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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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ふりかえって・・・

 この半年、「支援者のあるべき姿」について、いろいろ思うことを思うままに綴ってきました。

 それは私自身、どんな支援者になりたいかという、自分自身の目標にもなるのだと思います。
  
 職場やこれまでの自分の経験からして、「支援者は支援している(と思っている)自分自身に自己満足」している場合が多いのではないかということです。
 そして、そういうことを気づかせてくれたのも、わが子の子育てを通じてでもあります。


 ●LD親の会のあるお母さんが、大学の発達障害児支援の公開講座で大勢の教師や親の前で、次のように話しました。
「息子は中学3年。社会性には問題ないが、学習障害の特徴で視覚的な認知が難しく、漢字や本読みなど国語はできない。学力のばらつきがあるが、教師によっては“指導してもできない子”というレッテルを張る人もおり、息子にも態度が冷たい。でもそういう先生って学校ではバリバリで、指導力がある先生と評価されている人だ。反対に息子にいつも気にかけて声をかけてくれる先生は、どちらかというと「窓際」っぽい立場におかれている(と親たちが見ている)ような方です。」
 本当の意味で支援者たるに値するのは、どちらの教師なのでしょうか。

 いくら、研修で(今はいろんな研修の機会が嫌というほどありますから)発達障害の知識を得ようが、技術を学ぼうが、「学んだこと」を目の前の子ども相手に本当の意味で「実践」できなければ意味を持たない。

 でも、いくら学んだことを「実践」に活かしている人でも、「私はこの分野の専門家だから」という態度がありありな人も、当事者からみたら違和感を持つわけです。「専門家の私の言うことが正しい」と言ってはばからず、指導に従えないと、親や子の問題にすり替えようとする人もいます。

 逆に、専門的知識などそれほどなくても、目の前の子どもの「困り感」に謙虚に向き合い、子どもの特性や行動をじっくり観察することでつき合い方を学び、そんな「発達特性」にも真摯に向き合っている教師もいます。
 そういう教師に、子どもは心を開き信頼していくのだと思います。

 専門職だから、「私はこの分野の専門だから」当事者の子どもたちが信頼してついていくのではありません。

 「寄り添う」という言葉を本当の意味で実践することは、なかなか難いものがあると、息子の子育てを通じて実感もしています。
 じかし、自分自身子どもに寄り添えないで他人(仕事で関わる人)の気持ちに寄り添った支援ができるか、また反対に他人に寄り添えないで、息子に寄り添えるかと、いつも自問自答している日々なのです。


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支援するとは?

 以前、このブログにも書いたALSのAさん父子。12月からヘルパーさんを週1回入れることになり、さっそく23日から訪問を開始しました。
 16日に担当者会議をしたのでしたが、その翌週、同居している次男のTさんがまた家出したと、Aさんは自分で車を運転して私のところまで知らせにいらっしゃいました。
 Tさんが家出をしないようにという目的もあり、ヘルパー導入を決めたところでしたが、Aさん曰く、
「自分が、何かにつけてTのことを頼りにしているのが、負担になるのか・・・。こんな親だから子どもも迷惑かけて申し訳ない」と、筆談で謝ってきました。
 見つかったら連絡をくれるように、今後はメールでやり取りをすることにしてお帰りになりました。
 ご自分のご病気のことですら大変なのに、子どもさんの心配もしなければならず、Aさんの心情はいかばかりだったでしょう。

 そのことをTさん担当の障害福祉担当の職員に伝達すると、
「ああ、またいつものことですよ。せっかく今日から通所施設に通う予定だったのに、できなくなって、まあこちらから施設に連絡しておきますよ。」と、実に淡々と事務的に取り扱うのでした。何回も家出を繰り返すつTさんについては「しょうがない」という諦めや「いつものこと」という認識です。

 それでも2~3日後にAさんから「Tが帰ってきた。」と、メールで報告があり、とりあえずほっとしました。
 23日の初回ヘルパー訪問時はTさんも在宅しており、ヘルパーと一緒に掃除や家の片づけをしてくれたとのことでした。Tさんのまじめできちんとしたことが好きな特徴がうかがわれました。

 たまたまヘルパーの管理者の御兄さんとAさんが親しい友人だったこともあり、話がいろいろ若いころの時代にタイムスリップして盛り上がったようでした。
 自分のことを知っている人だということもあり、ヘルパー管理者のOさんには、これまでの生活上の悩みや、息子さんのこともいろいろと本音の心情を語ってくれたと、後でOさんから電話でお聞きしました。

 Aさんの病気が進行した後もTさんへの支援は引き続き必要になることでしょう。そんなAさん父子の人生に寄り添っていただけそうなヘルパー管理者のOさん、事業所のスタッフの方々です。

年の終わり

 2011年もあとわずか。
職場もしばらくのおやすみ。

 とはいっても、受け持ちの利用者さんたちの生活はヘルパーさんたちの支援を必要としています。
 一人暮らしの高齢者の方たちは特に、生活支援をしてくれるヘルパーさんの存在は大きいものです。年末年始もやすみなく事業所は動いています。そんなスタッフさんのいる事業所の存在はありがたいものです。

 職場の忘年会シーズンですが、私はどうも、ああいう大勢でワイワイと騒ぐ宴会は苦手なほう。
 自分たちが楽しんでいる間にも、いろんな思いを抱えて生活している皆さんがいることを思うと、自分がとてもぜいたくしているような気分になってしまう・・・。

 仕事納めの日に訪問した高齢者のお宅では、まだ退院直後で家事もままならない状況の中、急きょ翌日からヘルパーさんにきていただく手筈を整え、きたる年末年始のお休みをサポートしていただくことになりました。
 
 高齢者や弱者と言われる方々に対し、一番身近なところで接する訪問介護の仕事。もっと本当は評価されてもいいのでしょうが、なかなか報酬は上がらず・・。でも支援に使命感を持って高齢者の支援に意欲的に取り組んでいただいている事業所の方々の存在はほんとうにありがたいものです。

  

発達障害児の「胃カメラ」検査

 中学生の長男、ここ最近胃腸の具合がずっとすぐれないでいました。
 栄養療法を実施している主治医の先生に相談したら、「発達障害を抱えているお子さんは、“痛み”の感じ方が強く感じてしまう傾向もあるかも」「痛みがあちこち変わっていく。今日お腹が痛いと言っていたのが、その後は頭が痛い、足が痛いというように、痛みの場所も移りやすい」とのこと。

 長男も「お腹が痛い」というものの、お腹のどの辺か、どのように痛むのかということに自分なりの主観もあるため、うまく表現できないことや、多分に神経性のものも関与しているかもしれないということもあり、「ストレス」からくるのか、本当に胃腸に問題があるのか検査をしてみようということになりました。
 検査と言ったら、「胃カメラ」を飲むこと。
 しかし、発達障害ゆえ、また人一倍緊張感がつよい性格ゆえ、簡単に「胃カメラ」をすんなり口にいれることができるとはとうてい思えません。
 でも、そこは主治医の先生のアドバイスで、麻酔をして胃カメラをすることに!それも胃腸科の専門医で腕前も太鼓判を押してもいいという先生を紹介してもらいました。子どもには「カメラ」を飲むとは言わずあくまでも胃の検査と言うことで余計な不安を抱かせないようにして。
 紹介状には「発達障害」という一文も入れていただき、ある程度検査上でも配慮してもらうようにしました。
 
 さっそく予約した日に受診し、最初に点滴を打ち、その後は診察台に横になり点滴の針から麻酔薬を流し込み、そのまま5秒くらい数えた後は、意識があっという間になくなり・・・(本人曰く)、カメラを胃に入れていた時間がせいぜい2~3分程度でしょうか。全行程でも5分くらいでした。よほど緊張感から大げさにわめいたり検査を拒んだりしないかとの心配は杞憂にすぎず、あっという間に検査終了。

 おまけに本人は麻酔がかかっているから、何があったか全然記憶になく、本当にトラウマにならずに済みました。結果も「異状なし」でひとまず安心。結局は、胃が悪いのではなく、やはり神経性のものだということも分かりましたが・・。
 それにしても、麻酔をかけて苦しがらずに胃カメラが飲めるなんて画期的なことですね。

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カウンセリングの日常化

子ども家庭教育フォーラムを主催している 富田富士也さんは、長男の子育てに悩み始めた頃に、書籍を知り、またワークショップにも参加させていただきご縁をいただいている方です。

 「引きこもり」という言葉を最初にネーミングした方でもありますが、先生はその言葉がある時からひとり歩きしてしまい、本来自分が言いたかったものとは違う形で今、世の中で使われてしまっていると言います。
 そして、「カウンセリング」とは、専門家が行うものではなく、あくまでも日常生活の中で、「せめぎ合って、折り合って、お互いさま」の人間関係の中でこそ営まれるものであるとして、カウンセリングマインドの大衆化を目指して全国的に講演やワークショップ開催に、また個別相談活動に忙しくしていらっしゃいます。

 『カウンセリングを問う』(富田さんの言葉から・・・2005年 教育新聞より)

 「私はカウンセリングの日常・生活・大衆化を願って各地で1日10時間のワークショップを開いている。一般的に、カウンセリングは、“心の危機”に対する援助として相談活動をイメージしている方が多い。そこになにか特別な専門性を感じたり、あえて“JISマーク”付で語るカウンセラーもいる。
 また、最近では事件や災害が起こると、“国境なき医師団”のようにカウンセラーが現地入りして心理的危機への援助活動をするようになった。足元で苦悩を分け合っているなかに、どんな心の援助をするのか、よく分からないが、それほどまでに私たちの日常の人間関係は希薄になっているのかもしれない。
 だとしたら、カウンセリングは、相談という枠を超えた人間関係そのものだということもいえるのではないだろうか。つまり、カウンセリングと仰々しくいわなくても「関わり」で十分である。
 カウンセリングは、このような時代背景の中で、まるで癒される人間関係の“特効薬”のような形で知れ渡っていったのではないだろうか。
 私にとってカウンセリングは、関わりの基本姿勢である人と人との向き合い方の原点を問いかけるものである。だから、カウンセリングの学びはマインドの学びであり、日常から離れた知識やテクニックではない。治療的な発想で技術や方法論に偏りすぎると、いつの間にか権威主義になって上下をつけたカウンセリングになりかねないと思っている。
 そこで私は、人と向き合う仕事の中でも、とくに生活の臭いのする学校や相談現場、あるいは保育・福祉に関わる方を対象にしてカウンセリングを日常の人間関係に引きずりおろす研修をしている。世間的なレクチャーと身近ななにげないやり取りをデフォルメしたワークをちりばめている。だから、自分の“素”とふれることが多い。
 さらに参加者同士の分かち合い、振り返りの時間をワークのたびにとっている。10時間を1.5時間ずつ6コマに分けて、そのコマの終了にあたっては個別に私との振り返りも入れている。
 そこで参加者と私は、少なくとも1日6回の人間関係を“強制”される。互いにうっとうしさを感じれば分かりあうためになんらかの関わりの努力をする。なぜなら10時間に辿りつくまではその場の人間関係から逃れられないので、相手に思いをかけていくしか心が解放される術はないのである。
 つまり、本当の思いやりは逃れられない関係の中でしか育たないのである。だから足元の人間関係を軽視したグローバル化は見捨てられ感を招いたりする。
 そこで、ワークの多くは、「せめぎ合って、折り合って、お互いさま」の感覚を日常の人間関係に戻していけるように若干の工夫も取り入れている。人間関係は自分の思い通りに進むものではない。手間をかけていくその営みこそが肯定的関係を築いているのである。
 私は、カウンセリングは避けがたい現実を逃げないで受け入れていくための“気休め”だと思っている。一人ひとりが背負わなければならないそのにっちもさっちもいかない気持ちを休ませるためには、心の危機を足元で聴き合う人間関係が大切である。
 

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“悩み”も“病”も人格形成の一つ

 子どもの“悩み”と“病(つかれ)”に寄り添うカウンセリング

 今年の夏に開催された子ども家庭教育フォーラム主催のカウンセリングワークショップに参加した時の内容です。

 日ごろ私も感じていたこと・・・人格障害、強迫性障害、統合失調症、気分障害・・・など、 今はあまりにも個性(特性)と思えるものまで“病気(やまい)”として診てしまうことへの疑問。自分の子ですら、ちょっと「人付き合いの苦手な子」なだけなのに、「社会不安障害」「気分障害」「対人恐怖症」などという視線をなげかけてしまってはいなかったか?など
 ちょうどそんな疑問に応えてくれそうなワークショップに出会い参加したのでした。
 
(ワークの要点  心に残った部分だけ)

 ・精神的な病、治るとはどういうことか?
 ・悩みと病はどう違うのか?それはお医者さんでもわからないというのが結論。
 ・症状がなくなるとしたら、一生治らない。自分の症状は自分の声を言葉として表現できないから、これからは言葉にして自分のことを語っていこう。それが自分を肯定することになる。

 ・これまで境界線の子どもたちに数多く会ってきた。それに共通するのは、人とコミュニケーションをとるときのTPOがわからない。
 ・「悩み」と「病」の境界をたずねて名づけた「引きこもり」はコミュニケーション機能不全
 ・コミュニケーションのイロハがわかっていないと、感情調整がうまくいかない
 ・コミュニケーションの機能回復とは、感情と言葉と行動が「つながった」と実感すること。
 ・愚痴や弱音も自己表現。これができればコミュニケーションは健全。
 ・その人にとって自己表現していればよい。
 ・医療に結びつけるかのポイントは、自己表現ができるか?と言う視点。
 ・幻聴の女性は、カウンセリングの場でその幻聴を絵に表現して見せてくれた。それはその人自己表現でありこの世に生まれた意味を表したもの。見えないものを(絵にして)見せてくれることで自分を受け入れ、自分と向き合えた。
 

 《悩みとしての表現》         《“病”に置き換えられた表現》
  人と話すのが苦手         →  社会不安障害
  痩せたい             →  摂食障害
  友達がぼくのことをばかにしている →  統合失調症
  やる気がない           →  気分障害
 
 ・対人関係における緊張感が善玉の場合は“悩み”となり、悪玉の場合は“病気”

 ・カウンセラーは心の豊かさを提供できるか? 心の豊かさとは、多様な人の心を提供すること。美化されたものだけでなく、どろどろしたもの、悪意・憎しみも含めて。

 ・病気か否かの見分け方
  ●自我のまとまりがない ●基本的生活が破たんしている ●6か月も風呂に入っていない ●親と口をきかない、部屋から出てこないなど

 ・「悩み」も「病」も人格形成の一つ 
 ・悩みとか病気は人格形成になる。人格は刻々と変わっていく。
 ・思春期うつ症状は、病気であるか悩みであるかわからない
 ・引きこもり相談窓口・・事業化するにはガイドラインが必要だが、その背景はどんどん社会が合理化されたため、コミュニケーションに効率性を求めるようになっためが故にそのような「ガイドライン」を作らないといけない時代になった。

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職場の「メンタルヘルス」

「心の病で休職の先生高止まり 5400人」

 という見出しが新聞の記事にありました。(この数が多いか少ないかはわかりませんが。)
 特に50代の教員が多く、また赴任して2年以内に休職している先生が多いとありました。
 経験年数の少ない新人教員かと思いきや、以外にベテランと言われる年代の教員の休職が多いとのことです。
 ある一定年齢を過ぎてしまうと、自分なりのやり方のパターンが築き上げられているから、昔の成功したやり方で、今の子どもたちを教えようとしたり親御さんへの対応を考えてしまい、その結果以前のようにうまくいかないことで自分を責める結果、適応障害や抑うつ傾向に至ってしまうのかなあと推測します。

 今の時代、学校現場に限らず、どこの職場でも「メンタルヘルス」の問題というのは避けて通れない問題になっています。人員は削減されるのに仕事量は増える一方、新人も即戦力を求められ、ゆっくりと新人教育している余裕もない、皆自分の業務をこなすことで手一杯の職場環境。少ない人員で一人に係る業務量が過重ときたら、自分の健康状態、仕事と家庭の両立、そして職場内の人間関係にいろいろ悩むことが多くなるのも無理はないでしょう

 わが職場でも、ある係に配属されている事務担当の職員が前職場から1年以上休職。この4月に配属された先は、保健・福祉関わる部署で専門職の多い所なだけに、人員の足りない部分を他の職員が結局事務の仕事を担当しなければならず、本来の事業にも影響が出ている現状。

 休職している人は、いろんな意味で、休職せざるを得なくなった理由があるのでしょう。それはそれで十分な支援が必要なのは言うまでもありません。しか、休まれた分、仕事が増えてしまった職員の「メンタルヘルス」も同時に考えていかければならず、職場の雰囲気も何となく余裕なくギスギスした雰囲気になってしまいます。

 中には、仕事上の課題や人間関係のトラブルの原因が発達障害(診断はされていないが、どうもそんな特性のあるような人)が原因で職場の同僚からいじめのような態度に遭い、居づらくなってしばらく休職している人もいます。その場合、周りの職員たちは、悪いのはその人の特性と決めつけてしまっているため、ますます復帰したくても復帰できない環境を作ってしまっています。「いつまで休んでいるのか。退職しなければ(少ないながらも)給料は保障されるしね」なんて陰口をたたく職員もいないわけではありません。

 そして、どの業界でもそうかもしれませんが、上司たちの休職者への対応や、職場内での「メンタルヘルス」への対応はまだまだ弱いと言わざるをえません。
 今や、学校現場に限らず、行政機関やその他民間企業においても「メンタル」で休んでいる人はどれだけの数に上っているのでしょうか。

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連携って?

 よく「連携の重要性」は、専門職、支援者なら誰もが納得するところです。
 いろんな専門職集団の研修会において、、「連携」がテーマとしてとりあげられないことがないくらい、この言葉は支援する立場の人間にとって、耳にこびりつくくらい頭に入っているはずです。

 しかし、実際の現場の中で、これを実践できているかと言ったらどれくらいの人が、自信を持ってできていると答えることができるでしょうか?

 また、行政組織の中でのいろいろな政策・事業を進めるにあたって、他の関係機関からの意見を聴くための各種会議等に、仕事柄出席する機会がありますが、その中で参加する方々というのは、各業界団体の代表者がほとんどです。私は主に、高齢者分野ですが、障害者分野、発達障害児分野、児童(虐待)分野においてもその傾向は変わりなく、ただそれぞれの団体の代表者や行政の担当課の主担当者が会に出席し、あらかじめ県の方で決められた企画案に沿ってそれにただ少々の意見を言うだけの会に終始しているような気がします。
 
 発達障害児者の支援についても、行政組織の中でも、障害児(者)福祉サイドと特別支援教育サイドの管轄が違う縦割り行政のため、連携がうまく図られていないのが実際です。
 行政の上の方々にとっては、単に外部から研修講師を呼んで啓発したり、また関係団体を呼んで通りいっぺんの会議を企画したというだけで満足し、本当に発達障害児のための施策になっているかと言えば、当事者の親たちからすれば、「うちの県は障害児施策はなっていない。遅れている」との意見が根強いのです。
 特に、発達障害児の分野においては、小学校まではなんとか支援ができていても、中学・高校に進むにつれて発達障害児の不登校者数は多くなり、県立高校に至っては全くそういう子への理解がなく、ドロップアウトした生徒の中にはそのまま引きこもってしまうといった問題もあります。

 行政の内部機関においても、各関係部署同士の連携は難しいし、本当にその必要性について奔走する職員も少ない。形だけの会議を召集しているような現状。参加した職員や代表者も、それをただ関係団体や職場に書面で復命するだけで、復命後に「じゃあどうやったら課題を達成できるか」などという具体的な支援に結びつくような取り組みはあまりなされていないというのが実際です。

 また、先日は高齢者・児童(虐待?)の処遇について、それぞれ関わる関係者が集まっての打ち合わせなどをしていたようですが(私の担当でないので、詳細はわかりませんが)、その中での結論・・・「あの人のやり方が悪いからだ」「あの人が関わるからうまくいかないのだ」と、それぞれ連携をとるべき人への非難に終始。まあ非難されている人からすれば、そのように非難している人も「あの人はああいう性格だから、相手の非難ばかりするし」「自分の意見がなんでも正しいと思っているのよね」と評価されていることに気づいてはいないのですが・・・。
 
 「連携」って本当に支援する「人」の資質の問題でもありますね。

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退院後の独居生活支援

 ある一人暮らしの80代の男性の方の件で、民生委員からセンターに電話が入りました。
 「入院中だが、退院後はいろいろ大変だろうからヘルパー派遣など必要なのでは?」
 との相談内容でした。一度ご本人の入院している病院に状況を確認するために面接にいくことになりました。

 転んで手首と膝を骨折したということで入院していました。
 病院のケースワーカー曰く、
 「もう病院の中を自由に歩いて早く家に帰りたいと騒いでいる。でも退院後は一人でまだ生活することには不安があるが、介護保険の認定がつくかも微妙。ヘルパーの説明をしたが、ヘルパーは家政婦だと思っているようだし、あまり必要性も理解していない・・」と。

 ご本人に面会して話をお聴きすることにしました。
 「これまで一人で何でもしてきた。医者に行くのも買い物も隣町まで自転車で行っていた。これからだってなんとかするしかない。誰も助けてくれる人なんてこれまでもいなかったし。隣近所の人だって何かにつけ噂好きの人が多く、俺はあまりそういう人たちとは付き合いたくない。民生委員だって外から眺めているだけで何をしてくれようか?子どもたちだってたまに電話をかけてくるだけで『生きているか』と。入院していたって誰ひとり見舞いにも来ない。年寄りなんて早く死んでくれた方がいいと思っているんじゃないの?」

 (介護保険外の)市の福祉サービスの方でヘルパー派遣ができることを説明すると、
「ヘルパー来るっていったって、買い物をしてもらうためには、買い物代としてのお金もかかる。そんなお金がない。国民年金7~8万もらたって生活できないんだよ。買物だって切りつめて生活してきたし、買ってきてほしいものもあんまりないし。これまでシルバー(人材センター)で入院前まで仕事してきたんだ。それがあったから何とか生活できていたんだ。それもできなくなるし・・。こういう年寄りの生活あんたたちわかるか?」

 病院側にとって、この患者さんは「頑固」「自分勝手」「周りの言うことを聞き入れない困った患者」というとらえ方をされているようでした。
 しかし、いろいろお話をうかがってみると、何となくこの方が地域の中で生活してきたこれまでの背景は見えてくるような感じがしました。

 妻を亡くした後に一人で家を守り、農家の仕事に従事してきたのでしょう。年老いてからは少ない田畑も人に貸しわずかながらの収入の補足としてシルバー人材センターで頼まれた仕事をしながらお金と生きがいを得てきたのだと思います。都会に行った子どもたちも自分たちの生活があり、電話でしか会話もなく(今回の入院も家族の面会もなく)、地域でもけっこう頑固一徹で過ごされてきたのか、あまり地域の中の交流にも参加せずにわが道を通してこられたのかなあという印象を受けました
 80代という高齢の男性の一人暮らし・・・それだけでも気をはってこれまで頑張ってこられたのだと思います。だからいまさら他人(福祉サービスなど)に頼るという思いも薄く、またなんといってもサービスを受けるためのお金の問題というのがネックにあるようでした。シルバーの仕事も今後できなくなるかもしれない。少ない年金でどう生活したらいいのかという悩みも抱えていらっしゃいました。家族や地域の人との交流の少なさも本音の中では寂しさを抱えていらっしゃるような感じもしました。

 いろんな思いを、この患者さんだって内面に抱えていることだと思います。しかし、病院はひとつひとつそんなことを聴いている余裕もなく、治療が終われば退院という世界。それも生活が困難ならとにかく制度にのせて送り出そうと、ベルトコンベアー式に患者さんは自分の気持ちを理解してもらう前に退院させられてしまうのが現状です。
 民生委員さんでも、地域の困っている方々への関わりにおいて、その人本人が困っていることを代弁するのではなく、自分(民生委員として)がどう関わったらいいかわからない、また自分が困っているから「ヘルパーを使わろ」「施設に入れた方がいい」などといって相談される方が多いような気がします。

 この患者さんについては、退院したあとにご自宅に訪問して生活状況を再度確認してから、必要なサービスを検討することになりました。
 


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「ありのままを受け入れる」までの葛藤


障害児の親から健常児の親へ―統合保育が当たり前の世の中になることを願って障害児の親から健常児の親へ―統合保育が当たり前の世の中になることを願って
(2000/10)
石井 利香

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 神奈川県相模原市で健常児も障害児も一緒の保育(統合保育)を実践している淵野辺保育園。そこに通う障害児の親たちへのアンケートをもとにありのままの本音を聞いた本です。


(本文より引用)

 一般に発達障害児の「障害」そのものは、発生出現率の問題と見ることができます。だから今は障害と関係なくても、将来とも関係がないと言い切れる人は誰もいないのです。ところが発達障害児の「障害」は、人の標準的な知的、身体的、情緒的な年齢機能水準を作成し、そこから一定のはずれたレベルをもって該当するという評価が行われています。それゆえ障害に対する社会観の構図は、マジョリティ―(大多数)がマイノリティー(少数派)を支配するという前提から生まれてきたと言えるかも知れません。
 その結果、そうした社会で生きる人が、身内に思いがけず障害児を抱えた場合、社会観の接点で苦悩し、混乱し過剰に防衛したり、その子に八つ当たりしたとしても、いったい誰がそれを責めることができるでしょうか。
 ですから私たちが、たとえどんなに綺麗ごとを並べても、所詮それらは評論家の域をでない発想であり、その当事者の気持ちを代弁することは到底できません。 
 したがって、母親や家族自身がその混乱した情緒をコントロールするために、一定の期間を要するとともに、当事者本人が「ありのまま受け入れる」という心情に至るまでの苦しい長い葛藤の歴史があることを知るべきです。


 社会には様々な人がいます。それが自然です。それなのに、障害児を排除した健常児ばかりの保育、教育があたかも自然であるように思われています。それは、大人たちが管理しやすいように意識的に作られたものなのですが、それが主流になっているため、その不自然さになかなか気づかないのです。私も子どもが健常児であったならば、その不自然さに気づかないまま一生を終えていたことでしょう。
 
 子どもは驚くほど素直にその環境を受け入れます。その環境を自然なのもにするのは、私たち大人の役目ではないでしょうか。「価値観」というのは、ある日突然できあがるものではありません。小さい頃からの生活の積み重ねで徐々にできあがっていくものです。
 まだ「価値観」のできあがっていない純粋な幼児期こそ、偏見や差別のない環境で育ってほしいものです。

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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