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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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発達障害児の感覚の捉え方

 息子が、時々自分と環境とのかかわりにおいての感覚の捉え方について話してくれることがあります。

 「授業参観中、(親たちが教室を見学できるように扉や窓も開けられている)廊下にいるママ友たちの話し声がうるさくて、頭痛くなって集中できないんだ。」
 「小学校のころからだったけど、中学校はもっとうるさい!」
 (たいてい、教室に入らず廊下にたむろしている親に限って同じようなママ友をつかまえ、雑談に夢中になっている光景は小学校でも見受けられますが)
 
 ただでさえ集団生活の緊張感を強いられる教室という空間なのに、その上外野からの予告もないザワザワした騒音が授業終了まで頭に入ってくるのですから、さぞかし子どもにとってはきついものがあるだろうと納得しました。

 また、息子が好きな絵を描いているときは、「音楽を聴きながら絵を描く人もいるけど、自分は何にも音のない世界で絵を描きたいんだ。道路を走る車の音も、人の声も、カラスの鳴き声も鳥の声も耳に入ってくると集中できない。でも、何にも音が入らないっていうことが不可能だとしたら、せめて鳥のさえずりのような音はまだいいけど、カラスの鳴き声だけは嫌いなんだ・・・。」などと、自分にとって快に感じる音の種類にも感じ方があるようです。

 一般的には多くの人は「○○しながら~~する」という二つの感覚を統合させても仕事はできるものですが(むしろこっちの方がはかどる人もいるくらい)、息子の話を聞いていると、一つの感覚(描画=視覚や手を使う運動覚)を研ぎ澄まして集中しているときに他の感覚(聴覚)が侵入してくるのはとても苦痛なのだなあということが理解できました。

 また、息子は絵を描く時はいったんその景色や事物をしばらくじーっくりと眺めて(脳の中に記憶として残して)から、あとはその対象物を見なくても描き上げることができる特性があります。
 しかし、学校教育での美術の写生の時間が大嫌いです。

 「ぼくは、“ものを見て描きなさい”と言われるのが嫌なんだ。ぼくは先にものの全体像を見てから頭に入れたらあとは見ないでも描けるんだけど、先生は(対象物を見ていないぼくを見て)『見ながら描きなさい』と何度も注意するんだ。ぼくはそう言われるとかえってできなくなるんだ。『見ながら描く』なんてぼくにはできないし、言っている意味がわからなくて混乱するんだ」と。
 
 しかし、今の学校教育では、写生といえば「対象物を見ながら、鉛筆を動かし、また見ながら手を動かし(視覚→運動覚→視覚→運動覚)・・・といった作業を行うことが、写生をするということの定義になっているのです。
 教師がじーっと何分も対象物を見て頭に記憶しようとしている息子の様子が「何も課題をやろうとしない」という態度に見えるのでしょう。それを指導しているのが、はからずも、特別支援コーディネーターであり、美術の担当でもある教師なのです。

 また、たぶんすべての感覚を取捨選択できずに取り込んでしまう傾向が強く、頭の中には沢山の感覚刺激で充満しているのだろうと思います。
 主治医に言わせれば「脳内が絶えず緊張を強いられていて、休まる暇がないのだろう」ということで、今は神経を休めるための軽い投薬を調整していただいております。
 
 いくら「特別支援教育とは?」「一人ひとりの発達課題に対応する教育を」などといってさかんに研修に参加しても、実施の現場で目の前の子どもにそういう理解のしかたがされず、今の教育法をあてはめて支援するならば、ますます子どもたちは生きにくいだろうと感じます。

 発達障害があるから生きにくいのではなく、発達障害の子どもたちがもつ特異な感覚(それはなにも正常な感覚の対比としての異常という意味ではありません。あくまでも個性としての個別の感覚です)を生かせるような指導や支援体制があるならば、子どもたちは生きにくさは感じないはずなのです。

 要するにそういう感覚の違いを認めようとしない、一般的な多くの人が感じる(できる)ことに合わせさせられることへの苦痛さやストレスが、生きにくさを生む背景にあるのはないかと思うのです。
 

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「孤立死」対策への不満

 高齢者や障害者の相次ぐ孤立死の問題が、いろいろと取りざたされています。国も県も、「孤立死」対策を進めるようにいろんな取り組みを自治体に求めてきます。

 その中で今、その役割の責任を感じているのが民生委員。
 先日も、民生委員の常任委員会で上がった要望を、市長への要望書として提案したいという文書が担当課の方に流れてきていました。

 本来民生員は、自分たちの「足」を運んでこそ信頼関係を築き、そのような日ごろの訪問活動の中から要援護者の情報を把握していくことができるのですが、今は「個人除法」の壁もあり、またなかなかきっかけがないと訪問もしにくくなっているのも実際のところかもしれません。

 そういう意味でも、「いざ、何か事がおこったら“民生委員はなにしていた”と問われるのも自分たちなのだから、行政からももっと情報がほしい」という要望はどこの自治体でも課題になっているところです。

 札幌市で以前障害を持つ妹とその姉が孤立死したことを受け、市は知的障害者や家族に民生委員への理解を深めてもらうことを目的に民生委員の仕事などを紹介する特集記事を広報誌に掲載したという記事が地元新聞で取り上げられていました。
 
 事件を機に市が市内の障害者を持つ家族にアンケートをとった結果、「民生委員に自宅に来てほしくない」と答えた人が80%を超えていたことを受け、市では「顔みしりではない民生委員が生活の場にかかわろうとすることに、強い不安を感じている」と分析し、民生委員の仕事への理解不足からくるものと考え、今回の広報誌での周知をするにいたったことなどが書いてありました。

 しかし、記事の中では、「今回の市の調査で“民生委員の訪問を望まない”と答えた知的障害者や家族から、戸惑いの声が上がっている。訪問を望まないのは民生委員の仕事を理解していないからではなく、障害を近所に知られたくないとの思いや支援を求めても行政に届きにくいことへの不満からで、市と障害者の間の認識のずれは依然大きい」と。

 「軽度の知的障害がある次男と暮らし、市の調査票に「民生委員に自宅に来てほしくない」と回答した母親は、広報誌やチラシでPRする市の対応を聞き、がっかりした。
 (20代の)次男は市内の企業でせっけんづくりに従事し、一人で通勤もできる。外見から障害の有無が判別しにくいこともあり、”あれて周囲に障害のことは話さない”という。ただ、想定外や複雑な質問に答えられないため、将来、一人で生きていけるか不安もある。
 母親は“民生委員の仕事を知りたいのではなく、次男の成長に応じた支援を求めているのに”と不満をもらす。“市がかかわる福祉サービスだけでなく、私たちと同じ視点になってくれる障害者が運営する民間団体の情報も把握して教えてほしい”と訴える。」


 「また、知的障害がある30代の次男と2人で暮らす70代の母親は、”老いを感じる中、民生委員や行政が息子の暮らしを本当に見守ってくれるのか不安だ”と打ち明ける。

 「民生委員にも困惑は広がる。市内の民生委員の男性は「障害に対する十分な知識もない」と相談にきちんと対応できるか不安視する。市の対応は前進と理解を示しながら、“民生委員の高齢化など課題も多い。私たちが責任を持って仕事できるよう、市にはさらい努力してほしい”と話している。」


 記事にはこのように書かれてありました。
 
 民生委員はあくまでも要援護者と行政の橋渡し的な存在であって、民生委員がすべて障害の知識を持ち対応しなければならないわけではありません。しかし、障害の種類やそれぞれの抱えている個別の事情はみな違いますし、先の母親のように、自分たちが困ったときに活用できる支援機関や団体の情報を公的民間問わず周知してくれればという思いは的を得た意見だと思います。
 
 行政は、民生委員へ協力体制を依頼するけど、民生委員からすれば情報もない中でどうやって対応せよというのかとなるし、逆に当事者やその家族は民生委員には相談したくない、訪問されたくないという双方の感覚のギャップも微妙にあるような気がします。


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本の紹介

いじめと不登校 (新潮文庫)いじめと不登校 (新潮文庫)
(2009/08/28)
河合 隼雄

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(本文より)

●生きる力を育てる
 「育つ」―――本来子どもが育つ面もあることを忘れてはならない。
 育つための土壌がいる。(土壌としての親や教師)
 それは、安心して好きなことができる環境(あの先生がいてくれている)というだけで、子どもたちは心をはずませ好きなことができる。
 このような親や教師になるには、自分自身が自分の個性を生きていることが必要。自分も楽しみを見出し、生かされていること、それができてはじめて子どもの生きる力を育てる土壌になれるのである。

●悪の意味 
 子どもの生きる力は、悪の形をとって表れてきやすい。悪は自立の始まり。本来の自立の過程の間に、子どもは何らかの形で大人に対し、反抗しノーと叫ぶときがある。

●「学ぶ力を育てる」ということ 
 教師ではなく育師になる。
 「待つ」―――待っていると、次の対処のしかたが見えてくる。
 いろんなことを頑張って走り回っている先生が良い先生じゃなく、子どもは動いているが、自分はむしろ心は動いているけれども、外見はあまり動かずに見る。

●子どもの心が動く工夫 
 自分は本当に子どもを見ているだろうか。
 その子を見ているんじゃなくて、「あの子はできる子です。あの子はしょうがないんです」とか、レッテルを貼っていないか。
 「シンナーを吸ってはだめ」「勉強した方がいい」というのは、当たり前のことです。そういうことを言っても、向こうがやらなければしかたがないでしょう。
 しかし、そこまで考えるのはいやだから、正しいことを言って満足している。
 そういう人は、私が正しいのだろうと思って喜んでおられますが、あまり社会の役にはたっていません。
 でも、自分の役にはたっています。自分は幸福ですから。
 しかし、皆さんがもうひとつ人の役にたとうと思うと、正しいことばかり言っていられない。
 
 理解のある親を持ったらたまりません。本当は理解がないのに理解したふりをする親。
 自分はけっこう悪いことをしてきたのに、自分の子どもには「よい子」を求める。
 親も先生も「悪いことをするな、ちゃんとがんばりなさい、うそをついてはいけません」と言うのだけれど、言っているそばからちょうど水が漏れる程度に子どもは悪いことをします。
 
●子どものために何かしない親  
 われわれ親が子どものために一生懸命になってやっていることが、つまりは子どもをつぶすことになっていくということが、今はものすごく多いのです。

●教育に何ができるか 
 教師というものになると、評価がどうしても近視眼的になるんです。極端に言うと、三年間教えたら三年間のうちによい子にしたいと思ってしまう。
 中学校の先生なんか特にそうですけれども、中学の三年間で良い子になんかする必要は全然ないんです。

●簡単に決めつけてはいけない 
 幼い時から戦争ごっこもチャンバラも全部いけません、ウチには何も武器はありません、というのが平和な教育だというふうに思い込みすぎたのではないでしょうか。
 子どもの時に、チャンバラをやって殺される体験などをしているから、平和の意味もわかるのです。

親のかかわりを考える本(4)

子育て―みんな好きなようにやればいい子育て―みんな好きなようにやればいい
(2008/09)
山田 真

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 (本文より)

●息子が見せる“問題行動”を楽しむ 
 息子の圭は中学1年生ですが、おもしろいくらいによく遊んでいます。ぼく自身、勉強好きで読書好きという、いま思えば、まことにいやらしい子ども時代を送ったのですが、圭はまったく反対で、勉強は嫌い、漫画以外は読まないというのが徹底していて、親子でこんなに違うものかと感心したり、おもしろがったり、ときにはちょっぴり腹をたてたりしながら見ています。
 医学の世界では、「小児の問題行動」と呼ばれている一連の行動があります。指しゃぶり・夜泣き・夜驚症・ねぼけ・チック・どもりなんていうものがそれにあたりますが、圭という子どもはいくつもの“問題行動”をぼくに見せてくれました。
 どもることもありましたし、チックにもなりました。ねぼけはそうとうなもので、夜中にガバッと起きては部屋の中を歩き回り、ときには部屋から出てお風呂場まで歩いて行き、そこでおしっこをしそうになって、追っかけていったぼくがあわてて止めるというようなこともありました。部屋の中を歩きながら、何かを見つめるような顔をして、「コワイ、コワイ」と泣き叫んだこともあります。

 こういうことは小学校へ入ってからも続きましたが、いまではそういうこともなくなりました。
 また、「くりかえし病」の症状もいろいろありました。子どもが腹痛・頭痛・足の痛み・嘔吐などをくり返し訴える状態のことです。
 こういうとき、やせても枯れてもプロの医者ですから、ぼくはあわてません。ぼくの経験からいえば、子どもたちが成長の一過程で見せる、こういった「くせ」は、親が心配せず、あわてず、「いつか治るから、特別気にしないでこのまま見ていてやろう」という態度でいれば、意外にあっさりと終わってしまうものなのです。
 
 子どもがちょっと変わった行動をすると、「わたしの育て方がいけなかったのかしら。家庭に問題があるのかしら」といろいろ考え込んでしまう人がいますし、そう悩んでいるとき、お医者さんに相談してみると、案の定、「お母さんのしつけにすべての根源があります」なんて言われてシュンとしちゃったりすることもあるようですが、そういうように自分を責めるのはつまらないことだとぼくは思います。
 ぼくなんぞはぜんせん反省しません。じつにいいかげんな子育てをしていますが、そのせいで子どもが変わった行動をするなんていうようには考えないのです。
 家庭の中に問題があるといわれれば、たしかにぼくの家庭にもいろんな問題があります。でも、「おたくの家庭に何か問題はありませんか」と聞かれて、「何もありません」と胸を張って答える人がいたとしたら、そう答えるところが、実は大変問題であって、どの家にだって何らかの波風は立っているのだろうと思います。

●ちいさな“テロリスト”たち 
 世の中には、「小児科なんて子育てのプロの家では、子どもは何事もなくスクスクと育っているに違いない」と思っている人もいます。しかし、実際にはそんなはずはありません。自分の子どもが登校拒否をするようになって悩んでいる教師・心理学者をぼくは知っていますが、それはけっしておかしいことでもなんでもなく、あたりまえのことなのです。
 しかし、そういう子育てのプロが、自分自身の子どもを育てるうえで悩んでいるような場合、そのことを人前で明らかにしたりしないものですから、プロならうまくいっているだろうと思われてしまうわけです。でも、プロが「わたしだってうまくいっていないんだ」ってはっきり言ったら、世間の親はかなり楽になるはずです。

 ある親にとってパニックの種になるような子どもの「恐るべき」行動も、ほかの親にとってみれば、ほほえましく、おもしろがって見ているようなものだったりするわけです。だから、「親にとって自分の子どものどんな行動が悩みの種になっているか」と調査しようとしても、同じ行動をある親はまったく問題にしていないのに、別の親は大変困っているというように、とらえ方に差があるため、うまく調査ができないというわけです。そういう問題点をふくんだままおこなわれた調査というものは、信用できない部分が多く、だからそんなものにふりまわされたりするのはまったく無意味なんだということです。

(小児科医)

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ある雑誌から

 石川憲彦さん(精神科医)のコメントから


  療育されるってことは、自分は特別な手だてでなにかされなければいけない存在で、みんなとはちがうよってことがはっきり伝わるよね。人間って、生まれつき自分のできないことについては、年月がたつうちに慣れて、そんなに苦痛じゃなくなるのよ。でも、“障害者なんだから”といったときに一般の人がもつイメージや、障害を克服するために努力して療育を受けるべきといった見方。そこから自分がはみ出したときには、社会からはじかれてしまう。

 ただ、特別な手をかければ、特別なシチュエーションでしかやっていけなくなるからね。よっぽど売りものになる才能でもあれば別だけど、そうでなければ、囲い込んだ枠の中の人として特別化されていく。
 
 保健所にしろ病院、保育園にしろ、「この子は友だちとうまくやれない」「おちつきがない」「みんなとちがう」というところから病気・発達障害とレッテル化していく問題もあるよね。むしろいまそっちの方向がかなり強烈になっている。
 アスペルガーと診断されるような子どもは昔からいたの。新しい現象ではぜんぜんないのね。名前がついていなかっただけ。
 いまって商人文化でしょ、いかに自分を表に出してアピールするか、人の心を読んでサービスするか。いわゆる偏屈な職人肌タイプの人は生きにくいのよ。それを、みんなが納得するようなものわかりのいい人にするためにと親があんまり考えなくていいんじゃないかな。

 子どもの中にはいろんな子がいて、ものすごくこだわりをもったり、人とペースがぜんぜんちがっていたりする。それはある意味で子どもらしい姿じゃないの?そこを抱えきれない社会全体の度量のなさが問題なんじゃない?

 いまは、大人にとって扱いやすい子がよしとされ、すごく子どもらしい子ほど認められないことが多いですよね。
 だとしたら、子どもを抱えきれずにはじき出している大人の問題だ、という話にもどしていかないと。当の子どものほうは、社会の現実にぶつかって、またどっかでそれを突き破りながら生きていくわけだから、親だけじゃなくて、その子の身近にいる大人は、そこをサポートするしかないのよ。その時に社会に迷惑にならないいい人にしたいといった、“大人の守り方”では、子どもの足を引っぱりかねないからね。



遅れているということは、それだけではまったく問題にならない。問題は大人が周囲と比較して遅れを気にすることだけなのだ。
 「もともと遅い」とか「なかなかうまくならない」といったことは、子ども当人にとっては基本的な問題であることはほとんどない。どれほどゆっくりしたペースでも、それが従来どおりの本人のものであれば、心配無用。スローペースで学ぶタイプの子もいれば、一気にかけ抜けていく子もいる。将来というのは、心配しはじめると不安が不安をよぶ。「今ここにある」子どもとの関係を、他人への配慮や将来へのあせりに売り渡してはいけない。専門家の不安を親が引き受けないことである。

 専門家による発達のチェックがいかにアバウトで、個々の子どもを見ていないか。だから親は専門家のいう発達の基準を絶対視してオロオロすることはない。むしろ、自分の生活感覚を重視しているほうがよい。
 その上で、子どもの個性を見抜き、大切にしてあげること。そして子どもが生来もつ「育つ力」に期待して子育てにあたればよいのだと。
 ことばを育てるのは専門家ではなく、子どもの話したい気持ちと、そのまわりの大人と子どもたちだ。
 親は、ともすれば自分の価値観に子どもを引っ張ろうとするけれど、そもそも子どもはその子なりのペースで育っていくもの。むしろ、「遅れ」も含め、あせればあせるほど逆効果になる。


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NPO・・・いろいろ

 地域の中で、発達支援をテーマにしたNPO法人があります。元大学の先生たちが退職後自分たちの理想とする「生涯発達」の視点から、発達(心理)相談、児童デイサービス、不登校やひきこもりの青年たちの居場所として最初始まりました。

 最初は任意団体から始まったのですが、その後は数々の国や県の補助事業の委託を受けてさまざまな事業を展開しています。「若者自立支援事業」としての訪問支援サポート、「若者サポートステーション」(厚労省委託事業)や障害児のデイサービス事業の指定事業者になったり・・・。委託費のなかには当然人件費もつきますので、年々スタッフは増える一方で、利用者の数よりもスタッフの数の方が多いなんていうことも時にあるようです。

 いろんな事業に手を出しては、どれも中途半端な感じもしないではありません。

 こういうNP0を立ち上げたい人って、自分の職業人生のなかでやり残したことを成就したかったりする場合も多いと思います。

 それに、いろんな事業を委託されていけばいくほど、本来の理念だった自分たちの思いと、国や県の事業の主旨とは必ずしも一致しない場合もあり、結果、実績を報告するための委託事業になってしまわないのかと思うこともあります。
 
 また、その法人の支援スタッフもあまりに多くなりすぎて(委託事業ごとに人件費がつくため、受託事業が多ければ多いほど)○○推進員だの、××支援員だの、△△相談員だの、誰がどんな役割を担っているのかがわからなくなってしまいます。

 あるとき、そのNPOの支援者と、私の職場で関わっていた家族のことで連携をとったことがありましたが、その支援者は、その息子さんをなんとか就労させたい一心で、その思いの強さと現実の息子さんの状況がマッチせず、結果的にその家族を振り回しただけという印象がのこりました。
 

 かたや、もう一方のNPOは、「フリースクール」を立ち上げたいというある意思をもった二人の若者から始まりました。何年かして少し認知度が広まったところで、同じように厚労省の委託事業である「若者サポートステイション事業」も行っています。でも、けっしてスタッフはあせらず、その利用者に徹底的に寄り添ってくれます。そんな姿勢が見ていても人柄として感じられてきます。
 
 また地域の人たちにも理解を求めようと、フリースクールのほかにも就労の場づくりとしても、スタッフは利用者と一緒になってアルバイトに精を出したり、地域の人の協力を得ながら農場を開拓したり、合宿と称しては自然に触れる活動をしたり、自分たちでバイトして稼いだお金で「修学旅行」に行ったりしています。
 週末にもなると、そのフリースクールの場所は、地域の人にも開放した「レストラン」となり、利用者の青年たちが一緒に料理を作ったりウェイターをしたりして対人関係を学ぶ場所にもなっていますし、地域の人からも認知されています。
 スタッフも人件費や事業費を作るために、スクールが始まる前に山に行き、山菜を採ったりしてそれを市場に売りにいったりしてそのNPOを支えています。
 そこには、スタッフも「支援者」という意識は薄く、「共に生きる仲間」としての位置づけにいるような気がします。

 どちらのNPOも訪問し、相談したことがありますが、後者のNPOの方が何となく癒され、スタッフの理念の確かさを感じました。
 NPOを作って「発達障害のため」「「引きこもりの若者のため」と一生懸命になっている団体のなかには、自分たちの世界だけで「支援」ということばに酔っているんじゃないかと思うことすらあります。


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この人が語る不登校

この人が語る「不登校」この人が語る「不登校」
(2002/02)
全国不登校新聞社

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(本文より)

 ●落合恵子(作家) 
 最もしたくないことは、分析して絶対化してしまうということです。人間の気持ちや感情の揺れを見えなくしてしまう。そういう部分は、正直にいってわからないというほかなくて、それをわかったものとしてどんどん進めてしまってはいけないと思います。
 いま起きている多くの事件は、社会システムと深く重なった事件であって、そういう視点が落ちると、個人にすべてが集約されてしまう。マスコミの論調のように「フツーの子がキレた」と。
 それから、文部省(注:文科省)が「心の教育」などと言っていますが、心は自分なりに自分で育てていくものであって、外側から教育できるものではないですよね。
 結局、「心の教育」なんて言っても、管理を強めるということでしかない。学校がいままでチェックしてきたことを、さらに家庭でまでチェックしていこうということのように思います。
 ただでさえ、子どもたちが深呼吸できない状況があるのに、これ以上子どもを追いつめるようなことはしてはならないと思います。

 社会では、「正常」と「異常」というのがクッキリとあるように思われがちだけど、実際には本当に一本の絹糸一本の線を越えた瞬間に、「正常」が「異常」ということになったりする。母の場合も、病院に行ったとたん「こういう薬を飲みなさい、こういう治療が必要ですよ」と言われ続けた。
 母は一時期、本当に一間の部屋から出ることができないことがありました。それから、洗手恐怖症といって、一日中指紋がなくなるくらい手を洗い続けるという症状をもっていたりもしました。
 その母が、ある日「私はこの状況にいるのが一番ラクなのよ」と言ったんですね。私は、彼女にとってそういう状況がラクならば、いまこの状況しか考えられないじゃないかと思いました。
 ベストかどうかはわからないにしても、ベターであるならばいいじゃないか。いま、ここにある彼女の個性として受け入れるしかないじゃないか。彼女に見える景色、むしろ私が学んでいこいう、と。
 まわりは、「なんでみんなと同じにできないんだ」「どこかおかしい」と言い、「フツー」に戻そうとしました。でも、そうしたら、どこにも彼女の居場所がなくなってしまう。だったら強迫神経症を一つの居場所として、そこから見ていってもいいんじゃないかと思ったんです。


 ●立川志の輔(落語家)
 自分の子が不登校でもないのに、不登校のことをちゃんと深く考える人は、あまりいないですよね。そういうちゃんと考えていない人たちが上に立って、文部省の諮問を受けたりして、わかったような顔をして話している。
 自分がバクチや借金で苦しんでいる人は、落語なんか聴きに来ない。むしろそういう経験のない人が「いい話ね」と涙しながら聴いている。それと同じようなことが言えると思いますね。
 不登校のつらさなど、まるで分かっていない人が、公のところで不登校を語っている。不登校を暗いイメージで語るのではなく、それでいいじゃないかとい言えるのは、不登校の子どもや親だけだと思います。


 ●ひろさちや(評論家) 
 作家の安部譲二さんから聞いた話ですが、安部さんが刑務所に入って、お母さんが刑務所に面会に来た時、安部さんは「お母さん、ごめんなさい」と謝ったそうです。しかし、お母さんは「何を言っているの。人が見られない刑務所を見ることができてよかったわよ」と言ったそうです。
 安部さんは、「その一言で自分は立ち直れた。あのとき、否定されていたら、自分は立ち直れなかったかもしれない」とおっしゃっていました。
 私は、これはすごく大事なことだと思います。刑務所に入った人間に、入らなかった方が良かったと言って何になるんだ、と。全面的に自分を肯定してくれる言葉があって、立ち直れるんですよ。本当に愛情の言葉は何かといったら、あなたがあなたであっていい、ということを認めないといけない。

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カウンセラーの人が書いた本

生きにくい子どもたち―カウンセリング日誌から (岩波現代文庫)生きにくい子どもたち―カウンセリング日誌から (岩波現代文庫)
(2009/03/17)
岩宮 恵子

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(本文より)
●無責任な偏食批判
 世の中には、偏食のある子どもをみると、「子どもの好きなものしか食べさせないような、子どもに甘い親が悪い」と、詳しい事情を知りもせずに無責任に親の行動の一面だけを取り上げて批判してしまう人も多い。
 しかし、離乳食の頃から少しでも自分の食べられないものが入ると、ブーッすごい勢いで吹き飛ばしてしまうような、厳しい反応をする子との対応に真剣に取り組んでいる親にまで、その批判が向けられることがあるのではたまらない。
 批判や批評をする人は、世の中にいくらでもいるが、力になるような話し相手になってくれる人は、なかなかいないようだ。
 不安を適当に解消することもできず、どんどん気持ちに余裕がなくなってくると、きっかけはたかが子どもの偏食であっても、自分たち親子は普通の世界から落ちこぼれてしまっているのではないか、というところまで追いつめられてしまうこともあるのだ。
 そうすると、やり場のない気持ちが、「あんたのせいで私がこんな目にあうのよ」といった攻撃的な形をとって、子どもに対して噴出してしまい、食卓が偏食を治すためのすさまじいまでの戦いの場に発展し、親子関係がこじれにこじれてしまうこともある。
 そのこじれてしまった結果だけを見て、こんなに良くない母親だから偏食も治らないんだと判断してしまう人も、これまた世間には多いが、そんな判断をしていても、親も子も救われない。
 そこまで追いつめられた母親の苦しみや悲しみに心を向けていくことの方が、ずっと建設的な働きかけになる。
 子どもの偏食に頭を悩ませている親の中には、幼稚園や学校からのお知らせ帳などに、「給食の野菜を残してしまいました」などと、ただ事実関係が書いてあるだけでも、ショックを受けてしまう人もいる。そして、「食べられるようになるため、家でも練習させてあげてください」などというアドバイスがより一層落ち込ませる材料になることもある。
 まして先生のほうに、好き嫌いがあるのは問題だ、何とか矯正しなくてはという価値観が強いと、よけいに親をせめているようなニュアンスが伝わってしまうので、ショックが大きくなる。

●明るい話の裏の闇 
大人の言うことを「シカト」して聞こえないふりをしたり、「うるせえなあ」「だまっていろ」とすごんだりするようなわかりやすい形で、「今、自分はいろいろ心の中がごちゃごちゃしていて大変なんだよ」ということを、ストレートに表現してくれる親切な子どもなかりではないのだ。
 中には、楽しげな話や簡単な悩みを話してみたりすることで(それはその子にとってはどうでもいいような表面的な話なのである)大人を一応安心させておいてから、自分の殻にこもっている子もいる。そういう子どもの中には、実のところ、生きるか死ぬかといったレベルの深刻な問題を抱えている子もいる。
 素行のよくない子をその表面的な問題だけで、悪い子だと決めつけてはいけないのと同じように、過剰適応といってもいいほど、大人から見て問題のない子どもの中に、深刻な問題を抱えている子がいることも、忘れてはならない。
 表面的ではない見方で自分を見守ってくれる大人がいるだけでも、ずいぶんその子は救われる。しかし、そんなふうにがんばって適応している子どものなかには、「この子は実は無理してやっているんだな」ということがわかる大人に対してだけ、妙に反抗的になる子もいる。ぼろを出さないように、鉄壁の防御で現実適応しているのに、そのほころびを見つけられたような気がして、ものすごく警戒してしまうのだ。
 そういった子の抱えている課題の重さがわかったからといって、下手にそれを普通の日常的な会話のレベルで触れてしまうと、深く傷つけてしまう危険もあるので、注意が必要である。わかりながらもごく普通に接しているのが一番安全であるし、支える力になる。
 自分が実は大変だということもわかってほしい。でも、わかられすぎるのもこわい。自分の弱さをわかってほしい。でも弱さを知られた相手には憎しみもわいてくる。
 こういった複雑な心境が、思春期の子どもの心の中には渦巻いていることを、頭の片隅にいつも置いておく必要がある。

(臨床心理士)

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生活保護率の格差

 生活保護を受けている人の割合が各自治体ごとに統計が出されています。

 私の職場(市)で、朝の朝礼で課長が挨拶の時に、その話題にふれました。

 「県内の市のなかで、一番高いのはA市で11%、次いでB市。わが市は1.8%で一番低い。」と。

 このことばの意味するものっていったいなんなのでしょう。

 ①生活保護を受ける世帯がそれだけ少ないということは、他の市町村と比べて生活が安定している世帯が多いということ。
 
 ②生活保護を受けた方がいい世帯もあるが、行政が保護費を抑えるために査定を厳しくしているということ。
また申請に来ても却下してしまう傾向が多いこと。

 ③生活保護を受けれるレベルの状況にあるが、自分からは積極的に申請をしようとしない。あるいは申請の方法がわからず埋もれている。


 この三つつのどちらかにあてはまるでしょう。

 同じ県内にあって、かたや10%以上の保護率、もう一方では2%にも満たない保護率。この違いはいったい何なのでしょう。この中には、原発から逃れて避難している福島の人たちが相対的にÅ市に多いという理由もありますが、けっしてそれだけではない要因もあるのではないかとも思います。

 保護費率が一番多いとされるA市は、成年後見制度の市長申し立ても多い市です。そこには福祉の専門職である社会福祉士も何人かおり、ケースワーク的な業務を行っています。
 担当の社会福祉士ともお会いしたことがありますが、本当に市民の生活を守るためならば、当初予算がなければ補正を組んでまでやる、という方です。

 それに比べてわが市のケースワーカーはみな、一般行政職で採用された事務職の人であり、また生活保護を受けたいと申請に来られた方に対してのハードルは比較的高い方かもしれません。
 何も、福祉の専門職がかかわれば保護率が高くなると言っているのではありません。専門職でも視点の違う人もいますし、行政職でも弱者の視点に立てる人もいます。
 担当者の資質やその組織がどのように考えているかという部分もかなり影響しているということです。
 保護に該当するかのグレイゾーン的なケースの場合は、上司によってOKを出す人と、渋る人とさまざまです。
 

 もちろん不正受給であっては困りますが、生活保護を受けられない、あるいは1回相談に来ただけの人の中にも、借金を抱えていたり、年金を担保に生活している人もいます。

 そして、わずかながら貯金がある人には、「まず、その貯金を全部使い切ってから来てください」と言ったり、持ち家がある人には「リバースモゲージ」というしくみを利用し、自宅の資産価値に見合った金額を保護費として算出し、亡くなったら相殺するようなやり方をとる場合もあります。
 親族調査では、本当に経済的に苦しいから援助できないという場合もありますが、中には親族に資産があってもそれまでの関係性の悪化により「しらない」「かまいたくない」という場合の方が最近は多いような気がします。

 心情的に職員の方では「親族がいながら、かまいたくないから生活保護なんで虫がよすぎはしまいか」とすら思ってしまうようです。客観的な視点というよりも、なんか担当者の主観的感情もはたらき、なかなか首をたてに振りたがらない感情もあるのでしょうか。
 
 以前、ホームレスの人が他町から流れ着いてわが市に来た時(橋の下で生活していました)も、「最初にいた町のある橋の下で住めばいいのに、なんでこっち(の市)に来るんだよ!」「あっちの町に返してやりたいよまったく・・」と。結局その方は高齢者の年齢にも達していたので、わが市の方でとある養護老人ホームに措置することになりましたが・・。

 今回の調査の結果、生活保護率が高いからといって、そこの地域に貧困家庭が多いという結論なのかはわかりません。しかし全国的に見た時には、その一帯は保護世帯が多いという地域もたしかにありますし・・・。

 それでも、県内でこれほどの格差があるとは・・・。 
 
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親のかかわりを考える本(3)

親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと
(2008/04/24)
山田 太一

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(本文より)

 子どものことで親に何ができるかというと、結局のところそれは「ほんの少しばかりのこと」というほかはありません。キーワードは「無力」といってもいいのではないでしょうか。

 その一緒の歳月では無論、親は子どもに影響を与えるけれど、その影響の大半は、意識的な「子育て」によるものではなく、親の「存在」が避けようもなく与えてしまう影響だというように思います。
 いくら「教育方針」などというものを持って教育に励んでも、結局その親の器以上のものを、子どもに与えることはできない。ほおっておくと、親とそれほど大差はないどころか、ほおっておいた親の方が「よき影響」を与えてしまうというようなことが、いくらでもあるのが子どもと親の関係だと感じています。
 無論、世間にはそう思わない人もいます。子どもは白いカンバスのようなもので、それにどんな絵が描かれるかは親の責任だ、などという説もあります。そんなふうに親に無限定な責任を負わせる考えは、有害なくらいだと私は思います。
 生れた時から子どもは外ならない「その子」です。他の子と交換可能な個性のない存在ではありません。決して思うような絵など描かせてくれません。
 教育次第だと思ったり、子どもがいけないのは何もかも親のせいのように思うのは傲慢です。親の力の限界を知り、その中でどう生きるかというのが、子どもとの関係の基本だと思います。

●人間は汚れをかかえている 
 マイナスの感情を持つというのは、長い歳月を一緒に過ごしている人間関係では、当たり前だと思います。子どもも自我が出てきますと、親や兄弟にマイナスの感情を持ちます。
 「親なんてぶっ殺してやりたい」「口もききたくない」などという気持ちは、ごく自然なことで、実行されては困りますが、たいていの場合は口だけでしょう。親子関係は、子どもが大きくなれば。そういう感情を含んで当たり前というように思います。
 人間というのは、清潔で明るいところばかりになると、心の中に抑圧を溜めてしまう人が出てくる。
 子どもが汚れを持ったときに、それにとても驚いてしまうとか、厳しく排除してしまうということは、人間を知らない愚かで傲慢な所行だと思います。少し正直に自分を見る目があれば。子どもに公明正大、清潔などを求めなくなるのではないでしょうか。

●心の暗闇に触れない  
 世間から変だとか、だめと思われたとしても、「自分は自分」と割り切って、他者の眼を気にせず暮らすのはむずかしく、大きな覚悟と緊張とを強います。この時期の子育てでは子どもたちがこうしたがっているから、こう望んでいるからという「制約」は弱く、こうさせたい、こんなふうに育てたいという親の気持ちがむしろ前面に出やすい。そこで、子どもの「落ち度」は何よりも親の問題、つまり母親たちの人格評価そのものになります。
 
 あなたのお子さん、こんなところを注意したほうがいいわよ、という親身な心配にしても、あなたにはこれが欠けているという母親評価に直結する。お母さんたちからみてもどかしいのは、自分への人格評価が、子どものふるまいを通じて行われるという関係です。自分が「まともなしっかりした人間」だと認めてもらうためには、子どもを「ちゃんと」しつけなければなりません。

 こちらがそのつもりでなくても、いい親にみられなくちゃならないと、常に身構えているところでは、せっかくの助言も逆に圧力として働いてしまいます。親子を一心同体にさせる圧力と環境がいたるところでひしひしと感じられて、とても窮屈なこと、息苦しいこと、これが問題なのです。
 「保育園の言うことは、子どものためにこうしたら、に決まっているので、なるべく聞かないようにしている」
 たしかに私だって親だけれど、でもそれだけで生きているんじゃないんだ、今どきの若い母親などと、ひとくくりに見られたくない、という気持ちに私たちはどれくらい気づいているでしょうか。
 
●光があたりすぎる不幸 
 子どものけんかだって、言葉にできない細かな感情や理屈がぎっしりあるんですね。それを言葉にできる範囲に要約して解決しようとする。言葉にしないでいるうちは、とても複雑なものだったものが、言葉にしたために、簡単なものとして扱われてしまう。つまり、「あの子を嫌いだった」とか・・・。
 しかし、実際はただ「嫌いだった」だけではなく、実は一番のライバルと認めていたり、いつでも好きに転化する気持ちであったり、けんかする前は憎んでいたけど、殴り合ったらそんな気持ちが消えていた、とかいろいろあるわけです。そういうところで、子どもは人間を学ぶし、自分を知るんですね。
 
 子どもといえども全部には立ち入れない、親によって言葉によって、解決されないような世界で、ゆっくり育ってくる魂のようなものが子どもにはあるのだと思います。
 短期的に見れば、「悪」としかいいようがないものを、通過する時間を子どもたちは必要としていたりするのです。

●子どもの心がわからないこと 
 人間は言葉と反対のことを言うことだって、いくらでもあるわけですし、平等を装って非常に軽蔑している場合もありますし・・。観念としては、ものすごく平等を願いながら、どうしてもある人をより愛してしまうとか、ある人をすごく嫌悪してしまうとかいうことが、いくらでもある存在です。教育論で、あまり筋の通ったものは、警戒しなければいけない。

●分かっているけれど、できない 
 人間には分かっているのだけれど、どうしようもなくそうなる、ということがあるのではないでしょうか。
 頭では、誰でも仲良くやっていきたいと思っても、どうしても仲良くできない。いい顔をしても、顔がこわばってしまう。そういう部分をいかに知るかということ。それが当然のことだと承知して、それをそう克服しようかと考えるのが大事ではないでしょうか。
 悪感情などないふりをして、善を行使しようとすれば、抑えていた感情は、いつか暴力的に外へ出てしまったりします。人間には、そんなことはよくある事なんだと知らせること。人間は正義を体現するために生きているのではないのですから、善悪にあまり敏感すぎると、非人間的なところへ入り込んでしまうようになります。
 
 親は子どもの前では、善悪をくっきりと実現したりしてはいけないのかもしれません。体に悪いのにお酒を飲んでしまうとか、夫婦が仲良くしなければいけないのにけんかしてしまうとか、老いた両親のところへ行くのが間遠になるとか、そういうどうしようもないことが、人間にはあるんだと言うことを、子どもに教えるのは、学校よりも家庭だと思います。

●基準は生身の子ども 
 一般論としてはそうでも、自分の子どもはやはりいい学校に入れたい、などと思うのが現実です。親のこんな価値基準をゆさぶってくれるのは、結局生身の子どもです。
 いい学校へ入れようとしても、入れない子もいるし・・・。子どもが「何を好きか」を基準にする他はない。それを助けることしか、親のできることはないと思います。
 「好きなこと」はそう簡単に見つけられるものではない。だから「好きなこと」を大切にしてやるといっても、現実にはそれほど明快にはいきません。
 ただ大事なのは、「時代の基準」ではなくて、「その子の現実」であり、「親が子どもにしてやれることの基準」は、「他ならぬその子」にしかないのだというように思います。

 いくら時代の価値観が上位の職業でも、「嫌い」なら仕方がない。不安定で、成功率は低いと思っても、「好きだ」という方を選ばせるしかない。それ以上に、親に口を出す権利はない。人によっては、本当に好きなものは別のことだったと、更に年月が経って気がつくかもしれない。しかし、それはもう子どもの人生のことで、親はどうしようもない。
 「好きだ」ということに手を貸してやるしかない。「何が好きだか分からない」という子には、見つかるまで待ってやるしかない。そのくらいしか親のできることはないし、責任もないと思います。
 
 もちろん、人生の先輩として、方向をリードしたり、忠告したりしたくなるのも人情でしょう。しかし、親は自分の人格以上のものを口先で子どもに伝えることはできないし、口で伝えられるようなことは、黙っていても伝えてしまっているのが、親子というものではないかとも思います。
 自分の毎日の姿で伝えるしかない。教育的な言葉は無駄な事が多いと思います。
 とはいえ、しれでも余計なことを言い、余計なことを心配するのが親であるとも言えます。

(脚本家)

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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