会のあり方へのギャップも次第に大きくなっていくものです。 特に全国組織の支部的な位置づけのある会だと、中央からのノルマに応えなければならなかったり(会の運営に対する上納金の納入や各種研修会への動員要請など)、何事も会長の一存で事が進んでいくことへ私は疑問を持ち始めたのでした。
 定例会に参加するたびに、誰が決めたのか、「来月は○○先生を呼んで講演会をするから、スタッフとしてみなさん役割分担して」とすでに話が決まっていたり、季節の行事が前からしているところだと、それを当然のごとく新しく入った人も参加することが前提で行事の担当を決めさせられたり。・・・。
 新たに参加した人にとっては、何も意見も言えず(言えばこれまでの会の運営を否定されたように思われても困るので言い方も気をつけなければいけないが)、前向きな意見を言うことも許されない雰囲気。最初からいる会員のほうの意見が優先されるような・・・。そして後から参加した人たちは何となく肩身を狭くしながら関わることになるから、次第に新規参入しても会員が増えず昔からの会員だけが今も残り、子どもの年齢も悩みの種類も変化しているにも関わらず、相変わらず「LD児親の会」という名称のままに団体登録していることになっていくのです。

  不登校親の会についても同じです。
  私は二つの親の会に参加していました。(一つは今も継続中です)
  最初の親の会も、あるNPO団体の不登校支援に子どもの相談をした当事者だった親が、自分の体験通して親の居場所作りの必要性からそのNPO団体の建物の一角を借りて主宰しています。主宰して十数年になります。
  その会長さんのお子さんも当時は中学生・高校生のころで現在は20代後半・30代になっています。
  初めて参加の方(大部分は中学生や高校生を持つ親が多い)に対しては、自分の体験談を延々独り舞台のようにしゃべります。最初のころは先輩親の話をみなうんうんとうなずいて聞いていますが、毎回新しい人が参加するたびに同じ話を聞かされるので「またか」という気分になります。自分たちの発言や気持ちを吐露する時間も少なくなり、結局会長さんの話を聞きにきたような消化不良な気持ちになったこともあります。
  彼女のお子さん(二人とも)はは学校復帰はできませんでしたが、その後も精神症状のほうがメインになり精神科受診を通してむしろそっちの方面の支援を受けたり、引きこもったり体調に左右されやすいようです。
  自分の体験(私はこういう子をもったことでこんなに勉強したとか、こういう子達はこういうふうに対応すればいいんだという持論)を聞かせたい意図がありありで、彼女がしゃべると話が長くなります。
   その会でも当事者を呼んだり、自分たちが聞きたい講師を呼び勉強会をしたりで、それはそれで情報として参考にもなったし、わが子の将来像もある程度推測するヒントにもなったことは確かですが、やはり、その会もだんだん自分の求めているものとのギャップから行かなくなりました。
  もともとそのNPO自体の理念や運営の仕方にあまり賛同しかねていたこともありますが、何よりも会長さんの「私はわが子をとおしてこんなに勉強してきたんだ。こんな私を認めて欲しい」オーラがバンバンに伝わってきたから。
 
 しかし、会長さんのお子さんは誤解を恐れずに言えば、社会参加はできていません。新しく入ってくる親たちは何とかして(あわよくば)学校復帰へのノウハウを教えてもらいたいだったり、不登校の子の将来が心配だから、学校に行かなくても生きていける道を探してあげたいという思いでヒントをもらいたくて参加する人たちです。最初は誰しもそんな心境でしょう。
 でも、会長さんが話すことは、「私なんかここまでくるのに10年もかかったのよ。ゆっくりでいいのよ。まずは子どもの気持ちを組み込むことよ」と。もちろん、どちらの考え方や言い分も間違いではないのでしょうが、新たに参加した人にとってはその言葉を聞いて、「ええっ!そんなにかかるの?社会にも出れないんだろうか・・・」という新たな不安を呼び起こしてしまう・・・・。
 会長自身、こんなに子どもたちのためにがんばってきたのに、子どもは相変わらず引きこもっている現実。子ども二人とも社会になじめず精神科のお世話になっているという地域での世間からの評価などに対する複雑な思いなど、本音の部分では語りにくい心境もあるんじゃないだろうかと慮ることはできます。

 だから会長自身にとっては、「自分の居場所」としてこの親の会をいまだに「会長」という立場で運営主宰しているのではないか。
 会を運営していればいろんな意見もあったり、NPO団体との中での課題もあるようです。
 会長は「わたしだってやりたくて会長になったんじゃな。もう(10年以上)やっていると、誰か私の後を引き受けてくれる人はいないかって思うけど誰も引き受けてくれないから仕方なしに(会長を)やっている。」「姑も認知症になり介護でくたくた。こっち(親の会)のほうまで手が回らない。私が休むと会も休会になってしまう」と私にぼやいたことがあります。
 私は「そんなにやめたいならほかの人に会長を譲ればいいじゃないですか」と返したら、「でも、誰か替わりに定例会をやってっていっても誰も手をあげないのよ。だから仕方なく続けているのよ」と。
 (そのときは私が会長の悩みや愚痴の聞き役になったことがありました。会長から突然メールがきて、「最近お会いていませんね。何か悩みがあったら個人的にお話しましょう」と誘われるので、何回かに1回は外で会ったこともありましたが、いつも私の話を聞くよりも自分の話をずーっとするので、私が呼ばれるときは自分のストレス発散の意味あいが大きいのだろうなあと思いました)
 本当は自分自身が一番その会長という役割を捨てたくない。そしてそのことは会のみんなも感じているからあえてでしゃばったことができないんじゃないかと思ってしまいます。
 
 少なくても私が参加した親の会の会長さんの実情です。
 みんな会を立ち上げた当初は仲間意識を求め合ったり、居場所作りに一生懸命取り組もうとするのですが、参加する方もそれに参加する目的や子どもの対象年齢もさまざまであり、それを会としてまとめ、存続させるための工夫やエネルギーも大きいと思うし、会長の負担も確かに大きいものもあるかと思います。
 しかし、それぞれの立場の親の思いをどう汲み取り、いろんな意見や要望があっても、立ち上げた人の感覚や意見が優先され、結局は会長自身も「自分の居場所」として会長という役割を譲りたくなくなり、過去の体験談を新しい人にもお話しすることで、自分の存在価値を認められたいのじゃないかと思ったりしてしまいます。
 また、何よりもテーマの情報は会長のところに集まってきますから、またほかの団体の人たちとも人脈をつくれるし、それもこういう会を主宰している人たちのよりどころになっているのだろうと思います。


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自分と向き合う

 ある日の新聞に柳田邦男さんの人生観について書かれた記事がありました。
 私は柳田邦男さんがノンフィクション作家という程度しか関心がなかったのですが、次男の自死と妻の精神の病に苦しみもがいた体験をお持ちの方だったということを正直新聞記事で初めて知りました。

 氏の死生観についていろいろ考えさせられるところが大きい内容です。
(引用)
 対人恐怖などに苦しみ自宅にこもっていた25歳の次男が、自室のベッドで自死を図ったのは1993年の夏。
  感情の起伏が激しく、抑うつを抱えて入退院を繰り返していた妻の人格が、愛息の死を受け止めきれず破綻の危機に追い込まれた。台所から刃物を持ち出し、首をつるなど問題行動が続発。柳田さんも心労で心身の平衡を失い「妻にも息子にも申し訳ない気持ちでいっぱい。無力感と事跡の念が胸をふさぎ、死んで誤りたいと思った」と打ち明ける。
 
氏は後の著書『悲しみは真の人生の始まり』の中で、「内の地獄を書け」という次男からの言葉に対して、
 「一番厳しい問いでしたね。一番書けない、あるいは書きにくいところです。・・・家族の遍歴というのは何かといえば、私自身の内面に関わる問題、あるいは自分がたどってきた生き方の問題だと思うのです。だから『うちの地獄を書く』ということは、深いところで、自分自身と向き合い、対決していかなければ書けないことです。そこを見つめずに家族を対象化して、観察の対象、科学研究の対象のように、家族の悲劇やつらさを書いても結局、本当のことは書いたことにならない。自分と家族を断ち切って眺めているだけになってしまう。自分に絶えず問いかけ、我が身の問題として、自分の心の問題として、自分と向き合いながら表現活動をして生きていく、それが『地獄を書く』ということなんだろうなあと思いました。」と言っています。

  不条理を生きていく道を探す

 (本文より)
 「人間にはもともといろんな苦しみがあり、それにつきまとわれない人生があったら、それは例外だと思います。つらいこと、苦しいこと、大変なこと、孤独を感じること、それらがなかったら、むしろそっちのほうが、アブノーマルじゃないかとさえ思います。
 世の中を見ると立派な家屋やマンションに、家族が幸せそうに暮らしているように見えますが、屋根の下の現実派、すべてがうまくいっている家族は、おそらくいないんじゃないかな。みんないろんな問題や悩みを抱えている。子どもが問題を抱えていたり、親が問題を抱えていたり。病気、障害、心の問題、経済的困窮、子どもの引きこもり、家族の不和、財産争い、実に多様です。
 人生のデコボコ、あるいはハリネズミに刺されるような状況は、人間が生きていく過程では避けられないことだと思います。
 生きるというのは、それらを受け入れながら自分を見つめ、自分自身がよりよく生きていく道を探すよりほかはないでしょう。その探すということは、おそらくつらいことでしょう。自分で自分の道を見つける。これくらい大変で、しかもつらいことはない。そのつらさを引き受ける。それこそが人生だと思うんですね。」

  癒しとは、胸をかきむしらんばかりの
  苦しみ、悲しみを抱え、
  そこから逃げずに必死に生きようとする
  その人生そのもののこと
  それが癒しの本質です
  (幼子を亡くした母親の言葉より)

市会議員に期待したのに

 地域で子ども育成会で一緒に活動した町内のあるお父さんが市会議員に立候補しました。
 地域で交流しているときは相手の職業などは聞くこともなかったのですが、立候補の挨拶でその方が教員だとわかりました。
 その当時、次男が不登校であるフリースペースに通っていたとき、その居場所の代表にも挨拶にみえ、今の学校の問題をいろいろ訴え、「自分はそんな教育現場を変えたい。不登校や発達障害などさまざまな課題を抱える子どもたちも地域でどうどうと生きてける子どもたちに暖かい地域福祉を作りたい」と熱弁していきました。
 町内のかたでもあり、まんざら知らない人でもなく、また教育畑の人材が市会議員になれば現場からの意見としていろいろ革新にせまった意見を議会で発してもらえるのではないかと期待し、夫と彼の後援会に入ることにしました。
 初めて決起集会、個人演説会などに参加してみました。初めての選挙に勝てるという確信もない中での出馬とあって、不退転の決意で望んでいるその姿にかなり期待もしていました。
 結果はかろうじて当選圏内にはいり、市会議員1年目としてのスタートを切ったわけです。
 2年目を迎えた今、この1年を振り返ったとき、教育に関する議会でも質問は今のところぜんぜんありません。
 議員1年目は何かと圧力もあるのか、あまり言わせてもらえないのか、勉強不足かはわかりませんが、定期的に開催される「議会報告会」や、支援者に配る「報告書」などを読むと、およそ教育とはまったく関係のないところでの活動や質問をしているよう。
 「学校改革」「教員の忙しさを改善し、子どもたちとのかかわりをもっともてるような方策」などについて何かひとつでも支援者に約束したような質問でもしてくれればと期待していたのに・・・。ちょっと期待はずれです。
 よく、「現場にいても何も変えられないから、議員になって制度を変えたい」とのたまう候補者が多いのですが、口先だけでは困ります。有限実行してもらいたいです。有権者の一人としては、そこのところを厳しく見ています。 
 

見る視点が違えば…

 地域包括支援センターで主任ケアマネジャーとして仕事をいていたときに「困難ケース」として話題にあがってきていた家族が今勤めている病院に入院していましたが、先日お亡くなりになりました。

 両親と息子さんの3人暮らし(娘さんは嫁いでいる)で、息子さんには何らかの発達障害があると見うけられていましたが、確定的な診断はついていませんでした。
 その母親が認知症になりこれまで家事をしていたのができなくなり、息子さんはそれで母親の認知症状を理解できず、食事をつくってくれない事に腹を立て殴ったりしてしまう・・。父親はギャンブル依存症でほとんど家族を顧みない。
 そういう家庭背景に対し、介護保険を利用し何らかのサービス導入に結び付けようとしたけれど、最初の導入につまづき、また息子さんに対する偏見(統合失調症だと勝手に決めつけ、あの息子は虐待者だと言わんばかりのスタッフの方策に、一度は警察に逮捕された経過もありました)を持つ担当者。
 地域にいても、民生委員や児童委員などもあまり深く関わろうとせず、近寄りがたく行政に「なんとかしてくれ」と支援を求めてくるようなありさま。
 結局母親は預けたショートステイ先で骨折し入院後はグループホームへ。父親は相変わらずギャンブルに依存。
 そんな父親も、肺がんを患い入院。息子さんは毎日のように父親の見舞いに訪れ、長時間ベッドサイドで過ごしていました。
 しかし、前回、母親の入院の際に関わった病棟の看護師たちはその息子さんに対しての印象はよくなく、「なんとなく替わった人」という認識でおり、父親の面会に来ている姿を見てもあまり話しかけることなく、遠巻きにその親子を観察しているような状況でした。
 その父親が先ごろお亡くなりになりました。新聞のお悔み欄には喪主は息子さんの名前が載っていました。

 広汎性の発達障害という感じの息子さん。精神科受診はしていなかったけれども、一応精神保健センターなど公的な機関にはかかっていたようですが、それでもこれまで支えてきてくれた母親が認知症になり、母親の病状に対する理解にも乏しいがために、結果的にいろんな面でイライラしたり、自分に降りかかる課題(家事をしなければいけない、母親の介護もしなければいけない、父親はあてにならない・・・など)をこなすのは、その思考の特性からも難しかったのではないかと推察されます。
  しかし、そういう息子さんの心情を慮ることなく、「統合失調症の息子だ」と安易にレッテルをはり、「親を殴った」と聞けば「虐待者」というレッテルを貼り、寄り添った関わりは持てなかったような気がします。担当する支援者の価値意識によって、そのような特性を持つ息子さんは逆にその生きにくさを理解してもらうことは難しいということを実感していました。
 母親は施設入所、それも重度の認知症となり、父親も亡くなった今、喪主を務めあげた後の、息子さんの一人暮らしの生活が気になります。

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自覚のない人たち

 障害者支援・発達障害関連のプロぐより、引用させていただきました。いつもこのような思いは私も感じているので・・・。

 
 「はいはい」と言われたとおりに動いてくれる障害者のことは他に問題があっても意外に可愛がられてしまう。
 逆に自己主張する障害者には厄介者扱いにしてしまう。
  
 簡単に言えば、自分自身が感情にコントロールされているのか、コントロールできているのかの違い。
 障害者、障害者っていうけど、それは縮図であって、本当はどの人間も結局のところ同じだと思う。
 感情がコントロールできていないから怒鳴る。
 感情に流されるから疲れる。
 加えて自分に逆らうからムカつく。
 自分の言うことを聞かないからイラつく。
 自分を否定されたと思うから怒る。
 
 あと、言うことを聞いてくれる障害者や自閉症の癒されキャラ的な障害者を可愛いとか、癒されるとか、思ってしまうのは、受け皿である僕らに直接害を及ぼさないことがわかっているから。

........................................................................................
 「私があの人とうまくいかないのは、あの人が発達障害だからだ」などと、その人の障害やあれこれを「人を嫌ってもいい理由」にしている人がたくさんいらっしゃるようです。
 「発達障害のこの部分がどうしても合わないんだよね」というならわかります。
 そしてまた「自分にもそういうところはあるけれど」とか、「自分も別の面で生き辛いんだよね」と自覚しているならわかります。
 でも、自分は正常で、自分は正しくて相手が「障害だから」「精神疾患だから」「ACだから」おかしくて困っているという話にすり替える人を見るとうんざりします。
 相手を理解し、自分を理解するための名称を、相手を傷つけてもいい理由にしている。
 だから、私は告知に反対なのです。
 だいたい、告知が好きな人ほど「相手を傷つけてもいい理由」に使っているからです。
 「あなたはこういうところがおかしいのよ。障害なのよ。わかりなさいよ。」と迫ってくる。
 「障害を持っているあなたが悪い。」「障害を自覚してなんとかしないあなたが悪い。」の理論に落とし込んできます。
 でも、自覚できていないのは、そういうことを言う人の方。
 自分が正常で自分は間違っていないと思っている人こそが、実は自覚できていないACであったり、自覚できていない人格障害であったりするのです。
 自覚できている人は、むやみにそういうことを言わないものです。


....................................................................................... 
 「あなたのためだから」をしてしまう人というのは「素晴らしい行為をするのだから、私自身の存在を評価してくれて当然だ」と思っています。
 だから行為を否定されると、自分自身を責められたように感じ、相手が自分の善意からの行為を「受け取れないのが悪い」と相手に責任を転嫁するのです。

 どんなに純粋で、子どもを思う気持ちはだれにも負けなくても、子どもにうまく伝わらなければ教師じゃないと思っています。それなら子どもの遊び相手でいい。
 自分の気持ちに振り回されて、子どもがどういう反応をしているのかも見ないで、「ただ私の気持ちはこうなのよ」と押しつけてくる。
 子どもがどんなにビビって、委縮して先生の口調が怖いと思っても、親がそう話しても「私は子どもが好きなんです」の一言で終わり。
 いや・・違うから・・って。
 気持ちを分かってほしいと思うのは子どもの心です。
 大人は自分の気持ちをわかってもらいたいのはさておき、状況を冷静に判断し、仕事として適切なふるまいができているかどうか、自分が相手とどう関わっていくかを研究するものです。

 支援者も同じですよね。ボランティアもそう。
 ボランティアの人が、当事者を傷つけるのは、悪意のないかわいらしい善意だったりするんです。
 無邪気で何にも考えていないから。「助けたいから」「役に立ちたいから」それ、本当?
 先日わたしが「おかまいなく」といったところ、「それは寂しいんじゃないですか」と言われました。
 自分と他人の境界線をちゃんと引き、自立している大人なら「おかまいなく」がよくわかるはず。
 余計なおせっかいは不要だし、おせっかいをわかってあげるほどひまじゃない。
 押しつけの善意を受け入れるほど、疲れることはないんです。
 子どもが親に「あなたのためを思って」と言われて、「はいはい」と親の言うことを聞いてくたびれているのと同じこと。
 

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パワーハラスメントな職場の実態

  新聞記事特集より(パワハラの実態を報告したシリーズ記事『追いつめられて』に反響)

 「極端な成果主義が人間関係を険悪にし、パワハラを引き起こしている」。首都圏の20代男性は、そう指摘する。ノルマ未達成の営業マンが「裸踊り」を命じられた。

  
 携帯電話の販売会社で営業をしている。半年ごとの販売実績が、ボーナスに影響する。2期続けて実績が悪ければ降格し、基本給も下がる。「同僚に協力しても、人間関係はギスギスし、足の引っ張り合いになる」
 課長は、部下の実績が評価に連動する。「オレの評価にかかわるんだぞ」と毎日怒鳴り、気に要らない部下には「客を外すぞ」とおどす。入社してまだ1年だが、男性は転職活動中だ。
「ピリピリした雰囲気で怒号がとびかう。がまんできない」


 食品加工工場で現場責任者として働いていた息子(当時41)は今年6月、勤務先で首をつって自殺した。「明るくて友達が多くて、自分で死ぬなんて考えられない子だったのに」
 同僚によると、上司から「お前に生きている価値を認めない」などと叱られていた。「怒りと悔しさで、無念極まりない」と男性は語る。

 

パワーハラスメントが横行する会社が増えつつある。
 社会のシステムと無関係ではない。
 成果主義や評価主義がはびこる職場の中にあって、人間関係をもギスギスしたものへと変貌していく。
 もし、発達障害を持つ人が、こういう職場環境にあったら、まっさきに首を切られたり、パワハラを受ける対象となるのであろうか。
  
 
 
 

山口の事件に思う

 山口県の限界集落で起きた殺人事件で、63歳の男性が逮捕されたニュースを新聞やテレビで盛んに放映しています。

 15歳で東京へ出て、左官職人としての腕を磨き仕事に一生懸命だったが、両親の介護のため故郷へ戻り、親が亡くなるまではなんとか地域にも受け入れられて暮らしていた男性。
 一人暮らしになってから行動がちょっと変わってきだし、何かと村の人たちとトラブルに・・・。
 
 しかし、以前にはある被害者の一人から酒の席で口論になり包丁で胸を刺されたことがあった。その時点では彼も「被害者」であったわけです。
 「地区の人となじめない。自分が孤立しているようだ」と一度は警察にも相談を持ちかけていました。
 なんとかして、都会から戻った自分を受け入れてもらいたいという思いから、警察に相談するほど地域の人たちとの交流にはかなり葛藤があったものと推測できます。

 確かに、残忍な手口で5人もの人を殺害した罪は問われなければなりません。しかし、この事件の背景にあるものは、この男性だけの問題にすべてを転嫁してしまってよしとするようなものではないような気がします。 
 「異質なものを排除」する空気や視線が地域の人たちの中にはなかったのかと感じてしまうのです。

 この男性はきっとこの地域では、「変わった人」という認識をもたれてしまったのかもしれません。
 しかし、中学までは特に人間関係のトラブルはないまま、また40代で戻って両親の介護をしていた頃も、そういう印象は持たれなかったわけで、その時点までは地域での受け入れもそれなりによかったのでしょう。
 親が亡くなり、一人暮らしになってからは、地域住民の目も親が生きていたころとは違う何かを男性自身が感じていたのか、地域住民との関係に悩み始め、精神的に追い詰められてしまったのでしょう。その頃から奇異な言動が目立ち住民ともトラブルになることが多くなっていったように推測するのです。
 そのことが彼に「変わり者」のレッテルを貼り、彼もまた地域の人に受け入れられていない事で自暴自棄的な言動に走り、結果的にああいう事件にまで発展してしまった・・・・。


 かつて加害者だった人が被害者となって殺されてしまいましたが、いじめ被害者を追いこんで最後まで加害者は被害者のふりをして自分たちの価値観を正当化する構図とどこか似ているということをブログに書いている人もいました。
 「あいつがああいう態度だから、(胸を)刺したんだ」と、きっと生きていればその被害者は自分を正当化してそういうのでしょうか。
 
 誤解を恐れずに言えば、この事件の背景にあるものを無視しては本質は見えないような気がします。
 ただ、単に「殺人者」としてこの男性を悪者扱いするだけでは何も変わらない・・・。

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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