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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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「私は専門職という人に限って・・・」

 最近、よく思います。

 私のブログの分野は「障害・福祉・医療・子育て」等について、発達障害を持つわが子の子育てを通して感じること、自分もかつて(今も)障害を持つ人や高齢者の方々を支援する立場として感じることを自分自身の振り返りや、批判や反省も込めて書いているものです。

 わが子の発達障害の特性を理解せずして、わが子の子育てはできないし、また「理解しているようで、理解していない」ことも毎日の生活には多いものと感じさせられます。

 自分が子どもを授かる前は、「専門家面」して私も目の前の障害を持つ子どもさんたちやその親御さんにいかにも「指導性」を発揮していたなあと、若き日の傲慢さや専門家としての自信も含んだ仕事の仕方を思い出すと、とても恥ずかしい思いもこみあげてきます。

 そんな反省やわが子の子育てを通して、自分自身もさまざまな「専門家」といわれる人にも相談したりしてきましたが、どういう人に「支援してもらいたいか?」ということをいつも自問自答せずにはいられません。
 
 子ども(特に何らかの障害を抱えている人はなおさら)というのは、実に相手をよく見抜いているものです。「この人は自分の信頼のおける人か?」なんて、その鋭い嗅覚でしっかりとかぎ分けています。

 いかにも、「私はあなたのことをよく知っている専門家だから・・」という雰囲気で関わってくる支援者には、感覚的に寄り付きません。
 教員でもしかり、福祉職の専門職でもしかり、これまで息子が信頼できた人というのは、決して自分の専門性を前面に出したり、指導性を発揮するような人ではありませんでした。
 子どもの思いに寄り添い、表面上だけでなく、心から子どもを何とか理解しようと謙虚な気持ちで接してくれる人たちばかりでした。

 そんなわが子の行動から、親にとっても、「ああ、この人になら相談したい」というタイプの人たちは息子の思いと一致していました。

 よく、職場や業界筋では「自分たちの専門性とは?」「専門職として・・・」というテーマで話をしたがる人がおりますが、「専門性」を声高に唱える人に限って、机上の知識や理論に頭でっかちになり、目の前の対象者の気持ちをきちんと聴けない専門職の方たちが多いような印象を受けます。

 発達障害といっても、皆それぞれ一人ひとり違う個性なのに、さも発達障害の何たるかをわかったようなふりをして、「あの人はアスペだし・・・」「ADHDだから・・・」なんてそのカテゴリーの枠を通してしか評価できずに、目の前の個性ある人間が置き去りにされてしまっているような・・・。

 また、自分の子育てや支援を通して感じることは、いかに子どもや親に「寄り添う支援」をしてもらえるかが一番重要なのであって、業界で知名度のある専門職だから相談したいのではありません。
 自分の専門分野をひけらかして、「あなたたちは私(専門家)よりも、下」のような感じで接してくる人というのは、たいていその雰囲気や会話をしていればわかるものです。
 しかし、当事者が、そのことに気付かないから、自分の支援を拒否するような相談者には、「あの親子はわがままで、理解がない」と簡単にレッテル貼りし、自分を正当化しようとします。

 福祉や心理分野では必須で学ぶ「バイスティックの法則」や「共感的理解」「自己一致」などという専門用語をきちんと理解して仕事の中で活かしている専門家がはたしてどれくらいいるのでしょうか?

 日々の業務の中では、それも忘却のかなた・・・。
 自分は専門職としての自負がある人の中には、社会的弱者や自分の価値観に添わない対象者(指導が入らない人、自分から見たらとても受け入れられないようなだらしのない生活をしている人・・)のことを、「私ああいう人大嫌い、ああいう人を見ると虫ずが走るのよね!」と平気で周囲に語り、同情を得ようとしている人もいます。

 そしてそういう類の人にこそ本当は寄り添っていかなけれないけないのに、そういう人たちは自分たちの生活レベルまで持ち上げようとするあまり、指導的になり、言うことを聞かないのは全部本人の責任、本人にそういう理解力がないから(勝手に認知症と決めつけ)、もうこれ以上余計なことはしない方がいいと、最後は勝手に放り出す・・・。そんな支援者も実際にはいます。
 ケアマネジャーやサービス事業者の会話を聞いていても、たいていマネジャー側の価値観が先にあって、「こんなサービスを使わせたいのに、あの利用者は拒否する」「あの家族は利用者のことを何もわかってくれない」と批判めいた評価をしがちです。

 どんな対象者であれ、自分たちがこれまで生きてきた中で培った価値観なり、その生活背景だからこそそういう考えに至ったという「物語」があるはずなのです。
 しかし、関わる時点では、それまでの生き方を理解してもらう前にすぐできる「サービス」を安易に提供しようとしたがる。
 その辺の事情をしっかりリスニングしてくれないことには、相談者と支援者の信頼なんか生まれないと感じます。
 自分の子どももいずれ誰かの支援に頼らなくては生きていけないでしょう。感覚が過敏で、心理的に繊細で周りが思っているより、人を見抜く力はある息子にふさわしい支援者って?といつも考えます。
 
 だから、自分がそういう支援者にふさわしい人間かどうかを私自身はいつも自問自答せずにはいられません。
 「自分は専門職だから・・・」と豪語したがる人に限って、謙虚さが足りないような気がしています。そしてそれも、経験を積めば積むほど自分のやり方が正しいと譲らず、自分たちの支援したい方向へ持っていきたがる傾向にあります。

中には、援助者の私生活への不満やストレス、自分の親との関わりの中での未消化な部分が、対象者を無意識的に「支配」してしまい、自己満足を得ようとする。自分を認めてくれたという実感がない人ほど、対象者から「専門家」として認められたい。ああ、さすがあの人の支援する内容は私達とは違う、と周囲から羨望や尊敬のまなざしをむけてもらいたい。しかし、それは、元をただせば、自分が一番認めてほしい人(親や配偶者や子供など)から得られないからこそ、対象者や周囲の関係者にそれらをもとめてしまう。そんな本音が透けて見える専門職の人もいます。

 専門的知識や技術の前に、まず、支援する側が当事者に対して、まず「その人に興味を持ち、もっとその人のことを知りたい」と思うか、単に「情報収集」としての聴きとりではなく、その人の生きてきた足跡や人生に共感的に付き合っていただけるかという視点が実は一番大事な姿勢なんじゃないかと思いますし、そういう姿勢で支援している人の支援内容は当事者も満足感で終わっていることが多いようです。


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対人援助職としての姿勢(4)

身体知と言語―対人援助技術を鍛える身体知と言語―対人援助技術を鍛える
(2007/03)
奥川 幸子

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(引用)

 たとえば、現在目の前にいるそのかたの姿だけを見れば、人生の敗残者としての印象をこれでもか、と周辺にいる人たちに重ねさせてしまうような言動を援助者にみせつけるクライアントがいらしたとします。
 アルコール依存傾向、糖尿病でインスリン管理なのに・・・・毎日飲んでいる・・・。
 ヘルパーが作る食事は食べないで、勝手にコンビニで弁当を買ってきて・・。
 裕福な家に生まれ育ち、自分で起業した事業も倒産して借金して親類縁者に大迷惑をかけて、離婚して妻子と別れ、いまは生活保護を受けてひとり暮らし。
 それなのに、プライドがやたら高くて、こちらが提案するサービスはすべて拒否して、自分がしたいことだけをしている・・・。
 ケアマネジャーは、きちんと通院介助のヘルパー派遣をケアプランに組んでいるのに、いつも当日キャンセルし、不定期に(自分勝手に)「通院したい」と言ってヘルパー派遣を依頼してくる・・・。ヘルパー交代も要求してくるし・・。
 必死で入院先を探したのに、主治医と喧嘩してすぐに出てきてしまう・・。
 その他、要求が多くて、生活保護のケースワーカーもヘルパー事業所もケアマネジャーもてんてこ舞い、何で?・・・。この人は本当に勝手な人だ、今の姿も因果応報なんだよ・・・。
 いわゆる「援助困難な事例」として頻繁に登場してくるクライアントです。
 対人援助者としての基本的な倫理的・内省的な態度が身についていない援助者ですと、クライアントの強烈な個性を前にして、恭順な態度をみせることなく自己主張や苦情を浴びせられると、腹を立てたりクライアントを一方的に非難しまくって、自己のストレスを発散させます。それが支援に関わっているチーム内全員が集団ヒステリー状態になると、よりエスカレートしがちになります。クライアントのほうも援助者たちから一勢にマイナス感情を放射されれば、力のある人ほどそれに強く反応し、援助者にとって好ましく映らない言動をより増大させます。
 このような事態は現場実践ではいくらでも起こっています。
 
 事例検討の場面でこのような事態を絵解きしていくなかで明確になってくることは、事前情報を鵜呑みにしてしまっていることがまず挙げられます。前任者や前から担当している人たちが意識せずに悪感情を抱いていると、クライアントその人およびその人の行動への評価が厳しくなりがちです。さらに担当している援助者たちのクライアントに関する基本情報のとらえ方、つまり(ことば)という(かたち)にしておくときの踏み込みの足りなさが目につきます。
 
 先の例でみていきますと、糖尿病や網膜症、視力低下などは記載されていても、では、いつごろから症状が悪化してきて、視力低下が低下し始めたのはいつごろ?その頃は事業はまだ続けていたのか、倒産したのはいつ?・・と、疾病の悪化や障害の出現とそのかたに起こった生活上の事件・倒産や借金、離婚や飲酒などが時系列に沿って関連しているか否かの分析・統合が行われていないことが判明するのです。
 事例検討において、〈点)でしかない情報から類推していくと、クライアントの現在に至る病状や生活の悪化は彼ら自身のだらしなさや自己管理の悪さばかりだけではない事情、つまり、自業自得とはいえないことがみえてきます。健康管理を怠っていたのではなく、健康面にばかり留意していられない生活面の極限状況が重なって、いまのような状況に陥ったのだろうと推察できます。
 すると、クライアントの自己像の高さと、他者から見做されてきた目線との乖離の大きさが見えてきます。自分が抱いている自己像をディスカウントされると、誰だって腹が立ちます。そうなれば、彼らがこれまでどのような悔しい想いをしてこられたのか、ある疾患をきっかけにして泥沼のようにどん底に落ちてしまったかた達の想いに心を寄せるだけで、クライアントの悲鳴は少しであっても手当てされます。
 数年間、いや十数年間以上も担当者が替わり続けても悲鳴をあげ続けてきたクライアントたちの真の叫びや姿、その背景にあるものに心のひっかかりを覚えて実践を振り返る作業を初めて課した担当を引き継いだ援助者達の事例に出会ったとき、これまでに真の相談援助のプロフェショナルに出会えてこなかったことへの痛みを感じます。


 初心者のみならず、クライアントに対する責任を意識していれば当然、同僚や上司、あるいは他機関の専門職や相談窓口に自分が担当しているケースについて相談します。
 このようなときに取り上げらるケースの多くが「接近困難ケース」であったり、「地域のお騒がせケースとしての有名人」であったりすることが多いようです。気をつけないと、関わっている支援チームが同じ方向で「困ったケース」としてみなしがちになり、対象者に対して画一的でしかもディスカウントした評価をしがちです。そこで、一人が「ちょっと待てよ」と、クライアントが有する潜在的な可能性へのひっかかり感知しても・・この対人援助職者としての真摯な態度も、そのバックアップするべき立場にある機関に、せめてスーパービジョン実践レベルに達していなくても最低限対人援助のプロフェッショナル水準にまで熟成している担当者がいなければ話になりません。バックアップになるどころか、まっとうな「ひっかかり」を有した援助者のほうが、〈多勢に無勢)状態になり、足を引っ張られてしまう事態も生じます。つまり、アセスメント力のないもの同士の寄せ集めでは、複雑な様相を呈しているクライアントの隠されたニーズや可能性を理解できないからです。チーム援助の落とし穴は「水は低きに流れる」の譬えにもありますように、たとえ、援助職者集団でも自分達にとって楽な方向に向かいがちな傾向にあることを意識していませんと、クライアントに不利益を渡してしまう援助者ならぬ加害者集団に堕ちてしまいます。

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対人援助職としての姿勢(3)

 
身体知と言語―対人援助技術を鍛える身体知と言語―対人援助技術を鍛える
(2007/03)
奥川 幸子

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(引用)

力があっても情緒的に不安を抱えているクライアントへの理解

 一般的に高齢者がクライアントの場合は、「年をとっている」というだけで本人が実際にもっている生きる力や強さよりも他者から低く見做されがちな状況に生きておられる方達が多くみられます。高齢者自身もそのように見せることが家庭や社会のなかで円満に生き抜くコツと心得て、みせかけの能力低下状態を演じていることもあります。家庭内では若い世代との葛藤や衝突を避けるため、入所や通所などの施設内では、そこで働く職員や同じ施設を利用している高齢者達との衝突を避けるため、という理由からです。
 自己主張が強ければ強いほど、周囲の人たちからの風当たりも強く、高齢の身にとっては本来の感受性や認識を表明してしまうと、そのことから生じる人間関係のストレスは相当きついはずです。そのからくりを見抜く力量が援助者には必須です。爪を隠しているタイプと、つい出してしまうタイプの人、出さなければその人らしく生きられずに息が詰まってしまう人など、いろいろな高齢者がおいでです。とくに施設に入所しておられる方にとっては、職員に理解者が存在するか否かは〈自分らしさ〉を生かせるか、殺さざるをえないのかの分かれ目になるほどです。
 また、高齢者のなかには話がくどく、繰り返し同じ話をする方も多くみられます。医療機関の外来の場でこれをしでかしますと、電子カルテの時代、面倒くさがり屋の医者に当たると、彼らは老人患者の顔など見ていませんから、長くてくどく繰り返しの多い話を聞かされると、「これは動脈硬化が始まった」と見做され、脳の循環をよくするための薬などを勝手に、つまり患者にきちんと説明しないで処方する始末です。
 しかし、高齢者の側に力がありますと、そこで身体の異変を感じ、何が処方されているかをしかるべき本で調べ、自衛のために服薬を患者の方で勝手に止めるという事態が発生し、それを知った医者がますます「この年寄りはボケている」と思い込む、といった笑い話のような事態も生じているのです。
 
 お年寄りが同じ話を繰り返したり、自分の人生を語る時は、他社からの評価が自己評価より低く見做されているようなとき、「私を見て!」と叫んでいる場合が多いのです。そのようなとき、聴く側が注意深く老人の物語に耳を澄ますと、繰り返しの多い話は、彼らの人生の時の、一番自己像が大きかったときや一生懸命生きてきた時代のことをお話くださっています。「私はこうだったのよ、こう生きてきたのよ、頑張って生きてきたのよ、年をとったけど、いまの私も認めて!」とこころで訴えているのです。平素から年寄りだからと無視され、その存在や価値を値引きして見做され続けていることへの無意識的な抵抗なのでしょう。
 万が一このような自己像が高い高齢者が疾病の悪化や日常生活上の不自由を蒙り、本人のこころの内では「いよいよ・・」と思い知りつつ、そのような事態に対して抵抗が強い段階にいらっしゃるとき、周囲の人たちや援助者からその傷口を大きくするような対応をされると、個々人の対処行動によって、攻撃的になったり、沈んでしまったり、拒否・寡黙といった反応をします。

 『いま、かくあれども』(メイ・サートン著:武田尚子訳:みすず書房 1995年)高齢者ケア現場で働くケアワーカーによっては、必須図書と考えています。)
 身体的には病弱であっても、知的水準は高いままの状態で有料老人ホームに入ったカーラという元高等学校の教師の女性が、看護師とケアワーカーの女性からの心理的虐待を受け、「私に残されたものは精神の自由だけ」と嘆く場面が出てきます。ケア提供者側の無意識の悪意が主人公のカーラをいかに追い詰め、精神を狂わしていくかが克明に描かれています。援助を提供する側が意識していないまま利用者を苦しめ、追い詰めていく。このような現象は、現実としてケアの現場ではいくらでもみられます。

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当事者無視の連携支援

 以前私が要支援2で担当していたALSの利用者がいました。
 私が入院中に同居していた障害をもつ息子さんがとある事件をおこしたことで、担当になった保健師と社会福祉士がその世帯にかかわるようになりました。
 それまではALSとは言っても、嚥下障害が主のタイプでコミュニケーションは筆談ではありましたが、意思疎通もしっかりしており、支援内容も自分の意思がはっきりしているためあまりこちらの意見をおしつけることなく自分なりには寄り添ってきたつもりではありました。
 しかし、それが二人の専門職にとっては気に入らないのか、「必要なサービスを受けられない」との理由から「区分変更」で要介護認定をとらせ、ケアマネジャーも包括センターから自分たちの意見が通るとある事業所の看護師資格のケアマネジャーへ依頼しました。
 そうこうするうちに、胃ろう増設の手術のため入院。退院後の処遇をどうしようかということになり、病院で本人と関係者で打ち合わせを行うことになったようです。
 その会議に向けて、保健師と社会福祉士の二人は、「あの状態で自宅に帰るなんてとんでもない。入院をもう少し延ばしてもらえるようにお願いするか、転院できるように主治医からもその必要性を本人に説得してもらおう」などと話しあい、ケアマネジャーにもそのように訴えるように根回ししておりました。
 当日の話し合いの席では、主治医自らが、予想に反して「この状態じゃあ、いくらでも在宅生活が可能です」との見解を他の関係スタッフに話たところ、ケアマネジャーは「でも、先生・・・この状態では・・・」となんとか反論したようですが、主治医は「本人も帰りたがっているし、今の状態で入院する必要なんかない」という主張を譲らず、結局在宅生活に戻ることになりました。その前に、どっちに転んでもいいように、今の要介護度をさらに見直し(入院中の調査だと介護度が上がることが多いから)勝手に包括センターとケアマネジャーとで再度区分変更をし、介護サービスが色々使えるように段取りをしていました。
 関わる介護スタッフが帰ったあと、残ったケアマネジャーが本人とケアプランの件で打ち合わせをしたときに当事者であるその男性が、ケアマネジャーに「なんで勝手に俺のプランを決めるのだ!」とかなり怒ったそうです。
 
 そのことを後日報告を受けた、社会福祉士は「自分の行く末についてこちらがあれこれ心配してやってんのに、いつも“大丈夫、大丈夫”と言って病識のない人」「人の助言を聞き入れない自己本位な人」との評価を下していました。

 しかし、要支援時代から私と関わっていた訪問介護事業所の所長さんも一緒にその会議に参加していましたが、「なんで○○さん(社会福祉士)やケアマネジャーが在宅が無理だという意味がわからない。主治医も在宅で大丈夫だと言っているし、本人も帰りたいというのだから、なんでそういう方向性で支援しようという考えにならないのか」と疑問に思って帰ってきたと後日私に話してくれました。
 また、その男性の性格やこれまで生きてきた背景や価値観を知っているだけに、本人がケアマネジャーに「おれの方針を何でかってにお前たちが決めつめるのだ!」と怒った理由も当然のことながら理解できました。

 その後、社会福祉士は保健所の難病対策の保健師にも連絡をとり、「ケアマネジャーに反発しているので、保健所からもそれとなく(在宅は難しいというニュアンスを)示唆してくれないか」とお願いしているのでした。

 最初から、「この患者さんは、こういう性格だから・・・」「この病気では在宅生活なんか無理だ」と決めつめる見方をしているかぎり、いくら当事者が「自宅で生活したい」「自分の思いのとおりに生きたい。」という思いを貫くのは、とても大変なことなのだろうと気づかされます。周囲は彼をわがままな性格か、病識のない人としてしか見ないし、対応する援助者側がみんなそういう風な見方をしていればなおさらのこと、本の意見が取り入れられるどころか、不本意な生き方を強制されてしまう危険性すら感じます。
 幸い、彼の主治医が援助者側の一方的な支援方針には反論して当事者の想いをくみ取ってくれたおかげで、在宅生活も結果的に可能にはなりましたが・・・。
 しかし在宅になって支援している先のヘルパーの所長も、「あんなに毎日毎日訪問看護が入る必要性ってあるんだろうか。まだ本当に寝たきりになっているわけでもないし・・」と在宅のプランにもある種の疑問があったそうです。彼もケアマネジャーのプランニングには心底納得していないようだと・・・。しかし、このような一ヘルパー事業所の意見などはサービス担当者会議ですら無視され、(というか、ヘルパーはどうも訪問看護サービスより下にみられているのか、担当者会議でも意見すら言える雰囲気ではないという状況なのでしょう)関わるスタップもなんか腑に落ちない感情を抱きながら支援しているのが実態のようです。

 結局、支援者側の心配(いつ呼吸が止まるか、何か起きるか分からない部分の心配を医療職である看護師が訪問することで安否確認も兼ねているのでしょう)を解決するためだけのプランになっているだけで、当の本人が訪問看護を必要とはしていないのですから・・・。
 まだ、今は看護より生活面のお世話をするヘルパー主体のプランでも十分な状態像になるわけですが、その辺も、包括支援センターの保健師や社会福祉士の支援方針をそのままケアマネジャーが受け止め、そして当事者の思いに寄り添おうとする訪問介護事業所はその支援スタッフとは対等になれず(カンファレンスでも自分たちの意見が言えない雰囲気)、ケアマネジャーが立てたプラン通りに動かざるを得ない・・・。

 当事者の思いが、意向として尊重されず(逆に偏った考えと評価され)、自分たちの思い描くような方向に持って行きたがる専門職としてのプライド高い支援者との関係。
 普通、バイタリティのない当事者であれば、その支援方針を仕方なく受け入れざるを得ず、自分の心の中で我慢を強いられたまま生きていくことになるのかもしれません。
 しかし、少しでも自分を主張するような力のある利用者(患者さん)は、支援者側の押し付け的なやり方には当然のことながら反発するでしょう。
 その本質がわからず、当事者を批判することで自分たちを正当化しようとする支援者のなんと多いことかと思います。日頃仕事柄会話で聴くのは大抵そんな内容が多いのです。

 私は、現在包括支援センターという部署に所属していますが、同僚たちのそういう支援方針に同調する気にはとてもなれません。いろいろ専門職間の人間関係もあり、(本来支援方針などを巡っていろんな意見の言い合いをしあっていくべきなのに、自分たちの支援が一番正しいと思っている人たちからみたら、違う意見を言う人は批判の対象となるような関係のなかでは、誰も反論すらできず強い人たちの意見になびいていた方が自分が攻撃されないから楽と考えてしまう。だから、私の存在は彼女たちにとっては眼の上のたんこぶにもなっていると思われますが・・)

 連携するスタッフが本当に当事者の想いに寄り添い、それを皆で共有できない限り、いくらネットワークを作りましょう、連携しましょうと訴えたところで、当事者の想いとはかけ離れた方向に向かっていくのであれば、何のために連携するのかとその意味すら疑ってしまいます。
 そして連携するスタッフが多くなればなるほど、またスタッフの中でも特にリーダーシップを発揮する人(調整役の人)が、きちんとその辺の人間性をや技量を持ち合わせていないと、当事者にとってはとても不利益な状況を招くことになるのです。


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対人援助職としての姿勢 (2)

身体知と言語―対人援助技術を鍛える身体知と言語―対人援助技術を鍛える
(2007/03)
奥川 幸子

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(本文より抜粋)
対人援助実践には相互交流が不可欠

(相互交流)の成立を阻むもの

 この、専門職側が圧倒的に有している臨床的な知識と技術が、患者との間で時として感情面の軋轢をもたらしてしまう事態は、医師や看護師のみならず、対人援助職者と支援の対象であるクライアントとのあいだで頻繁に生じています。これは、「情報の非対象性」といわれている現象で、クライアントとの自己決定を支える支援を考える際に第1に配慮されなければならない留意点です。
 対人援助の専門家は、クライアントが生きる過程で生じている、対処しなければならないさまざまな問題に常に直面させられています。たとえば、身体的・精神的な疾患やそれらに伴って生じる社会生活上の問題や心理的な悩みや苦しみなどを、たくさんのクライアントとの関わりのなかでその身に浴びています。
 これらを理解することが治療や支援の第1歩ですから、専門職として働くために学んで手に入れた基本的知識に加えて、実践経験を積み重ねたぶんだけ、そうした悩みや苦しみをカテゴライズされたものとして理解していきます。ですから、なんらかの問題状況に直面しているクライアントの心理的な何のうや、現実的な問題への対処のしかたのバラエティなどについても、その時々で相手は異なるとはいえ、すでに職業的に体験済みです。
 実は、この〈職業的に〉という点がくせものです。〈職業〉だからたくさんの症例に出会えますし、たくさんのクライアントの辛さや苦しみとも向かい合うことができます。そして、時間と労力の蓄積が臨床実践の経験に裏打ちされた確かな〈知見)と〈腕)を作り出します。したがって、多くのクライアントにとっては初めての体験であり、困惑の極みにあっても、専門家にとっては、ある種の似た体験をしていらっしゃる他のクライアントをたくさん見ていますから、ここで、「ああ、このかたは・・・・のような状況にいて、・・・のように悩んでいる」と、これまで整理してあった「範疇」の問題状況として見做してしまいがちになります。
 クライアントにとっては、初めての体験ですから、その身体的・心理的な傷が大きいほど動転しておられますし、家族をはじめとする周囲のかた達も含めた人間関係や社会生活にも大きな影響が生じています。
 多くのかたが、これまで生きてきた家庭の中で経験したことがない新しい対処課題に直面しており、それらに対処していくための新しい情報が必要な状況にあります。そのことに加えて加齢や疾病、それに伴って生じた身体的・情緒的・認知的・社会的障害によって、これまで生きてきた家庭の中で培ってきた対処能力にかげりが生じているか、その能力を十分に発揮できない状況にあります。
 一方で、専門家は経験からたくさんの対処策をもっています。ですから、専門職が煩雑な業務に追われて忙しいとき、あるいはまだ未熟な段階にあるときは、クライアントの個別の感情や思考様式、固有の障害や環境状況を吟味せずに、表面上に現れた現象面をかいつまんで把握してしまい、即そのための対処策が先に浮かんできて、「事」や「解決」を急ぎがちになります。クライアントが置かれている個々の状況とそのかた達の固有の世界観を十分に理解しないままに性急に対処策を提示しがちになります。
 このような「からくり」が働きますと、専門職の側からすばらしい情報や助言、あるいは、ほれぼれするような対処・解決策を提示しても、クライアントの内面には届かない、といった現象が生じるのです。専門職の側からの一方的な情報伝達になってしまいますと、クライアントは自分の身体で考えたり感じたりする時間を持てず、提示された情報を十分に吟味できないまま、専門職のいいなりに動く傾向に陥りがちです。そのように、自分の問題に自らの意思を関与させないままに、専門職が示した解決策を採用した結果、その対処過程で生じるさまざまな心理的・現実的な障壁にぶつかったとき、当の支援計画を提示した側とそれを採用した側の間にさまざまな齟齬が生じ、「事」がうまく進まない、といった状況になりがちです。
 もしかすると、クライアントにとっておおいに役に立ったはずの〈情報〉も、彼らのニーズに添い、彼らが理解できるような〈かたち)で提供されなければ、支援にはならないのです。
 または、自己像・セルフイメージの高いクライアントであれば、疾病や諸々の社会的問題が重複して発生したために彼らの自己評価にかげりが生じて不安になっているところへ、そこへの手当てもなしに一方的に専門職側の意向を伝えられると抵抗を示しがちです。専門職が提示した解決策の内容が自尊のこころを痛めつけられるような類のものであれば、なおさらその抵抗は激しくなり、ときによっては悲鳴をあげ、それが〈拒否)というかたちで現れる事態を招く結果になります。
 援助者側の働きかけはクライアントの主体性に訴えるものでなければ、クライアントは自分の人生をご自分の足で踏み出しません。
 各々のクライアントの問題に対する個別の感情や思考様式、問題への対処のしかたなどは、クライアントのこれまでの「歴史的身体・身体に刻印してきたものの経験の総体」によって一人一人が実に個性的です。ですから、対人援助専門職には、クライアントが「生きてきた~生きている~生きていく」世界に添った理解が要求されます。その理解のためには、相手から必要な事柄・情報を引き出し、理解したことを正確に伝えるためのコミュニケーション技術を手に入れることが必須になります。援助者が「このようにあなたの世界を理解した」とクライアントに伝えたとき、それがクライアントの内的世界に添ったものであればなおさら、双方の間に確固たる信頼関係が結ばれます。
 この双方の信頼関係の形成が対人援助の基盤となります。そのためには、一方通行の会話ではなく、双方がお互いの身体を通過させながら行われる〈相互交流〉の成立が不可欠です。
 この際の伝達方法は、言葉が主になりますが、援助者側の前身の表情の方が、より多くを物語ります。

 
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無題

 親が問題が明確になっていても、解決しようとせず、文句ばかり言っていたら、その子どもは問題は解決しなくても、文句を言っていればいいと学んでしまいます。
 もし、親が問題に向き合わずにごまかす人であれば、それを見てきた子どもはかなりの確率でごまかすことを学びます。 
 文句を言って何も自分は動かない人の実態では、自分自身は「何もできない人」である場合が多いのです。
 できる人は、文句を言って過ごすことがあまりないと思います。
 なぜならば、問題があるなら解決しようとするからです。
 解決するためにどうすればいいのかを考え行動し、その行動から得た結果をもとにまた考えて行動する。
 この繰り返しである程度のことは解決します。

 物事をきちんととらえようと人は、言いきることができない場合が多いです。自分に自信がなくて、でもそれをごまかしている人は、物事をとらえるよりも、自信がない自分を悟られまいとする感覚が強いことが多いので、自分の防衛のために言い切ることが多いようです。
 そういう場合でも、そのような人は「私はごまかしていない」と言いきるのですが、ですので、きちんと物事をとらえていこうとする人の方が、損をすることが多いのです。
 しかし、本当はきちんと物事をとらえようとしている人の方が、視野が広く学ぶ姿勢もあり、臨機応変に対応でき、成長していくので、年月がたつにつれて、実力的には本当にかなり差が開いていくと思います。
 しかし、現実には、言いきったものの勝ちの世界が多いので、その能力は発揮できない場合が多い。

 言いきっている人の特徴は、強引な人が多い。
 言いきる人は自分を認められていない人が多く、その思いは自分の考え主張を認めて!という心理。
 子どものころに周りの人や親に受け止められてこなかった感覚なので、親はだめだったけど、今度こそは親に認めてもらうんだという感覚がある場合が多い。それには強い立場が必要ですので、強い立場になれるよう頑張っているところもある。
 それが少しでもいい学校、いい会社へ入ること、そのため、幼い頃から勉強漬けにさせられていることも・・。
 それは、子どもに苦労させないためと、心の底から思っている人が多い。
 そうした方が、強い立場になる可能性が高くなる。
 
 大人になるほど、視野が狭くなることが多いよう。
 大人になると、他の人からあまり言われなくなるし、アピールには中身がないことを知り、残念ながら現在か過去形の話が多く、未来を見据えての話はなかなかないようです。
 自分の未来が見えてこないと、人はひまをもてあまします。
 そうなると、自分の意見が通る人に意見を言ってひまをつぶそうとします。
 「心配」というアイテムを使いながら・・・。
 そうすることによって、自分の存在をアピールする。
 
 自由なんてなれるわけがない!皆しがらみの中に生きているでしょう!と、わかったようなことを言いますが、その皆というのはせいぜい数十人。だいたいは数人のお話です。
 もし、その数人がみな気づこうとせず、しがらみの中で生きているから仕方がないね~という人ばかりだと。
 おそらく一生抜け出せなくて人生を終えていきます。
 しかし、抜け出せている人もいるのも事実です。
 しがらみを一つひとつ検証していくと、しがらみでも何でもなく、思いこみにすぎないことが多いのです。

 自分の人生を大切にしている人は、しがらみが自分の人生にとって、必要なものかそうでないかを考えることができます。
 このように書くと、視野が狭い人は、それは自分勝手というものだ!とか、一人ひとり違った人生なので・・・ということを言います。
 知ろうとしない人が、何かあったときに言うセリフが「話してくれればよかったのに・・・」という言葉です。
 その言葉を言っている人たちは、おそらく自分が話したくない人だと思われていることに気づいていない場合もあるように思います。
 例えば、気を使わない関係性は、「人の悪口を言える関係」と学んでいる人は、人の悪口を言い合うのが親しい関係だと相手に押しつけます。
 押しつけられた相手は、そんなものかと感じて従うか、同じようなことを学んできた人は「そうそう」と共感し合うとか・・。
 
 「仲が良い」ということは、どういうものなのか?」を探している人が、食事に行ったり遊びに行ったり、旅行に行ったりすれば、仲がいいように見えるのでそうすることによって、自己満足をしている人たちが多くいるようにお聴きします。
 そのことを本人は気づいています。
 よく言われる「相手を理解すれば自分も理解してもらえる」ことを実践したがりますが、そうすると自分も理解してもらえると気づいた人に依存されてしまうことも多いのです。

 自分の世界に入って、それぞれの経験・知識でその目の前でおこっていることが、どういうことかを判断していることが多いのです。
 目の前でおこっていることなど、あまり意味がなく、それを立場の強い人がどう判断するかが問題になってきます。
 家の中では、その立場の強い人は親です。
 子どもたちは親がどう判断するかのほうが、重要にさせられてしまいます。
 そもそも、子どもは目の前のことを、そのままとらえる能力はついていると思います。




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人生訓

 (引用)

 欲がなければ壁にぶつかることもありません。欲があるから、やりたいことがあるから、人は思い切り壁にぶつかることができるのです。つまり、欲が磨かれて志になる。

 仕事とは、人にまみれてするものです。上司・部下・取引先・お客様・・・そこには実にさまざまな人がいます。人格者もいればわがままな人もいる。強い人もいれば弱い人もいる。仕事のできる人もいればできない人もいる。好きな人もいれば嫌いな人もいる。そしてわたしたちは、一緒に仕事をする相手を基本的に選ぶことはできないのです。
 そうした人間の渦の中で、私たちは一つひとつの仕事をやり遂げていかなければなりません。必ずしも自分が思うように事が進むわけではありません。最善を尽くしても力が及ばないこともあれば、理不尽な非難の矢面に立たされることもあります。ときに深く傷つき、疲れ果てます。そんなとき、誰しも嫉妬・嘘・悪口・支配欲など「負」の感情に飲みこまれてしまいそうになることがあります。人によってはどっぷり浸ってしまうこともあるでしょう。
 そんな時に私がいつも思い起こすのが、ガンジーやマザーテレサのような人物です。
 彼らも人の子です。きっち「負」の感情にとらわれそうになったことがあるはずです。
 しかし、自分を磨きあげ、物欲や支配欲、嫉妬、悪口から離れ、すべての人を愛する境地に立つことができたのです。
 少なくとも、彼らを目標として生きていくことはできます。自分を磨き続けることはでkるのです。
 そして人は皆等しく、「そういう境地に昇っていきたい」「そういう人間になりたい」という欲求を持っていると信じています。

1 人は、不合理でわからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。
2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
3 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
4 正直で素直なあり方は、あなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。
5 成功すれば、嘘の友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功をしなさい。
6 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。
7 何年もかけて築いたものが、一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい。
8 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。
9 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちをうけるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

対人援助職としての姿勢

身体知と言語―対人援助技術を鍛える身体知と言語―対人援助技術を鍛える
(2007/03)
奥川 幸子

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(本文より一部抜粋)

 いずれのクライアントも見かけよりかなりの強さや生きる力をお持ちです。援助する側は、どうしても彼らの能力を低く見積もってしまいがちな状況のなかで対象者と出会います。
 相手は「○○の障害者、○○のお母さん、○○の家族、お嫁さんなどと見られたくない」「可哀想なお母さんと思われたくない、一人の人間として、母親としてみてほしい」と思ったり考えたりしているかもしれないのです。また「たいへんですね」というねぎらいのつもりの言葉も、当人にとっては「簡単に言わないで、(あなたに)わかりっこないのに」と内心で反発されている場合もあります。どのような状況にあるどのような方達にも通用してしまう使い古されたことばは相手に届きにくく、かえって逆効果になります。

 また、「認知症だ!」とケアマネジャーをはじめとして訪問看護師や市区役所の窓口担当者などの対人援助職者たちから見なされていた老人女性が、実は角を隠していただけで、相当の認知能力があったというような事態はいくらでも見受けられます。年をとってご自分の生き方や価値観がとんがっていらっしゃるタイプの老人は、傍からみて不自由で危ういと考えられるような生活様式でも、ご自分の身体が慣れ切っている行為と環境ですから、微妙な均衡を保って暮らしています。ですから、他者が、いくらよかれと思って助言しても聞く耳をもちません。通常の方法では届かないのです。目の前で起こっている援助者が思うようにならない事態に対して、〈合理化)をはかりがちになります。
 援助者の感情のおもむくままにクライアントに接してしまうと、それは相手にとっては〈同情)や(押し付け)として伝わってしまいます。そうなると、クライアントは心のシャッターを下ろしてしまうか、それなりの体裁をつくろって援助者と付き合います。クライアントに強力な力がある場合、援助者との関係は逆転し、お釈迦様の手の平で踊らされている孫悟空状態の、どちらが援助者かわからなくなるような場面も多々生じているのですが、当の援助者は自分が援助しているつもりでいるのです。

 一般的に高齢者がクライアントの場合は、「年をとっている」というだけで本人が実際にもっている生きる力や強さよりも他者から低くみなされがちな状況に生きておられるかた達が多くみられます。高齢者自身もそのように見せることが家庭や社会のなかで円満に生き抜くコツと心得て、みせかけの能力低下状態を演じていることもあります。家庭内では若い世代との葛藤や衝突を避けるため、入所や通所などの施設内では、そこで働く職員や同じ施設を利用している高齢者達との衝突を避けるために、という理由からです。
 お年寄りが同じ話を繰り返したり、自分の人生を語る時は、他者からの評価が自己評価より低くみなされているようなとき、「私を見て!」と叫んでいる場合が多いのです。そのようなとき、聴く側が注意深く老人の物語に耳を澄ますと、繰り返しの多い話は、彼らの人生の一番自己像が大きかったときや一生懸命生きてきた時代のことをお話してくださっています。「私はこうだったのよ、こう生きてきたのよ、頑張って生きてきたのよ。年をとったけど、いまの私も認めて!」と心で訴えているのです。平素から年寄りだからと無視され、その存在や価値を値引きして見なされ続けていることへの無意識的な抵抗なのでしょう。
 自己像が高い高齢者が疾病の悪化や日常生活上の不自由を蒙り、本人の心の内では「いよいよ・・・」と思いつつ、そのような事態に対して抵抗が強い段階にいらっしゃるとき、周囲の人たちや援助者からその傷口を大きくするような対応をされると、個々人の対処行動によって、攻撃的になったり、沈んでしまったり、拒否・寡黙といった反応をします。
 クライアントの〈生きる力)を引き出せない、援助者がクライアントの失望をかってしまった挙句の果てに見捨てられる、といった事態を招きます。そこで生じる現象は、本当は援助者側がクライアントから見限られたのに、援助者側はそれに目を向けられずに、「あの人はうるさい!わがままな人ね、これだけこちらが親切に支援を申し出ているのになんで断るの、ほんとに問題ケースだわ」と見なし、こういうクライアントが「サービス拒否」や「多問題」というような「接近困難事例」として問題視されがちな傾向にあります。

 しかし、これまでの私の経験では、多くの対人援助者がクライアントの強さや生きる力を見損なったまま、必要以上に「能力のないクライアント」と見なした支援計画を押しつけていました。ですからクライアントへの支援がうまく進まず、〈援助困難事例)として事例検討の場に登場するのですが、検討の結果、援助者から(まとめ)として出てくることばは、「(早速、明日からこのクライアントに対してやり直すことは)まず、本人の話をよく聴きます」が圧倒的に多く、これは検討の過程で「これまで力がなく、キーパーソンにもならないと見なしていたクライアントが、実はものすごく力をもっていた」ということを事例を提出した援助者が気づくからです。

  
 例えば、現在目の前にいるそのかたの姿だけを見れば、人生の敗残者としての印象をこれでもか、と周辺にいる人たちに重ねさせてしまうような言動を援助者に見せつけるクライアントがいらしたとします。
 いわゆる「援助困難な事例」として頻繁に登場してくるクライアントです。
 一歩離れて眺めてみれば、援助者側が「人生の敗残者」「今の姿は因果応報」とみなすこと自体が、すでに「バイステックの法則」に反する行為であり、本来は援助者側にペナルティを課す事態です。
 が、クライアントの強烈な個性を前にして、恭順な態度をみせることなく自己主張や苦情を浴びせられると、先の原則なんぞはどこへやら、腹を立てたりクライアントを一方的に非難しまくって、自己のストレスを発散させます。それが支援に関わっているチーム内全員が集団ヒステリー状態になると、よりエスカレートしがちになります。クライアントのほうも援助者たちから一勢にマイナス感情を放射されれば、力のある人ほどそれに強く反応し、援助者によっては好ましく映らない言動をより増大させます。
 自分が抱いている自己像をディスカウントされると、誰だって腹が立ちます。そうなれば、彼らがこれまでどのような悔しい想いをしてこられたのか、ある疾患をきっかけにして泥沼のようにどん底に落ちてしまった方たちの思いに心を寄せるだけで、クライアントの悲鳴は少しであっても手当されます。
 


医療ソーシャルワーカーとして活躍した著者のこれまでの臨床知の集大成ともいえる本であります。
 だいぶ以前に、あるジャーナルに紹介されていたのをみてさっそく買い求めていましたが、600ページにも及ぶ分厚さに買ってから何年もページを開くことのないままに、書棚に飾ってあったのでしたが、ここに至ってあらためて読んでみたら、たくさんの臨床での実践例から培った著者の援助論に「うん、うん」とうなずけるものばかりでした。
 対人援助をする人は何も福祉を学んだソーシャルワーカーだけに限ったことではなく、広く対人援助をする職種すべての人に言える理論と実践の書です。
 私は以前勤務していた療育センターや病院という臨床でのリハビリテーションの実践からも、患者さんと対する際の心構えのようなものは、尊敬する臨床家の先輩たちから学びました。
 あの当時の医療機関は、もっと患者さんの入院期間もゆったりしていたし、入院時カンファレンス、中間カンファレンス、退院時カンファレンスなどを通じて、患者さんの人となりや家族の心情、そして日々の実践場面では患者さんの想いも聴きとりしながら進めていましたから、ある程度障害や病気を抱えた人の気持ちや心情も物語として理解することもできたように思います。
 
 著者は、本の中でかなりシビアに今の相談援助職の抱える問題点を指摘しています。そしてまだまだ、この本に述べられているような自分の価値観や心情が優先される援助者というのは、著者も指摘しているように現場にはたくさんいることでしょう。
 


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高齢者虐待の現実

 今日の某新聞に、「高齢者虐待の6割 孤立介護」という見出しで記事がありました。
 
 家庭で高齢者を日常的に介護する中で虐待にいたった人のうち、6割を超える人は協力者のいないままひとりで介護にあたっている。
 4人に3人は介護疲れや悩みを抱えている。
 高齢者を虐待した人の全体でみると、半数に経済的な困窮がみられる。

 この調査は某新聞社と高齢者虐待防止学会による自治体調査でわかったこととされています。
 地方自治体が毎年定期的に都道府県からおりてくる調査に回答しているものを調査団体に情報を提供したものと思われます。

 集計によると、家庭で高齢者を虐待した人の7割が男性で、息子が4割強と最も多い。虐待した人を介護していた人は7割で、虐待と介護が密接につながっていることがうかがえた。
 家庭で高齢者を虐待した人の全体でみると、生活保護受給、住民税の非課税といった経済的困窮がうかがわれるケースが半数に上っている。50代に限ると、虐待した人のほぽ半数は無職で、正規雇用は1割強にとどまっていた。 
 「主な介護者」に絞ると、「介護に協力してくれる人がいなかった」は6割強、「協力者、相談する人もなかった」は約3割。介護疲れや悩みについては「とてもある」が5割近くあり、「ややある」を含めると4人に3人に上った。
 虐待防止の取り組みについては、6割強の市区が家庭で高齢者介護をする人や世話をする人へのカウンセリングが「必要」としながら、実施していた市区は全体の3割弱だった。


 あたりまえの調査結果といえます。
 
 虐待を受けそうな世帯というのは、本来働き盛りのはずである息子さんに就労の場がなく無職であったり、非正規雇用で働いていたり、高齢者本人も国民年金等のわずかな年金収入しかない場合がほとんどです。

 結局は親の介護を優先すれば仕事もやめざるをえなかったり、責任あるポジションや立場では就労できなくなるから職を変えざるをえなかったりすることでますます家計的にもきびしくなる。
 介護保険サービスで社会的介護の面を担ってもらおうにも、介護費用をねん出することすらままならず、本来ケアマネジャーが見立てた介護サービスの内容も提供できず、サービスを間引きしてしまう。
 ましてや施設入所はかなりの順番待ちだったり、他のグループホームや有料老人ホームなどへ預けるにもひと月10万を超える金額が必要となるため、とにかくお金がなければはじまらない。
 じゃあ、そういう生活や経済の困窮を行政の窓口で相談しても、「息子よ、もっと働け!」とばかりに叱咤激励されるだけで、絶対に最初から生活保護の方向にはもっていかせないように行政の担当者はガードする。
 身近な地域の人たちも、そういう現状を知りながらも、『個人情報』の壁もあり、安易にそこの家族には近づきにくくなってしまう。遠巻きに「あそこの家で何かおこっていそう・・・。時々息子の怒鳴る声が聞こえる」という様子だけは近所中噂になってしまっている。
 それでも、誰も実際にその家庭に「お節介」を焼いたり、親身になって話を聞いてくれる環境もないまま、いつのまにか、行政に「匿名」で「虐待の通報」等が寄せられる。

 そこで行政も、家庭背景を十分に考慮しないまま、通報によって「マニュアル通り」に事実確認をして「虐待」と判断し、その親子を「分離」し、高齢者本人を施設入所へと導くことになる。そこで収入がない場合、初めて「生活保護」が受けられるというしくみだ。

 少なくとも私の勤務する行政機関では、こういう仕組みです。
 
 以前、親の介護のために仕事をしていなくて、収入もないから生活保護を申し出た男性がいましたが、担当者は「親の介護をするという理由で生活保護はできない。それよりも少しでも働いて金をかせげ!」とばかりの言い分で追い返していました。
 働いても非正規労働やアルバイト程度の身分では、とても国民年金程度の親の年金収入をあてても施設入所すらできない現実があるのです。経済的な支援(生活保護など)を求めてきても、「はい、そうですか」とは行かない現実。なんとかして役所は保護費を抑制しようと躍起になっていますから・・。

 それでも、虐待していると判断されれば、親子を簡単に分離して片方(親)には生活保護を適応させて、施設入所の足りない分は保護で対応し、息子は家で一人暮らしさせ就労を促し、親子分離して「虐待対応の支援」をしたということになる。

 虐待される高齢者本人への支援の前に、働きたくても働けない子どもの心情を汲み取りもっと親身になって相談を受けられるような体制作りの方が必要だと思う。
 確かに、親の年金も十分にあり、そこから介護費用を十分に賄えたり施設入所ができる環境にあるならば、虐待なんかおこらないかもしれない。
 介護を金銭で買えない状況にあるからこそ、介護を担う子どもに負担がかかり、またその子どもさんも社会から孤立していれば、ますますリスクも大きくなる。
 
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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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