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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

発達障害関連のブログを読んでの感想

 発達障害関連のブログの中ではよく障害特性を踏まえた対応をすることの必要性が書かれてあります。
 わが子の育ちに不安を持つ母親がいろいろとネットサーフィンして自分の腑に落ちるブログを見つけ、フォローしたりしています。
 親自身が悩んでカウンセリングを受けたり、またカウンセラーを養成するための研修を数日受けただけで「カウンセラー」と自称してメール相談等をしている人もいます。
 母親として学んだことや、親のかかわりの変化でわが子も変容した、そして悩んでいる人にこの経験を伝えたい、と親自身も自分の心のよりどころを求めたり、「発達障害」を熟知した親として認められたいという思いもあるんじゃないでしょうか?

 ある「家族支援カウンセラー」(親)のブログでは発達障害の特性を踏まえた関わりが大切といっており、わが子にもそのように接して子どもが変わったと言う内容が書かれていました。
 たいてい発達障害を勉強してくると、その特性を踏まえて対応するようになっていくので、子どもの方も落ち着いていきます。 

「発達障害」という言葉の持つマイナスのイメージではなく、「ST(スペシャルタレントの略)気質」というプラスのとらえ方をしようと提唱する人(専門家等)もいます。そういう子どもたちの行動や考え方はあくまで脳の思考の特性なので、それらを無視して健常者の脳の思考にあわせようとするから混乱がおきるのだと主張します。
 確かに正当な考え方であり、そういう特性を周りがもっと理解して関わってくれたらという思いは発達障害児の親なら誰しも望む所です。

 ある方のブログにこんなことが書いてありました。
 「ST気質の子どもたちの特性として“予期不安”があり、電話が苦手という子が多い。相手の表情が見えないからどんな反応が返ってくるか予測がつかないため。就職して体調が悪くて休みたいと思っても、電話でどうしゃべったらいいか迷っているうちに時間が経って無断欠勤扱いされ、仕事先とトラブルの原因になったりする。電話よりメールやラインなどを使うといいので、もっとそういう連絡手段でもよしとしてほしい。」という内容でした。
 親や子どもの立場からしたら、そういう考え方もありかもしれません。

 私の職場は病院ですので、将来の医療従事者を育てるために学生の実習を受け入れています。特にリハビリテーションの職場は実習期間も1~2ヶ月の長期にわたり、毎年5~6名の実習生がきます。
 実習生としてまず何を評価されるかといったら、スタッフや患者さんに対してきちんと挨拶ができるか、休みの連絡がきちんとできるかなど、社会人としての第一歩の態度です。
 実習指導者の中には(特に他人に厳しく、相手の課題を見つけるのが得意なスタッフ)、挨拶や連絡ができないというだけで、かなり手厳しい評価を下す指導者もいます。
 学生の中には偏差値教育では優秀な成績を修めても、社会人としてのコミュニケーションが苦手な人もいます。中には診断こそされていないけど、もしかしたら「発達障害」と思われる傾向の人もいます。
 ある学生は勤務時間になっても職場に来ないので、指導者の方から電話を入れたり、中には同じ学生同士でメールでやりとりしていて、同じ実習生から欠席の連絡を代わりに受けたなんていうことも。
 あらかじめ、発達障害などと診断でもついていれば、それなりの対処もしようがあるのかもしれませんが、そうじゃない、いわゆる「普通」と言われている学生もそういうタイプの人も何割かはいます。
 
「発達障害の特性を理解して配慮してほしい」といって職場に理解を求める必要があるのも、同じような特性を持つ子を育てている身としては理解できる部分も大きいです。
 しかし、大部分の人たちはあくまでも社会人としての責任と自覚ある行動を取れないのは困るという見方をします。
 特に、医療や介護業界ではなおさらです。
 
 息子と養護学校で同級生の子も、職場実習でお世話になった介護施設に障害者枠で就職しましたが、実習ではやさしかった上司も実際職員という立場で勤務した途端、彼女の指導を担うスタッフからの手厳しい評価に二次障害をおこしました。
 ジョブコーチや親や養護学校の先生達が同席した彼女の処遇会議で、散々叩かれたことを後日親御さんが話してくれました。アスペルガーの特性があるのですが、その特性はあらかじめジョブコーチや学校からも申し送りされているのもかかわらず、現場ではそんなことよりも社会人としてなっていないと散々言われたそうです。また、母親はどんな育て方をしたのだと、皆のいる前で批判されたそうです。
 彼女の母親は指導者である上司の不満を私たちに愚痴っていましたが、その上司という方は、社会福祉士でもあり、以前仕事を通じて私も何度か関わりを持ったことのある方で、仕事を通して見ていた彼女はとてもそんな風に障害者に対して厳しいことを言う人にも見えなかったのでした。

 いくら障害者雇用枠で入職したとしても、医療介護業界はチームで仕事をしたり、患者(利用者)さんの安全管理も大きいがゆえ、連絡・相談・報告を怠ると大変なことにもなるからかもしれません。

 話は前に戻しますが、先にあげた「連絡手段を電話でなく、メールやラインでできるようにすればいいのに」と当事者や親は考えます。発達障害者が職場のルールに合わせるのではなく、職場が発達障害者の特性に合わせた対応をしろという考え方です。
 しかし、何事もメール等で連絡を取り合うデスクワーク中心の職場ならいざ知らず、大部分の職場は今もなお電話連絡が一般的です。
 「私はそういうことが、苦手なのでできません」というだけではなかなか理解を得るのは難しいような気がします。
 その点に関しても、ある障害者の就労支援事業所で働いている職員のブログにも似たような事が書いてある一文を見つけました。
 「職員としては発達障害と毎日向き合っているけど、中には自分の障害の部分にあぐらをかいているように感じることもある」「私はこういう人間なんだから配慮するのが当たり前と言わんばかりの態度を取られると違和感を感じる」と。
 
 主張だけしても、自分もある程度課題を克服していかねば、という姿勢や態度、自分の特性に向き合うなかでの気づきを持たないことには、障害者関連の施設で働く人ですらそんな感情を持っている人もいるというのに、一般的に発達障害者の特性をそんなに知らない人たちの中で働くのはもっと大変だろうと思います。
 
 自分の特性に合わないと思えば、無理してその仕事にしがみつくこともないと思いますが、私の職場のような資格がないと働けない職種だと、実習の段階からかなり苦労するようです。
 指導者の資質云々の前に、仕事というのはどうしても社会人としての常識を問われてしまうし、できなかったときには、親の育て方を問われてしまう。仮に彼らが資格を取って新入職員として勤めても、そこの職場でまた同じような問題にぶち当たるので、結果的に職場や上司とトラブルを起こして辞めていく結果になるようです。
 そうならないようにするためにも、実習の段階から、指導すべきを指導するのですが、この辺は実習生と指導者の相性や指導者にある程度発達障害を捉える視点があるか、それを踏まえた指導ができるかも必要な部分になります。
 残念ながら指導者の身近にそういう人がいなくてかかわった経験がないと、単に「変わったやつ」「常識を知らないやつ」という先入観でみられないとも限らないのです。
 私自身は発達障害の子どもを持つ親としての視点と、職業人としての視点、両面から考えてしまうので当事者も一般の社会の有り様に近づく努力は必要かなあとも感じています。



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自立させたいの?

先日久しぶりに養護学校卒業生の親子同窓会をしました。 
 それぞれ広汎性発達障害、アスペルがー、てんかんと知的障害を持つ子どもたち。それぞれの特性もあり子供同士で静かに盛り上がっていましたが、みんな何らかの障害を抱えているため、あまり会話も弾むことなく、それぞれが各々で楽しんでいましたね。
 
 親は親で最近の子どもたちの近況を伝えあいながら、新たな悩みも相談したり。
 それぞれの子どもたちは、障害者雇用での就労は1人であとの3人は就労支援事業所に。一人は専門学校に入ったけど休学中。
 話題は、「子どもの自立」について。
 「結婚なんて考えられない!」「うちの子は結婚なんかしない」
 「親が病気になったり死んだりしたら、何にもできないよ・・・」
 私:「家事とかさせていないの?(女の子の親に)」
 Aさん:「そんなのさせてない、させてない!だって仕事にいくだけで疲れて帰ってくるし。疲れているのにさせられない。あんたは仕事を一生懸命やってねって言っている」
 私:「日曜日とか仕事が休みの日にさせればいいんじゃない?」
 Aさん:「料理を作らせても手際が悪いから、私は作ったほうが早いし。それに台所がきたなくなるので手伝わせられないわ」
 私:「でもいつまでたっても覚えられないじゃない?」
 Aさん:「M子(娘)の面倒は弟に頼んでおかなくちゃ。だって家族だもん、”あんた面倒みなさいよ”って今のうちから教えておくんだ。弟は嫌がっているけどね。」

 また、いつもみんなが会う場所は大型ショッピングモールのフードコートになるのですが、その理由は一人の子どもがマックのハンバーガーしか食べられないからなんです。
 みんなで集まる場所となるとたいていはお店で外食でとなるのですが、本当に彼は食べられるものがほとんどないというのです。
 幼少期から家庭でも本当に数種類の食材しか口に入れなかったとのこと。
 だからお金を出してお店を予約してもほとんど食べられないので、彼が唯一外食で食べられる店を選ぶと、マックのテナントが入っているフードコートになってしまうのでした。
 
 確かに味覚にこだわりがあるとはいえ、20年近くもすっと同じ食材のものしか食べないということでは栄養面の偏りなども気になるところです。レパートリーを増やす工夫は当然親のほうもしてきたのかも知れませんが、なかなか食べられるものは限られています。
 当然、そのほかのこだわりも強く、ちょっとしたことでキレる行為は今もあるようです。
 お母さんも彼の言動に振り回され、子どもに気を遣っています。
 
 この子はこういう(特性のある)子だから、何をして(言っても)もだめなんだ。
 今子どもに新しい課題を提示して無理をさせたくない、そんなことをしたらとたんにキレて暴れたり、暴言を吐いたりするんだから、親も子どもが落ち着いていてくれたほうが安心。
 親が元気なうちはこっちで何でも面倒を見たい(見なければと思っている)。

 自立はしてほしいけど、具体的な手続きは踏みたくない。
 発達障害だから。こういう子(こだわり、いやなことはしない・・・)だから無理。
 最初からあきらめていたり、冒険させないように親のほうでブレーキをかけてしまっている。

 そういう特性のない子は自然に身につく(あるいは真似して覚える)ことができますが、こういう特性のある子だからこそ、いろんな経験の蓄積も必要なんじゃないかなあという気もします。
 
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異才発掘プロジェクトから彼らは何を学ぶのか

 東京大学異才発掘プロジェクトで参加している子どもたちに中村教授からある課題が出された。
「サイバースロンとアウシュビッツを結びつけ、今の世の中を考えよ」というもの。
参加した子どもたちは資料を調べて自分たちの考えるレポートを書かなければならないが、よい深く理解するためには、実際に現地に言ってみたり、見学をしようということになった。

 「アウシュビッツ」はナチスの強制収容所。 生かすか殺すか、その選別の基準は労働ができるか否か。障害者は真っ先に切り捨てられる。この収容所の前にはある精神病院で毒ガス兵器による安楽死が行われていった。その兵器を実験台として使う対象とされたのが精神障害者。それを決めるのは精神科の医師たちだったという歴史的な事実。
 一方 「サイバースロン」はロボット工学の最先端技術を応用した義肢などを用いて障害者が競技に挑む国際的なスポーツ。
  前者は技術を悪用し、障害者を迫害する。後者は字技術をよく用いた例で、障害者を助ける。

  この二つのことから何を子どもたちは学び、結論付けるのか?
 
  最終的には優勢思想に基づく考え方。
 早く走れること、よくみること、能力の高いことがすばらしいという発想は同じ。
 同じ評価基準、指向性が自分たちの中にもあり、同時に同じものが自分たちを苦しめていることにも気づいていく。
 自分たちは障害があっても差別され、迫害をうけるような対象ではない。
 自分たちは障害はあるが、技術の恩恵を受けてサイボウ具人間のようにもなりたくない。
 自分たちは今のままでいい。ありのままでいいというける結論に至る。

 中村教授はこのことを考えさせたかったんだ。 
 そして「こういうことは公教育ではできない。何のためにどこにいくのか、(教師たちが考える)目的、日程、意味のすべてを確定していて(あらかじめ結論があって)、時間を守って集団で行動してとならざるをえない。不登校でなければこういう体験はできない。この子たちがつぶされないスペースが必要だ。不登校はチャンスだと考えてもらいたい。」と言っています。
 」
 
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東大異才発掘プロジェクト

 東京大学先端科学技術研究センターと日本財団の共同プロジェクトである「異才発掘プロジェクト―ROCKET」が2014年から始動しています。
 このプロジェクトを主宰している同大学先端研の中村賢龍教授の考えや発想がすばらしい。
 このプロジェクトの内容等についてはメディアでの何度か取り上げられているが、なぜ、このようなプロジェクトを立ち上げたかの経緯や目指すところについて述べられているブログがあったので、要約してまとめて紹介します。

(引用)
  異才発掘プロジェクトとは
 突出した能力・イノベーションをおこす可能性のある「異才を育む教育環境」と「地域コミュニティの復活」であると。なぜこの二つが結びつくのか?
 それは、中村教授がこれまで相当数関わった小中学生の子どもたちだったという。
 
  対象は相当に変わった子どもたち
 学校も家も困っているような扱いにくい子だけを選りすぐっている。
 知的には高くても字も書けない、理解しているのにテストの出来は悪いなどなど。
 こんな家、こんな学校イヤだと、毎年550~600人応募してくる。教授は応募してきた子どもたち300~400人と会ってきた。
 どんな環境で生活しているのかを直接見るため。親が応募してきた子はとらない。
 3分の1は書字困難。学校の先生は小学校からやり直せというが、これこそ本人の自尊心が許さない。
 結果として暴れるか、引きこもるか。中には精神疾患をおこす子もいる。二次障害だ。私たちはこれを防ぐためにやっている。
 書字を訓練で治療すれば、訓練する間に書くのがイヤになる。近年ではそうすると、すぐ「発達障害」として薬を処方されてしまう。私たちはモノとカネでそれを防ぐ。

  テクノロジーを活用した学びの保障 
 そういう子たちの「胃痛」は薬では治らない。たぶんしゃべれば治る。それをパソコンを使って表現できるようにしたら胃痛が改善した。カウンセリングよりずっといい。
 学校で教育したり訓練していれば、何かをやっている気になれる。でも訓練したってすぐに治らないし、間に合わない。
 だからテクノロジーを使う。書字ができなければワープロを使う。
 訓練や薬で本人を変えるのではなく、本人の特性を踏まえた上でテクノロジーを活用する。

  DO-ITは社会に参加する子を育てていく 
 Diversity(多様性)、Opportunities(チャンス)、Internetworking(インターネット)、Technology((テクノロジー)
 30分の延長で超難関大学に合格した子もいる。なぜこの子に30分延長が必要か?
 それが「特別扱い」じゃないのか?「公平性」って何なのか?「多様性」を尊重するって何なのか?
 それを学び、テクノロジーを活用し、社会参加していく。世の中に合理的配慮を求める。そのためにたたかう。

  集団になじめない子はつぶされても仕方ないのか 
 しかし、どうしても向かない子もいる。ワープロを使うことを保障してもそれが好きじゃない。集団になじめず、学校に行きたくない、就職できない・・・。
 でも料理は上手だったり、椅子の修理をさせたらピカイチの子もいる。
 ソーシャルスキルトレーニングだろうが、合理的配慮だろうが、しんどい。 
 じゃあその子たちはつぶされてもいいのか?
 そういう子には「学校なんか行かなくていい、向いてないよ」と言ってあげる必要がある。
 もともと一人で生きたほうがいいという子どもたちだ。
 だが、その子たちも孤独感はもっている。理解されないという孤独感。
 だからその人たちなりのやり方を理解して信頼できる人を何人かつくる必要がある。
 
  そのために作ったのがロケットプロジェクト
 志と異才のある子どもたちのルーム (Room of Children with kokorozasi and Extraordinary Talent)
 Roomとは、自分たちの部屋、仲間のいる居場所、生きづらさから逃げられる避難所、自分が光り輝くスペース。
 イノベーションを生むのはこういう空気を読まない人たち。
 間違いなくこの子たちの中から、変わった大人が生まれる。こういう面白さを抱えた子をつぶしてはいけない。
 貧困、ホームレスとか、生活保護とか、そういう人たちを先端研でアルバイトで雇っているが、そういう人たちの中には相当考えが面白い人たちがいる。それを社会が活かしきれていなかった。

  評価軸が一つしかない社会 
 勉強でもコミュニケーションでもオールマイティにそつなくこなせる人間が偉くて、それができない人間は失格とされる。
 凸凹を認めない、評価しない。抵抗なく「するーっ」といける、安全、安心、安定を求めすぎている。
 昔はそれでも生きていけた。 
 一次産業、二次産業、三次産業が3分の1ずつ存在した。それぞれの認知的、身体的特性に合った仕事が手のとどくところにあった。
 いまや8割以上がサービス産業。コミュニケーション能力と読み書き計算能力が強く求められ、それができないとどうしようもないという絶望感。
 無愛想、ぶきっちょだけど、これをさせたら完璧とか、そういう人たちの中には、今でいうアススペルガーの人たちもいただろうが、それでも食うことができた。
 
  変わったのは世の中のほう 
 産業構造の変化についていけないと、すぐ訓練の対象にしたり、発達障害と診断して薬を飲ませたりして追い詰めていく。
 医療機関、教育機関が二次障害を引き起こしている。
 私たちのプロジェクトは、その子たちがそのままで生きていけるスペースを社会の中につくろうとする試み。
 しかし、DO-ITのように社会の包摂(インクルージョン)を求めているわけではない。
 求めればこの子たちはつぶれてしまう。
 今はあまりにも計画的、効率的、クリーンで便利に生きることが求められすぎている。
 いくら英語がしゃべれるようになっても、途上国のたくましい子どもたちにかなうわけがない。 
 快適さに慣れすぎて、障害や異質なものに対してあまりにもろく、過敏になっている。
 そういう人たちは、「あぶない」人には近づかない。発達障害といわれる人たちを受け入れない。

 変わっていることは悪いことじゃないという多様性は大事だという。
 でもするっとできない人をみるとすぐにイライラする。
 快適さに慣れすぎると、耐性がなくなってしまう。待っていられない子どもたちの中で、この子たちはつぶされてしまう。
 変わり者と言われるたくさんの人と付き合ってきたが、そうやってつぶされて自ら命を絶ってしまった人もいた。
 「おれみたいな人間をつくっちゃいけない」と言っていた。
 そこでROCKETをはじめた。世間に広く受け入れられるプロジェクトではないが、こういうプロジェクトがなければ救われない子もいる。

  地域コミュニティをつくる 
 不得手を補償し、学びを保障する。「こんな生き方でもいいんだ」と人生の選択を広げていく、そんなコミュニティ。
 昔はどこにでもあった場所。そういうスペースがあれば子どもたちはつぶされずに生きていける。
 こういう子たちが活躍すれば何となくこれでもいいんじゃないかと思う社会的雰囲気も生まれるだろう。
 異才発掘はは特別なことじゃなく、「普通」のこと。でもそれが今難しくなっている。
 世間の間尺に合わなくても、徹底的に追い込まれ自信喪失させられることもなく、こだわりを活かし、好きを伸ばして生きていけるようにすること。
 それにたっぷりと継続して付き合える大人がいない。大人の余裕のなさが子どもたちを追い詰める。
 「先端研―ROCKET」のセンターを中心に地域コミュニティそのものを作っていきたい。

 
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発達障害児をもつ親どおしの付き合い方

 以前、次男の学校行事の見学をしていたときのことです。
 同じ学年の支援学級に通っているA子さんのお母さん(同じ町内会)も見学にきており、いろいろ話しこみながら見学していました。

 支援学級のクラスに、これまた同じ町会の発達障害のB子さんも在籍しているのですが、そのお母さんは「BちゃんはうちのAに意地悪をしたりするので、Aはその子が嫌いなんです。Bちゃんのお母さんも躁鬱病で、薬を飲んでいるらしく、挨拶しても気分が悪い時は返事もしないで常識がない、周りのお母さん達もBちゃんのお母さんとは話があわないらしい」「自閉症の親の会にも参加しているので、そこでも相談しているが、〝そういう人とは関わらない方がいい”と助言されています。」と。
 また、「町内会の役員の集まりの時も、Bちゃんのお母さんが役員になったとき、うちの父親に〝わたし精神障害で薬を飲んでいるので、あまり仕事ができない”というようなことを言っていたそうだ」「ああいう母親の子どもだからBちゃんもしつけがなっていなく、乱暴。うちのAもBちゃんがいると恐がって学校に行きたがらない」
 「お母さんがああいうふうだから、子どもも兄弟姉妹情緒不安定なんじゃないか」


  Aちゃんは高機能自閉症、お母さんも発達障害の当事者。一方Bちゃんのお姉さんも支援学級(今は中学)で、時々心理的問題で入退院を繰り返すところがあります。BちゃんはADHDの要素もあるのか、感情の起伏も大きいのでしょう。
 同じ発達障害とはいえども、いろいろその特性的なところは違うわけですが・・・。
 もともと、Aちゃんのお母さんはBちゃん一家(母子家庭)をあまり、好意的には思っていないようですが、以前Aちゃんのおじいちゃんが町内会長を務めていた時に、自分の孫も支援学級に在籍していることもあるからか、「この地域でいろんな障害を持つ子どもも、偏見なく育っていけるようにしなければならないと思っている」と言っていたことを聞いたことがあったのでした。

 きっとBちゃんのお母さんも感情の変化が大きかったり、女手一つで子育てをしなければいけない苦労もあるのでしょうが、同じように発達障害を持つ親同士という連帯感にはならず、相手の家庭環境を批判して、親の会でも「ああいう人とは関わるな」というアドバイをもらって、それで納得している状況を聞いているとなんか複雑な感情になってしまいました。

 Bちゃんの姉とわが長男は、中学校では仲もよく同じ町内会ということもあり、中学時代は何度も彼女の家に遊びに行ったりしていました。そのお姉ちゃんが入院した時もお見舞いに行ったりして(お母さんは確かに面会に行ってもあまり会話を交わすことはありませんでしたが・・)、子どもたちはそういう現実を素直に受け止めて付き合っています。
 同じ地域に、そういう家庭環境、親も精神的な疾患があったり、子どもたちも何らかの発達障害を持ち合わせている親子が住んでいる。私たちは、そういう家庭や親子に対しても同じ地域に住む人として、どう付き合っていくべきなのでしょうか?

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発達障害者フォーラムに参加して

 毎年、年1回、「発達障害者支援センター」主催の研修会がこの時期に開催されます。
 テーマは、前回は「発達障害児の早期療育について」でしたが、今回は「思春期、成年期以降の発達障害者の支援」がテーマでした。
 特に就労支援の課題について講演・シンポジウムがありました。
 支援者はもとより、当事者の親の参加も結構ありました。

 障害学生の相談窓口を置いている某大学の心理相談室の教授の話では、診断のついてない発達障害者(と思われる)学生が年々増えていること、そしてそういう学生の中に就職が決まらない学生が多いなど。
 若者サポートステーション(15~40歳までの無業者無学者を支援する機関)のが代表者。
 その他ハローワークの障害者支援窓口の職員の話、障害者職業訓練センターの職員の話などがありました。
 ハローワークや職業訓練センターの人の話では、発達障害者の人たちの就労相談にいかにも頑張っているような話ぶりで、こういう制度がありますから是非活用してください・・というような感じの話でした。

 しかし、最後にシンポジストで「親の立場から」壇上に上がったある母親の話が、この発達障害者の課題がすべて集約されるような説得力のある内容でした。

 「息子は小中高といじめに遭い、自己否定の中で思春期までを過ごした。卒業後は地元にいたくないと言って、県外の専門学校に入学したが、余暇活動の他市ぐらいにしかならず、仕事に結びつくものではなかった。しかし、発達障害者にとって仕事以外の余暇を楽しむということも大事だと思っている。就職は地元には戻りたくないといって、都会の方で職を選んだが、なかなか決まらず。地元で障害者手帳(精神障害者福祉手帳)もとっていたので、ハローワークに相談したら、発達障害者の障害についても無知な相談員だった。障害の程度が軽いので「クローズ(障害名を出さず、一般就労枠で)」で探し、なんとか契約社員として雇ってもらえたが、最低賃金で、とても都会の一人暮らしの生活で家賃からなにからを自分の給料で賄うことは到底出来ず、親の仕送りがなければせいかつもできない。それに、職場の理解もなく、二次障害のうつ病も発症し、今も精神薬を服用しながら何とか仕事を続けている。受診も都会の病院ではどこが良い病院かを探すことも困難で、結局通院だけは地元に戻り療育センター時代に診察してもらった先生が某精神科の病院にいるのでそこに通っている。
 この先親もいつまでも支援できるわけもない。息子の住む自治体で障害者年金などについて相談しても障害の程度が「軽い」がゆえにそれもままならず。小中高と「普通学級・普通学校」に入ったが、何のために普通学級にこだわって頑張ってきたのか・・。今思えば、進路の選択は就労を見据えた職業支援のある学校を選べば良かったのかと振り返る。
 自分もこの地域で「発達障害児(者)の親の会」を主催してきた立場でもあったが、その当時も「親がそんな活動をしているから子どもがダメなんだ」「お母さんが仕事をしているから」とさんざん親までも責められたこともあった。
 自分もそういう親の会をしていたこともあり、以前も県が主催する会議にも招集され、そこでも意見を言ってきたが、今もあのときとそう支援の実態は変わっていないのではないか。
 座長の精神科医を前にして大変申し上げにくいが、県内の発達障害者を理解して診断できるドクターも大変少ない。子どもの年齢は小さい時は療育センターなどでも見てもらえるが、学齢期を過ぎた途端、相談場所がなくなる。医療も途切れたりする。いろんな支援機関が機能的に連携できていない。ハローワークの職員も自分の住むエリアの障害者支援窓口の職員は発達障害自体をあまり知らない人がいる。シンポジストで話された方の地域は中核市なので支援体制もできているのか分からないが、地方の市にはなかなか体制が行き届いていない実情がある。
 親の会はやめたが、今でも自分の子どもが小さかった頃抱えていた問題を、発達障害児と診断された今の親たちの動揺に抱えており、ときどき相談にのることもある。」
 
 最後のこの母親の発言にすべて集約されたなあと感じました。
 会場からも、当事者の親達からの辛辣な現実的な質問が飛びかいました。
 「ハローワークにいって障害者枠で相談しても、発達障害=精神障害者福祉手帳の所持になるため、〝実際は身体障害者の求人があるが、精神障害者となるとなかなか難しい”と言われた」
 「窓口で〝アスペルガー症候群ですが」というと、〝アスペルガーって何ですか?”と逆に聞き返すハローワークの職員もいた。ああいう人たちは数年で異動するのかもしれないが、障害者の就労支援の窓口にいるなら、もっと発達障害のことを勉強してほしい」
 「若者サポートステーションは40歳までの人を対象とあるが、自分は44歳(女性)で広汎性発達障害。(3人の子どもさんも皆発達障害)44歳の自分の支援はどこでしてくれるのか?これから更年期にもさしかかり発達障害に加えて精神的身体的な課題も出てくると思うので、40,50代でも支援体制は必要でないか」
 「発達障害の就労は実際どのくらい会ったのかという質問をハローワークでしたら、たった1件だった」

 むしろ壇上に上がってたいそうなことをしゃべっているシンポジストよりも、いろんな支援機関に出向き、翻弄されている当事者の親御さんの方がよっぽど現実や課題を見据えていると思いました。そういう親や当事者たちの課題を吸い上げず、いつもこういう研修を企画する主催者(県や自治体など)は、表面上の連携・表面上の会議、表面上の研修会を企画するだけで、最後に発言した親の立場からのシンポジストのいうとおり、実質的な連携や支援体制をどう作り上げるかを考えてほしいと思います。
 
 このような立派な研修会やシンポジウムなど開催するのはいいことだが、いまだに啓発だけで終わっている現状。そして県内の発達障害者をとりまく現状は何も変わっていない。それがきっと私だけでなく会場にいた多くの参加者が感じた感想だと思います。


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増やされる「発達障害」

  
季刊福祉労働 140 特集:増やされる「発達障害」季刊福祉労働 140 特集:増やされる「発達障害」
(2013/09)
不明

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 「発達障害が増えている」という。発達障害のある子どもたちの特徴を理解し、どう対応するかの本が書店の特別支援教育の棚を埋め尽くし、当事者の体験談も数多く出版されている。学校以外でも、職場、医療現場、就労支援の場で「大人の発達障害が増えている」と言われている。
 個性を重んじるよりは同調性、和を重視する日本社会においては、集団からちょっとはずれた、周囲から見て困った要素をもつ人は昔から浮きやすい存在であった。しかし、それは直しようのない癖のようなものとして、ある一定幅までは集団のなかに取り込んで許容してきた。その許容の幅は、情報の過密化や競争主義・効率化の激化によって、一聞いたら十察する気働きができなければ生き残れない社会の中にあってますます狭まり、浮きやすい存在は、排除されやすい存在になりつつある。
 
 障害に限らずマイノリティの当事者コミュニティでどこでも繰り返されていることだが、社会の周辺に追いやられていたマイノリティ当事者たちが、マジョリティの同化圧力から自立して自らのコミュニティをつくり上げたとたん、今度はそのマイノリティ当事者が、コミュニティ内部への同化圧力を強めていくということがある。
 「アスペルガー症候群」「自閉症スペクトラム」の診断名がついてしまえば、今度は矮小化されたレッテルに移り変わっていく。外界の捉えにくさや人との関係の困難など、自分の中でくすぶっていた感覚が、「やはりあなたはアスペだね」の一言で括られてしまう。

 発達障害はコミュニケーション、社会性の障害だと言われるが、むしろ身体特性の問題であり、環境によって抱える困りごとは違ってくる。

 
 発達障害は、秀でた能力があるが、対人関係が下手でコミュニケーション能力がないとされている。つまり高い能力があっても、コミュニケーション能力がないと発達障害と呼ばれるわけだ。一昔前なら「人づきあいが悪い奴」「ぶっきらぼうな奴」「回りくどい奴」と言いながら、それなりに相手を理解して付き合っていた。最近では相手を理解しようとせずに、「コミ障(コミュニケーション障害)」という「障害」だから仕方がないとの文脈で、相手との関係を切る傾向がある。そこでは「コミ障」と相手を規定することで、コミュニケーションが取れないのは相手の責任であるとの考え方になる。
 現代社会においては、責任の所在を明確にすることが求められている。私はこれだけ丁寧に説明しました。だから、「わからない」のはあなたの責任です。このときに障害のために「わからない」のであれば、私の説明の仕方が避難されることはない。相手に「障害」があるとすることで、私の行為は正当化される。



 また「学級崩壊」という言葉が流行り、教員個々の学級運営能力が校長から問われていた。落ち着きのない子がいることで学級運営が損なわれると、教員の評価が下がることになる。しかし、その落ち着きのない子が「発達障害児」であれば、「病気」の子どもを抱えながらも、大変な学級運営をしているとのプラスの評価に転換していく。こうした背景もあり、教員からみて「落ち着きがない」「すぐに怒り出す」「急に泣き出したりする」といった傾向が少しでもある子どもたちに対して、「発達障害」の診断が下されれば、負の評価からプラスの評価に変わるだけでなく、加配の職員がつくというメリットが生じていた。このために発達障害の診断が必要となったわけである。

 
 保育園や幼稚園、学校で落ち着きがないと言われると心配になり、保健所に相談に行ったり、精神科を受診する。この時に行く先々で診断名が異なることも少なくない。いくつもの診断名をつけられた結果、療育センターにたどり着いた子もいた。インターネット等で専門知識を手軽に入手できるようになってから、子育ての環境も変化している。インターネットで調べて障害があると思うが、自分の考える診断名ではなかったと話して、自分が納得する診断名を求め外来に来る親もいた。
 このように、診断を求める親の場合は、目の前にいる子どもの「あるがままの姿」よりも育児書に書かれている「あるべき姿」に囚われた結果、自分の子どもの「あるがままの姿」が信じられなくなっている。日常生活で他の人とのちがいを感じていれば、その違いを明確にするために診断を求める気持ちもわからないではないが・・・。当事者も「あるがままの姿」を認められないために、診断名の枠の中での自分にすがろうとしているのではないだろうか。

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障害の理解とは

 軽度発達障害の場合、普通にこだわる人、障害にこだわる人が現れるが、どちらも同じベクトルの人たち。そちらかに決めないと不安になるのです。
 普通と思われると、支援が受けられないのでは?と不安になる。
 障害と思われると、差別されるのではないかと不安になる。
 どちらも同じ不安からきています。
 自分の子どもより、もっと勉強がわからない子どもでも、親が診断を受けさせなければ普通学級で学んでそのまま社会人になる。
 「障害」という名前を背負って訓練を受けて「自分は違うんだ」と思いながら社会人になる子ども。
 大人になってから「そういえば、私、学校しんどかったわ」と自分で発達障害にきづく、もしくは何も気づかず、社会人として生きていく子ども。
 今も、同じ時代に生きている。
 学校で苦労させたくないと、障害の診断名を必要とする親も、学校で差別されたくないと障害の診断を拒否する親と。
 でも子どもはどちらも同じ子ども。



 医者は医者の目線でしか見ません。障害の有無や症状だけしか見ません。
 教師は勉強ができるか、集団生活をちゃんと送ってくれるかにしか興味がありません。
 そういう人たちが発達障害を口にすることと、親である私たちが発達障害を考えることは、まったく違う次元なのです。
 医師や教師より、子どもの人生を本気で考えられるのは親だけ。
 自立して生きてほしいと言いながら、勝手にスケジュールを決め、職業訓練に精を出すのはおかしいとどうして思わないのか。
 自立とは、朝起きてから寝るまでを自分で決めて行動できる事。誰にも決めさせない。
 嫌ならやめることもできるのが自立。
 子どものやる気をとことん奪ってから、自立してと望むのはばかげているとしか思えません。
 子どもは簡単にあきらめます。
 親が望むロボットにだってなろうとしてくれます。
 「もう嫌といっても聞いてくれない」と思ったら、心にふたをしていつか爆発するとしても、素直に従ってしまのです。 
 どんなに自分が歪んでいこうが、親にも逆らえなくなってしまうのです。
 子どもに甘える隙を作るのも、障害との葛藤を経験するのを待ってやるのも、どちらも親が選択する姿勢です。
 子どもの生きる力をもっと信じてもらいたい。
 支援が必要だとしても、子どもの意向をちゃんと分かってくれる支援者を探して育ててほしい。

 教師や親がなぜ、障害を理解して、受け入れるようになったか。理解してくれる人を養成する方がずっと問題。
 障害とわかっただけで、受け入れたり指導できる人などいない。
 おそらく理解できた親も教師も人間に対する受け入れ幅が広かったのでしょうし、子どもをありのままに愛する能力があった。
 だから障害名を聞いても動揺しないし、自分たちでちゃんと受け止めようとしたのでしょう。
 目に見えない障害を受け入れられる幅の広い人間はそう多くはありません。
 どんなに脳の仕組みを勉強しても、目の前にいる人間は理解できないと思うのが普通です。
 どんなに発達障害を理解しているつもりでも、目の前に統合失調症の人がきたら、困ると思うのではないでしょうか。
 知識の理解につながるのは時間がかかる。
 最初に理解があって次に知識なら話は早い。
 けれど、理解できる親はほとんどいないのが現状。
 日本の教育に問題がある。
 大人になるまで障害者を見たことがない。しゃべったこともない・・・。

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自閉症者の世界観を一緒に体験できますか

 以前、このブログでも紹介した『ひろしくんの本』より、再度一部引用して以下に紹介します。


 これまでの私のお付き合いのなかで感じることは、自閉症児の興味の世界がファンタジーな世界が多いのに、この世界にどっぷり入れない先生方やヘルパーさんがおられることです。
 先生方は付き合う中で良かれと思って、こうしてみたら、ああしたらと先急ぎをする助言が多いのです。 時には先生やヘルパーさん自身の思いこみが激しくて、博のリズムと合わないことがよくありました中には、自閉症についてわかったふりをされていますが、博にかかわる時の言動に何も理解していないちぐはぐな対応となり、博がとまどっていることが私にはよく見えるので困りました
 また研究者の方々からは、どこかで学校生活に合わせるための方策として博の興味の世界を利用して今のうちに○○に取り組んだらという助言がありました。ご助言のなかにはご自身の研究上の興味の対象として博にさせてみたいというお心が見えることも数々ありました。しかし博はそういうことに直観的に反応して家族だけには正直に拒絶の表情をしていました。

 子どもの興味の世界にとびこまない親御さんや先生方のかかわり方は、子どもにつきあってあげる、何かをやらせてみたいという姿勢です。こうした関係で自閉症児者の世界を見る方々にとっては、とても幼稚な世界に見えてしまいます
 博の興味の世界に合わない方々がおられることを知らされたのは学童期から今日まで幾度となく博と私は体験しました。先生方やヘルパーさんは、博とうまくいかなくても他の人へという流れ方ができます。そして時間がたつほどに忘れ去ることもできます。 しかし対人関係の困難さやこだわりの障害を持つ博にとっては、常にどういう出会いをするかが問われるのです。恐れを知らないというか簡単にかかわる側の方々の博にとって不本意な入力をされたことを訂正するのは簡単なことではないということを認識していただきたいのです。私の決断が遅れるとその償いやアフターフォローはすべて長い時間をかけて家族が背負うのです。  

また達成感(成果)をもちたいと先急ぎする親御さんを持った自閉症児は不運としかいいようがない現実を私はみてきています。
 乳幼児期から思春期と言われる年齢までに、自閉症児が興味の世界でたくさんの完全燃焼できる体験を持つことが思春期を乗りきるエネルギーになること、そしてそれが生き生きとした表情につながる鍵になると私はいつも考えております
 
 ある著名な自閉症研究者が博が11歳の時にお会いしたことがあります。その時博のらくがきをご覧になって親の私が説明する前に、「一人で楽しませているだけだったら発達の変容にならない」と頭ごなしにおっしゃいました。確かに放っておくことは発達の変容になりません。それほど、自閉症児の興味の世界のなかにどっぷり入ってかかわている方がおられないということをこの時、私は逆に確認させていただきました。

 自閉症児を理解するか否かは、この興味の世界にかかわる側の方々の質を問われることになるといっても過言ではないと私は思います。
 早期発見、早期療育で最初に出会うドクターや療育者が机上だけでの知識や浅い体験から出た指導でその後の成長をとめてしまっている瞳の輝きのない悲しい子どもたちに私はたくさん出会っています。何でも教え込みさえすればかなうと思っている、焦るというか走りすぎる先生方や親御さんに強く訴えたいところです。

 

 自閉症児者などをはじめとする発達障害児者を支援する立場にある人が自分達が学んだ机上の知識を実際目の前の発達障害児に応用しようとするとき、往々にして支援者側からみた障害観(発達障害児はこういう方法で障害の〝改善”をめざしたいとか、普通の子どもたちに近づけようとするための理論的知識)で関わろうとします。自閉症の世界観に興味を示して自分達も一緒にその世界観のなかに浸って同じ目線で社会をみつめるとき、本当に自閉症児の豊かな感性や心の内面が見えてくるものです。
 とかく、そういう体験を抜きにして自分たち健常者の世界観からしかものを見ず、自閉症児の世界観を「こだわり」「自己の殻にに閉じこもる」など否定的な見方(評価)をしている人たちから自閉症児の支援をしていただくということは、そういう見方で当事者を見ているわけですから、いつまでたっても彼等は療育や指導の対象であり続けなければなりません。

 ある大学のかつて自閉症研究者であった先生の本で、大学のゼミにくる一人の自閉症者(学生ではない)と学生たちの交流の場面を書いた書籍を読んだことがありました。その中には健常である学生たちの行動パターンに合わせるのではなく、自閉症の青年の行動パターンにむしろゼミの学生たちが合わせて活動しているという記述がありました。
 この青年は教師の知り合いでもあり、自閉症を研究している学生たちとも顔なじみということおもあってか、この大学の学生ではないのに毎日のようにゼミに顔を出して、学生たちと交流をしていくそうです。そんな光景にも自然体で「ありのまま」の彼を受け入れている学生たちの行動は、自閉症の青年の世界観を一緒に楽しんでいるといった感じです。
 
 「あなたはこういう方向に支援してあげたい」「こうすべき」と机上の知識をふりかざし、当事者をなんとか自分たちの支援の方向へ持っていきたがる人たちこそ、彼等はもっとも嫌う対象となるのです。
 一緒に自閉症者や発達障害者の世界観や内面に寄り添ってくれる人なら、専門家でなくても彼等はその鋭い感性で「いい人」と見抜きます。

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発達障害の援助を考える(2)

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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(本文より引用)

○発達障害が誤解されたとき
 家族や関係者が手に入れている発達障害についての知識は、歴史的な変遷や概念上の複雑さ(見ようによってはあやふやさ)まで説明されたものではなく、その時その時に流布している断片的な知識になりがちである。そのような風潮に張り合っているのか迎合しているのかはよくわからないが、訳知り顔によりこまかい知識をひけらかすだけで、肝心の発達障害という問題が説明できない専門家も存在するような気がする。そのような知識を断片的に手に入れただけでは、それがたとえどんなに新しい知見であっても、発達障害という概念についての基本的な理解を持つことは難しい。たしかに、もろもろの行動の特徴や特定の能力についての偏りをもとにして発達障害は診断されるのだが、その結果そうしたものの集まりが発達障害だと考えてしまうと、私たちの援助はたくさんの制約を受け、いつかどこかで大きくつまずく結果になるだろう。
 発達障害では機能と環境のぶつかり合いから、症状と見なされるいろいろな問題が起きてくる。時間が進んでいく限り、環境が入れ替わるたびごとに、あるいは本人の機能が変化し発達していく道筋によって、次々と新しい「症状」が出ては消えていく運命にある。それを障害の本質だと誤解した家族や関係者は、そのような「症状」をなんとか解消しようとして、新しい「症状」が出現するたびに追いかけては対応することを繰り返していくが、いつか消耗してしまうのではないかと心配になる。熱心な臨床家は新しい「症状」を見つけるたびに、新たなターゲットの出現を見て闘志を燃やしているようだが、どこか自己満足の気配はないだろうか。

 発達障害への援助について、援助者の立場が違ったり、よって立つ理論が違ったりすると、目標が異なって混乱してしまうといったエピソードがしばしば話題になる。たとえば施設に入所している子どもたちが学校へ通う場合、まずは日々の生活を安定させたいと考える施設の職員と、なんとか早くAならAという能力を身につけたいと考える学校の教師との間で軋轢が生じることはすくなくない。同じような目標や優先順位の食い違いが、家族と職員や家族と教師の間でも生じて、場合によっては感情的なやりとりが見うけられるkともある。
 問題は、複数の援助がお互いに相容れない場面が生じたためだと見えるかもしれない。解決にはどちらの援助が優先されるのか(どちらの援助がエラいのか!)というお決まりのいざこざが用意される。(だいたい良心的なほうが退いて収まるようだ)。この手のお寒いいざこざは、関係者が発達障害の概念を誤解しているために生じていると考えられる。つまり「症状」や「機能の偏り」が発達障害の正体であり、「症状」を解消すること、「能力」を身につけることが何にもまして必要だと思いこんでいるからである。皮肉な言い方をすれば、大人同士が勝手にいざこざを起こしていても別にかまわないのだが、問題はそのような人たちによる援助が子どもたちに害を与えたり、互いの効果を相殺したりしかねないという点にある。
 発達障害の症状の多くは、彼らが生活をしていくなかで、さまざまな刺激にぶつかることで生まれてくる波しぶきのようなものである。優先されなければならないのは波しぶきを消すことではなく(もちろんそれは小さいほうがいいのだが)、彼らの進路が開けていくこと、すなわち彼らの人生がたくましく進んでいくことにほかならない。援助はあくまでも手助けに過ぎず、彼らという船が自分たちの横を通り過ぎるときに、たとえば風をよけるとか、波の抵抗が小さくなるように手伝うとかいった方法で応援するのが本文なのである。応援団である関係者によっては、「症状」と格闘するようなイメージはあまり必要でない気がする。むしろ人生という冒険の同行者として、時には波しぶきを楽しんでもかまわないとさえ思うのだ。

 繰り返すが、筆者には臨床家が日頃行っている援助を否定する気持ちはまったくない。特定の場所、特定の方法で私たちは具体的な援助を行うべきなのである。しかし、はたしてその援助がこれまで述べてきたような発達障害の基本的概念に沿ったものになっているかどうかは、援助者の目が発達障害をみるまなざしであるのか否かにかかっている。そんなに優れた技法でも、「症状」を打ち消すことだけを目標にしている限り、彼らの人生を肯定的に見つめることはできないだろう。役に立つ手助けを研鑽すると同時に、彼らとともに人生の旅路を楽しめるように、発達障害についての本質的な理解を進めようではないか。
 もし家族が発達障害を誤解したままでいたら、ハンディを持ちながらたくましく成長していく子どもたちの姿と、家族が持つであろう期待、発達障害がよくなるとかあるいは8余り使いたくはないけれど)治るとかいった言葉からくるイメージがまったく重ならない事になってしまう。実際にも、専門家以上に知識を集め、敬服に値する努力をはらって養育に取り組んだ結果、見事なまでに子どもが成長しているのにもかかわらず、こころの穴が埋められない家族に出会うことがある。その不幸をいったいだれが背負うというのか。専門家のなすべき仕事は、このような不幸を起こさないように、発達障害の概念をうまく家族に伝えることから始められるべきだろう。

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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