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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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支援者の粗製乱造

 今は実にさまざまな援助職が進出してきています。

 介護の分野でも、介護支援専門員が介護保険の担い手ということで、制度発足時に大量生産しましたが、質の保障について制度開始6年になる今でも課題が多く残っています。
 
 また障害者分野でも、これまで行政で担当していた障害者福祉サービスの相談支援などが、介護保険と同じく、地域支援相談員によるサービスプラン作成のもと、支援を受けるしくみになってきています。

 
 国の施策もころころ変わり、そのたびごとに新たな事業が生み出されては、そこに人件費をつけようとさまざまな援助職がうまれています。これまで行政主導で行われていた種々の事業も「官から民へ」という大きな流れのなかで、民間にそういう相談機能が委譲されることに伴って、いろんな支援員と称する職種が増えてきました。

 一人の当事者を取り巻く支援者(行政も含めて)の数が多くなればなるほど、さまざまな連携の在り方が問われ、結果としてぎくしゃくしたり、当事者が振り回されたりといっや矛盾も生じないこともありません。

 あるNPO法人ではもともと不登校やひきこもり支援を独自で行っておりましたが、国の考えた「若者自立支援事業」の委託を受けるようになって、「若者自立支援員」と称する人を新たに委託費で雇い、不登校や引きこもりの訪問支援を展開していました。
 彼女はアラフォー世代ですが、自分のことを「お姉さん」と呼ばせ、姉御肌的生活から、どちらかと言えば当事者をぐいぐい引っ張っていくようなタイプの人です。
 (彼女に関わってもらった当事者およびその家族の支援を一緒にうちの部署の担当者が関わったケースがありましたが、結果的に家族がバラバラな方向にいってしまったということになってしまいました。詳しくは別の機会で書くことにします)

 その後事業評価でこの事業が廃止になり、代わりに国は「ニートなどの若者の就労対策」への方針を変え、そのためこのNPOに「若者就労支援事業」を委託し、「若者サポートステーション」がその法人内に設立され、そこに「若者就労支援員」なるものを配属させました。

 こういう支援者の資格用件もなければ、実際に人件費も安く、またこれまでそういう若者に関わったことのない人たちが「なにもわかりませんが、がんばりますのでよろしくお願いします」といって、当事者支援にあたろうとする・・・。

 ある程度、国の施策で推し進められている以上は、「事業評価」の対象になるでしょう。実際委託料を支払っている国や県からすれば、どのくらいの「成果」をあげたかという『実績報告』が必須ですから、当然支援する側も、当事者の気持ちの揺れやペースに寄り添った支援がはたして本当にできるのかなあと、危惧感もあります。
  
 とにかく支援者としての意気込みのもと、早く就労させたいなど、こちらのペースに巻き込もうとしはしないか、そうでなけれはその年度の実績はないわけですから、そこに本来の支援のあり方とは、別に「お上に報告するための支援」「自分の実績をあげるための支援」になりうる危険性をはらんでいないかと不安になります。

 今日、ラジオのニュースを聴いていたら、県が取り組もうとしている「こころの健康」「自殺対策」などの事業に、その相談者として身近な地域にいる「民生委員」を活用しようとしていることが報じられていました。一定の研修を受けて、民生委員が心の相談を引き受けてうけるようにするのだとか・・。

 民生委員の方には失礼ですが、日ごろから仕事柄民生委員と関わることが多い身としては、とても不安な部分も感じます。民生委員も人それぞれというのを実感していますし、また当事者も進んで敷居は高い民生委員に相談するだろうかと思だろうかと、いろんな場面を考えてしまいます。
(民生委員は生活困難者にしか関わらないという認識、民生委員には家庭の内情を知られたくないという市民のかたも多いという実態もあります。だかだこそ民生員活動も難しさを抱えているのですが・・)

 相談する場所は必ずしも専門機関でなければならないという発想ではありません。(専門機関ですら支援者の質もあります)しかし、当事者が、本当に相談したいと思わせる人に相談したいのです。
 とくに「こころの問題」非常にデリケートですから、専門機関以外でもいろんな人に相談できる体制を作ること自体には反対はしませんが、支援者側の質を高めない限り(単なる知識だけの問題ではありません)、支援者の疎粗製乱造になっていく危険性を感じます。

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親の会の顧問

 発達障害の親の会を考えたとき、その会がどういう方向性で活動しているかで、会員も多いところや少ないところと様々です。

 私も以前、情報が欲しくてある親の会に所属していましたが、自分の考えていた会のあり方との違いもあり、現在はその会にはほとんど足を運んではいません。

 親の会というところには、たいてい顧問の先生がついていることが多く、発足当時は、学習障害やADHD、アスペルガーなどの診断がついた子どもたちの学校教育への適応というところから始まったのだと思います。

 だから、最初の発足時は、親たちだけでは行政に訴えるすべも分からず、誰か権威者(それも大学の教授陣)がバックについていれば安心だったり、また大学の先生は、自分の研究分野と関連して、目の前の発達障害児へ対応について何らかのノウハウを持っていることが多いため、わが子の指導などに期待する親の側の思いもあったのかもしれません。

 ある親の会のテーマは「SST」(ソーシャルスキルトレーニング)を中心とした活動だし、別の親の会は「特別支援教育」に対応するための「個別支援プログラム」を大学の研修室に通って(希望者)勉強を教えてもらうことを重きにおいており、そのほかは月1回の親どうしの交流や子どもを交えての行事開催などが行われます。

 私の入会していた親の会は「学習障害児の親の会」で、顧問の教授も、「特別支援教育」が専門で自分の研究テーマを、親の会の中で希望する親子を募り、学校とは別に大学の研究室で個別学習をしていただけるという活動もしていました。

 もちろん、同じ障害を持つ親同士の情報交換という意味合いも親の会の本来の目的ではありますが、「個別指導」をしてもらいたいがためにこの親の会に入ってくる人も中にはいらっしゃいました。(私は参加しませんでしたが)。


 ある年の親の会総会でその顧問の先生の講和を聞いたときに、なんかちょっと違和感を感じてしまったことがありました。

 「自分ほど発達障害児の個別支援教育に精通している人間はいない」
 「個別支援教育プログラムを考えるには、発達検査が不可欠。それもしない教員に満足な指導はできない」
 「○○市の不登校者は一番多い。○○市は自分を発達障害関係の研修会に呼んでくれない。私は○○市から嫌われている。」
 「××市は、市長が変わったから発達障害支援を積極的にしようとしている。そこの○○中学校をモデルとして、自分が招聘され、これから教育改革をしようとしているところだ。○○市は××市と違って、教育委員会が私の研修は受けるなと各学校にお触れを出しているということをある筋から聞いて、頭にきた。だから○○市の不登校者が年々増えているのだ。その大半は発達障害児だ」

 自分がそういう子の支援教育に関われば、発達障害の特別支援教育が成果を上げるとでも言いたそうな話でした。
 
 おまけに、わが子の通っていた小学校の名前をあげたら、「そんな学校、お呼びにもかからないし、知らない」と。わが子の担任だった先生は、発達検査なんかしなくても、きちんと子どもの特性に応じた配慮をしてくださった先生で、子どもの信頼を寄せていたので、小学校時代はそれなりに支援してもらっていたと思うのですが・・・。

 自分の研究題材として、自分の業績にプラスになるから顧問を引き受けているのであって、発達障害児やその親の苦労や生きにくさに必ずしも共感しているわけではないのだろうなあと感じられるようなコメントでした。
 
 また、最近の親の会に参加する親たちも、とにかく学力をつけさせたいから個別支援をしてくれるという情報を聞きつけて、親の会に入会したというような理由が大半なようです。

  それに発足当時の子どもさんたちの年齢の成人に達しており、中にはもちろん脱会した方もいらっしゃいますが、成人した後も会に参加している親御さん、また新たに診断がついたといって入会してくる幼児期の子をもつ親御さんと、年齢幅も大きく、親の会の活動としても、どこの年齢にターゲットを絞っていくかで、親の関心もまちまちです。

 それぞれに親の会に対する期待も違うだけに、みんなが同じ想いを持つことはなかなか難しいものがあるようにも感じます。
 
 本来親の会とは、わが子の不安や愚痴をこぼしあう場だけではなく(最初は確かにそういう部分もありますが)、参加することで親もわが子を見る目を養い、親の姿勢や価値観など考え合い、親としての学びの場として高め合っていけるような会であればいいのになあとも思います。そして、その目的意識を会に参加するすべての親が共有してくれるかというのがなかなか難しいものもあります。

発達障害の援助を考える

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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(引用)
●学問は変化する
・専門家や学者のせりふが正しいとは限らない。
・専門家というものは、ついこの前まで正しいと言っていたはずの判断や基準を次々と塗り替えていく人たちだ。
・学者は、現在正しいと信じられていることを否定するために仕事をしている。

●発達障害への注目
・発達障害の分類や鑑別はたやすくはない。現在のところ私たちは行動の特徴から診断を下すしか方法がないのが現状である。
・発達障害の症状は年齢によって変わっていく。次々と新しい「症状」が出ては消えていく運命にある。
・熱心な臨床家は新しい「症状」を見つけるたびに、新たな他ターゲットの出現を見て闘志を燃やしているようだが、どこか自己満足の気配すらある。
・発達障害の症状の多くは、彼らが生活をしていくなかで、さまざまな刺激にぶつかることで生れてくる波しぶきのようなものである。優先されなければならないのは、波しぶきを消すことではなく、援助はあくまでも手助けに過ぎず、波の抵抗が小さくなるように手伝うとかいった方法で応援するのが本分なのである。
・援助者の目が発達障害をみるまなざしであるか否かにかかっている。どんなに優れた技法でも、「症状」を打ち消すことだけを目標にしている限り、彼らの人生を肯定的に見つめることはできないだろう。

●「自立」と発達障害
・子どもの成長を援助しようとする大人たちは、それぞれ「子どものために」一生懸命手助けしているけれど、子どもは必ずしもそんな大人の思惑通りに成長してはくれない。
・「自立のため」という理由づけは、大人が知らず知らずに子どもを追いつめる原因となる。
・成長ということばを使う頻度が減って「自立」ということばを多く使うようになったために、成長途上にあるとの表現が、「まだ自立していない」という後ろ向きな言い方に変わってしまった。
・家族は目の前にあるできない項目を見つけては、「自立できないのではないか」とおびえてしまうことになる。
・親たちがやたらと他の同年齢の子どもたちと比較するのは、不安を解消したいという気持ちから。
・子どもの苦手なところを指摘するのが自分の仕事だと勘違いしている専門家は、親の不安を高めていることに気づいていない。

●実用性の持つ問題
・いわゆる「自立」のための実用的な能力を高めることに集中して、あまりにもストイックに過ごしたために、ゆとりや楽しみの体験が不足した子どもたちには、気持を安定させるために必要な能力を十分に育てられないまま思春期を迎えてしまう。
・幼いときには、楽しさや気持ちのよさを感じ取る能力を最優先に伸ばしてほしい。できるだけ多くの楽しい体験を積み、自分で楽しめる能力を身につけることが、思春期へのもっともよい準備になる。
・もし、子どもが実用的な能力について長けていて生活が「自立」していたとしても、交流を楽しめなければ生活は孤立したものになるだろう。他者との交流に喜びを感じ、相手を受け入れる能力があれば、たとえ実用的な能力に欠けるところがあっても、他者の援助を上手に受けていきていくことができるのである。どちらの生き方を幸せと呼べばよいのか、答えは出ているのではないだろうか。

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子どもをめぐる「援助」の本質とは

 
子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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 以前も紹介しましたが、この本を読んでいると本当に私が考えていた漠然とした思いを、著者の先生が見事に本の中に表現してくれています。

 治療者、特に心理的援助の専門家に向けて多く書かれていますが、子どもを取り巻く「援助者」と言われる人たちに一読していただきたい本だと思います。

 テーマ別に・・・
1「小さな援助論」とは 
・援助は善行でも何でもなく、人が生きていくなかで起こる必然的なかかわりあいに過ぎない。
・援助するという行為はしばしば相手の主体性を奪う。
・援助に限らず人と人との関係は、どちらが主導権を握るかという点で、競合的な一面を必ず持つものである。特に互いの間に能力的な違いがある場合、能力の劣る側が主導権を握ることは容易でない。
・現代はブームと呼んでよいような心理的援助の隆盛だ。
・心理学的援助が高い人気を得ているのは、実は援助の方法を伝える側の専門家たちが、心理学人気の流れに遅れまいと浮き足立っているように見える。
・今日の心理的援助への傾倒には、それを選ぶ人たちの「援助が必要だ」「援助したい」という素朴な欲求の増大が絡んでいるのではないか。
・まるで多くの人の心の奥にある援助的なかかわりを持ちたいという思いが、実現可能性のある道筋を見つけて大きな流れとなって出てきたかのように見える。

2 援助の専門家と侵襲
・社会の構造が複雑になっていくのにしたがって、職業としての援助の提供はしだいに社会システムのなかに組み込まれていく。その結果、個人的な間柄で行われていた援助の場合とは異なった現象が認められるようになった。その一つが援助の効率化である。
・援助が専門化すると、お互い様であるとか立場を逆にするとかいう発想は少し難しくなる。
・職業として行われる専門的な援助が広がることによって、援助の提供者と利用者との間にはっきりした区別ができあがった。そして援助を提供する側の機能だけが援助であると理解されるようになった。さらにそのなかでも、提供者が具体的に何か役に立つものを与えるという部分だけが「援助」と考えられている。
・「援助」の意味から抜け落ちたさまざまな作用が、専門家の視野から消えてしまったため、ふだんの人間関係として備わっていた援助のさまざまな要素は、「援助」の観点では検討されていない。

3 臨床家の仕事と専門的援助
・私たちが学ぶ専門的な援助方法は、あまりに不自然なやり方(しばしば有害なやり方)に思えてならない。
・すべてが専門家のコントロール下にあるならば、それは利用者不在の援助と呼ばれても仕方がない。
・特に心理的援助が社会現象化して強い力をもつことに危惧を示した。この現象の背後には現代人の親密性への欲求があり、それが心理的援助を推し進める強いエネルギー源になっているが、専門家・利用者間の不平等について、無自覚な場合には、このようなパワーが悪影響を及ぼす危険が高くなってしまうのである。
・専門的援助は、援助のある部分に特化することで、効率的に援助を行おうとする方法である。

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ある障害者の訴え

 ある障害者の市民の方が、今回の震災で、当市の障害者へのフォロー体制の不備などについて感じたことを県の方に電話で訴えました。

 たいていそういう時は、当事者に内緒で管轄の自治体に電話が入るように内々ではなっています。

 そして、受け取った部署の方では、誰がそういうことを言ったのかといろいろ検索し、相手をつきとめようとします。

 ふつうは「こういう意見があったので」と県としては事実を教えてくれるだけなのですが、受け取った当方としては、それを踏まえてどうしようかと、対策を練るような方向に話が進めばいいのですが、実際にはそうはいかないようです。

 「この人って、いつも何か言ってくる人だよね」で終わりです。

 確かに公の上部機関に物申すくらいだから、問題意識も高く、改善を願いたいからこそ県からも市に助言しほしいという意図で要望するのでしょうが、それを受ける側が「クレーム」と取ってしまうか、「難しい要望」だけど何とかしようと思って動くか、そんな意見ににつきあっていられないと無視するかのいずれかになりがちですが、一人の意見って本当にそういう形で処理されてしまうものなんだなあ、特に行政というところは・・・。
 
 個人での訴えがいかに弱いものか、個人の訴えはほとんどの場合あまり相手されにくいようです。


 民間だったら、クレーム専門の受付があり、クレームを言う人は大切な顧客という認識のところでは、クレームからまた新たなアイディアや発想も生まれるというものですが・・。まあ、クレームまでとはいかなくても、消費者窓口というのもあって、お客様の声を商品や企業環境に反映する姿勢がある会社はしっかりしているところが多いものです。
 
 仮に、その意見を受けて、いろんなことを課題意識を持って解決していくためには、本当に関係部署間の連携や協力体制が必要不可欠なのですが、それぞれの部署ごとの考えの違いによりまとまらなかったり、公務員にありがちな自分の時はそんなに頑張って奔走しなくても次の人が考えればいいというような他人任せになりがちだったりする傾向があります。

 
 いろんな障害者団体として要望書を提出したりする方が、個人で動くよりは意義が大きいかもしれません。でも、個人の意見ではあっても、それが的を得た内容であれば、安易に意見を言った人の人格をどうこう評価する前に、真摯に受け止める姿勢を持つことって大事なんじゃないでようか。

 もちろん公務員みんながそういう人ばかりではないけど、たまたま受けた部署の上司がそういう考えだと、周りの部下も「大きく声をあげる人」に追従しなければいけない雰囲気になてしまうから、そ担当部署の上司の考え方というのも大きいです。

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子どものための小さな援助論

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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 新聞の書評欄のコメントを読んで是非、読んでみたい本の一つでした。

 (書評より)筆者は児童精神科の医院を開業している50代の医師。心のトラブルを抱えた子どもたちの日々に接しているバリバリの臨床家である。その人の心に浮かんだ思いを評論的記述で書き著したものです。
「私の学ぶ専門的な援助方法は、あまりに不自然(あるいは有害)ではないか」
 発達障害や摂食障害、不登校の子らとの一筋縄ではいかない関係を語り、「自立」「社会参加」の隆盛に疑問を投げかけたものです。



 刊行によせてのページには青木省三氏が次のように寄稿しています。

 「臨床について書くと、臨床がダメになる。人に知られるような臨床家になると、その人を頼りに患者さんが訪れ、患者さんの数が増え、診療の質が低下する。」
 「彼の診察は賑やかで、診察室からは子どもたちの笑い声がよく漏れ聞こえてきた。彼は子どもをよく笑わせ、時にはけしかけ、彼と出会って、子どもたちは元気になっていった。振り返ってみると、いつも子どもの側、弱い者の側から、治療や援助されることとはどういう体験か、と考えていたように思う。治療や援助は単純によいと言えるものではない。治療者として安易な満足におちいらず、治療や援助のもつ本質的な不平等性について、いつも目をそらさずに考えていた。」
 「だからこそ、精神科治療や心理療法が社会に受け入れられ始め、これからの発展を多くの人が期待していた時代に、治療や援助は単純によいと言えるものではなく、小さな治療や援助こそが大切であるという、時代の流れに逆向きな姿勢を貫いてきたのである。精神科医や心理臨床が肥大し、社会のあらゆる問題が精神医学化、心理学化されかねない現代において、彼の考えと姿勢が改めて価値をもつ。精神医療や心理臨床に対する、警鐘を含んだ提案であり、治療や援助の本質論である。」
 「小さな治療や援助」とは、治療や援助のもつマイナスを自覚するということだけでない。もちろんクライエントと正面から向き合わず、身をかわすような治療や援助を行うということでもない。「小さな治療や援助」こそが、実は援助される子どもや大人に、不要な傷を作らず、自尊心を損なわず、主体的で能動的な姿勢を育む治療や援助になるという思いと願いが込められている。


 本文より一部分を引用します

 援助に限らず、人と人との関係は、どちらが主導権を握るのかという点で、競合的な一面を必ず持つものである。特に互いの間に能力差がある場合、能力の劣る側が主導権を握ることは容易ではない。

 子どもという宿命に思いを投げかければ、援助はできる限りさりげなく、慎重に差し出されるほうがよいと思う。援助が相手の運命につけ込んだ行為であるという側面に対して、援助者はもう少し自覚的であってもよいのではなかろうか。
 この世に負の面をもたない正義の援助というものはありえない。それにもかかわらず、相手にとって必要だという理由から、あるいは負の影響を想像することへの怠慢から、知らず知らずに無作法になっていく怖さが援助者にはつきまとっている


 援助を行うことを目的とする専門職が次々と登場し、資格化されちる。多くの人たちが援助に興味をもち、援助職を目指している若者たちの数も増えているようだ。
 援助が力を持つということは、一見喜ぶべきことに見えるかもしれない。しかし、援助がさほど簡単な単純な代物でないことも忘れてはならない事実なのだ。

 パワーのある援助はパワーの強いぶんだけ悪影響も強くなると考えられるだろう。つつましさを忘れた援助の隆盛は、純粋な援助者の思いとはうらはらに、痛々しい結果を引き起こすのではないか。無自覚な援助の肯定は、その危険に気がつかないままに理不尽な援助を増殖させてしまうのではないか。このような懸念が、この「小さな援助論」を展開しようとする出発点である。 援助を職としているにもかかわらず、筆者は(技法の是非だけでなく)援助と言う関係そのものに危うさを感じている。



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支援者の傲慢さ・・(3)

 病院勤務の頃の出来事です。
 
 ある高齢の男性患者さんのリハビリを若い女性作業療法士が担当しました。
 
 初日の訓練とあって、まだ病気の後遺症もあり、覚醒はしていても、リハビリ指導に対しての反応の鈍さもあり、担当の作業療法士は、さかんに声掛けをしながら進めておりました。

 しかし、その声のかけ方や、指導の仕方には、どこか、高齢者、患者さんを見下した言動がちょっと気になりました。患者対治療者という構図。自分のやり方に従ってもらわないと困るといった雰囲気の会話。

 
 私の担当の患者さんをベッドサイドへ訪問したとき、ちょうどその男性の高齢者も同じ病室でした。
 その時、口から出た言葉は、「○○(作業療法士の名前)って女はこしゃくな女だ」と独り言のように呟いていました。よっぽど訓練室での言動が腹にすえかねたのでしょうか。
 
 そして、訓練室では、脳の後遺症で認知的な面の弱さがあると評価していたのかもしれませんが、病室で見せるその方は全然認知症もなく、逆に極普通の高齢者の姿でした。

 たまたま気乗りしないリハビリに積極的な態度で取り組んでいないように作業療法士にはみえたのでしょう。叱咤激励の意味も込めて指導的言動を多く発していました。

 自分の孫ともいわれてもいいような女性に、むしろ子どもを諭すような言い方をされたその患者さん。リハビリ室では何も反論せずに、反応も少なく接していたのは、理解していないからではなく、きっと意地でも指示に従いたくなかったのでしょう。患者さんの反抗だったかもしれません。

 私たちは、目の前の患者さんと関わるとき、無意識のうちに治療者としての自分を優位に立たせてしまうとするならば、そんな態度や言動が相手にも伝わってしまいやすいこと、「小娘にばかにされた」と感じさせてしまうこちらの態度こそ改めなければならないのだと思います。そんなことを感じました。

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支援者の傲慢さ・・(2)

 市民後見人養成講座を修了した人たちの一部がNPO法人を設立して、これから本格的に活動しようとしています。各自治体にアンケートを取ってニーズの把握に動いています。

 先日、NPOの担当の人がうちの行政の窓口に来所され、今後自分たちのフィールドの場があるかなどについて聞き取りに来ていました。
 担当の社会福祉士は、最初から「市民後見人」に対しては否定的なので、来る前からぶつくさ言いながら、対応していました。
 結局は、うちの市ではあなたたちには用はないというようなことをやんわりと説明したようです。
 自分の席に戻ってきて、「いったい何様だと思ってんの?。まったく退職公務員の人の退屈しのぎの活動なんでしょ」と言うような言葉を発して。

 これから国の動きとしても市民後見人は増やしたいと考えているようなのに、「あななたち素人には何も分からないのよ」的な発想です。

 同じ養成講座を受講したある市の行政で働く社会福祉士さんは、市民後見人を育てて一緒に活動していきましょうという前向きな姿勢の人でした。

 同じ社会福祉士でありながら、この違いは一体何なのでしょう。自分の縄張りを侵されるとでも思っているのでしょうか。専門職が陥りがちな、新しい団体への批判的態度。自分たちの団体こそがこの活動にはふさわしいと考えているため、同じフィールドに入ってくる新興の団体は排除したい心理が働くのでしょうか。

 市民後見人といっても、まだまだいろんな面での学習や研鑽が必要なのは当たり前ですが、それでも関係団体が一緒になって同じ目的に向かって活動していくまでには、このような個人的・あるいは職種勘の縄張り争いなどが絡み合ってなかなか現実にはうまくいきそうもありません。

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支援する者の傲慢さ・・・(1)

 以前自己研鑽の目的で、社会福祉コースの通信講座を受けたことがありました。そのカリキュラムの一つにボランティア体験学習というテーマがありました。ある機関を通じて、成人した筋ジストロフィーの男性のボランティアをさせていただく機会がありました。
 
 物心ついたときから施設の中で生活していたその方は、成人に達した時「このままこんな自由のない施設でこの先もずっと暮らしていくのはもう嫌だ」と思ったそうです。しかし、両親は年取って行くし、退所には反対。今でこそ、障害者も地域に出て社会参加をしている風景は多くなりましたが、まだまだ世間的には多くなく、さきがけの時代だったかもしれません。

 地域に出た時に第1に考えるのが「住居」です。彼は1階が障害者専用のアパート、2階が健常な人たちのアパートとといった集合住宅を見つけ、そこに入居しました。そこに住む健常な人たちも、自分ができる範囲で階下に住む障害者の人のケアや介助をすることを条件に入居ができることになっていました。当時としたら画期的なアパートだったと思います。

 たまたま紹介されて関わらせていただいたその筋ジスの男性の方は、ヘルパーさんや2階の住人さんたちから24時間介護の支援を受けながら一人暮らしをしていました。

 日中はパソコンで打った通信を外部のひとに届けるため、電動車いすで一人で街まで出かけて行く生活。自宅内での日常生活のほとんどは人の手を借りなければならない生活でしたが、施設にいた時よりもたくさんの「自由」を満喫しているように思われました。

 その方は、自分のケアのされ方について、たとえば顔をタオルでふく行為ひとつをとっても、タオルの絞り方、タオルの温度、顔の拭き方(拭く順序や強さなど)にもひとつひとつに細かい要望を私に言いつけてきたのでした。
 また、食事の際の食器の置く場所、スプーンの角度まで、細かく注文、それがすべての日常生活の行為に及ぶのでした。

 障害の特性上、手足の筋肉が委縮しているため、ほとんど生活動作として使うことができません。当然、介助者がその手足となってならなければ一人で行なうことはできないのですから、介助者は彼の満足するような介助をして差し上げるのが当然のことです。

 しかし、初対面で会って、いきなり遠慮もなくなんでも堂々と「こうしてくれ」「それはちがう」「もっとこの場所に置いて」「もっとこうして」・・・とこまごまと指図されることに、その時は相手の立場になって考えるより先に、自分がこんなにやってあげようとしているのに、少しはありがたいと思ってくれてもいいじゃないなんてそんな邪な感情を持ってしまったのでした。

 その時は私は「ボランティア」を志願したんだから、少しは私にも感謝してほしいという、自分が癒されたい心理状態があったからかもしれません。障害を持つ人を健常な自分が「支援している」ということに自己満足を持ちたかったのかもしれません。

 でも、彼にとっての介助は、あくまで自分の手足となってくれる人でないと困るのです。それも、自分の生活習慣上のやり方をきちんと守って実行してくれる人でなければ困るわけです。そうしない介助が彼にとって、不快な刺激になるからです。

 障害をもつ人にとっての「自立」とは、自分の生き方を自分で選ぶ「自由さ」と、自分のできないことには介助の下でしっかり自己主張をしていくこと、「こうしてほしい」「このような介助をしてほしい」と自分の存在をしっかり相手にも理解してもらえるように主張していくことも自立した障害者の在り方なのだと思います。

 私は彼のその思いを頭の中では理解していたつもりではあったはずなのに、実際関わってみると感情のところで自分自身がそれを受け入れることにどこか抵抗感があることに気づきました。

 もともとは講座のカリキュラムのためのノルマだったということもあり、1回のボランティア体験で終わってしまったのでしたが、私はその時自分がいかに「偽善者」であるかを思い知らされました。

 ケアをするということの意味・・・「してあげる」という発想からは相手と自分との間に対等な関係は生まれない。
 しかし、ヘルパーさんなどのように「仕事」として関わる人が良く言われる「ケアさせていただく」というほどへりくだるほどでもなく、「ボランティア」として関わる場合、障害を持つ人と自分とはあくまでも対等な関係にあるということ。そこから本当の意味でのボランタリーな形のケアが可能になるのだと思いました。自分はその時はまだそこまでの境地にはなれませんでした。

 人が人を支援する、それも「ボランティア」として支援するというとき、ボランティアする人が相手を支配し、優越感を得ようとしていたり、人を助けたいという偽善の精神や邪推な心が少しでもあるならば、本当のボランティアにはなれない。

 若かりし頃の反省から得た学びです。

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生活から見える親子関係

 仕事柄高齢者やその家族と関わる中で、親子関係の問題が色濃くその根底にあると思われるケースに遭遇することがあります。

 Mさんはひとり暮らし高齢者です。もともと旧家に嫁ぎ、立派に主婦をこなしてきました。子どもさんたちも立派に成人し、それぞれ結婚して独立していました。
 旦那さんを亡くしたあと、一人暮らしとなりましたが、ある日背骨の圧迫骨折を受傷し、入院。その頃から精神的うつ症状が出現し、退院後はしばらく嫁いだ娘さん夫婦のお世話になることになりました。
 入院中に介護保険の申請をし、要支援の認定がでました。
 しかし、一緒に暮らした娘さんにも、もともと精神的不安定さがあり、娘さん自身も家事はいっさいできず、横になっている生活でした。だからそこへ母親であるMさんが居候をしてきたことがますます娘さんの精神状態を悪くしてしまい、同時にMさんも同様にお互いにとっては悪循環奈生活になってしまいました。娘さんの旦那さんがなにかとケアマネジャーとの間に立って奔走されていました。
 
 このままではお互いにダメになると思われ、同じ不安ならば、ヘルパーを入れて自宅で一人暮らしの生活に戻ることをケアマネジャーより提案され、それを実行してみることになりました。腰の状態もだいぶ落ち着いてきていました。

 その後、自宅生活となり、定期的に訪問するケアマネジャーや民生委員さんには、「やっぱり一人が一番気楽。近所の人が毎日野菜や食材を持ってきてくれるし、友だちも頻回に訪ねてきてくれるから寂しくない。」と言っていたので、ケアマネジャーも安心していました。
 
 しかし、毎日ヘルパーが訪問してみると、近所の人が食材を持ってきている気配はなく、冷蔵庫も空っぽ。毎回血圧を測ると低血圧で上は78のこともあったとのことでした。
「ご飯たべていないんじゃない?」と聞いても、「きちんと食べている」と。しかしベテランのヘルパーの見立てでは、2~3日何も並べていないような感じだというのでした。それに以前は調理師として勤めた経験もあるから絶対調理はヘルパーには頼まないとのこと。
 「近所の人が卵をたくさんくれたの」と言う割には、買い物で頼むのは「卵を買ってきてくれ」。「卵もらったんじゃないの?」「近所にの人にたくさんありすぎてあげた」との理由。

 ヘルパーさんから見ると、本人が言う割には誰も訪ねてくる人もいないようだし、訪問すると一人でボーっと過ごしているとのことでした。。

 ケアマネジャーさんがとらえている利用者像と、毎日行くヘルパーさんがとらえている本人像のギャップが大きくMさんもヘルパー・ケアマネジャー・民生委員とそれぞれの人を見て違うことを話しているとのことで、周りがその情報に振り回されているような状況でした。

 それに別居している長男も訳あって早期に会社を辞めてしまい、妻子とも離婚し、今は住所不定の身となっているようでした。入院中に介護するために一時期離婚後自宅に戻ってきていましたが、Mさんの通帳から貯金の大半を引き出していたことが後になって判明し、それがきっかけでMさん自身も精神的に困難な状態に陥ってしまったのでした。
 
 娘さんも精神を患い、息子さんもいろんな事情があったであろう生活。

 このMさんのふるまいを客観的な目でみるに、かなりプライドも高く、旧家という誇りや見栄あるのでしょうか。いろいろと本音で語れない部分や、娘さんとの一時の生活でもほとんど心を通わせることが無いまま、お互いにストレス過多になってしまったようです。

 自分のプライドや見えなど、これまではそういうものがあったから生きてこられたとも言えるのかもしれませんが、やはり根底には親子の問題と言うものが根深くあるのかなあと推測してしまいます。
 一見、裕福な家庭だったり、外見からは何も問題なく幸せに暮らしていると思われる家庭の中にも、親子の確執がある場合、しばらくは何事もおこらないけど、親が高齢になり、介護が必要になったらこれまでの親への恨みつらみが噴出して、介護拒否という場合も少なくありません。

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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