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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

本当の特別支援教育とは?

 少子化の世の中なのに、なんでこうも「発達障害」と診断される子どもが増えてきているのでしょうか?

 確かに昔は「ちょっと個性的な子」と思われていた子も、それなりに社会に適応し、最終的には親兄弟や親族の助けも借りながら人生を送ってきていたと思います。
 
 
 「特別支援教育」=「ひとりひとりの個性を重視した教育体系」といううたい文句も、本当に発達障害の子どもたちにとって支援につながる教育なのか?

 最初から「発達障害」といわれる子どもたちの「特性」を活かした教育なんて名ばかりで、実際は文部科学省が示す学習指導要領をそのまま踏襲し、学習の指導法も現場の教師にお任せで、あくまでも「左脳」を中心とする教育指導のなかでしか教えられない教師たち。

 当然、目の前の「右脳」優先の子どもたちにとっては、教室という空間さえもが「過ごしにくい場」ともなってしまいます。

 一斉に一人の教師の発する言語を聴覚で聴きとり、また同時に視覚で黒板の板書を書き移す。中には感覚過敏な生徒の場合は他のクラス内の大勢の生徒のざわめきは刺激が大きすぎて、それでなくてもパニックや多動になる子さえ存在します。

 普通の子どもたちに教える方法でしか、学習指導要領は書かれていないから、それぞれの子(個)の脳力(脳のしくみや思考回路)に応じた理解の仕方には目もくれない(例えばインド式算数の計算の仕方などもあるがそっちの方が頭に入りやすい子の場合もある)。

 発達障害を専門にしている学習塾経営の方が言っていました。「学校では文科省の学習指導要領をそのまま律儀に踏襲して、目の前の障害を持つ子に指導しても、もともと頭の理解の仕方が違うのに、却って混乱を招くもとになっている。」
 「大学で“特別支援教育を学んできました”といっても、実際にこういう子たちを前に教えると使い物にならない先生は沢山いる」と・・・。また「障害児教育といっても、所詮最初から“こういう子はここまでしかできない”という知的能力の限界が先にあり、才能を伸ばすとか学力を伸ばす指導法など教わってはきていない学生がほとんどで、そういう人たちが教師となり学校で障害児を教育しているのだ」と・・。

 発達障害の子どもさんの中には、特別に右脳が優れている人たちも多く、芸術分野で秀でる人たちも中にはいます。
 しかし、そういう人でも、幼少期や学童期は必ずしも「優秀」だったかと言えば、エジソンもしかり、山下清もしかり、みんな教師からは「馬鹿」と言われたり「問題児」と思われたりしてきた人たちです。
 しかし、エジソンの母親が息子の興味関心を大事にし、「この子は素晴らしい才能がある」と信じたおかげで、また山下清の絵をある大学教授が「素晴らしい絵」と認めたことで、彼らの才能が大きく花開いたという事実があります。(認める人の存在がなかったら、山下清も単なる放浪癖のある知的障害者で終わっていたでしょう)
 決して、学校教育の「おかげ」で能力が発揮できたわけではないのです。
 何か一つの才能(とまでいかなくても、得意な分野)を強化することで、彼ら自身も「自信」が湧き、ますます「やる気」をおこし、ひいては世の中に貢献できる業績に結びついたわけです。

 もう、学校教育のやり方に「発達障害」の子どもたちを合わせる教育ではなく、教育のやり方を「発達障害」の得意性を伸ばす方法に変えていかない限り、いつまでも「算数が苦手」だの、「読み書きができない」だの、そんな次元の部分だけを頑張らせようとするあまり、二次障害を引き起こしたり、ますます社会への生きにくさを抱える子ども(⇒大人へ)たちを作ってしまうのではないかと感じています。

 知的に高い発達障害の場合は、学力的な部分はクリアーしても対人関係のつまずきで職場になじめず、結果的に二次障害になったりうつになったりしてドロップアウトする人たちもいます。そして挙句の果てには「精神障害」というレッテルをはったり、一般就労の場がなければ仕方なく「精神障害者手帳」を取らせ「障害者雇用」での就労の場を確保したり、障害者として福祉的就労の場に紹介されるような道しかないように思えます。


 今の、学校教育は、将来の企業就労やこれからのグローバル社会で生きぬくための国際力を身につけさせるための目的があるから、結局はそういう一部の適応できる子どもたちにとっての教育であり、発達障害児の「一人ひとりにある独特な個性」を重んじる教育にはなっていません。

 わが長男も、絵を描くのが得意で、自閉傾向のあるお子さんに共通な「一度見た風景はすべて頭の中にインプットされており、細部を思い出して(何も見なくても)細かく再現して描く」能力があります。
 彼の描く絵は、一般に学校教育の美術の単元で指導されるような絵ではありません。また学校の美術の時間の課題として出される絵には興味を示しません。
 しかし、彼の絵を見る人たちは、「すごい才能があるね。こんなに細かくどうして描けるのか?」と驚嘆します。学校教育の美術ではアウトサイダー的な彼の絵は評価されません。学校の教師たちも、彼が自由に描く絵は誉めてくれても、じゃあ、それをもっと伸ばしてあげようという発想にはならないのです。(中学校の特別支援コーディネーターの先生は美術の先生なのにもかかわらず・・・)

 彼の絵をある方にお見せしたところ、その先生は「凄いじゃないですか。こんな絵を描けるのはサバン症候群の特性があるかもしれない」ともおっしゃってくださいました。そこまで大げさなものではないかもしれませんが、親としてはそういう目で評価されることは非常に嬉しいものです。
 たぶん、そういう部分をもっと周りも評価し、学校の中でも教師や生徒同士も「得意なもの」を大いに認め存在を認めてもらえるならば、学校に行くことだって苦痛ではなくなっていたかもしれません。

 こういう子たちは(わが子に限らず)独特の世界観や芸術性を発揮できる潜在能力を秘めていると思います。そういう「キラリと光る」才能を早いうちから見出してあげ、「普通の子とは違うカリキュラムで、個性を伸ばせる教育」をしてあげたならば、自尊心も高いままでいられるだろうと思います。

 「ひとりひとり違ってみんないい」なんて表面的な標語だけが独り歩きしたまま、学校教育は何にも変わっていません。
 
 ある養護学校の教師が、以前職場に養護学校卒業後の進路についてのお願いにやってきたことがありました。
 聞こえてくる会話は、「いやあ、養護学校を卒業しても、雇ってくれる職場も少なくて・・。福祉作業所くらいにしか行き場所がないだよ、ああいう子たちは・・。」
 養護学校の教師ですらそんな意識です。「ああいう子」という表現にもとても違和感がありました。

 今の、文科省の学習指導要領や日本の障害児教育、発達障害児を対象とした「特別支援教育」のありかたを根本から見直さない限り、この子たちを取り巻く社会や世間の目は変わっていかないでしょう。

 税金が納められること(それは必ずしも一般企業への就労だけをめざすのではないのですが)、それぞれの能力の範囲内でお金に変えられる職業を見つけだしていくこと、それがどんな分野であっても発達障害の人たちも特異を得意に変えられるように・・・。
 学びの方法にも彼らなりのやり方で学んでいける仕組みづくりが今、本当に問われているのだと思います。

 ある人が言っていました。「発達障害の子たちも税金を払える社会にならなければ・・。」「いつまでも社会のお荷物的存在、施しを受ける存在では日本の経済的にも維持できない社会がいずれ来てしまうかもしれない。」「これからの企業は、こういう子どもたちにも目をむけ、働ける場を提供していかなければ企業の社会貢献度も評価される時代にきている」と・・・。

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カウンセリングマインド再考

先日、ある講座に参加しました。

 テーマは『心理主義化する社会~新優生学時代の生老病死~」
 講師は、和光大学名誉教授、子ども問題研究会代表 篠原睦冶さん 

 先生はもともと東京教育大学で特殊教育や臨床心理を学び、外国留学もなさったが、いろんないきさつや先生自身の価値観の変化などにより、河合隼雄先生たちが唱えた「臨床心理士の国家資格化」運動へ反発し、心理学業界で論争になり、臨床心理士会とたもとを分かち、「日本社会臨床学会」を立ち上げた人。

 そのご自身の73年のこれまでを振り返り、「障害」とは?や「心理学」への思いや自身の人生の中でなぜ今のような考えに至ったかなどのお話を雑談的にされました。

 アメリカ留学時代の黒人と白人間の差別、またご自分が熱心なクリスチャンだったこと、両親との関係(男尊女卑的な父親の育て方)、心理テストの弊害・・・。
 
 忘れられない出来事として語られたのが、以前普通学級か養護学校かの進路に悩んでいたある親子の心理テストやカウンセリングに仕事を通して熱心に関わっていた時代、その子が「就学指導委員会」にかけられたときに、心理の専門家としての立場から、(知能テストでは普通学級レベルではなかった)「養護学校が妥当」と助言したとき、その親は「(一生懸命に関わってくれた)先生の言うことだから、間違いではないだろう」とのことで、結果的に養護学校を選択した、しかし、その子は、これまでの仲の良かった地域の子が行く小学校とはひとりだけ反対方向に向かうことになる。
 後で、その子がぽつんと「僕は、ふつうに生きたい」と言ったその言葉がとても印象的に残ったと話されました。(ふつうの意味は「知能がどうであれ普通学級のある地域の小学校に行きたいという意味と、みんなと同じように障害があっても「普通」に地域で生きたいという二つの意味があったと・・)


 そこで、先生は知能テストでその子の人生を分断することへの違和感や、心理学分野がこれまで障害をもつ親子をこのようにコントロールしてきたのではないかという反省から、専門職としてのご自分の立ち位置について同じ心理学の視点から反論していく作業をこれまでなさってこられました。
 
 ひとの「こころ」を読み解くような「カウンセリング」や「心理テスト」至上主義化する昨今の「こころ」を商品化するブームへの反論。

 特に最近は、東日本大震災、さらに生活習慣病としての「うつ」など「こころのケア」として「心の専門家」としてのカウンセラーがまるで心の治療者のようにとりあげられています。
 そして人として関わる立場にいて「センセイ」と呼ばれる教師や福祉職、さらには人間心理を探求する宗教者まで効率的なカウンセリングのスキル習得に、心の専門家をめざしてはいないでしょうか。

 人は日常の中に生き、人と人との関係性を育てることで互いが信頼とつながりを宿し、どんな状況化にあっても「生きる意味」を失わない踏ん張りの心を身につけていくと思います。関係性の原点に還るカウンセリングマインドをひとりひとりが身につけることこそ、今の時代に求められているのではないでしょうか。


 参考図書:篠原睦治著:『「できない」子の側の生活とことば』『子どもに学び、子どもと共に』『障害児観再考』『脳死・臓器移植、何が問題か』『教育=共育』など。心理テスト、発達論、カウンセリングに対する発言には鋭くも人間的やさしさがある。

 
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孤立死について思うこと

 昨今、高齢者や障害者(児)の「孤立死」問題がマスコミや新聞紙上でも取りざたされました。

 札幌の姉と障害者の妹の孤独死、東京立川市の母親と4歳の知的障害のある子どもの孤独死、横浜の高齢の母親と40代の重度の障害を持つ長男の孤独死・・・。

 こういう事件がおきるたびに、地域力が問われたり、行政や民生委員は何をしていたのかと責められたりします。
 個人情報の壁もあり、なかなか情報の共有というものもうまくいかないこともあります。

 札幌市が今回の姉妹の孤立死問題を受けて、公的福祉サービスを受けていない知的障害者約1200人を対象にした生活実態調査では、市が再発防止として検討している民生委員の訪問につて、8割以上の人が「希望しない」と回答したと新聞記事にありました。

 「子どもの障害を知られたくない」「どこかで情報が漏れてしまうのではないか」といった懸念を示す意見が大半だったようです。

 また、今回の調査結果ではありませんが、発達障害の子を持つ40代の男性は「幼少期から小学校などでいじめられてきた不信感は、簡単には消えない」とし、「民生委員とはいえ、子どもの障害について、積極的に近所に知らせることには抵抗がある」と話したということも書いてありました。

 立川市の母子の孤立死の場合は、母子と関わった四つの課でいずれも課内の情報共有や連携、母親の健康状態の把握などができていなかったとする中間報告をまとめました。
 「母親はSOSを出していたのに見逃した」との指摘が相次ぎました。

 福祉の手続き(児童扶養手当や障害認定の申請など)や母親の体調不良の際に預ける「ファミリーサポート」の利用や保育園入所の相談などもしていました。3歳児検診の際には「母として精いっぱいやっているのに、『○○してください』『○○した方がいい』と言われることがストレスでつらい」と話してもいたようです。

 そんな母親の事情やSOSを知りながらも、行政は結果的に表面的な支援にとどまり、一歩踏み込んだ対応ができなかったと中間報告の結果をまとめています。

 行政はどうしても縦割りになりやすい。この母親のように福祉や保健(子どもの健診や自身の健康など)の窓口にはそれぞれ立ち寄っているのに、結局は内部の縦割り組織の弊害もあったり、健診でも表面的な「指導」ばかりで本当にこの母子の生活全般を支援するスタッフがいなかったことも背景にはあるのではないかと感じます。
 
 生活の実態をみないで、「お母さん、頑張って!」的な「○○しましょう」という「指摘や指導」だけでは、それでなくてもいろんな課題を抱えながらも一生懸命に頑張っている母親には、ストレスにしか感じなかったでしょう。だったらもう相談に行きたいとは思わなくなるでしょうし、そういうことを踏まえず「もっと積極的に相談してほしかった」などと、こちらが言える立場でもないでしょう。

 また、民生委員の役割が大きいとはいえども、仕事をしていて感じるのは民生委員も「地域住民の一人」であり、民生委員もいろんな個性を持った人間であるということ。

 守秘義務が課せられているのに、中には家庭の事情を触れまわる民生委員もいますし、「私が支援してあげている」という上から目線の態度の人や、「ああいう家族がいては困るから何とかして早く施設に入れた方が・・・」と自分の価値観で相手を評価・判断する人など、いろんな「人間性」の中での民生委員ですから、地域住民、ましてや障害を持つ子のいる家族などはそういう民生委員の「個性」が敏感に感じられる場合があります。

 今回の札幌の調査で「民生委員には訪問してほしくない」という回答が8割以上あったということには、どこかそういう部分では内心納得する部分もあります。
 けっしてすべての民生委員がそうだというわけではありませんが、中には献身的な民生委員もたくさんいることも事実ですが、そういう民生委員であってもやはり自分たちの家族が抱えている「障害」の部分を世間に知られたくないという「個人情報」の壁にどうしても阻まれてしまうことになるのだと思います。 

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不審者情報に振り回される社会

 学校からの一斉送信メールが来ました。
 「不審者情報」です。夕方下校途中に、下半身を露出した男性から声をかけられた生徒がいたとのこと。今回が2度目です。

 どうりで最近、パトカーが夕方になると目にすることが多いと思っていたら、こういうことだったのかと・・。

 別に、意図的に子どもたちへ何かしようなどと思って近づく輩は問題外ですが、ちょっと地域の人間として声をかけただけでも、今は「不審者扱い」にもなりかねない世の中。声を掛けたくてもかけられずにいる人たちもきっと沢山いるはず。

 過剰な不安に駆られてしまえば地域そのものがぎすぎすしたものになって、そこからはみ出しやすい人たちがますます生きにくい世の中になっていくような気がします。発達障害や精神障害、知的障害、自閉症などなんらかの障害を持っている人たちも、地域の中に一緒に暮らしており、「世間の人」が「世間の目」で見て彼らを「不審」だとみなせば、それが情報として流される。

ちょうど、購読している本の中に、似たような記事があった(小学校の先生が書いたもの)ので、一部紹介。

 私も、不審者扱いされたことがあります。
 自分の担任している子どもが公園で遊んでいるときに、「おーい」と声をかけたら、周囲にいた小さい子どもを連れたお母さんたちがいっせいに子どもに近寄り、子どもの腕をとり「不審者よ!」的眼差しで私を見たのです。

 「不審者」は「犯罪者」ではないのです。また「不審者」は「害を及ぼす人」でもありません。不審者はあくまで「よくわからない=不審である」人なのです。「不信」ではありません。だから、「おたくは誰?」と聞けば、不審ではなくなるのではないでしょうか?
 「不審者」とラベルを貼る側の、私たちの問題を避けては通れないのです。

 障害を持った人が「不審者」扱いされてしまうことへの危惧、それでなくても、ぶつぶつ独り言を言っている人、ずっと泣いている人など、精神的に不安定なのか、気になるような行動をする人までも、「不審者」扱いしてしまうことがあります。

 精神が不安定であれば、あるいは障害を持っていれば、そりゃ、ちょっと目立つ行動やふるまいをするかもしれないですよ。しかし、なんで「不審者」として見るのか?それははっきりしています。
 今まで、障害を持った人や、精神的に不安定な人たちを「遠くで見たことはある」かもしれないけれど、一緒に生活したり、交流したり、職場で仕事をしたことがないからです。「不審者」だと思うその人の今までの生活が問題なのです。
 
 最近はお年寄りも相対的に増えて、街に多くなりました。そうなれば、認知症や加齢による障害を持って生活する人も増えてきています。そんなお年寄りの行動を不審として「不審者」呼ばわりされても困るんです。ますます居づらくなってしまうでしょう。

 また、誤解を受けて不審者にされてしまうことだってあります。親切に子どもの世話をしてあげようとしたら、「痴漢」呼ばわりされてしまうことも現実にあります。
 でも、親や知人のいないところで子どもを安全に守り、見守ってくれているのはまさしく「不審者=見知らぬ人々」なのです。

 (『おそい・はやい・ひくい・たかい』 NO67  岡崎 勝)
 
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療育生活~その後~

 療育センターに勤務時代に担当した子どもたちの養護学校卒業後の居場所づくりのために、親御さんたちが奔走し、小規模作業所を作りました。

 その後、障害者福祉制度も変遷し、小規模作業所では運営が難しくなるため、親たちの必死の努力で1000万円の資金を何とか作り出し、社会福祉法人を作り、今は「障害者自立支援法」のもとで障害者の居宅介護事業を展開しています。

 先日、その施設に何年かぶりでお邪魔する機会がありました。
  
 当時は1~3歳前後の乳幼児だった子どもたちが、もう20代後半~30代に・・・。月日の流れるのは早いものです。しかし、お母さんたちはあまり変わっていない。久しぶりに出会って当時の思い出がついこの間の出来事のようでした。

 その当時の療育は、脳性まひなどの肢体不自由児の療育訓練を中心に親も子も入所しながら、訓練指導を一生懸命に行っていた時代です。当然、親御さんもわが子への訓練のテクニックをマスターし家庭でも必死でやっていました。

 しかし、肢体不自由に加えて、知的な障害も併せ持つ子どもたちの進路と言えば、養護学校を選ぶケースがほとんどでした。当然、養護学校卒業後の進路も考えなければなりませんが、みんな親元離れて施設入所など考えられず、その頃はまだ作業所といっても、知的障害者たちの受け皿がほとんどで車いすレベルや重度の肢体不自由児たちは自宅で過ごすしか道がなかった時代。
 そんな環境を、親御さんたちはなんとか道をつけたいと、自分たちで資金を出し合い、無認可の重度の肢体不自由児たちの生き場所として作業所を作りました。

 そんな同じ意思を持つ親御さん同士のつながりもあり、子どもたちの居場所ができ法人化したことで、運営面でも多少は楽になり、スタッフも増えていきました。

 しかし、また新たな心配・・・それは、自分たち親も年をとってくる。親亡きあとのわが子の進路をどうするか・・。
 「親離れ・子離れが未だにできない」のだと・・。「兄弟姉妹に頼むことはしたくない」「親子で入所できる施設があれば・・・」

 入浴介助など、公的なヘルパーを頼んでいる方もいますが、まだ4~50代の親は2~30代の娘・息子の介助を一人でやっている方もおります。まだ親も子も第3者の手に委ねることに抵抗があるようです。


 いずれ法人の夢は、「ケアホーム」を作ること。

 今や、障害者を大規模な施設に収容して面倒を見る時代ではないでしょう。地域のあちこちに小集団で、生活できるような「ケアホーム」は今後必要になってくるだろうと思います。

 いくら兄弟がいても、親自身が兄弟には任せられないと、結局親一人だけで抱え込んでいる方も・・。そのこと自体をどうこう言えるものではありませんが、それでも私が関わってきた時代の背景もあり(親御さんたちが一生懸命だったし、わが子の全てを自分が引き受けなければという思いが強かったと思います)、わが子の行く末まで自分たちの手で何とかしたいという思いが大きいのです。

 でも、生れて「脳性まひ」など障害を告げられてから今までの30年余の人生、本当にわが子と一心同体で歩んでこられた親御さんたち。みなさん本当に一生懸命に大事にわが子を育ててこられたし、わが子を思うがあまりに自分たちで作業所を立ち上げ、社会福祉法人化までやってのけた親御さんに敬意を表したい思いです。
 
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自分たちの知らないところで流れる家庭の情報

 ある高齢夫婦と長男の3人暮らし。長男はひきこもり(と周りが評価している)。

 両親は定年退職後、母親の方が徐々に認知症状出現し、別居の娘さんが介護保険申請をしました。
 
 それまでは母親が全て家事を担っていたのが、生活に支障がでたことで息子さんにも介護負担が生じてきて(父親もマイペースな方で、妻の片腕にはなれないらしい・・・)母親の認知症状を息子さんが受け入れられず、その結果時々イライラが生じて叩いたり、ストレスがたまり親にあたるという関係になってしまっているようdした。

 そんなことを娘さんも心配し、ヘルパーさんの支援なども介護サービスの導入も検討するために申請に来たのでした。
 調査の結果、認定は「要介護1」。
 
 しかし、数か月経った今も、本人や親族からのサービス利用の意向もなくサービス未利用のまま経過していました。
 
 そんなとき、地域の住民から「ひきこもりの息子さんがいる」との情報が民生委員へ伝わり、民生委員から福祉の窓口へ「ひきこもり相談」として入りました。

 窓口に出た担当者は、これまでの親子の事情は知らないままに(横の連携もないままに)、その「ひきこもりの息子」だけの相談に対応しようとしていました。

 あとで以前関わった元包括センターの保健師もその情報を窓口で聴きつけ、一緒に対応しましたが・・・。


 一つの家庭について、いろんなルートから相談が入ります。当事者や親族からの相談ならまだしも、このように当事者の知らないところで、勝手に「あの家には引きこもりの息子がいる」とか、「仕事もしないで家でぶらぶらしている」「大きな怒鳴り声が聞こえる」「母親に認知症があるようだ」などなど・・。
 そして、周囲の住民は、当事者に関わることなく直接行政や民生委員に「なんとかしてほしい」と支援を求めてくるのです。

 ひきこもりの子がいようが、地域に迷惑をかけていなければ何も余計なお世話と言いたいところですが、中にはそういうことを周囲にはあえて言わない家庭もあるから、40過ぎの大人がいつまでも自宅にいることに地域の人たちは、何か普通とは違う家庭だと思ってしまうのでしょうか?

 当事者およびその家族にとって、自分たちが地域からそんな目で見られていること、いつの間にか行政のほうに相談が入っていることなんて知る由もないでしょう。

 そして、訪問してほしいなどの依頼があっても、当事者家族への接近のきっかけをどんな切り口で入ろうか?といつも悩むのです。

 そして、いろんな課題がある家族であればあるほど、高齢者部門、障害者部門、児童部門などがそれぞれバラバラな動きで関わってしまうことの弊害が大きいし、横の連携のない支援体制はかえって当事者や家族を混乱させるだけだと思います。そしてそういう情報が一気に係を超えて知れ渡ってしまう・・・。

 訪問記録や経過記録も内部で回覧するわけで、実際そのケースに直接関わっていない職員も、当然「係の一員」として情報が伝達されますし、係間の連携が不十分な部署ではケースの対応もグチャグチャしてしまうことにもなるのです。お互いに相手の担当者を批判し合ったり・・。
 
 本人や家族の知らないところで、私たちの情報もいつの間にか行政や民生委員などにも漏れわたっている・・・。

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「虐待」は愛からおこる

「虐待」は愛からおこる「虐待」は愛からおこる
(2007/03)
富田 富士也

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今の時代、メディアやマスコミ報道もあり、「虐待」ということばを耳にしない日はありません。

 職場でも「児童虐待防止法」「高齢者虐待防止法」「障害者虐待防止法」に基づいた処遇を嫌がおうでも検討しなければならない事態が最近増えつつあります。 

 このような法律ができた「おかげ」で、育児も介護もある意味『やりにくい』世の中になってきたと言えないこともありません。
 仕事柄、そういう事例に出会うこともありますが、当の虐待担当者たちは「来ました」とばかりに「マニュアル」通りに支援や対応を実行しようと奔走するのですが、どうも正直言って、感覚的に「ほんとうにそれでいいのかなあ・・」と思う自分がいます。

 この本を著した著者も同じように感じておられ、そんな思いを抱くのは自分だけではないとわかりどこかしら安心もするのです。

 また、虐待の種類でも、身体的虐待、ネグレクトなど目に見えるようなものだけでなく、心理的虐待(見えない虐待)というものの中には、わが子を思うが故の「支配」なども広い意味では「虐待」といえるものも含まれる・・・。そんな親子の相談や関わりの体験を基にしたのが、この本です。

 (本文より引用)

 氾濫する「虐待」という言葉を前に、多くの親御さんたちがビクビクしています。
 「子育てが不安で不安で、仕方がないんです」
 講演会に講師として招かれると、そんな母親たちの声を耳にする機会が増えました。
 とくに、30代のお母さんたちは、「これも虐待になるのでは・・・」と、子育てに対して腰が引けています。だから、外では「やさしいお母さんですね」と言われながら、周りの視線が届かない家では、子どもに対する感情や行動がコントロールできなくなって、「虐待」寸前にまで来ているという方もいるのです。

 子どもを思う愛情から出る「我慢しなさい」の“お仕置き”や自分なりの躾としての行為までもが「虐待」と言われ、児童相談所に通報されたり、警察に連行され、「犯罪者」扱いをされてしまいそうな気がする、というわけです。
 本来はやさしくて生真面目な親ほど、今、メディアを通して氾濫する「虐待」という言葉の影におびえています。

  高学歴な親たちによる「見えない虐待」の実態

 「子どもの将来を思って」という大義名分の下、親のエゴイズムやその願望を一方的に子どもたちに押し付ける「心理的虐待」は深刻です。そんな親に対しては、周りの人たちも「まさかあのお父さんが虐待なんて・・・」と思ってしまうはずです。私の相談室にも、「見えない虐待」によって、いわゆる「優秀でいい子ども」が突然、不登校や引きこもりになり、その後長期にわたる孤独から、なかなか社会復帰できないケースもあります。

 親も「子どもの将来のため」であり、「虐待」とは思っていないため、どうしても長期化してしまいます。要するに、二重三重の暗幕によって「虐待」の事実が隠されているのです。
 不登校や引きこもりなど子どもが心身にサインを出さない限り、当の家庭に“気づき”はなく、“発症・発生”した時点では子どもがかなり深刻な状態に陥っている場合が多いのです。

 「勉強をさせなければ・・」「きちんとしつけなければ・・・」といった親の「させるべき」「ねばならない」という思いが、「見えない“強迫的”虐待」の温床になっているからです。子どもにエリート家族という大義名分の中で、勝手な幸福感を強いているのです。その「させるべき」に隷属させられている子どもが、いわゆる“いい子”たちなのです。

 “いい子”を演じ続けている間は、親も子もその背後にある大きな問題に気づきません。“いい子”に安住して、きちんとした親子関係を結んでこなかったことを。しかし、いったん“いい子”とその親という関係性が崩れてしまうと、“いい子”でいるということは、「見えない“強迫的”虐待」としか思えてこないのです。だから、「幼児・児童虐待」で終わることなく、「思春期・青年期虐待」へと続くのです。

 さらに、この「見えない“強迫的”虐待」には、親だけでなく、学力偏重主義によって、教師や大人までが加担しているように思えてなりません。マスコミがいう「家族の劣悪さ」だけが「虐待」の原因ではなく、むしろ、「見えない“強迫的”虐待」の方が、“闇”になっている分、子どもたちによってはより深刻なことだということに気づいてほしいのです。
 
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子ども理解は自分を見つめること

●「人生学」ことはじめ(河合隼雄)
 「お母さんだけには何でも正直に言いなさい」と説教する母親がいるけれど、子どもが自分の秘密を大切にするということ、信頼や誇りを守ることについて無知すぎるのではないか。

 「嫌な子で、家庭に問題があるのでは」というのは、それだけで分かった気になる「閉じた理解」です。ところが自分には注意が払われていなかったことを鋭く感じ取っていたわけで、「感じの悪い子」をつくっていたのは読み手側の責任。
 「ああ、そうだったのか、感受性の鋭い子だなあ」というのが、「開かれた心の理解」で、より発展性のある理解です。
 「開かれた理解」をするためには、相手に対して自らの心をいつでも開いた状態でいることが必要です。開きすぎでもなく、突き放しもしない心の状態で、日々の真摯な訓練が必要です。

 誰か困っている人を救ってあげたいという願望は、多くの人が持っている。そのような願望が意識的・無意識的に動き出すと、困ったことに「善意の押しつけ」が始まる。
 本人は良いことをしているつもりだが、されている方は「土足で踏み込まれる」「傷を逆なでされる」とさえ感じるのだ。
 たいてい人間は、「良いこと」をしていると無反省になる。良いことをしているつもりで他人を苦しめていることなどと考えてもみない。
 一番大切なことは、安心感を与え、感情を共にする人が傍らに居てくれるということなのだ。そのような人間関係に支えられ、苦しみ悲しんでいる人の心の底に、自己回復、自己治癒の兆しがそっと生れてくる。
 人間は簡単に人を「救済」などできない。

 「心のやすらぎ」とは、その場にいるだけで何かほっとした気持ちになる。別に何かを話すとか何もないのだけれど、心がやすらいでくる。このような場所とか人とかを持っていると、その人はどんなにか幸福であろう。


 ●カウンセリングと児童文学(『カウンセリングを考える』河合隼雄) 
 学校へ行かない子 
 「どうしたら学校へ行けるだろう」というようなことを話しているんですけれども、「どうしたら学校へ行けるでしょう」というのは、日常生活の話です。
 しかし、その背後には必ず、“学校とは何を意味しているんだろう”とか“なぜ、我々は学校へ行かねばならないのか”とか、“高校生というのは何を目的にして生きているんだ”という非常に深い問題が隠されています。

 我々大人が善意―――正しいことだ、良いことだと思ってやっていることが、残念ながら―――人の子どもを死の方へ追いやっていく結果になっているという恐ろしさです。

 本当は、カウンセラーと言っているけれども、ぼくらは一体何をしているのか、そして自分の態度というのは、本当にどういう意味を持っているのか。
 つまり、○○という子と接するということ、それは子どもを救ってやるとか、かわいそうな子どもを良くしてやるとか、そんなことではないのです。
 そうした子どもは、私はなぜ生きているのか、私のアイデンティティは何か、ということをもっと考えなさい、もっと深めなさいということのために遣わされた天使だ、というふうに、この本も読めるわけです。
 我々は、それを大きい顔をして拒否しているだけじゃなく、偉そうに言っていないかというふうなことを考えさせられます。

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次男の授業参観

 今日は次男の学習参観日でした。
 昨年の5月からクラスに混ざれず、個別指導に切り替わった次男。
 3学期末の親と教師の面談で「支援学級行き」を示唆されたものの、目立った発達障害も(検査の結果)見当たらず、そんな中で、学校側の都合もあり(個別指導担当の先生が辞めることや特別支援学級が1学級増えることなど)、次男も授業の遅れを「特別支援学級」に在籍してはどうかということだった。本人は「このまま6年まで(個別で)いきたい」とのことだった、学校側の都合や彼自身のことを考えれば、それはだめだと・・。

 しかし・・・、それは親が決めることではないと改めて考えた。これからどうしようと考えているのは、子ども自身。一応こちらからは、クラスに戻るか、支援学級に行くかの選択肢だけを示し、あとは子どもに選ばせることにした。結果、またクラスに戻れなくなったとしてもそれはそれで仕方がないと思った。

 次男は、クラス替えや担任も変わるということを考えて、クラスに戻ることを選択した。
 そして、2回目の授業参観を迎えることができた。
 
 1学期の目標は「やれるところまでやってみる」だった。
 そう、今もやれるところまで頑張っている。
 しかし、昨年の学習のブランクもあり、勉強に遅れをとっている面もあり、少しまたついていけないことにも不安を抱えている。時に行き渋るような言動もあり、そのたびにこちらの対応もどうしようかと決断を迫られることもあるが、担任の先生も昨年の次男の生活を知っているので何かと配慮してくれる。
 
 授業参観でも、ひいき目に見れば次男の席に近づいてきて、学習の進度や理解度を見てくれるが、他の保護者からみたら、「なんであの子に多く関わっているのか」と思う人もいるかもしれない。また昨年一緒だったクラスの親や子どもたちは、次男がクラスにいなかったことは知っていても、新しいクラスの子どもたちやその保護者にとっては事情を知らないから、いろんな見方もあるのかもしれない。
 その辺のところを、担任の先生もどうしたらクラスの子にも理解してもらえるかというところを考えているのだと、逆に相談されてしまった。

 いろんな考えの親御さんがいる。
 ちょっとクラスで目をかけなければいけない生徒(次男に限らず発達障害などの子やグレイゾーンの子)がいれば、「なんであの子にばかり・・もしかしたら発達障害?」「そういう子は支援学級で勉強すればいいのに・・・」「先生があの子にばかりひいきしているんじゃないか」
 事情を知らない人は自分勝手な思いをあれこれ巡らせ、それがママ友同士間での噂にもなってしまうのだろうなあ・・・。

 だからといって、わが子のことをクラスのみんなに開示したほうがいいのかはわからない。

 授業参観が終わって、保護者たちが引き上げる廊下の階段で、ある親が「うちの子、学校大嫌いで、大嫌いで・・、毎日朝になると泣いて泣いてしょうがないのよ。どうしたものやら・・」と隣のママ友に嘆いていたのを通りすがりに耳にした。
 クラスで「みんな元気に仲良く」と表面上穏やかにクラスで授業を受けている子どもたちも、一人ひとりの内情はいろいろだろうと想像する。
 「不登校」などの行動におこさない限り、子どもの授業風景からだけでは、個々の内面は見えない。
 きっと「学校が嫌いで泣いて登校している」という子だって、学校では平常心をとりつくろって過ごしているかもしれない・・。
 
 また授業参観での親の態度だけを見れば、わが子の問題など抱えてなんかいないように見えるもの。
 クラスに貼られてある子どもたちの掲示物を見ては、「ああ、この子は優等生の部類だな」とかはだいたいわかる。
 「1学期の目標」などを書かせるものなどは、優等生は教師受けの文章をすらすらと何行も書きあげているし、それ以外の子はせいぜい1~2行止まり。
 保護者にとって、掲示物の内容も子どもたちのランク付けの一つの指標にもなっているのだろう。
 皆が次々と課題をこなし、掲示物も4月に貼られていたものから変わっているのに、まだ4月のままのわが子の掲示物。「この子はみんなと同じ課題ができないでいるのか」と、何も知らない親たちにはそのような評価なのだろうか・・・。(まあ、どうでもいいけど・・)
 1学年170人弱の大規模校がゆえに、いろんな子がいて当たり前。必ずしも学校が「合う」子ばかりではないはず・・。

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スクールカウンセラーとの面接

 先日、長男の中学に勤務することになった、県のスクールカウンセラーの方と親面接を行いました。

 今月から月に1~2回の程度委託を受けて訪問するらしいです。ちなみに自治体独自に採用しているスクールカウンセラーもいるのですが、そちらは特に専門的資格はなくて勤務でき、回数も多く学校に来るのですが、県のスクールカウンセラーは臨床心理士の資格で採用されること、そしてその方自身も某精神科病院で現に臨床心理士としてカウンセリングなどを中心に勤務されているとのことです。

 今の長男の症状についていろいろお伝えし、親としての思いや見解などを伝えました。
 
 以前このブログでも(「スクールカウンセラーの功罪」)でも書いたように、教師と対等になれない現場の悩みなどもあるようで、はたしてこのカウンセラーは本当に「子どもや親の見方」に立ってくれるのだろうかという期待と不安の入り混じった思いで面接に臨んだのでした。

 実際、カウンセラー自身が、病院という医療現場の「思春期外来」で不登校をはじめとする子どもたちのカウンセリングにも携わっていることもあり、むしろ学校現場のマイナス面の実態も理解してくださっており、自分たちの意見や今、子どもに怒っている「症状」へも共感的に聴いてくださいました。

 発達障害の子どもたちにとって、その感覚の過敏さからくるが故の様々な生きにくさ。思春期の子であれば誰もが「自分と他人との違いに敏感になり、人の目が気になる」ということは普通だが、それが度を越してしまうため、「対人恐怖症」「思春期うつ症」などのように病的に見えることもあるかも知れないが、それを「病気」という見方をするよりも「発達障害がゆえの感受性の過敏さが思春期という時期に出ている」という見方をした方がいいんじゃないかとのアドバイスでした。この過敏性も年齢を重ねていけば次第に弱まるとも・・。

 学校というところは、だいたいが「みんなと一緒に努力し、頑張る」ことを目指すところではありますが、やりたくでもできない子、自分なりに頑張っていてもその頑張りが目に見える形で表れないと「頑張っている」とは認めにくいところ。
 心因反応(腹痛)まで起こしても遅れても学校に行く長男は確かに本人なりにはかなり頑張っていると思います。しかし、学校側は「受験も控えているし、できれば1時間目からの登校を・・」と求めてきます。
 発達障害を持つ一人の生徒への「授業への配慮」の少ない環境の中にあって、本人にとってはかなり苦痛かもしれないマンモス校の中でのざわざわした環境の中で、一日の大半を過ごす生活はきっと辛い部分も大きいと思います。
 スクールカウンセラーの方は、「そんな環境でも頑張っているからこそ、心因的な反応も出やすいのでしょう。ストレス耐性を徐々に上げていくということも必要だが、やはりストレスを回避し、こころの安定を図ることも大切。その辺のバランスが難しいけど、子どもの症状を見ながら押したり引いたりしていく必要があるでしょうね。学校にも親御さんの方で配慮してほしいことを伝えておきます」と言ってくれました。

 学校と親や子どもの間に立つ橋渡し的な存在で、中立的な見方をしてくれ、時には学校側にもアドバイスしてもらえるようなスクールカウンセラーという存在も必要な部分かもしれません。医療機関で働いているという臨床心理士の方って比較的、学校側の目線からは離れた視点でとらえてくれるので、比較的お互い理解しやすかったように思います。

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Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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