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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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発達障害の援助を考える(2)

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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(本文より引用)

○発達障害が誤解されたとき
 家族や関係者が手に入れている発達障害についての知識は、歴史的な変遷や概念上の複雑さ(見ようによってはあやふやさ)まで説明されたものではなく、その時その時に流布している断片的な知識になりがちである。そのような風潮に張り合っているのか迎合しているのかはよくわからないが、訳知り顔によりこまかい知識をひけらかすだけで、肝心の発達障害という問題が説明できない専門家も存在するような気がする。そのような知識を断片的に手に入れただけでは、それがたとえどんなに新しい知見であっても、発達障害という概念についての基本的な理解を持つことは難しい。たしかに、もろもろの行動の特徴や特定の能力についての偏りをもとにして発達障害は診断されるのだが、その結果そうしたものの集まりが発達障害だと考えてしまうと、私たちの援助はたくさんの制約を受け、いつかどこかで大きくつまずく結果になるだろう。
 発達障害では機能と環境のぶつかり合いから、症状と見なされるいろいろな問題が起きてくる。時間が進んでいく限り、環境が入れ替わるたびごとに、あるいは本人の機能が変化し発達していく道筋によって、次々と新しい「症状」が出ては消えていく運命にある。それを障害の本質だと誤解した家族や関係者は、そのような「症状」をなんとか解消しようとして、新しい「症状」が出現するたびに追いかけては対応することを繰り返していくが、いつか消耗してしまうのではないかと心配になる。熱心な臨床家は新しい「症状」を見つけるたびに、新たなターゲットの出現を見て闘志を燃やしているようだが、どこか自己満足の気配はないだろうか。

 発達障害への援助について、援助者の立場が違ったり、よって立つ理論が違ったりすると、目標が異なって混乱してしまうといったエピソードがしばしば話題になる。たとえば施設に入所している子どもたちが学校へ通う場合、まずは日々の生活を安定させたいと考える施設の職員と、なんとか早くAならAという能力を身につけたいと考える学校の教師との間で軋轢が生じることはすくなくない。同じような目標や優先順位の食い違いが、家族と職員や家族と教師の間でも生じて、場合によっては感情的なやりとりが見うけられるkともある。
 問題は、複数の援助がお互いに相容れない場面が生じたためだと見えるかもしれない。解決にはどちらの援助が優先されるのか(どちらの援助がエラいのか!)というお決まりのいざこざが用意される。(だいたい良心的なほうが退いて収まるようだ)。この手のお寒いいざこざは、関係者が発達障害の概念を誤解しているために生じていると考えられる。つまり「症状」や「機能の偏り」が発達障害の正体であり、「症状」を解消すること、「能力」を身につけることが何にもまして必要だと思いこんでいるからである。皮肉な言い方をすれば、大人同士が勝手にいざこざを起こしていても別にかまわないのだが、問題はそのような人たちによる援助が子どもたちに害を与えたり、互いの効果を相殺したりしかねないという点にある。
 発達障害の症状の多くは、彼らが生活をしていくなかで、さまざまな刺激にぶつかることで生まれてくる波しぶきのようなものである。優先されなければならないのは波しぶきを消すことではなく(もちろんそれは小さいほうがいいのだが)、彼らの進路が開けていくこと、すなわち彼らの人生がたくましく進んでいくことにほかならない。援助はあくまでも手助けに過ぎず、彼らという船が自分たちの横を通り過ぎるときに、たとえば風をよけるとか、波の抵抗が小さくなるように手伝うとかいった方法で応援するのが本文なのである。応援団である関係者によっては、「症状」と格闘するようなイメージはあまり必要でない気がする。むしろ人生という冒険の同行者として、時には波しぶきを楽しんでもかまわないとさえ思うのだ。

 繰り返すが、筆者には臨床家が日頃行っている援助を否定する気持ちはまったくない。特定の場所、特定の方法で私たちは具体的な援助を行うべきなのである。しかし、はたしてその援助がこれまで述べてきたような発達障害の基本的概念に沿ったものになっているかどうかは、援助者の目が発達障害をみるまなざしであるのか否かにかかっている。そんなに優れた技法でも、「症状」を打ち消すことだけを目標にしている限り、彼らの人生を肯定的に見つめることはできないだろう。役に立つ手助けを研鑽すると同時に、彼らとともに人生の旅路を楽しめるように、発達障害についての本質的な理解を進めようではないか。
 もし家族が発達障害を誤解したままでいたら、ハンディを持ちながらたくましく成長していく子どもたちの姿と、家族が持つであろう期待、発達障害がよくなるとかあるいは8余り使いたくはないけれど)治るとかいった言葉からくるイメージがまったく重ならない事になってしまう。実際にも、専門家以上に知識を集め、敬服に値する努力をはらって養育に取り組んだ結果、見事なまでに子どもが成長しているのにもかかわらず、こころの穴が埋められない家族に出会うことがある。その不幸をいったいだれが背負うというのか。専門家のなすべき仕事は、このような不幸を起こさないように、発達障害の概念をうまく家族に伝えることから始められるべきだろう。

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専門的援助(1)

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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○専門的援助の価値観
 専門的援助は、不自由の原因を突き止めて、速やかにそれらを解消することが期待される。このようにして不自由が消えてしまえば、その援助の段階は終わりになる。ふだんの適応した生活には援助の出る幕はない。完全に自立した人間にとっては、不自由も専門的援助もいわば非日常的な存在である。

 専門的な援助の目的も、日常的な援助と同じように人が生き延びることにあって良いはずである。しかし現実には、(その専門とする領域で起きた)問題の原因をとらえ、それを解消することが専門的な援助の目的であると考える人が少なくない。こうした考えが根強い背景には、専門的援助が自由や科学性を重んじる近代的な価値観を下敷きに発展したという歴史がある。自由と科学性を尊重する専門家は、それぞれの領域の中で、不自由を解消するという目標を遂げればよいと考えている。そして生き延びるという本来の目的は、ここで専門家の手を離れ、援助を利用する当事者側にだけ引き続いて存在するようになた。このようなずれは、専門的援助の限界を利用者が認識することでとりあえず解消されてきた。しかし、生き延びる目的に切実感が少なくなると同時に、仏語を不自由と認識し、これを取り除くと言う価値観が利用者の側にも強くなってきたのが現代である。
 
 素手の私たちは専門的な援助を、しばしば招かないのにやってきた困りごとをうまく解消するために利用している。かつて医療が普遍的でなかった頃には、医者にかかるのは生命がかかった緊迫した場面であった。ところが現代では、たとえ寝ていれば自然に治る風邪であっても、少しでも早く回復するために医者にかかる人は多い。このとき風邪は日頃の活動を妨げるという不自由をもたらすものとして、専門的援助を選択する対象となっている。
 私たちは現代文明のもとで、おおむねうまく暮らしており、当然のように自由が保障されるものと信じ込んでいる。しかしそのような歓迎すべき状況の裏で、援助の目的を生き延びるためと考えるような切実な意識がり余社側にも薄くなっていく傾向、専門的援助の適応範囲が広がっていく傾向をどう見ればよいのだろうか。専門家は、自分の援助の適応範囲が広がることをうれしく思う傾向があるが、その先にあるものについてどれほど真剣に考えているだろうか。

 私たちの周りでは、専門的な援助が発展する一方で、日常的な援助の能力が目に見えて弱くなっている印象もある。もし日常的な援助の力が十分でなければ、専門的援助は役割を交代することもできず、ずっと日常にあり続けなければならない。専門的援助は対象を限定することで高い効果を(ついでに言えば侵襲も)手に入れてきた。援助の対象や範囲がはっきりしない日常の中で、専門的援助は有効であり続けることができるだろうか。


○総体としての援助
 ここで架空の事例を一つ思い浮かべていただきたい。全く特殊な例ではないので念のため。
 学校の規則を守らず、学習にも意欲が持てない中学生の少年がいたとする。安全な集団活動と学力の保証が自分たちの援助であると考える教師にとっては、解決されるべき彼の問題は規則破りや授業の態度であろう。スクールカウンセラーにとって問題だと感じるのは、低い自己評価や絶望感かもしれない。学校外で彼の家庭にかかわるソーシャルワーカーの目から見れば、また違った局面が見えてくる可能性がある。はたして彼は、家を空けがちな両親との連絡や兄弟の世話といった雑用を引き受けているようなので、問題は家庭の機能不全ということになるだろう。
 ごくありふれた事例だが、ここで感じていただきたいのは、解決の方法だけでなく問題のとらえ方さえ、それぞれの専門性によって違いがあるという点である。そしてもう一つ、たとえ数えきれないほどたくさんの専門家がかかわっていたとしても、彼にとってはその総体こそが援助なのだという点である。援助を行う側は、援助という営みの中のある部分を受け持っているに過ぎないことを、当然として自覚しなければならない。援助を行う専門家側は自分たちの援助をそれぞれ独立したものと感じているかもしれないが、もし援助が機能だとすれば、その機能の結果はすべての援助が結びついた形でしか現れてこない。さまざまな専門性の関与は、総体として援助に相乗的な恩恵をもたらすからこそ意味があるのだと言える。もちろん援助として、ある専門性が他の専門性よりも優れているなどということはありえない。

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発達障害の援助を考える(1)

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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 筆者は児童精神科医師 大学で思春期外来を担当した後、心療クリニック開設、臨床場面で子どもたちと関わることで援助することの本質的な意味をこの本で訴えています。
 
(本文より引用)

○児童精神科臨床 

 発達障害の援助を考える
 援助の専門家と良質の援助 
筆者の感じるところでは、援助の専門家は必ずしも良質の援助に結びついていない。特に心理療法のように、人と人との関係を使って援助を行おうとする援助方法が、日常的な援助の在り方から遠く離れてしまうことは、致命的な失敗だと思われる。

 専門家のセリフから
 「もう少し早くここに来ていたら・・・」
 これは家族による感想としてよく耳にするセリフだが、とりあげたいのは療育や心理的援助にたずさわる専門家の口から出る場合である。子どもの発達障害について援助を受けようとする家族に対して、専門家がこのような言葉を投げかけているとしたら、どのように感じられるだろうか。
 発達障害を対象とする援助の領域は多岐にわたっていて、さまざまな専門職や理論が存在する。その数は無数と言えるかもしれない。こうしたなかに、それぞれに状況は違っているものの、受診の時期について否定的な口調で指摘する専門家が少なくないのである。
 筆者維新の経験では「○○先生のところへ行ったときに・・・と言われました」などと家族の口から聞く事例が、インテーク時の恒例行事のように続くことさえある。そして、筆者にとっては何とも腑に落ちない現象なのだけれど、家族の人たちはこうしたことばをすっかり信用しており、自分たちは手遅れであったと淡々としたようすで話すことが多いのである。こうした受診時期を巡る話になった面接では、聞かされたこちらのほうが引っかかってしまい、それを家族の人たちが冷静に説明説明すると言うへんてこりんな光景が繰り広げられてきた。

 冒頭のような言葉は、子どもについての専門的な援助を受けてこなかった家族に対してだけ使われるわけではない。その言葉を発した専門家とは別種の専門的援助を受けてきた場合でも、A法という援助を受けてきた人たちが、新しくB法の援助を受けようとする場合にはB法の専門家によって、逆にB法からA法に移った場合にはA法の専門家によって、まったく同じセリフが使われたりするのである。この事情を知っているだけで、こういう類の言葉に何の説得力もないことは明らかである。しかし家族がそんな裏事情に通じていることは珍しいので、冒頭の言葉は呪文のように魔力を発揮してしまうのだ。
 受診が遅いため取り返しがつかないかのように言われると、家族にとっては批判されたうえに絶望さえ背負わされかねない強烈なショックである。多くの家族はその言葉を素直に信じているように見えるが、そもそも専門家は何か裏付けを持ったうえで、この手の言葉を口にしているのだろうか。それもひょっとして(家族から見れば恐ろしいことだが)、専門家の個人的な気持ちから出た言葉なのではあるまいか。

 筆者がこの言葉を取り上げたのは、この手のセリフを専門家が発し、それを家族が信じ込むという状況のなかに、発達障害の援助を巡って、家族と専門家がどのような関係にあるのかとか、あるいはこうした専門家がどのような考えを基本にして発達障害の援助を行っているのか、といった基本的な問題が内包されていると感じるからである。筆者はずっと援助の専門化について危うさを感じてきた。筆者に言わせればこの状況は、私たちが専門性の優位を盲信するあまり、専門的援助そのものが袋小路に陥っていく未来を暗示するものである。援助の専門化が発達障害の援助に大きな貢献をもたらしたことを否定するわけではないが、それに並行して専門的なものの見方だけによって発達障害を評価してしまう風潮が広がれば、その危険は専門性による多少の寄与など吹っ飛ばしてしまうに違いない。

 専門的な視点によって見えなくなるもの 
 「もう少し早くここに来ていたら」などと言われてしまうと、まるでこれまでの生活が子どもにとって有害であったかのような錯覚を覚えてしまう家族もいるに違いない。少なくとも、これまでのやり方ではいけなかったのだ、と思わせるだけの力をこの言葉は持っている。専門家の頭の中には、早期の療育が良い結果を生むという知識があるのだろうが、ふつうの生活が子どもに与えている大きな影響力を見過ごしている可能性はないだろうか。考えてみてほしい。私たちは皆一般的な生活のなかで子どもたちを育てている。言いかえると、ふだんの生活のなかには子どもが育っていくに十分な程度の機能が備わっているということだ。たしかに様々な知恵を絞って開発されてきた多くの療育法は、いろいろな能力の発達をより促進させる力を持っているように思う。しかしここで大切なことは、こうした療育方法が、ふだんの生活の持つすべての機能を持ち合わせているわけではないという点である。
 どのような療育の成果であっても、普段の生活での働きかけによる一般的な発達のうえに加わってはじめて意味がある。もしふだんの生活で見られる程度の働きかけができていない例があれば、まず最初に着手すべきなのはふだんのレベルの働きかけを保証することであって、特殊な療育を導入することではない。もしも、子どもが普通の生活をまったく行わず、ある特別な療育法だえを受けたらどうなるか。想像していただきたい。その援助がターゲットにしている機能についてはめざましい進歩があるかもしれない。しかし不幸にしてその範囲に入らない領域はどうなるのか。言うまでもないが生活には無数のバリエーションがある。すべてを専門的に訓練することは不可能であろう。
 発達障害で見られるすべての療育方法は、普段の生活のなかにある良いと思われる働きかけを抽出し、あるいはヒントにして、洗練を重ねることによりできあがったものに他ならない。いつの間にかそれが出自を忘れて、普段の生活とは次元の異なった療育というものがあるかのような幻想を振りまいてはいないか。専門家も何代目かになると、療育という特別な世界があるかのような勘違いをしているい人が出てくるようだ。

 冒頭の「もう少し早く来ていたら・・」という言葉に戻ろう。この専門家は、自分のやり方が家庭やその他の方法よりもずっと良い方法だと言いながら、しかし今は使えないと逃げてしまっている。
 ひとことで言えば、このセリフは誰でも使える「無敵」の言葉である。追及する側の自分の価値は下げず、問題の責任は遅れてきた相手にあるということができる。責任転嫁のためにあらかじめ予防線をひき、相手には非難を浴びせ、自分は優越した位置に立つという態度ですむとすれば、いったいこの人たちはなんのためにこの世に存在しているのか。

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独居高齢者の男性の処遇

これまでなかなか介護保険サービス導入までに至らなかった一人暮らしの高齢者の男性(88歳)。
 最近ますます足腰も弱り、ほとんど自室に閉じこもる生活になっていました。
 市の福祉的サービス(配食サービスやヘルパー派遣)も、こちらが思うようには受け入れてもらえず、配った配食もおかずはごみ箱に捨て、ごはんだけは自分でストーブでおかゆに作り直して食べていました。 
 排泄もトイレまで行けず、部屋の中で牛乳パックをしびん代わりにつかうなど、不衛生な環境。
 入浴もしておらす、部屋には冷蔵庫も洗濯機も壊れて使えない。
 こんな状況の中で、地域の民生委員はじめ町会あげて「孤独死」を出してはいけないと何とか見守り支援をしてくださっているのでした。
 ご本人の性格も個性が強いために、まともに助言指導してもなかなか入りにくいところもあり、比較的信頼のおける民生委員やヘルパーの所長さんのいうことは何とか聞いてもらえるので、担当になったケアマネジャーもその二人の協力のもと同行訪問し、まずは取り急ぎ緊急的に支援しなければならないことを決めてきました。
 特に、衛生環境を整えることと、この夏場までをしのぐための体調面の管理などを中心に検討しました。
 介護保険申請のための主治医の意見書の記入のために、私の方でかかりつけの主治医に現状報告のため通院先の主治医にお会いして説明してきました。
 しかし、主治医はご本人の状況や性格なども概ね把握しており、「言うことを聞かない人だからなあ。通院だって本人が(2週間に1度通っていると私たちには言っていた)いうほどここには来ていない。2か月に1回程度。最近来たのは3月。その前は12月。薬もきちんと飲んでいるかわからないし、第一あの体じゃあ栄養失調で何もしなかったら死んでしまうよ。子どもたちとも疎遠だとは言っているが、きちんと今後のこと(死んだあとのことも含めて)を考えないといけないよ。一度子どもさんを呼んで話し合うべきだ」と助言されました。

 そのことを担当のケアマネジャーやヘルパー事業所へ情報提供し、喫緊の課題として子どもさんも交えて検討する方向で考えることにしました。
 しかし、子どもである長男さんへ電話をかけてみると、長男さんも障害を抱える身。怪我をして数か月入院生活を余儀なくされ、現在は療養の身とあっては、こちらまで来ることはとてもできない。休業補償もなく首を切られ妻のパート収入だけで3人の未成年の子どもさんの面倒もあり、親の介護や経済的支援も難しいこと。
 また、一番大きな背景は、この高齢の男性のことを3人の子どもさんたちはみな「父親」とは思っていないということ。
 物心ついたときから、自由奔放に家庭をかえりみずに外で別の家庭をつくっていたし、自分たちには父親らしいことは何一つしていない。
 だから、今の現状を聞いても、子どもたち3人は誰も地元に帰り様子を見るつもりもない。姉達も同じ思いだ、と・・・。

 私達の知らない過去のいろんな親子の確執や葛藤を抱えて、なおかつ今は障害を負いまだ療養の身とあっては、実家の父親が大変になっていたとしてもいまさら・・・、という思いが会話の端々から感じられました。
 孤独死を出してはいけないという地域の民生委員さんはじめ福祉推進員なども定期的に見守りしている現状で、子どもさんの協力が得られないなら、まずは介護保険や地域の力を借りながら、できる範囲で見守りや支援をしていくしかありません。
 「知らないでいるうちにいつの間にか死んでいた」ということにならないように、毎日誰か彼かの目がいくようにケアマネジャーや事業所、民生委員さん等とも連携をさらに密にしていかなければなりません。
 息子さんは言いました。「今、自分たちに実家に来てくれと言っても親とは思えない人に対して、いまさらこちらが支援ようとも思いません。しかし、法律上は親子でもあり、納得はしないが、万が一死んだら骨を拾うことくらいはしなければとは思っています。それまでどうかこちらの現状も汲み取っていただきたい」と話されました。
 
 子どもさん達も、この父親の自由奔放な生活の犠牲になってしまったのだろうか・・・。
 そういう事情があることも、この男性が子どもたちを頼れない一因だろう。
 結局今は、社会的介護であるヘルパーさんは親身になって(時には怒りながらも)何とかして改善させたいと必死になって支援しています。
 ようやくここにきて、この男性も自分のことを真剣に怒ってくれるヘルパーさんに心動かされる瞬間もあるようで、以前よりは偏屈な態度はとらなくなってきているとのことでした。
 男性が最後にどこで死にたいのか、それをケアマネジャーはじめ支援者は支えていこうとしています。そして、そんなに遠い将来ではないかもしれないその時期がきたら、「孤独死」「不審死」とならないように、連絡体制をきちんと確認しながら何が起きてもあわてないようにこちらも関わる人たちが現状を共有しておかなければならないのでしょう。

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取りっぱぐれのない学生を入学させたがる私学

 自宅の近くにある公設民営の私学(芸術系)があります。
 この大学ができたお蔭で、これまで辺鄙だった地域も、今や市内でも人気のある住宅地となり、若い世代がたくさん引っ越してきました。
 
 今年子ども会の役員を引き受けた父親の職業は警察官で、上の姉二人がその大学に通っているそうです。
 役員会の後の懇親会で、その父親は言っていたそうです。

 「今は私立大学もいかにしていい学生を集めるかに必死になっているけど、たいてい入学できた子どもの両親をみていると、公務員かある程度きちんとした仕事のついている人が多いような印象を受けた」と。
 
 私立大学といえども、やはり資金がなくては経営もやっていけないわけですから、純粋に学力だけがあっても、経済的に困窮な家庭では、いつ学費が払えなくなるかという心配も学生のみならず、大学側もそういう状況を心配してしまうものなのでしょうか?

 そういえば、今朝のニュースでも、「子どもの貧困」というテーマの特集がありましたが、いくら学力が高くて充分に大学入学できる能力があっても、経済的理由で私立はおろか、公立大学ですら入学が厳しい現実があるということを、当事者の学生に焦点をあててインタビューしていました。
 「学力が足りないという理由で入学ができないというなら納得もいくが、いくら学力が(合格基準に)達していても、経済的理由で入学することができないということに理不尽を感じる」とその学生は語っていました。
 
 昔だったら家庭の経済状況が大変でも学力があれば、奨学金も借りて勉学に励み、卒業後就職してから返済することも可能でしたが、今では奨学金を借りても、就職難できちんとした就職先が見つからない学生にとっては、あとあとまで借金が付きまとってしまうご時世になってしまいました。
 
 私立大学側だって、同じ学力ならば、家庭の経済力が恵まれている方の学生を入学させたがる傾向にあるのも、一理あるのかもしれませんが・・。
 この父親が、ある程度定年まで安泰な職業を持っている親の家庭の子どもさんがそこの大学に多く入っているような印象をもたれたのも、二人分の学費を払わなければならない者からすれば、そう思いたくもなるのでしょう。

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自閉症スペクトラム障害という診断

 アスペルガー症候群や高機能自閉症という診断名が、今後は「自閉症スペクトラム」に統一されるようになるという。
 これまでも、発達障害の概念や枠組みも、アメリカの診断基準を根拠に時代的にも変遷してきた。
 以前、ある小児科医が言っていた。「いずれはADHDもなくなる」と。
 そう、診断名なんていうのは、その時代の中でいかようにも変わりうる要素を持っている。

 アスペルガー症候群と高機能自閉症で何がそう違うのか?また、広汎性発達障害と言う診断名もすべて「自閉症スペクトラム」という概念で説明されようとするのか?

 スペクトラム(連続体)という言葉のとおり、人間というのは、どこかの連続体のなかにある位置に自分というものの存在があるとしたら、その偏りが自閉的か、そうでないかという基準のなかで判断することになろう。しかし、多くの場合、どっちとも言えないいわゆる「グレイゾーン」という位置で生きている人もいるはずである。そう考えると、すべての人間に「自閉症スペクトラム」という概念が当てはまるのではないかと思ったりもする。

 世の中、全く正常な人間だと思える人なんてはたして存在するのだろうか?
 診断なんかついていなくても「自閉的な」人間は数多くいるだろう。
 発達障害でなくても、人格的に??と思える正常人なんてけっこういたりするし・・。

 しかし、アメリカの精神医学の診断基準にならって日本でも「自閉症スペクトラム」障害と判定する基準を決めると、これまでアスペルガー症候群と診断されてきた人の中には、「自閉症スペクトラム」障害に当てはまらない人も出てくるそうだ。

 これまでは「発達障害」を啓蒙することに躍起になってきたが、一応の市民権を得た今では、ちょっと「変わっている」と見なされる人にはすべからく「発達障害」というレッテルを張りたがるようになってきた。
 そして、今後、自閉症スペクトラム障害に統一されていくことで、「自閉症」という言葉だけが一人歩きしてしまう懸念をもってしまう。
 また、世の中の発達障害者に対する見方が変わってくるかもしれない。
 
 発達障害・・この言葉にもどこか違和感を持つ。そういう診断名をもらっていない普通(?)と思っている人の中にもたくさんの発達障害者は存在していると思うから・・・。

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学生実習

 療育センターに勤務していた時代に、経験年数も3年にもなると、いっぱしの一人前のセラピストとして一応は見做され、臨床実習の指導者を任せられるようになります。
 
 学生にとっては、この3年目くらいの先輩指導者に教えを請うということが一番きついような感じがします。
 臨床3~4年めというのは、一応自分は新人ではないけど、ベテランの域にも達していない。しかしながら日々の仕事では「もう3年もたっているんだからある程度の仕事はこなしてもらわないと・・・」という先輩からのプレシャーも感じるようになります。そこで、学生を担当するとどういうことになるかというと、自分自身もまだまだ発展途上なのに、学生には完璧を求めてしまう傾向があるのです。
 自分のことを指導者面してある種傲慢になったりもします。また1~2年目の新人職員にはなめられたくないという見栄もでてきますから、どうしたって学生にはきつく指導しがちになります。また指導しているその言動に自分がいかにも指導者になったような錯覚をかんじながら実践していますので、なおさら謙虚さを失ってしまいがちにもなるのです。
 そんな3~4年目の職員をスーパービジョンする先輩職員がついていればいいのですが、たいていは一人の学生を一人の指導者が関わっているところが多く、学生と指導者の相性があわないところは、それこそ悲惨です。

 
 自分も臨床実習は何人も経験しましたが、たいてい指導者と言うのは、学生には「ここまではできてほしい」という課題をもって対応しますが、私が勤務していた療育センターは、かつて私自身が臨床実習した施設でしたから、自分が指導者になったときには、自分が指導されたように学生を導こうとしていたように思います。

 あるとき、現場を見学していて、何も質問してこなかった学生に対して、「積極性がない」と声をかけたことがありました。そのとき、その学生は「質問がないことがそのまま積極性がないってことにはならないと思います。いつも指導者は積極的な人はいい評価を下しがちですが、学生の中にはそうでない性格の人もいると思います」と返されたことがありました。

 自分たちが学生実習をしていたときは、「何か質問ない?」と聞かれた時に、何も質問しない学生に対しては、先輩職員達はけっこう厳しく評価していました。「あの学生は質問もしてこないで、どこまで分かっているのかわからない、積極性がない学生だ」と職員室などではそんな批評をしあっていたものでした。そんな場面も見ているし、自分もそういうふうにして育てられたので、質問しないこと=消極的という概念でとらえがちになっていました。

 しかし考えてみれば、その学生の言うことにも一理あると思いました。何でもかんでも積極的に発言する人=一生懸命な学生という先入観で私達は人を評価してはいないかということ。
 質問がでないということは、もしかしたら、何を質問したらいいのかわからない(こんなことを質問してもいいのかなあと躊躇させてしまう要因が指導者側の態度にもあったのではないかというこちら側の反省)、もう少し自分の中で消化してから質問しようとしているのかもしれない、あるいは後でレポートのなかで疑問や感想を書いてくれるかもしれない・・・。などいろいろなシチュエーションも想定したうえで対応する必要があるのかもしれません。
 
 昨今の学生は昔の学生よりもますます、質問するということが苦手にもなってきているような感じも受けます。コミュニケーション手段がメール中心になっている若者世代は直接口で質問すると言うよりも、レポートなどでのやり取りの方が多くなってきているのかもしれません。
 
 以前、私の今の職場に社会福祉関係の実習にきた学生の一人は、吃音や発達障害が疑われるような学生でした。なんでも積極的に質問はするのですが、どうも指導者が意図したところとは違う質問をする学生でした。それこそ積極性は大いにあるようだし、何よりも自分が感じた素朴な質問を指導者の社会福祉士にぶつけてくるのでした。
 しかし、その指導者の社会福祉士は、「今の質問は場にそぐわないのでやめるように・・」といって、質問をさえぎったり、「空気が読めない」その学生に対して、後日「あの学生は社会福祉士には向いていない。福祉の現業職として現場の高齢者と接している方がいい」と批評していましたが・・・。

 
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先入観で評価しない

 どこの職場でも、一人職場でない限りは、「情報共有」という目的で利用者の基本的な情報や相談内容をみんなで共有しあうことがあると思います。

 ある支援者にとって「あの人は私達のいうことを聞き入れない厄介な人」という評価を下している利用者のことを皆の前で語る時は、たいていその支援者の価値観で相手を見ていますから、当然周囲にいるスタッフも、その発言者の価値観をどこか引きずったまま聞いてしまっている危険性があります。

 たいてい、そこで交わされる会話・・・
 「この利用者は誰の言うことも聞く耳をもっていないんだから・・・」「どうしようもない人・・・」というニュアンスで語られるその言動や表情に、周囲のスタッフも「ああ、この利用者ってそういう人なんだ」という先入観を植え付けられてしまうようになります。

 そういう意味では、事前情報の入れ方いかんでは、相手(利用者)を周囲のスタッフすべてが先入観で決めつけた見方をしてしまいかねません。

 以前私が関わった老人で訪問介護事業所へつなげた利用者が、その後機能的なレベルが低下したことで食事の宅配を委託されていた社会福祉協議会より最近の情報を聞きつけた包括の保健師が訪問し、介護保険サービスの見直しなども含めて説明に伺ったことがありましたが、まったく聞く耳を持たれずに帰ってきて言いました。
 「彼には何を言っても無理だ。どうしようもない人」という評価を周囲のスタッフに触れまわっているではありませんか?

 あとで訪問介護事業所の所長さんに聞いたら、「訪問してくれたAさん(保健師)を○○さん(利用者)は、“あの娘のあの態度はなんだ!”とカンカンに怒っていた。あんなバカ娘のいうことなんか聞けるか!」と言っていたとのことでした。
 それに、「以前Aさんから電話があり、一方的な支援内容を指示された事があった、納得いかなかったが、包括(センター)から言われたことなので従わざるを得なかった」
 また、「○○さんのことで、Aさんに相談にいったら、窓口に出て来たBさんが、“ああ、あの人のことね”っていう態度で“あの方はわがままな人ですからねえ”とさもわかったような口調で言っていたのに腹が立った。○○さんに会った事もないくせに、あの態度は何なんだ!Bさんも昔はそういう人じゃなかった(親身になって一生懸命な人だったはず)のに、まだ若いのに(経験年数もそんなに立っていないのに)もう天狗になっているね。がっかりした」と。
 さらに、「Aさんがいなかったので代わりに応対したCさんも、○○さんの名前を言ったとたんに顔をしかめて“ああ、あの人ね(厄介な人)”という感じだった。」と私に話してくれたのでした。
 
 少なくとも、訪問介護事業所の所長さんは包括センターのスタッフをこのように評価していました。
 その所長さんは、それこそ人間味あふれる人で、決して対象者を先入観で見る人ではなく(いろんなお宅に訪問しているからこその人間関係や利用者の生活背景や価値観などすべて包み込んでくれるような包容力のある年配の女性です)、いつも利用者の個性を尊重し「ここのお宅ではこういうところが勉強になった」と謙虚に考えてくれる人なのです。

 Aさんはじめ、Cさんも利用者宅へ訪問した事があり、その時交わされた会話からも、指示が入らず自分本位の持論を展開し理解力がない人という認識をもっていました。
 でも、最初に関わった私からみれば、その利用者はもともとは頭が切れる人でけっして自分が納得しない事には安易に人の意見を受け入れたくないというポリシーもあり、また変に若い支援者からの一方的な助言なんか歯牙にもかけないような態度のところもありましたから、なおさら支援者と利用者の間のギャップがあったように思います。私はそのミーティングの席で「彼は納得しない事には首を縦に振らないような自分なりのポリシーがある方だと思う」ということを言いましたが、「いや、ポリシーというより、認知症があるんじゃないか?」と疑っている人もいました。むしろそういう感覚で評価している人の方が多かったのでした。
 
 どうしても人は、自分が受け入れたくない相手には変に先入観で評価したり、「あの人はこういう人」と決めつけた見方をしてしまいがちです。
 そういう職場の雰囲気が強ければ強いほど、若いスタッフもそういう見方を正当化してしまい、何の疑問も持たずに同じ目線で相手を見下した評価をしてしまう・・。誰か強い個性の人がそのスタッフの一員にいたりすると、その人の考えに反論できないような空気が係員全体に及んでしまう。そうすると、周囲も自分の意見や考えすら抑制してしまい、ますます狭い枠の中での価値観や評価だけを正当化してしまう・・・。客観的に今の職場の雰囲気をみているとそういう傾向が強いような気がしています。

 私は、ぜったいにそういう先入観では相手を評価したくない。けっこうその人の人となりの部分を掘り下げて聞こうという興味を持って相手に接していれば、「ああこの人はそういう価値観の中でだからこそ生きてこれたんだ」という人生が見えてくるし、そういうところも受け入れながら、こちらの言い分も聞いてもらえるようにならないと利用者は納得して、こちらの助言なんかそう簡単には聞いてくれません。
 
 いつも気をつけなければいけないこと―――。いかに自分たちの先入観で相手を見ているか・・・。「厄介な人」「理解力がなく半分認知症もある?」と評価している係員と、「いろんな知識があり、人の手をなるべく頼らない生きてこざるを得なかった○○さんという一人の人間の人生」と向き合って支援しているヘルパー事業所の所長さん。それぞれがその老人を評価する視点の違いが、彼をして係の一スタッフに対して「あのバカ娘、何にも分からないくせに、わかったふりをしていばりくさって・・・」という当事者の評価を招いてしまっている。

 どういう職場集団に所属しているか(その職場集団はどういう視点で対象者にかかわろうとしているのか)も、大事だけれど、個々人の支援者はもっと人間を相手にしている以上は、先入観を捨ててニュートラルな視点で相手と関わる気持ちが必要だと感じます。


 初心者のみならず、クライアントに対する責任を意識していれば当然、同僚や上司、あるいは他機関の専門職や相談窓口に自分が担当しているケースについて相談します。
 このようなときに取り上げらるケースの多くが「接近困難ケース」であったり、「地域のお騒がせケースとしての有名人」であったりすることが多いようです。気をつけないと、関わっている支援チームが同じ方向で「困ったケース」としてみなしがちになり、対象者に対して画一的でしかもディスカウントした評価をしがちです。そこで、一人が「ちょっと待てよ」と、クライアントが有する潜在的な可能性へのひっかかり感知しても・・この対人援助職者としての真摯な態度も、そのバックアップするべき立場にある機関に、せめてスーパービジョン実践レベルに達していなくても最低限対人援助のプロフェッショナル水準にまで熟成している担当者がいなければ話になりません。バックアップになるどころか、まっとうな「ひっかかり」を有した援助者のほうが、〈多勢に無勢)状態になり、足を引っ張られてしまう事態も生じます。つまり、アセスメント力のないもの同士の寄せ集めでは、複雑な様相を呈しているクライアントの隠されたニーズや可能性を理解できないからです。チーム援助の落とし穴は「水は低きに流れる」の譬えにもありますように、たとえ、援助職者集団でも自分達にとって楽な方向に向かいがちな傾向にあることを意識していませんと、クライアントに不利益を渡してしまう援助者ならぬ加害者集団に堕ちてしまいます
(『身体知と言語』奥川 幸子著より)

 奥川氏が指摘するような職場はけっこういたるところにあるものだろうと思います。
 「援助困難例」や「接近困難例」をつくってしまっているのは、まぎれもない支援者集団そのものなのでしょう。まだまだ支援の現場なんて支援者の独りよがりな発想がはびこっている現実があると思います。
 
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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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