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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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支援者が見せる差別や偏見

 ある精神疾患(統合失調症)で一人暮らしをしている60代の男性の相談が通院している病院のソーシャルワーカーから電話で入りました。
 「65歳になったので、包括支援センターとも今後連携を図るために連絡した。訪問して様子を見てほしい」というものでした。
 担当になったスタッフが実態把握訪問をしたりしていました。一人暮らしで最近は閉じこもっていることが多くなりがちとのことでもあり、夏の暑い盛りに脱水症などになっていないかというのも気になるような状況でもありました。
 訪問先から帰ると開口一番にAさんは、また例のごとくその男性の風貌や特性を誇張してあれこれと訪問時の様子をおもしろおかしく周りのスタッフに聞かせています。
 まず何といっても、訪問した相手のことを「名指しで呼び捨て」でしゃべるし、「統合失調症」「精神疾患」というだけできっと彼女の心にはそういう人たちへ「差別や偏見」が大ありなんだなあと感じられる発言です。

 今日はその男性のアパートの大掃除をシルバー人材センターに頼むための手続きについて、保健師とシルバーの担当者と一緒に出かけていきました。帰ってくるなり、「ああ、○○男(名前)の家の匂いがきつかった!!」その後もずっと「いつまでも自分の服や体にくっついて匂いが取れない」と何度もぼやいていました。

 こういう態度や言動ってあからさまにする保健師です。
 「最近は、こんなのばっかし(相談に)来てどうしようもない」とか、いつも社会的弱者や底辺に追いやられた人達を支援しているつもりでも、実際その本音の部分では「厄介な人」と見下げた態度で接する彼女たち。
 毎日こういう言動のなかに身を置いていると、ほかの職員にもそういう空気が浸透し、そういう態度や評価が「あたりまえ」の状態になってしまう。
 
 一緒に連携を図ろうとするときに、その人がそういう人であれ、どんな境遇を抱えて生きて来た人であれ、相手にも尊厳があることは忘れてはならないでしょう。
 支援者に隠された大いなる「差別や偏見」。会話の端々からその人の差別や偏見の度合いや価値観というものが透けて見えます。きっと対象者の方がもっとそういう視線をいっぱい感じていることでしょう。
 


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何のための視察か?

 役所のなかで仕事をしていると、市会議員や民生委員、地区の役員など、さまざまな関係団体との接触もあります。
 あるとき、議会担当の職員から「議員が○○県方面へ視察研修に行きたいのでどこかいいところはないか?」とわが課に打診がありました。
 ある高齢者福祉の先進的な取り組みをしている市町村を視察したいのだとか・・。
 全国的に(予算も範囲内で)先進地と言われる自治体は結構あるのでしょうが、しかしそういう事例よりもまずは「○○県」に行くことが第1の目的であり、観光地を巡って温泉につかって懇親会をするということが見え透いているのでした。
 最初に旅行感覚で対象の地を決めてからなので、その近辺にある「先進地」のところなんていったら、どんどんハードルが狭くなってくるのです。
 いったい、あなたたちには税金をつかって視察をするという意味が分かっているのでしょうか?

 またある地区の民生委員たちも年に1回は県内の先進地の視察と称しては、「どこかいい施設がないか」と担当者に話がはいります。
 そこで担当者が近間の(隣の市や町)ある程度先を行っているような施設のある市や町の名前を出すと、「近すぎてだめ。もっと遠いところがいい」というふうになって、結局は遠方のありきたり施設を紹介することのなります。

 この場合、自分たちの活動のために先進的にとり組んでいる他市町の民生委員たちの活動を聞きに行きたいと言うのなら分かりますが、まずは視察後の慰安目的も兼ねているので、ある程度地元からは遠く旅行気分で行ける所の場所が第1条件になり、そこにあるちょっとした施設ならば何でもいい、とにかく自分たちでリサーチするのが面倒なので、何でも所管する課や係に打診がはいるという流れになっています。

 そういうメジャーな施設よりは、NPOなどで地道に官でできない隙間を一生懸命に取り組んでいる団体なんか是非勉強してもらいたいのですが、そういうあまり自分達にとってあまりメジャーじゃないところは敬遠し、「箱モノ」施設に目が行きがちな人たちだなあと思います。

 視察して、どのように自分たちの活動にいかそうとしているのか?目的があいまいだからとにかく「行った事実」をつくり、宴会で交流を深める・・そのあたりが本音の研修なのではないだろうかと思いたくもなります。



 

子育て支援策のうそ

  先日、ある認可外保育園を経営する園長先生とプライベートでお会いしてお話した時のことです。
 その園長先生は長男を最初に保育園に入れた時に当時その保育園で働いていた保育士さんでした。
 訳あって、その保育園をやめることになり、自ら新しく無認可の保育園を作って、今年で13年目に入ろうとしています。
 認可保育所は県や市の補助金が一定程度は入りますが、無認可の場合はその10分の1程度の予算しかつかず、経営的には大変です。
 しかし、認可外保育園ならではのメリットもあり、(途中入園にも対応できるなど)、子育てのお母さんたちのニーズもあり、保育料は高くても10年以上も運営できてきたのだと思います。

 その園長先生がいうには、「行政は〝うちの市は待機児童がゼロです”と窓口で自慢げに話してくれたが、あれは年度途中での入園児をカウントしていないから。だいたい保育園の入園募集は秋ごろにあるから。実際わが園に子どもを入れたいとくる親は年度途中で産休や育休が明け、そこから保育園を探そうとすればすでに4月の時点で認可保育園は定員が埋まっているから、どうしても、仕事復帰しなければならない母親は、多少お金が高くても、こういう認可外保育園に入らざるをえないのです。」と。

 認可保育園に入れる子どもさんは、もともとが共働きであることが条件なのだから、専業主婦だった人がこれから仕事を見つけて働くためにも子どもを保育園に預けたいという条件では、最初からに認可保育園に入れる条件からははずれているというのです。
 そして、そういう親御さんほど、子どもを預かってくれるところがなければ仕事もできず、経済的にも大変になってきたりするわけです。そういう制度の隙間を認可外保育園はその役割を担ってきているともいえるでしょう。
 しかし、「待機児童がゼロ」というのは本当にそういう隙間の人たちのニーズをくみ取らない矛盾をはらんだ数字だという気がします。しかも、その数字が市の計画作成のためのデータに公表されるわけなので、実態を知らない人からみたら、「○○市は待機児童がゼロで、子育て支援が進んでいる」という外部評価につながったりもするのです。
 数字でその市の実態を見ていくということの矛盾を感じてしまうのです。
 
 今は国をあげて、「子育て支援策」をあれこれ考えていますが、いつも役人が考えるのは机上の空論です。
 自治体職員や教員などの公務員や、大手企業に勤めていれば、育児休暇も最高3年まで取得できたりもします。また授乳のための育児時間や看護休暇なども柔軟にとれたり、福利厚生なども手厚くなってきています。男性も育児をということでの「イクメン」という言葉も流行ったりもしました。
 男性の育児休暇取得率をあげようと、ある県では積極的に男性に育休をとらせて見本を示そうとしている自治体の紹介記事も以前新聞に載っていました。

 しかし、最近の新聞のレポートで読んだ実態はこうです。
 育児休暇明けに職場に復帰したら、以前のポストには新しいスタッフがすでに配属されていて、「あなたの居場所はない」と言われ、辞めさせられた。
 子育て中なのに旦那さんも単身赴任で家にいなかったり残業が多い中では、女性である母親自身も長時間労働を強いられ、とても正社員での就労が難しい現実。
 それまで正社員で働いていたのに、職場復帰したら、いきなり「契約社員」を命ぜられた。
 自分だけ子育てのために残業せずに早めに切り上げるのを、他の同僚たちが冷ややかな目でみているので、やりにくい。

 結局子育て支援をうたっても、こういう会社や職場の現実はいまだに多いのが実際でしょう。
 若い夫婦が、子どもをつくりたがらない社会構造を見て見ぬふりをして、出生率を上げんがための姑息な手段(施策)が多くの若い女性たちの反感をかってしまったことがありましたが、役人や国会議員だって自分たちのレベル(経済的余裕のある人たちの)でしか施策を考えられないから、なんとかやりくりしている世代や階層の人たちにとっては、その政策がいかにも「絵に描いた餅」「夢物語」でしかないのです。
 
 子どもを育てていきたくても上記のような職場の実態があるならば、だれだって子育ては大変という認識でしかなくなります。そして一部の恵まれた職場以外の大部分の職場はまだまだ子育てするのには厳しいところがあるというのが実態ではないでしょうか。

自閉症者の世界観を一緒に体験できますか

 以前、このブログでも紹介した『ひろしくんの本』より、再度一部引用して以下に紹介します。


 これまでの私のお付き合いのなかで感じることは、自閉症児の興味の世界がファンタジーな世界が多いのに、この世界にどっぷり入れない先生方やヘルパーさんがおられることです。
 先生方は付き合う中で良かれと思って、こうしてみたら、ああしたらと先急ぎをする助言が多いのです。 時には先生やヘルパーさん自身の思いこみが激しくて、博のリズムと合わないことがよくありました中には、自閉症についてわかったふりをされていますが、博にかかわる時の言動に何も理解していないちぐはぐな対応となり、博がとまどっていることが私にはよく見えるので困りました
 また研究者の方々からは、どこかで学校生活に合わせるための方策として博の興味の世界を利用して今のうちに○○に取り組んだらという助言がありました。ご助言のなかにはご自身の研究上の興味の対象として博にさせてみたいというお心が見えることも数々ありました。しかし博はそういうことに直観的に反応して家族だけには正直に拒絶の表情をしていました。

 子どもの興味の世界にとびこまない親御さんや先生方のかかわり方は、子どもにつきあってあげる、何かをやらせてみたいという姿勢です。こうした関係で自閉症児者の世界を見る方々にとっては、とても幼稚な世界に見えてしまいます
 博の興味の世界に合わない方々がおられることを知らされたのは学童期から今日まで幾度となく博と私は体験しました。先生方やヘルパーさんは、博とうまくいかなくても他の人へという流れ方ができます。そして時間がたつほどに忘れ去ることもできます。 しかし対人関係の困難さやこだわりの障害を持つ博にとっては、常にどういう出会いをするかが問われるのです。恐れを知らないというか簡単にかかわる側の方々の博にとって不本意な入力をされたことを訂正するのは簡単なことではないということを認識していただきたいのです。私の決断が遅れるとその償いやアフターフォローはすべて長い時間をかけて家族が背負うのです。  

また達成感(成果)をもちたいと先急ぎする親御さんを持った自閉症児は不運としかいいようがない現実を私はみてきています。
 乳幼児期から思春期と言われる年齢までに、自閉症児が興味の世界でたくさんの完全燃焼できる体験を持つことが思春期を乗りきるエネルギーになること、そしてそれが生き生きとした表情につながる鍵になると私はいつも考えております
 
 ある著名な自閉症研究者が博が11歳の時にお会いしたことがあります。その時博のらくがきをご覧になって親の私が説明する前に、「一人で楽しませているだけだったら発達の変容にならない」と頭ごなしにおっしゃいました。確かに放っておくことは発達の変容になりません。それほど、自閉症児の興味の世界のなかにどっぷり入ってかかわている方がおられないということをこの時、私は逆に確認させていただきました。

 自閉症児を理解するか否かは、この興味の世界にかかわる側の方々の質を問われることになるといっても過言ではないと私は思います。
 早期発見、早期療育で最初に出会うドクターや療育者が机上だけでの知識や浅い体験から出た指導でその後の成長をとめてしまっている瞳の輝きのない悲しい子どもたちに私はたくさん出会っています。何でも教え込みさえすればかなうと思っている、焦るというか走りすぎる先生方や親御さんに強く訴えたいところです。

 

 自閉症児者などをはじめとする発達障害児者を支援する立場にある人が自分達が学んだ机上の知識を実際目の前の発達障害児に応用しようとするとき、往々にして支援者側からみた障害観(発達障害児はこういう方法で障害の〝改善”をめざしたいとか、普通の子どもたちに近づけようとするための理論的知識)で関わろうとします。自閉症の世界観に興味を示して自分達も一緒にその世界観のなかに浸って同じ目線で社会をみつめるとき、本当に自閉症児の豊かな感性や心の内面が見えてくるものです。
 とかく、そういう体験を抜きにして自分たち健常者の世界観からしかものを見ず、自閉症児の世界観を「こだわり」「自己の殻にに閉じこもる」など否定的な見方(評価)をしている人たちから自閉症児の支援をしていただくということは、そういう見方で当事者を見ているわけですから、いつまでたっても彼等は療育や指導の対象であり続けなければなりません。

 ある大学のかつて自閉症研究者であった先生の本で、大学のゼミにくる一人の自閉症者(学生ではない)と学生たちの交流の場面を書いた書籍を読んだことがありました。その中には健常である学生たちの行動パターンに合わせるのではなく、自閉症の青年の行動パターンにむしろゼミの学生たちが合わせて活動しているという記述がありました。
 この青年は教師の知り合いでもあり、自閉症を研究している学生たちとも顔なじみということおもあってか、この大学の学生ではないのに毎日のようにゼミに顔を出して、学生たちと交流をしていくそうです。そんな光景にも自然体で「ありのまま」の彼を受け入れている学生たちの行動は、自閉症の青年の世界観を一緒に楽しんでいるといった感じです。
 
 「あなたはこういう方向に支援してあげたい」「こうすべき」と机上の知識をふりかざし、当事者をなんとか自分たちの支援の方向へ持っていきたがる人たちこそ、彼等はもっとも嫌う対象となるのです。
 一緒に自閉症者や発達障害者の世界観や内面に寄り添ってくれる人なら、専門家でなくても彼等はその鋭い感性で「いい人」と見抜きます。

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プラン通りにはいかない支援

日頃支援をしている相手(対象者)が、支援者の思うようなプランニング通りに生活が成り立っていかないケースがあります。
 
 そういう対象者は、自分たちの支援のプランを拒否する「いうことを聞かない厄介な人」という評価を安易に下しがちです。
 
 ケアマネジャーでも家族の想いと利用者の想いの狭間に立ち往々してしまう場合もあります。
 ある高齢の一人暮らしの男性は、サービスの利用に心が傾いても「お金はいくらかかるの?」と言っては「やっぱりやめる」とサービスを拒否してしまいます。決して払えるお金がないわけではありません。お金はあっても自分のために払いたくはないのです。その根底には「自分の世話を嫁がするのが当然」という意識があるようです。「家族だったらただなのに…」「家族だったらこんな年寄りの面倒をみるのが当たり前」という本音。
 しかし、家族にしてみれば、「舅は甘えている。もっと自分でできるはず」「こちらが家事を手伝ってしまえば依存的になる~、本人のためにはならない。あえて叱咤激励しているんだ」との言いぶりです。
 もともとの本人と息子夫婦の確執があったのだろうと思います。
 若い時の家族関係がそのまま高齢になっても尾を引くケースが多いと思います。双方にそれぞれの言い分があるわけですが、利用者の本心は「もっと家族に自分の事に関心を向けてほしい」ということなのでしょう。
 いくらサービスで埋め合わせをしても、その「寂しさ」は埋め合わせができません。
 ケアマネジャーも、「自分でできないことが増えてくれば、誰かの助けが必要で、家族も忙しくて関われないと言うならば、お金はかかるけどヘルパーさんなどを使って援助してもらうようにしたらどうでしょう」と言っても、家族の愛情をお金で補うようなプランにはすんなりと首を縦に振ろうとしません。
 
 家族も「今の保険制度って、家族にも支援してほしいというけど、社会的に支援していくための介護保険でしょう?どうして保険でサービスを入れられないんですか?」と言ってきます。

 職場に戻った担当のケアマネジャーは、周囲の同僚たちに「本当に嫌になっちゃう」と、訪問先での会話を誇張して再現して聞かせています。

 そうすると、この利用者に対する評価は、「お金があるのに使いたがらないケチな老人」というレッテルを貼りがちです。そして「ああいう性格だから、嫁さんも寄ってこないんだよ。嫁だから自分の世話をするのが当たり前という態度では、誰もかまいたくなくなるよねえ」と、勝手にそれぞれの価値観で批評し合っています。
 意外と、そんな会話って当事者たちの知らないところでは、ケアマネジャーの愚痴も含めて案外利用者や家族を自分たちのパターン化された思考のなかで勝手に批評しあっていることって多いのではないでしょうか。

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精神障害者が置かれている現実

 精神障害者が通所しているとある就労支援事業所の通信からの文章です。(書いた人は当事者かな?)

  逃げ水 
 しゃにむに、なにがなんでも自分を肯定してみる。自分を抱きしめて、お前の悩み多い人生、悪くないよ、いやむしろ豊かですばらしい人生なんじゃないか、と、ささやいてみる。

 もう、私には時間もない・・・だから、それを信じてみよう。繰り返し思い込んでみると、なにやらほんとうにそんな気がしてきたりする。そう、そして、他者と比較したり、自分を否定したり、、蔑んだりするなんて、そんなばかばかしいことは止めたほうがいいと思えてくる。

 世の中は、みんな自分のことに精一杯で、他者への関心を失ったらしい。ならば、自分で自分を評価する以外にない。
 〝世間”は逃げ水だったようだ。今や、自分自身で意味づけし、評価すれば、それですべてだ。
 

(管理者のことば)
 精神障害者へのサービスは、かつて医療・保健分野での提供が中心でしたが、社会福祉の考え方の変革に伴い、国は「身体障害」「知的障害」「精神障害」の各福祉サービスの一元化を中心にした法の整備を行いました。
 しかし、これにより障害者の生活の質が大きく改善されたというものではありません。特に、精神障害者の方々の生活環境を考えると、世間からの「差別」という面のみを見ても、身体や知的に障害を抱える人たちに比して、高く熱い障壁が存在しています。
 この「差別」という障害と、「心の病」という障害に立ち向かいながら、それでも彼等は、地域社会のなかで懸命に生き、幸せになろうとしています。
 人の幸せ、社会の幸せを「福祉」というのであるならば、法的にも福祉の分野に位置づけられた今、まずもって私たち関係者が意識を変え、偏見を払拭するとともに、彼らへの理解を深め、幸せを高める運動を展開していかなければならないと感じているところです。
 



 「障害者総合支援法(旧法は自立支援法)」は精神障害者も身体・知的障害者と同列の位置で福祉的サービスを受けられるようになてはきたものの、上記にあげたような根強い「差別」と「偏見」はいまだに現存しています。
 今日も職場にある障害者の就労支援事業所で作っているお菓子の訪問販売に世話人の大人とともに、車いすの身体障害者やダウン症はじめ何人かの知的障害者の方々が、お昼休みに販売に来所されました。
 職員達の何人かはお菓子売り場で購入していましたが、その時にあるダウン症の青年のかわいいしぐさや言動に、デスクに戻ってきては「あのダウンちゃん、めんこい(方言でかわいいの意)よね。ああいう知的な子だったら癒されるけど、くせの悪い知的や精神は本当に(関わっていて)やっかいだよねえ。」と話しています。
 それも、福祉の専門的な立場の人が・・・。
 素直で言うことを聞きそうな知的障害者=かわいい障害者(これもある意味とても相手を見下した表現だと思いますが)
 精神障害者や自閉症等、独特の彼らなりの症状や個性と自分たち(普通と思っている)の価値観と合わない言動をとる人たちは見くだした表現で相手を評価している(本当は彼らの独特の世界観に寄り添えない、いや寄り添おうともしないのですが)。けっしてそこには、そういう感性の人たちにははなっから関心もなく、単に「指導」の対象にしかならない。そんな専門職ですら「差別や偏見」は根強いものがあります。

 このような通信に書いた当事者の声をどの程度、支援する側は理解しているのでしょうか?
 
 職場で精神保健福祉士という資格がありながらも、先輩社会福祉士たちが発言する「蔑視的発言」に合わせるよう同調して笑っている光景を見ると、(後輩だから反論できないのかわかりませんが・・)資格とはいったいなんなのだろうか?と疑問に思ってしまいます。じゃあ、何のためにあなたたちは社会福祉士だの、精神保健福祉士だのという資格を取りたがるのか?と、問いたくもなるのです。

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専門職の裏側

障害者や認知症の高齢者、生活保護レベルの経済的事情が苦しい人たち、引きこもりや発達障害、精神疾患を持つ人たち・・・・役所の福祉の窓口には連日このような様々な「事情」を抱えた市民が来所します。
 しかし、福祉の窓口にいながら、そこで働く職員(もちろん公務員ですが)のそういう市民を蔑視するような言動を毎日のように聞かせられてしまうと、とても心のエネルギーを吸い取られてしまいそうです。

「今日○○係長と一緒に対応した男性は統合失調症でさあ、バリバリ妄想があって・・・」なんてデスクに戻ってきてから周囲の職員に話の内容を披露し揶揄し合っている社会福祉士。

 知的にはボーダーと思われるのですが、自分なりのこだわりやマイペースな生き方から何回か入退院を繰り返している60代の男性の処遇に対して、「本当にああいうやつは、どうしようもない」とばかりに見くだした発言をしています。

 役所というところは、「福祉の心」を持ってそういう利用者(市民)に接している職員っていったいどれほどいるのだろうかと、疑問に思うほど、そういう社会的弱者と言われる人たちへの言動の冷たさに、本当に切なくもなり悲しくもなってしまいます。
 すべてが、そういう職員ばかりではないと思いますが、自分の勤務している部署の職員に関して言えば、そういう人たちへの差別と偏見はすごいものがあります。それも保健師や社会福祉士と言われる専門家集団がそういう先入観で人を評価しているのですから。

 市民の公僕であるべき公務員がこのような状況にある市民たちを蔑視したり嘲笑したり、偏見と差別に満ちた言動を平気でしていたり・・・。

 そこに専門職としてのへんな誇りや自負だけはやたら強く、自分たちのやり方は間違っていないと思っているから、ますます変な自信だけは年とともに高まっていくでしょう。
 対象者のことは平気で呼び捨てにして話しているし、「あいつ」「こやつ」なんて平気で口にする。
 いくら資格があっても知識があっても、そこに対象者に対する寄り添いの姿勢がない人は、人間的には幼稚なひとです。
 少なくても自分だったら同じ同僚であっても、あなたたちには絶対相談なんかしたくない相手です。

 
 
   

人減らしが招いた心の病

 グローバル競争が激しさを増し、企業は生き残りをかけて人減らしに走る。追い詰められた働き手らが自殺に追い込まれたり、うつ病になったりするサラリーマン世代が増加しています。
 新聞などでは「追い出し部屋」と称する部署に追いやられて、本来の業務から外されてしまう40代~50代の働き盛りの社員の現状が掲載されています。
 景気が上向いているときは重宝がられても、いざ業績が悪くなれば「お払い箱」となってしまう。
 家族の生活もあり、退職勧奨にも抵抗を示せば、「いやがらせ(ととらえられるような・・)」という手段にでようとします。

 そんな風潮のなかでは当然、ストレスから精神的なダメージを受け、うつ病になる人が年々増えてきてしまうのは当然のことでしょう。

 職場の人間関係も、この10年足らずのあいだになんとなくギスギスしてしまい、話す会話も自分の係以外の人たちと休み時間に話すこともなく、昼休みも皆黙々と黙って昼食をとるか、デスクの前のPCを眺めながらの休息風景が多くなっています。

 少ない人員で多くの業務をこなさなければならない余裕のなさに、相手を思いやる心も少なくなり、能力のない職員には容赦もない陰口が叩かれたり、みんなで補い合ってという空気が薄れてきています。

 「仕事もしないで給料泥棒」という陰口をメンタルで休んでいる職員に発せられたり・・・。

 いくら、国の施策で「自殺予防」「こころの健康」のための事業を展開しようにも、その行政レベルで考える施策(事業)なんて、せいぜい講演会レベルの啓発活動止まりに終わっているし・・。
 事業企画をする当事者側ですら、そういうメンタル障害の人たちに対する視線がきつい(ある自治体ではメンタルで休職している職員が数十人いるという県内の自治体もあります)。

 こういう「自殺予防対策」や「メンタルヘルス」対策は、社会の構造と密接な関係があるわけで、小手先のやり方では効果なんかあるはずがないと思っています。

 なんか、とても人間関係がせちがらい時代になってきたなあと思います。

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Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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