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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

プロフェッショナルイネーブラー(共依存)

 先日あるワークに参加。
 講師は精神保健福祉士資格のある男性。講師の先生の人生経験(挫折や価値の転換)からも裏打ちされた今の仕事への姿勢には同じ支援する立場として共感できるものが大いにありました。
 
 精神疾患のなかでも『依存症』について、取り上げられていました。
 話のなかで、「目から鱗」の部分と「ああ、やっぱりそうなんだ」という部分と・・・。
 

 依存症は、繰り返す(習慣化していく)くせ、ストレスへの対処行動である。
 (依存症)の治療は、習慣を変えること、症状を聞いて薬を出すだけではだめ。
 受容されることのない人は、人を受容することができない。
 依存症を回復させたいという人には(支援は)向かない。なんとか治したいと思えば思うほど空回りする。
 アルコール依存症の回復は、なにより自分の体験談を話すこと。
 依存症の治療で最も回復が早いのは当事者。次に回復が早いのは家族。最も否認が強いのは援助者。 
 
 援助者が回復するとはどういうことか?
 
 援助者が目の前の(回復していない人)を信じることは難しい。
 そのためには、回復している人とたくさん会うこと。援助者(家族)が、(知識や理論で)正しいことをやってもうまくいかない。
 
 プロフェッショナルイネーブラー(共依存)とは?
 援助者が、自分の不安を解消するため、依存症患者の回復に関わろうとすること。
 ○否定的エンメッシュ
 他人(患者)に頼られることで自分を満たしたい。他人に必要とされる欲求を満たすため。
 
 ○メサイヤコンプレックス
 〝この人を助けられるのは私しかいない”という傲慢さ。〝この人は私が一番よく知っている”という傲慢さ。

 ○治療中断に対する恐怖心
 我々がクライエントから離れてしまうんじゃないかという見捨てられ不安。

 共依存にならないためには、援助者も一度は共依存を体験することが必要。
 援助者の生き方が応援と拒絶に表れる。
 援助者が本人の感じるべき問題を「かわいそう」と肩代わりしたり、尻拭いする。
 過剰適応を自分の手柄のように勘違いしてしまい、病理を深めるお手伝いをしてしまう。
 援助者側に回復のイメージがないため、過剰に抱え込むか、苦手意識があって関われない。

 
 プロフェッショナルイネーブラーという言葉自体、私は初めて聞きましたが、いわば「専門職の共依存関係」なのですね。
 実際に、アルコール依存症の利用者さんを抱えるケアマネジャーや支援者たちの一部の人たちは、「なんとかしてやめさせなければ」「やめさせるにはどう支援したらいいか?ヘルパーをたくさん派遣して規則正しい生活を・・」なんて言うケアプランを作りがちになります。
 また、「あの人はこれまでもああいう生活をしてきたのだから、そう簡単に治るはずがない」という否定的な本音を持って表面上の支援をしていても、それは一番当事者の回復を遅らせる結果にもなってしまうということ。
 何よりも、誰よりも依存症の回復を遅らせてしまうのが「援助者」だということ。 職場にも、こういうタイプの人はけっこういます。
 自分の支援がさも一番正しいと信じて疑わない。「私でなければあの人(相談者)はだめ」といっている援助者自身が利用者に共依存しているわけです。


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教師の評価、親の評価

 次男の小学校最後の運動会がこの週末に終わりました。
 「小学校最後の運動会、楽しむぞ」と言って元気に競技にも参加し、また最終学年としても役割をはたしました。
 6年生になってますます、友だちの家に行ったり我が家に来たりする良い関係が続いています。
 次男は4年生の時にクラスや担任になじめず、新学期早々から不登校から別室登校となりました。
 次男を担当する先生は退職した嘱託のベテランの先生に指導を受けました。何回か、学校とも話しあいをもちながら、なんとかクラスに混ざれるかを試行錯誤しましたが、結局その年は学年の行事や学校の行事にも本人の意思で参加できませんでした。
 5年に進級する前の3月に再度学校側と話しあいを持ったときに、その担当だった先生は「私は今年度でこの学校は辞めることになる。そして児童も増えるので、今使っている部屋も○○君(次男)のために使用することもできなくなる。また○○君も年齢を考えると先生とのマンツーマンでの指導では友だち関係を学ぶことに限界がある。○○君が5年生になってもクラスに混ざれないならば、それは○○君の成長のためにもならないし、学校側としては支援学級をお勧めしたい」と言われました。

 私は「それは、先生たちは教育者としてその方が○○にとってベストな選択と考えているのか」と聞き返しましたが、学校側の見解は「イエス」でした。
 しかし、わたしは、長男に発達障害があるため、次男ももしかしたら?という疑問もあり、その数か月前には発達検査を病院で受け、「明らかな発達障害はない」と診断されていましたので、クラスに適応できない=特別支援学級への在籍を示唆する教師に頭から納得はできず、かといって「絶対それはいやだ」という自信もそのときはありませんでした。
 
 しかし、考えてみればクラスに混ざる混ざらないを選ぶのも次男自身、支援学級を選択するのも次男自身です。 本人にも聞くと「何で自分が〝ひまわり”(支援学級)に行かなければならないのか?」と私に聞きました。
 そして「それはいやだ」と。
 もしどうしてもクラスに混ざりたくないなら別に不登校になってもいいやとある意味覚悟しました。もし学校に行かないのであればフリースクールに通うという選択肢もあるし、自宅にいてもいいや、と。
 そうしたら、次男は、「5年生になったらクラス替えもあるし(環境がかわれば)なんとかクラスに混ざってやってみる」という結論を自分でくだしました。
 
 そして、5年、6年と同じクラスメイトのなかで、最初はどことなくぎこちなかった集団生活も、今では同じ趣味や話の合う友だちも何人かでき、毎日楽しく通うようになっています。そこには担任の先生の配慮もあったわけですが、やはり先生との相性も大きな原因だったかもしれません。
 
 たいていは遊びにくる友だちは趣味の合う男子数名なのですが、今日はその男子達に交じってクラスの女子数名合計10名ものクラスメイトが我が家に遊びにきてくれました。

 あのとき、「支援学級」を勧める教師の助言に従っていたら、今の次男の姿はなかったでしょう。

 このとき、つくづく思ったことです。「学校がよかれと思って助言したことでも、親が、子ども本人が納得いかない選択はすべきではない」ということ。その選択が正しかったがどうかなんてだれもわからない。でも、自分たちが納得して選んだ選択ならそれは当事者にとっては正しい選択なのではないかと・・。

障害の理解とは

 軽度発達障害の場合、普通にこだわる人、障害にこだわる人が現れるが、どちらも同じベクトルの人たち。そちらかに決めないと不安になるのです。
 普通と思われると、支援が受けられないのでは?と不安になる。
 障害と思われると、差別されるのではないかと不安になる。
 どちらも同じ不安からきています。
 自分の子どもより、もっと勉強がわからない子どもでも、親が診断を受けさせなければ普通学級で学んでそのまま社会人になる。
 「障害」という名前を背負って訓練を受けて「自分は違うんだ」と思いながら社会人になる子ども。
 大人になってから「そういえば、私、学校しんどかったわ」と自分で発達障害にきづく、もしくは何も気づかず、社会人として生きていく子ども。
 今も、同じ時代に生きている。
 学校で苦労させたくないと、障害の診断名を必要とする親も、学校で差別されたくないと障害の診断を拒否する親と。
 でも子どもはどちらも同じ子ども。



 医者は医者の目線でしか見ません。障害の有無や症状だけしか見ません。
 教師は勉強ができるか、集団生活をちゃんと送ってくれるかにしか興味がありません。
 そういう人たちが発達障害を口にすることと、親である私たちが発達障害を考えることは、まったく違う次元なのです。
 医師や教師より、子どもの人生を本気で考えられるのは親だけ。
 自立して生きてほしいと言いながら、勝手にスケジュールを決め、職業訓練に精を出すのはおかしいとどうして思わないのか。
 自立とは、朝起きてから寝るまでを自分で決めて行動できる事。誰にも決めさせない。
 嫌ならやめることもできるのが自立。
 子どものやる気をとことん奪ってから、自立してと望むのはばかげているとしか思えません。
 子どもは簡単にあきらめます。
 親が望むロボットにだってなろうとしてくれます。
 「もう嫌といっても聞いてくれない」と思ったら、心にふたをしていつか爆発するとしても、素直に従ってしまのです。 
 どんなに自分が歪んでいこうが、親にも逆らえなくなってしまうのです。
 子どもに甘える隙を作るのも、障害との葛藤を経験するのを待ってやるのも、どちらも親が選択する姿勢です。
 子どもの生きる力をもっと信じてもらいたい。
 支援が必要だとしても、子どもの意向をちゃんと分かってくれる支援者を探して育ててほしい。

 教師や親がなぜ、障害を理解して、受け入れるようになったか。理解してくれる人を養成する方がずっと問題。
 障害とわかっただけで、受け入れたり指導できる人などいない。
 おそらく理解できた親も教師も人間に対する受け入れ幅が広かったのでしょうし、子どもをありのままに愛する能力があった。
 だから障害名を聞いても動揺しないし、自分たちでちゃんと受け止めようとしたのでしょう。
 目に見えない障害を受け入れられる幅の広い人間はそう多くはありません。
 どんなに脳の仕組みを勉強しても、目の前にいる人間は理解できないと思うのが普通です。
 どんなに発達障害を理解しているつもりでも、目の前に統合失調症の人がきたら、困ると思うのではないでしょうか。
 知識の理解につながるのは時間がかかる。
 最初に理解があって次に知識なら話は早い。
 けれど、理解できる親はほとんどいないのが現状。
 日本の教育に問題がある。
 大人になるまで障害者を見たことがない。しゃべったこともない・・・。

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地域で見守るとは?

「地域力」や「見守り」がさかんに叫ばれている。にもかかわらず、孤独死や虐待の問題は相変わらず増えつつある今の社会。
 国はこれから認知症対策についてさまざまな事業を打ち立ててくる。しかし、地域や各自治体の方でもそこまでの体制になっていないところが多い。
 いろんな施策を次々と打ち出して来るのはいいが、それをどのように地域の実情に合わせて消化していったらいいのか?同じ価値観でみな地域をみている人たちだけではないだけに、いろんな人がからめばからむほど思惑が違いかえって連携も進まない例も多い。


 「地域力」「や「見守り」だって自分が好ましいと思う人間だけに限っていることを誰も自覚していない。
 価値観に合わない人間、本能的に嫌われている人間は真っ先に切られてしまう。
 同じ色にならないと助けてやらないよって雰囲気。
 権力者が望むような弱者かどうかにすべてがかかっている。
 自分が嫌いな人間でも、見守れるか、気にかけられるか。
 その人間力が今試されている。
 嫌いなままで受け入れられるかどうか。
 それができないからみんな孤独になる。


 地域にはさまざまな生活環境、生活レベルの人が暮らしています。
 精神障害を持つ息子さんと長年一緒に暮らしていた母親も認知症になり、不安症状から何度も救急車を呼ぶ騒ぎになったことがありました。地域の近隣の人たちは(日頃からあまりつき合いがないこともあり)「何度も救急車騒ぎを起こして厄介だ」という認識です。担当になった民生委員も、息子さんの精神障害のことを告げると「ああいう精神障害者を地域に住まわせていていいのか?」と。
 何らかの障害があるだけで生活上、地域に迷惑になっていなければそれはそれで暮らしていけますが、この母親にしても息子さんの障害については近所の人にも伝えていませんでした。息子さんは家では閉じこもっているだけで、精神症状はあるにしても格段地域に迷惑になるような行動はありませんでした。
 しかし、いったんその息子さんの存在を守ってきた母親が認知症になったりすると、とたんにその家族の問題が浮き彫りになってきます。「精神障害者≒危険人物」であるかのような偏見。たしかに訪問しても人を寄せ付けないような言動もあります。起こったような口調や独語もその症状の一つとしてみられることもあります。それだけで、精神障害(統合失調症)の何たるかをあまり知らない地域住民にとっては、息子さんの存在が「恐い」という感情を引き起こしてしまうのかもしれませんが・・・。
 そうなったときに、「ああいう家は何か地域に厄介なことがおこるのが心配」となり、民生委員→行政へと相談が入ったりします。
 この母親があえて息子さんの存在を地域に隠して生活してきたとしても、それを誰が非難できるでしょうか。
 隠してこなければその地域のまなざしをもろに受けてかえって生きずらかったかもしれません。
 それまでは見えなかった世帯(家族)の問題はある意味、そのキーパーソンの人がその役割を遂行できなくなった時に起こってきます。
 その時に、その地域やその地域住民(とりわけ民生委員を始め、隣人など)がいかに、そういう世帯を自分たちの価値観だけで判断し、排除の精神になってしまわないか・・・残念ながらまだまだそんな雰囲気が(行政にも)あるのです。


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「いじめ」の相談

 あるジャーナルに投稿した文章のなかで、次のような一文がありました。(投稿したのは、某学校に勤める養護教諭でした)

 (引用)
 「あなたはいじめられたことがありますか?そのいじめは今も続いていますか?」という質問には、「よくこんなこと、聞けるねぇ。いじめられて死ぬほど辛い人に、『はい』に○をさせようとしているんよ。それってひどいことだと先生たちは思わないの?『はい』に○ができる子はとっくに先生に言っているよ」とも言われました。
 私自身、こんなことは思ってもみなかったことで、いじめ問題の渦中にいる子どもたちならではの言葉だと思いました。
 数年前、いじめにより不登校になった中3の女子生徒に、「先生たちは『いじめがあったら言え』って言うけど、いじめは学校の恥だとか、自分のクラスでいじめがあったら自分の評価が下がるとか思っている先生には、絶対に言わない。そんな先生には言っても分かってもらえないから」と言われました。彼女の思いがこもった強い口調に圧倒されたことを覚えています。


 思春期の子どもたちの感覚の鋭さがうかがえる文章ですね。
 子どもたちは大人の態度や言動のなかに、この大人は自分たちが信じるに値する人間かをしっかり見抜いていると思います。また、いじめられていると教師に言える子どもは、よほどその先生を信頼しているか、学校自体も一生懸命にいじめ問題に取り組もうとしているところかもしれませんが、大部分の多くの現場は、この生徒の心情と大人〈教師)が考えることにはギャップがあるのではないかと思います。
 
 今朝のニュースである中学校の女子生徒がいじめられて自殺したできごとを、その学校自体が生徒や保護者に「口止め」していたということが明るみになったとして、ワイドショーで取り上げられていました。
 大人社会(それも学校という教育現場)のいやらしさがこういうニュースを聞くたびに信頼を失墜させるようになってしまっています。
 いじめがない学校として外部評価を気にする校長、いじめがあるクラスとわかれば自分の教員評価が下がる・・・いろんな思惑が働くのでしょうか?
 そしてそれを黙認する教育委員会や教育行政に携わる職員。なにか、マスコミが騒ぎはじめて、ようやく重い腰をあげて対策に乗り出す。

 
 

意向はさまざま

 先月まで要介護の認定だった高齢者(女性)が、今月から要支援認定になったことで、これまでケアプランを担当していた居宅介護支援事業所から包括支援センターへプラン作成変更の依頼が入りました。
 訪問してみると、最初に申請した時は、転倒を機にベッドに臥せるようになり、閉じこもるようになり、入浴も一人ではできないという状況になり、ヘルパーの介助で入浴を行っていました。
 しかし、今回は、半年過ぎてある程度状態は改善したものの、まだ抑うつ状態は続いていました。
 入浴については本来一人で入れないレベルではないのですが、家族も多く皆仕事をしており入る順番も(若い人から)決まっているため、どうしても年寄りが後回しになってしまう。そうすると結局本人は入りたがらない。だから日中ヘルパーさんの見守りで入浴を支援していただきたいというお嫁さんの希望と本人の意向でした。
 本来、こういう場合、できれば日中の閉じこもり防止や交流目的のためにも(入浴も含めて)通所サービスの利用を勧めることが推奨されています。
 ご本人にも、要支援になったことをきっかけに、今スグではないにしても今後は気分転換にも通所サービスの利用を勧めてみましたが、お嫁さんもご本人も「今のままでいい」「うつ傾向があるので、あまり刺激をしたくない。本人に無理強いさせたくない」という意見でした。
 ご本人はこれまで旦那さんが生きていたころは社交的で地区の老人クラブにも参加したり趣味活動もなさっていましたが、3年前に旦那さんが亡くなった後は、気力もうせがちになっていったとのこと。しかし、それでも畑仕事をしたり散歩など自分なりに積極的に活動していたようです。転倒をきっかけに(骨折ではなかったものの)、それまでできていたことが、精神的な落ち込みとともに気分や気力の低下を招いてしまったようです。
 本来、このような状態の高齢者には、「閉じこもり・うつ予防」の名のもと、さかんにケアマネや行政的にはなんとか通所サービスへと誘おうとする支援策を展開しようとします。
 しかし、このような高齢者の心理状態や家族の生活状況や家族との関係を総合的に聞きとりしていると、ご本人の「行きたくない」という意思も強く、家族も「今のおばあちゃんの状態を受け入れ」て生活しているということがうかがえてきて、こういう生活もありでいいんじゃないかと思えてきます。
 この高齢者のように、一般論として(自分たちが考える方向へ)こうあるべき方向へ支援方針を進めようとしても、理想論だけでは語れないそれぞれの当事者の想いにも寄り添おうとすればするほど、どのような援助方針をたてるのかというところは当事者の話をしっかりと聴くところからしか始まらない気がします。

 

地球の名言

プロフィール

TTmama

Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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