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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

自分を分かってくれる場所

 中学2年の後半から、学習室登校になっている長男。親クラスの集団には入れず、個別の学習支援室で一日を過ごしてきます。
 3年になった今も、その状態は変わらずですが、それでも、教科によっては支援学級に行ったり、自宅には支援の友達が遊びに来たりとなんとか交流しているようです。
 自分なりの感じ方・考えで、「今日は朝から学校へ行く」と言ったり、「今日は体育があるから行く」と言ったり、「今日は(支援の友人の)○○君が病院に行く日なので、僕が××さん(女生徒)と一緒に帰らなければならないから休めない」と言ったり・・。(○○君と××さんは同じ支援で仲が良く、自宅の方向も一緒ですが、○○君がいない日は××さんは女性なので、男性の自分がボデイガードをしてあげなければいけないという彼なりの“こだわり”と“優しさ”があるのでしょう。今は、地域でも不審者情報も多く、暗い道を女性一人で歩かせられないというのです。本当は××さんの方が長男よりずっと頼もしく逆にガードされているのは長男の方かもしれませんが・・・)
 クラスに入れない原因が、クラスの女子からの何気ない言葉と視線だったので、女性恐怖症かといえばそうでもなく支援の××さんとは気軽に会話もしている長男。


 以前見学した、フリースクールに夏休み前に見学だけでもと連れて行った時は、建物の玄関に入ることさえ躊躇し、職員とも話もできなかったのでしたが、夏休み自分から「行ってみる」となり、数回体験入学して一日を過ごしてきました。
 学校が始まってからも、「週1回はフリースクールに行きたい」となり、今は「週2回行きたい」とだんだんフリースクールへ行くことが楽しみになってきました。
 スクールで何をしてくるかと言えば、学習支援のほかにも自然豊かな環境のなかでスタッフと川釣りに行ったり昼食の用意を一緒にしたり、趣味の絵を描いたりと、自分のペースに合わせて寄り添ってくれているようです。
 最初は昼食も周囲の生徒と一緒に食べられず、スタッフともうまく関われなかったのでしたが、行くたびに「あそこに行くのが楽しみ。早くこないかと待ち遠しい。」「あそこのスタッフは僕のことを分かってくれるから。」と今ではすっかり自分の居場所にもなっているような感じです。

 もちろん、今はまだ中学校生活もあり、親としても子どもがフリースクールにいく選択を選ぶのならそれでもいいかとも思い本人に聞けば、「学校とフリースクールを半々にしたい」とのこと。フリースクール側でもここに通うのを出席扱いしてくれる学校もあるとのことで、長男の中学校のコーディネーターの先生に訳を話したら、校長の裁量の範囲になるとのこと。学校によって、校外の施設に行くことを出席と認めるところとそうでないところがあるようです。
 でも、我が家ではたとえ欠席扱いでも、フリースクールには行くわけなので、出席だろうが欠席だろうがどっちでもいいです。
 学校側でも、市外のそういう類の施設の情報がないこともあり、判断材料がないため、一度コーディネーターの先生が子どもが通っている日に見学にくることになりました。

 もともと長男は人づきあいがきらいという性格ではありません。ただ、「自分を分かってくれない、気持ちを理解してくれない人」にはかなり敏感に反応してしまい、不安緊張が強くなり、結果引きこもってしまうのでしょう。また発達障害もあるため、新しい環境になじむまではかなり時間もかかります。
 しかし、自分を分かってくれる人がいれば自ら関わりを持ちたいという気持ちもあります。ゆっくりと彼のペースで相手にも関わろうとしていきます。
 これまで、彼が「いい人」「自分を分かってくれる人」と評価した人(学校の先生やフリースクールのスタッフたち)は、親にとっても「いい人」「私(親)のことも分かってくれる人」でした。
 自分が受け入れられて初めて人は相手を受け入れることができるのだと思います。
 フリースクールのスタッフは、みなさん決して「指導」したり支援者ぶろうとはしていません。ただ、子ども(生徒)たちの今の心の段階に寄り添いながら、一緒に時間を共有しているといった感じです。決して急がず、その子のペースで・・。そこから子どもたちは、この大人となら安心して自分を出して、主体性を養い、新たな一歩を踏み出そうという気持ちになっていくのだろうと・・・。
 
 いろんな支援機関は数多くありますが、何よりも子どもにとって良いと感じる場所(人)は親によっても心地良い場所(人)であることは私にとっては大事なキーワードです。
 
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認知症の相談

 認知症の相談がしたいという事前の電話をいただき、予定の時間に来所した高齢の女性を一目見たら、なんと中学時代の先生でした。担任ではありませんでしたが、教科担当の元教員の方でした。
 一瞬、「先生」と口にしそうになりましたが、相手は自分の素姓も口にしない以上、こちらから余計なことは言わないで、淡々と接していました。
 最初は、ご自分が認知症になって困っているという相談なのかと思えるくらい、先生のお姿が初対面の人間でも「やつれている」といった印象が強いのでした。
 でも、話を聞いていくと、実は一緒に住むだんなさんの認知症状に悩みぬいているのでした。
 その症状も、いわゆる認知症に良く見られる徘徊や物忘れなどの類ではなく、まず妻である自分の言うことはいっさい聞かず、「自分が一番」という性格がゆえに、必要な介護や助言には一切聞く耳を持たないだんなさんであるということにとても悩んでいました。
 むろん子どもたちの言うことにも聞かず、子どもたちも家にも寄り付かなくなっている。また物の置き忘れもあるため、失くしたと思った道具などを年中買ってくる。いつも財布には20万円位を常備しており、畑で使う草刈り機などもう、6台もあるくらい、買い物依存になっている。これまでも、ホームセンターには500万位お金を支払っているくらい何でも道具を買ってきてしまうのだとか・・。
 また妻が用意した食事の献立が気に入らないといっては、夜になってから自分の食べたいものをスーパーに車を運転して買ってくるため、危なくて心配。助言しても聞きいれず・・。
 毎日毎日、妻である自分の助言も聞き入れずに自分が一番の性格と認知症の症状に対してどう接したらいいかというのでした。
 あんなに現役時代は、バリバリとしていた方でしたが、今では本当に疲れきっている様子でした。
 介護保険の申請をし、訪問調査に伺った調査員からも様子を聞くと、夫も元教師で校長まで務め、また退職時には勲章までもらったことを今も自慢しており、今でも地域の会合などにも勲章を下げて出かけているそうです。地域の人たちも夫が認知症だということは、その行動をみていればわかってもらっており、何かと妻の方が頭を下げなければならない場面もあるようです。
 調査員などの第3者には、愛想がよくなんでも昔の自慢話をして満足している様子。とにかく、家族の言うことには聞く耳を持たなくても、他人の言うことにはけっこう話を合わせ、自分の実績(過去の栄光)を自慢話することで相手も尊敬の念を持って対応されることにますます自己満足して話に花が咲くタイプ。
 こういう人って、家族がいくらデイサービスに行ってほしいと思っても、本人はなかなかすんなりとはいかない場合が多く、かなり周りで「演技・演出」をしないといけないことがあります。
 デイに行くのも「先生としていろいろご指導願いたい」という「理由」をつけ、こちらの方が持ちあげるくらいの演技力が必要になるケースかもしれません。
 以前保健師で認知症状が強くなった人が、グループホームに入所する口実を「ボランティア保健師としてグループホームで高齢者の“指導”をしてほしい」という理由づけをして入所していただいたというエピソードもありました。
 やはり、プライドの高い人が認知症になったりすると、自分の若かりし頃の「栄光」の部分がそのまま残っているため、今の自分の現実にはどうしても納得できず、無意識のうちにそういう態度をとってしまうことってあるんだろうなあと思います。
 しかし、振り回される家族が一番「被害」を被るということも現実なのですが・・・。

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不登校のこころ

 
不登校のこころ―児童精神科医40年を生きて不登校のこころ―児童精神科医40年を生きて
(1992/11)
渡辺 位

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 (引用)
 
 ほとんどの人々は、学校教育を中心にして子どもはみないっせいに同じことができるように育てなくてはと、信じさせられています。

 どんなに高尚な理屈を言ってみても、理屈は理屈で現実ではないことを考えると、子どもとのつき合いについて、大人が先回りしていろいろ考え、理屈を言ってみても、現実は決してそのとおりにいくものではないので、もし両親が子どもとのつき合いで迷うことがあるときには、あまり理屈にとらわれず、まず両親がやってみたいと思うことをやってみるしかないのかもしれません。

 今なお、大人社会は、登校拒否に対し子どもの資質や両親の育児が問題だと信じ、強い偏見を持っている。それが登校拒否状態となった子どもとその両親への心理的圧力となり、両親は一層子どもに再登校を願い、子どもはさらに引け目や負い目を強く持たされることにもなるのである。 
 
 不登校におののき悩む子供のほとんどは孤独です。それはまわりの社会からの孤独であるばかりでなく、自分自身からも孤独なのです。だからどうしていいかわからないし、生きがいも失いがちになるのです。それならその人を現実に位置付ける足がかりになるために、その人に寄り添おうとするのであれば、その人と共感し共存できる人間でなくてはならない。でも、その人に関わる我々が今申し上げたような「常識」の世界の中に存在する限りは、どうしても相手を対象化してしか見ないから、共存などできないと思うのです。 
 
 いったん制度で決まってしまうと、それに従わないと人でなくなるように考えてしまう。その通りにいかないと、異常だとか悪いことだと決めてかかる。よく頭を冷やして考えてみると、人が人であることと何の関係もなく、人がつくった決まり通りに生きられなければ、その人は間違っている、と考える方がおかしいのです。

 
 学校教育のサイズに合わない子どもが多数いても、少しも不思議ではない。一人ひとりの子どもを大切に、などといっても、学校教育の現場は、集団で子どもを見ていて、決して一人ひとりなど問題にはしていない。 

 子どもについての問題というものを、それを問題にする人が問題なのだ。その人が問題をつくっているのだ、と考えなくてはいけない。大人が子どもを決めつけてかかると、それを素直に受け入れてしまいがちですから、子どもはそれをもとにして、自分自身のイメージをつくってしまう。 

 本当に行き詰まり、生きがいを失くした子どもたちとつき合っているときに、子どもというかその後年がたって大人になっている方も多いのですが、本気で当人の苦境に寄り添おうとすると、自分の立場だとか、「常識」の枠を考えると、私たちも本当に行き詰るのです。
 「日頃、使いなれている言葉がすべて力を失う」というのは、先ほど申し上げた狭い価値観の上で成り立つ。「常識」が何も役に立たないということだと思います。 
 
 理論や建前や常識を超えさせるほどの苦労の真っただ中にある人に寄り添うときは、こっちが非常識にならない限り、その人の心に寄り添えない。非常識になるというのは、学校へは行くものだ、行って当たり前だ、行かなかったらどうするとか、人とはこうでなくてはならないなど、その他「常識」で枠づけられる是非善悪、などといったものを、一切超え、ただの存在としての“人”として寄り添う以外ないのではないか、と感じるのですね。
 とことん思い悩む人と、本当に共存しようと思ったら、あらゆる価値観とか「常識」から自分が脱却しなければ、そうなり得ないのです。


 健常者の常識で、その人の心の世界を見て、「ああだ、こうだ」と批判してみたり、あれもこれもできなくては社会生活上困ると言ってみたり、何ができるとかできないとか言ってみたりして、健常者の常識でつくった日課なり訓練プログラムに乗れないからといって、それを問題にするのは、それは健常者のおごりにすぎないのではないだろうか。 

 不登校の問題や登校拒否の子どもにどう関わるかということは、これはハウツーの問題ではない。関わるその人自身の生き方にも関わる問題です。だから、学校に「行けない」なら、建前や「常識」に従って「行かせりゃすむ」という、そんな生易しいことではない。つまり、不安に苦悩する人とのつき合いは、感性の問題であって決して理屈で片づけたり、ハウツーの問題ではないのです。 

 その溺れている人の不安や苦悩は、その渦中に入ってそばによってみなければわかりません。だから、それができないようでは、きれいごとで終わると私は思っています。要するに、病む社会の中で苦悩する子どもにつき合っていこうと思ったら、社会を病ませている枠の中で自分から一歩出ない限り、その苦悩する子どもとはつき合うことなどできはしないのだ。

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障害・福祉・親

 (ある媒体から書きとめていた内容です)

 誰でも夢や理念はあるものですが、日常の仕事に追われ、周囲の人々の価値観に埋もれていくうちに、夢や理念よりも目の前の常識に流されていくものです。
 
 障害のある息子を持ったおかげで、小児科の本質というか、子育ての本質が見える位置に立てた。
 病気を持っている子どもを診るのか、子どもの病気を診るのかという違いは大きい。
 子どもたちは、ひとりひとり違う道を歩んで大人になっているのですが、障害や病気になるとその道に大きな岩や壁が立ちふさがっているイメージを抱かれる。しかし、何か障害物があるわけではなく、その道がたまたま自閉症という道であったというだけのことです。
 
 知的障害のある人が、幼少期から「専門療育」「特別支援教育」の名のもと、地域と隔絶されてしまい、地域の人々がほとんど知的障害のある人と接する機会がないという現状で、いったいどれだけの人が、「知的障害のある人が地域で一人暮らしをする」ということを、「目に見えて」想像することができるでしょうか。
 そういった意味では、大変皮肉な話ですが、役所の職員が感じた「ヘルパーサービスは100時間も必要か」という疑問は、ある意味正しいことになります。
 その職員は、知的障害のある人が身近にいないことが当然であるという“社会のありよう”の中で育ったために、知的障害のある人が一人暮らしをするということを理解できなかったのです。
 さらに言えば、知的障害のある人を取り巻く社会のありようが、少しでも彼らを理解し、手助けできるものだとしたら、ヘルパーの時間数は結果的に70時間で済んだかもしれないのです。


 福祉就労 低賃金は誰のせい? 
 自己負担のことを批判する福祉関係者は多いけれど、利用料を負担できないほどの低賃金しか与えられていないのはいったい誰だ。そのくせ利用者(障害者)には、自分たちのことを「先生」なんて呼ばせている。
 
 障害者の収入が少ないのは、事業者や職員が努力をせずに、旧態依然の作業をやらせているからであって、それをたなにあげ、自分たち職員は大した専門性もないのに、障害者に「先生」と言わせているのだ。
 
 ノーマライゼーションだの共に生きるだの・・、そんなわけのわからないものはいらない。要するに最低賃金、障害のある人たちにどうやって最低賃金を支払うことができるのかが大事なのだ。

 「お金のない障害者から利用料を取るなんて」という批判の前提には、障害者には収益を上げられるような仕事ができるわけがないという「常識」がある。
 しかし、それは障害者が収益を上げられるような仕事を見つけてきたり、収益の上がるような「売れる商品」を作ったり、販路を拡張したりという能力や努力を事業所、職員がしていないからではないのか。

 働いている障害者から利用料を取るのはおかしい・・・福祉の世界では美しい言葉だ。
 しかし、どんなに真面目に寝食を惜しんで働いても、収益が上がらなければいつ首を吊ることになるかわからない人々があふれている社会からみると、いったいどうなのか?
 収益なんて上げられるわけがない、障害者から利用料を取るなんてできない、もっと単価を引き上げ、もっと補助金を沢山もらわないといけない・・。そんな福祉業界の声を社会はどのように聞くだろう。

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世間の評判と実態

 よく「その道の第1人者」と言われる人たちがいます。

 在宅医療に熱心なA医師。地域の開業医の中でも、リハビリや在宅医療、ことにチーム医療などには理解ある医師です。医療と介護の連携にも積極的に関わり、自らもケアマネジャーの資格を取り、ケアマネジャー協会などにもかかわっています。

 地元医師会や県の医師会の理事などの要職にも就任し、とにかく在宅医療といったら、A医師の名が県内でも知れ渡るほどの知名度にまでなりました。
 A医師とは以前、同じ病院で仕事をしたこともあります。その当時は、患者さんにも時間をかけて熱心に診察をしたり、QOLを目指していろいろ患者さんと関わっていました。

 だんだん、知名度があがり、開業後いろんな役職など(医師会の理事だけでなくケアマネ協会の理事や行政の○○協議会の委員など多数)に関わることで、A医師の権力がますます大きくなり、医療や介護の担当課では、時にはA医師の意見も無視できなくなってきつつあるような現状もあります。

 以前、ある病院から退院する際の在宅の係りつけ医を決める時、患者さんの住まいに近い二つの開業医をあたりましたが、二つとも断られ、3番目にちょっと遠いA医師へ病院がかかりつけ医になってほしいと頼みました。
 しかし、A医師は最初に自分のところに来なかったのが原因かはわかりませんが、その患者さんの主治医になることを断わったというエピソードがあったそうです。
 その病院で、A医師との連携の取り方が難しく、A医師の描く在宅医療のイメージ通りにならないと、あまり協力はしてもらえないということが、地域医療室のスタッフでは悩んでいました。

 在宅医療に関する研修会などではいつも先頭にたって、コーディネーター役になったり、講師になったりして県内の在宅医療を先導する立場でふるまっているのですが、ケアマネジャーや病院スタッフの中には、「○○先生(A医師)は一度つむじを曲げると大変」という評価も実際にはあり、なかなか全ての利用者や患者さんにとって満足のいく医療が与えられているかと言えば、そうでもないところも正直なところ。最初は確かに真摯な気持ちで患者さんの立場で仕事をしていたのが、知名度とともに自分のプライドも上がり、いろいろと自分の思いを主張してしまうのかもしれません・・・。
 病院と開業医をつなぐ立場の地域連携室やケアマネジャーはじめ在宅に関わるスタッフが双方の医師の調整役になることも多いわけですが、あからさまにA医師のことを「○○君のいうことにはいちいち従っておられんよ」と蔭ではいろんな反論をしている医師たちもけっこういます。

 「○○の領域ではあの人が第1人者」と言われる人だって、身近に関わっている人間から見れば、「それほどのことはない」と思える場面はけっこうあります。特に「第1人者」だと持ちあげる人たちは、意外と同じ業界の人間ではないことが多いのです。
 むしろ、そんな巷の評判などなくても、誠意を持って、来るもの拒まずの気持ちで一生懸命に関わってくれる医師もいますし・・・。

 
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子どもをどう見るか?

●金原ひとみ(元不登校児の芥川賞作家) 
 小4で完璧に不登校になった。
 「何だかあらゆることが面倒臭くなってしまったんです。授業を受けなきゃいけないとか、先生の言うことを聞かなきゃいけないというのが・・・。」
 強制的にムチを打って教え込むのが英才教育だと思っている人が多いのだが、内部に眠る才能を自然な形で引き出すのが本当の英才教育なのである。
 そもそも読めと言わなければ読まないようなら、その子どもに才能があるとは言えない。

 中学にも行かなかった。ジャンパースカートに丸えりのすっごく可愛くない制服で、こんなの着るんだったら死んだ方がまし。
 当時は昼間は家にいて、繁華街で遊んでいたというが、大学の創作ゼミに来てみないかと誘われて、それに参加することになる。(彼女の父は翻訳家兼大学教授なのである)

●さいとうたかを(ゴルゴ13 漫画家) 
 「お上」が懇切丁寧にすべてのことを教えてやってきたために、日本人はみんな自分の頭で考えなくなってしまった。
 今の日本人は、人間は本来自分の価値観を持っていないと生きていけないはずなのに、それが全く必要なくなってきている。とにかくマニュアルに従って生きていけますからね。
 親に本当に求められることは、子どもが生きるため、生きていくために必要な何かを、親の権限を用いて提供する実力だ。
 現実には、その権限やプライドを持っていても、実力を兼ね備えていないことも多い。むしろ、そういう親の方が多いかもしれない。
 結論から言えば、その実力のない親の犠牲になった者に対して、妄想だの幻覚だの自己中心的だのと言いがかりをつけて、統合失調症で一蹴するのが、精神科医の主な社会的な仕事である。
 だから、精神医学、精神科医自体に、その責任があるわけではない。本当の問題は、実力のない親が存在することだ。

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母は子どもを拒絶する

 母親自身が真実に直面することを避けるための防衛に、子どもは巻き込まれるのである。
 子どもの話を母親の不安や葛藤に従って聞き、それで叱って、子どものために叱ったと思っている母親がいる。
 子どもの話を、子どもの言わんとすることを、ありのままに受け止めることなく、母親の劣等感に従って反応し、子どもを評価する母親がいる。
 母親がもし本当に子どもに対して共感的理解を示せるなら、子どもの心には葛藤はおきないだろう。
 自分が嫌いなことでも、子どもが好きなことがある。自分がしたいことでも子どもがしたくないことがある。そんなように、子どもを自分とは別の人格として感じることができる親が初めて子どもを理解しているのである。
 子育てにとって、何より大切なのは、親の情緒的成熟である。親自身に依存性が強く残っていては、どんなに熱心に子育てしても、子どもの心はゆがんでいくだけであろう。
 劣等感は伝染する。親が劣等感のかたまりであって、子育てに熱心だったら、間違いなく子どもは劣等感の強い子になる。


 悲しいことが多いのは、自分のことしかわからないからだ。
 つらいことが多いのは、感謝を知らないからだ。
 苦しいことが多いのは、自分に甘えがあるからだ。

 悲しみや苦しみを知らない人はいない。
 しかし、悲しみや苦しみだけで終わってしまったら、それこそ哀れむべき人生である。
 自分をどう慰めてみても、自分の淋しさをくれるものは生まれてこないからである。

 親と子は、かけがえがないという。
 それだけにどうすることもできない子を持つ親は、そのつながりのせつなさに涙する。
 どんな子にも必ず光がある。
 それが見えない親は、子によって育てられているといういうことを知ろうとしないからだ。

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受容するということ

 以前ある媒体を読み書き留めておいた内容です。

心が治れば、肉体の病理現象も治る

 自分の生んだ子がいなくなってくれればと思うおそろしい自分、自分の理想に当てはまらない気に入らない人間を切り捨て、排除しようとする殺人の心、それが私の心の中にあることがわかりました。
 
 受容ということの中には、苦があります。これが人を生かすのであると思います。受容されて人は「居場所」ができます。
 しかし、人を受容するということは、まず自分が粉砕されて神に受容され、莫大な精神的富と平安を頂かなければならないのです。
 そのことなしには、真に人を受容できない。受容のみが人を生かす。受容ということの中には苦があるのです。

 頭だけヒューマニズムの精神だけでは受容にならない。受容できる人間になるには、自らがいったんどん底に、「一番下」に突き落とされて粉々に砕かれ、十字架で贖われて生まれ変わったその時に初めてそのことが可能な人間にさせられるのです。
 「一番上になりたい者は、皆の一番下になれ、皆の召使になれ」
 不登校がなぜ起きるか、その医学的な原因はまだ不明だが、治った生徒には共通の現象がある。それは、親がある悟りを開いたということだ。

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必要なのは「監視」か「信頼」か

 あるテレビ番組で、非行少年少女を積極的に雇っているガソリンスタンドを紹介していました。

 今の時代、町中に「防犯カメラ」の設置が当たり前になっている時代にあって、そこのガソリンスタンドは、経営者が元非行少年少女を積極的に採用し(働きたいと言って来るものは断らない)、売上金の計算も彼らに任せる。誰もいない店内で、17歳の元非行少年だった男性が一人で売り上げを計算していました。もちろん、そこには防犯カメラもなく、先輩や店長が「監視」しているわけでもありません。全く一人でその仕事をまかせているわけを、経営者は「信じているから」といともあっさりと笑顔で答えていました。

 もちろん、これまでも何回か、そういうことをさせても売上金を持っていかれたということはあったそうですが、そうやって再び刑に問われたあとも、またここで働きたいと懇願した少年を再度雇用してきたそうです。
 「裏切られることもあるが、裏切られても、また反省して働きたいという子は採用している。その中で彼らも何か考えが変わるんじゃないかと期待して・・・。裏切りよりも、「信じる」ことで(少年少女たちが)変わっていくことの方が多いから。騙されても信じる」と言う経営者。

 17歳の少年は、インタビューで「こんな僕でも雇ってくれて、裏切れない」と言っていました。
 まだ少年、ましてや元非行歴がある少年に一人で店の売上の計算を任せることじたい、本当に彼らを信頼していなければできることではないでしょう。
 
 またそこのガソリンスタンドでは、従業員のほとんどが非行歴のある人を雇っているのですが、それを地域の人にも公言しているのです。だから、地域の人たちもそういう人たちが頑張って真面目に仕事に取り組んでいる姿を見て、声をかけたり温かく見守ってくれているのでした。


 人が変わる要素があるとすれば、「信頼関係のある出会い」があるかに尽きるのではないかと思います。
 非行歴があるというだけで、周りの人たちの見る目がいつまでも偏見に満ちて接していれば、自己肯定感などなく非行を繰り返すかもしれません。

 人を育てることは「信じること」、リスクを抱えながらも、それでも「信じる」というこの経営者は、本当の意味での彼らの「支援者」だと心から思いました。

 口先だけの「支援」、偏見に満ちた「支援」のなんと多いことか(特に、その道のプロだと称している人ほど、相手を信用せず、自分の支援を強引に押し付ける)。そんなことを感じる生活の中でのこの番組を見ていて、こういう人間観を持ちたいものだと、勉強させられました。

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ある人生相談への回答

新聞の悩み相談コーナー

 ある中学の女子生徒の相談は、新学期のクラス替えで周りからKYで協調性がなく、感情の起伏の激しいAという女生徒と同じクラスになり今後のつきあいについて、回答者の意見をうかがうというものでした。
 学年のほとんどの女子から嫌われ、ずっと孤立しているAを、相談者はちょっぴり苦手ではあっても、これまで無視も意地悪もせず普通にしゃべっているので、Aにとっては「私しかいない」状態で同じクラスになったことをとても喜んでいる。
 でも自分は「ビミョウ」であるというもの。自分が見捨てたらAが孤立するのは目に見えているので心が痛むのだけれど、Aといると他の女子は離れていってしまう・・・。他の女子ともいい関係を保ちたいが、Aのこともそう簡単に無視できない・・。いったいどうすればいいでしょうか、というもの。

 
 回答者の先生(評論家の岡田斗司夫氏)のコメントがまた意味深い。

 人間は「バカ正直」か「ズル賢い」か、どっちか。そして他人への関わり方は、「お節介」か「弱虫」か、どっちか。つまり、あらゆる人間は「バカ正直&お節介」「バカ正直&弱虫」「ズル賢い&お節介」「ズル賢い&弱虫」の4種類のどれかです。
 「バカ節介」ならAから逃げず説教するでしょう。「あんたがそういう子だから友達ができないのよ!」とウザがられても離れず説得するはず。
 「バカ弱虫」はAのことを我慢しながらも逃げられず、イヤイヤ付き合います。これまでのあなたの戦略はバカ正直だけど弱虫なんですよね。
 「ズル節介」はAに「ひと言だけ言ってあげるけど」と怒鳴って、それきりサヨナラです。いちおう説教するだけのお節介は持っているけど、ズル賢いので深入りしません。
 「ズル弱虫」は最初からAと友達になりません。遠巻きに無視する。これがズル賢く弱い人間の戦略です。

 あなたのこれまでの戦略「バカ弱虫」はもう限界です。となると、残り三つから選ぶしかありません。
 ●弱虫→お節介になって、Aの性根を叩き直す。
 ●バカ正直→ズル賢くなって、Aから徐々に離れ、みんなと一緒に無視する。
 ●弱虫もバカ正直もやめて、今まで言いたかったことをAに怒鳴り、さっさと逃げる。

 いわゆる究極の選択です。どれを選んでもしんどいでしょう。あなたは弱虫のくせに今までバカ正直にAに付き合ってあげた。「なんで私が?」とイヤになりながら、よく頑張りました。そんなあなたのことを僕は良い人間だと思います。たぶん好きです。きっとAも他の友達も、あなたの「弱虫ダケド、バカ正直」な部分が好きなんですよ。
 でも、あなたはAと同時にこれまでの「好かれる自分」を捨てて、これからのために生まれ変わるんですよね?
 そんなあなたのために、大人の私からズル賢いアドバイスです。四つのうちどれを選ぶか、これから仲良くなりたい友達に相談してみなさい。彼女たちにも四つの選択肢を考えさせる。これであなたは、友達の輪に自然と入れるし、同時にAへの扱いも微妙に変化するかも。あなたが見捨てるAにも変化のチャンスが与えられます。
 Aもあなたも大事なものを失うのは同じ。見捨てるしかない、Aも、自分の一部も。

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地球の名言

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Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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