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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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後見業務に思う

 認知症高齢者の増加とその権利擁護にあたり、成年後見制度の利用を勧める動きが、ますます広まっていくようになっています。
 しかし、身寄りがなかったり、親族間の関わりがない人の場合は、自治体の長の申し立てにより裁判所に後見人の申し立てを行う事例が増えてきています。

 裁判所が結果的に後見人を専任するのですが、以前上記のようなケースに弁護士が後見人に専任されました。
 そして養護老人ホームに入居していた被後見人に対しては、ほとんど定期的に面会に行くこともなく、「報酬もなくてやってられない」ような言動を吐いていたということを聞きました。
 
 弁護士や司法書士などは確かに財産管理は得意分野かもしれませんが、身上監護についてはほとんど関心が薄いのも正直なところでしょう。どちらが優先というわけではなく、どちらも後見活動においては必要な支援ですが・・。
 
 自治体によっては市民後見人を養成し、身近な市民が共助の精神で、後見人になってもらうことを推奨するところもあるというのに、わが自治体では「市民後見人なんて認めない」という先入観が最初からあり、県や3団体(弁護士会・司法書士会・社会福祉士会)がこぞって自分たちの活動領域に他の集団が入ってこないようにという縄張り意識が強いのが実態です。
 市民後見人の研修会を数年前に受講し、その中で意識の高い人達はNPOを作って、後見活動にむけて動き出したにもかかわらず、県はそれを後押しするどころか、3団体の意向をくみ取り裁判所も「市民後見人は専任しない」と公言しているというのです。
 ボランティアで後見活動をせよとまではいいませんが、「これっぽっちの報酬しかないのか」と愚痴りながら後見活動をする弁護士。行政の責任で後見人の申し立てをした以上、その後見人に支払う報酬も、被後見人の財産がない場合は、税金から弁護士の後見報酬を予算化しなければならない。後見人の実態はそんなところです。

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市民感覚との乖離

「役所の人って取調官みたいで嫌です、何でも。」

 以前、子育てに関するブログを書いた内容にコメントしていただいた一文です。
 
 今、福祉や子育てに関する窓口は官民問わずいたるところに存在します。
 しかし、現実には「この相談はどこに行ったらいいのかわからない」というのも現実です。
 そして、相談先によっては、その結果が時に「不愉快」「来るんじゃなかった」という印象を持つ場合も少なくありません。

 基本的に行政というところは、何でも「上から目線」的な人は多いと感じています。
 同じ発達相談をするにしても、保健師たちは正直発達についての知識がそれほどあるわけでもないのに、職業的なプライドからか、「指導性」を発揮したがる人が多いように感じます。

 少なくともコメントをくださった母親のように感じる人って他にもいると思います。

 

 一緒に仕事をしていても、市民に見せる言動と、デスクで話される言動に乖離のある職員は多いですね。
 
 さも一生懸命に考えて助言しているつもりでも、いざ本音の部分で「不登校」や「引きこもり」等の子どもたちに否定的な評価を下す職員。そういう人が支援すると言うのですから・・・。

 
 最近の乳幼児健診や赤ちゃん訪問なんて、表面上は母子の健康観察が主でも、裏では「虐待の徴候はないか?母親の心理状態はどうか?」という部分も含めて確認(聴きとり)するので、どうしても「取調官」みたいな言動になってしまうのでしょう。
  

福祉の窓口からみえるあれこれ

親も高齢になると、それまでできていたことができなくなり、介護が必要になる時期は必ずやってきます。そんなとき、キーパーソンになれる家族がいれば別ですが、中には子どもであっても、「「定職」についていない(つけない・つかない)世帯があれば、支援者の中には、最初からその子ども(息子や娘)を色眼鏡で評価してしまう人もいます。
 
 先日介護保険の申請をした世帯は息子夫婦や孫たちと暮らしていますが、訪問の予約をとった保健師は相手が「自分(息子)は日中はいないが子どもたち(対象者からみたら孫に当たる娘・息子)は仕事がないので日中は家にいるから、いつ来てもらってもいい」との相手の応対を聴いた後、周囲の職員に「若いのに仕事がないなんてねえ・・・まったく・・」とぼやきながら日程を調整しようとしています。
 そして訪問した後の会話では、「一家全員ボーダーな家だった。めんこちゃんな子どもたち」と訪問した世帯の印象を伝えています。
 めんこちゃん(=本来はかわいいという意味だが、知的な遅れなどがみられるような人たちを揶揄していう場合がある)という言葉をそのような意味をこめて専門職の立場で使っていることにも疑問を感じますが、こういうふうに見ている人たちが、支援者としてはびこっているのも現実です。

 相談が入ると、まずその世帯状況を住民基本台帳から検索し、世帯状況を把握しますが、「気になる」人たちは相手の素姓をどこまでも知りたがる・・。けっこう役所にいると、個人情報なんてほとんど見られています。
 
 最近は地域のつながりも希薄になり、また厄介なことに巻き込まれたくないという心情も働くがゆえに、「隣の家からどなり声がする」と、すぐ行政に「通報」があったりします。中にはその世帯に何らかの関わりを持とうとする前に、警察に「通報」する住民もいたり、民生委員に直接苦情として訴える住民もいます。「民生委員なのに何もしない」と。
 警察も最近は事件性がなくても以前よりは関わりを持つようになってきているせいか、行政にも「この世帯に対して何か情報はないか」と聞いてきます。情報が勝手に一人歩きしているような事もあります。「どなり声」=虐待?「障害者者が(挙動不審に見えるような態度で)歩いている」=不審者?という見方になってしまい、「監視」の対象者(世帯)としてリストアップされるようになってしまいます。

 ある民生委員は改選で初めて担当地区を回って、無職の50代の息子さんと介護が必要な高齢の母親との二人暮らしの世帯から経済的な相談や介護の相談を受け、「あそこの家は息子が親の年金をあてにして働かないのは怠けている。まず親を施設に入れて、息子の就労支援をすべきではないか」と助言してきたと、こちらに報告に来ました。
 以前、私もこの世帯には関わっていたこともあり事情は知っていますが、介護が必要になった時期と、息子さんの自営していた仕事が不況で仕事がなくなった時期と重なっていたことや、介護期間中もハローワークにも何度も足を運んでいたことも知っていました。しかし、現在まで仕事もなく、国民年金しかない母親の年金をあてにするわけにもいがず、行政にも生活保護の相談にも来ていました。
 このように民生委員もそれまでの経過を知らないままに訪問し、見た目の状況だけで「余計な助言」をしてしまい、かえって物事をややこしくしてしまうようなこともざらにあります。
 
 当市は県内でも一番生活保護の受給者が少ない自治体とのことですが、県の監査でも「どうしてそんなに少ないのか」と言われるほどなのだそうです。しかし、担当係は決して対象範囲を緩めようとしません。水際作戦を使ってなんとかして抑制しようと躍起になっているようにも見えます。
 仕事を探していても、適当な仕事が見つからないと言えば、「仕事を選ぶんじゃない」と言われ、親の介護のために仕事ができないと言えば、「親の年金をあてにして働こうとしない」と言われ、親の年金で生活費をまかない、自分の小遣いの一部にでも使おうものなら「経済的搾取の虐待だ」と虐待者扱いされ・・・。
 そういう判断をいとも安易にしてしまう職員集団・・。

 今の若者、普通の若者たちですら就職難だったり正規職員になれなかったりする時代。うまく就職できたとしても人間関係や過重労働などで長く職場にいられず精神疾患に陥ってしまう人も年々増えつつあります。ましてや発達障害の子どもたちだって、今の社会情勢の中でいっぱしの職業について経済的に安定して人生を送れる人たちもそう沢山いないのが現実かもしれません。そんな若者たちがやがて長じるにつれ、親も高齢化していきます。
 
 先日50代の男性と80代の両親が住んでいるお宅を訪問しました、ケアマネジャーが「困難ケース」と感じている世帯でした。ケアマネジャーが考える介護サービスの利用を助言しても息子さんなりの「こだわり」があり、サービスを拒否し何も先に進まないということでした。そのため、本来必要と思われるサービス(デイサービスや福祉用具の導入など)が利用できず、夫も身障者、息子さんも腰痛持ちの無職でありその対象者の母親は寝たきり一歩手前にあるような状況でした。
 実際、訪問してみると息子さんの言動や態度から、たぶん診断がついていたら広汎性発達障害と思われるような方でした。新しい環境(デイサービスの利用などこれまでの生活パターンから変わること)への適応が息子さん自身できず、助言したことに対してすぐ不安観や否定的な見方になり「でも、○○だから利用は難しい」となります。発達障害に見られがちな「予測ができない事への不安」や「新しい環境への適応困難さ」や「自分の考えへのこだわり」が介護の場面や言動にもうかがわれます。ケアマネジャーにそのような理解がないと「息子は変わっている」と評価され、この世帯が「困難ケース」として取り上げられてしまいます。
 地域の住民もそこの家の息子さんを「変わっている」と見ていると言うことだそうです。

 親が元気で地域生活を営めていた時はそういう子どもの状況は見えてきませんが、介護が必要になる年代になったとき改めで問題がクローズアップされるのでしょう。

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勘違い

 間違った組織に安住すれば、破壊の道へつながる。
 間違った環境や場所でいくら素晴らしい実践をしたとしても、間違った思考回路で動いている限り、その人がどんなに素晴らしいことをしようが、間違ったままになる。
 今、やっている仕事がどうだとか、主義が素晴らしいとか、全然関係ない。システム自体、自分の思考それ自体おかしければ、多くの人は全く気づいていないか、気づいてはいても目をふさいで見ないようにしているかどちらか。
 
 組織と言うのは、学校や地域でもそうですが、他人の評価を最も大切にしなければ生きていけません。
 自分で自分を評価できるかどうかが一番大事。
 たとえ、組織に属していても、自らの評価だけで生きている人は強い。
 安定を求める周囲の評価を気にするそういう人たちがやっていることは、ただひとつ。他人を操作する。
 組織の中で嫌われないように生きている限り何もできません。

教育の場

 今、長男は養護学校の高等部に在籍していますが、中学時代から学校と並行して通っていたフリースクールに、高校に入ってからも通っています。
 しかし、養護学校の高等部といえども、教科の単位不足では進級や卒業ができないことは当たり前なので、単位不足にならないように計算しながら、フリースクールに行く日を選んでいます。中学時代は校長の裁量で、フリースクールに通った日も登校と認められていましたが、高校生となるとそうもいきません。
 
なぜ、フリースクールに通わせるのか?
 高校に入ったからといって、すっぱり関係を止めるにはもったいないくらいの人間性あるスタッフと、フリースクールを取り巻く地域環境がいいからです。もちろん長男自身が「やめたくない」という確固たる思いもあります。また「フリースクールでの教え方の方が自分には分かる」と言います。
 養護学校の担任の先生はじめ、他の先生達もそのフリースクールの存在は知りませんでした(校区外にあるので、ほとんど情報がなかったようです)が、長男が通っていることがきっかけで、学校の先生も一度見学に来てくれることになり、その後はフリースクールでの活動を認めてくれるようになりました。そこのフリースクールでは地域の活動にも参加したりするなかで、地元の人たちからも理解されるようになってきており、フリースクール終了後の就労支援や相談機関も併設してあるので、見学した先生たちは(管内の若者サポートの支援機関しか知らない人は)「こういうところもあるんですね」と良い方に評価してくれています。
 養護学校につきものの、職場体験実習なども長男の興味や特性を知るフリースクールのスタッフが実習先を見つけて下さり、長男も充実した時間を過ごしてこれました。

 後日担任の先生から聞いた話ですが、わが子のこういう行動に対して、職員間で話し合いされたことがあったようです。学校の先生の中には、単位を取らなけれな進級・卒業が危ぶまれる高校生活では、学校に登校することを優先すべきという意見の人もいたようですが、担任はじめ他の先生たちが、「教育は何も今の学校だけの環境で完結するわけではないし、いろんな人や環境との関わりのなかで人間関係を結んだり、関わる力を育てるのも教育ではないか」」と考えてくださっているということでした。
 
 学校に通うことで得るものもあるかもしれませんが、今の長男にとっては、フリースクールで彼を丸ごと受容してくれるスタッフとのかかわりの方が、よほど教育的支援を受けているように感じています。
 以前、学校の先生がフリースクールに視察に来た時に、フリースクールの代表が先生に言ったそうです。
 「先生達が評価しているよりも、彼はいろんなことができる能力がある」と。どうしても学校の先生達は、「所詮発達障害だから、この程度までしかできないのではないか・・・」という先入観もあるような気がします。仕事を通じていろんな似たような生徒と接してきて、「こんなところだろう」という見方ができているんじゃないか・・。それに比べて、フリースクールでは、長男のことは「発達障害」があろうがなかろうが、そんなことは大きな問題ではないというふうに捉えており、一番は、スタッフと長男の心の交流を大事にしてくれていること。そこには彼を「評価」する態度や姿勢ではなく、一緒に「付き合っていこう」というスタンスです。
 親も子もそういう姿勢が感じられるからこそ、ここのフリースクールとの関係は続けていきたいなあと思うのです。
 障害児教育、障害者支援という前に、人間同士としてお互いを知り合いたい、そこからしか、真の支援なんてうまれないはずなのです。


 発達障害というと、どうしても「個別支援計画」だの、何らかの「専門的支援」を求めたがる親御さんもいるかもしれません。発達障害をテーマにして支援している機関ではなおさら、障害の特性だの知識的なところだけが重視されがちになり関わろうとしています。専門家の研修や講演を聴けば、それらに合わせようとし、「自分は支援者としてこれだけ学んでいるんだ」と言わんばかりの態度で支援者面して関わりを持ちたがる人もいないわけではありません。支援者本人は口では言わなくても、支援されている方の親や当事者からすれば、そんな心の中身は会話や態度を見ていればすぐわかります。ですから、私も長男も管内の支援機関に一度は相談したこともありましたが、長男は「あそこは絶対いやだ」と。
そして、「ここ(フリースクールのある地域)は、地域全体があったかいんだ」と言います。フリースクールの建物だけに限らず、地域の人たちともフリースクール自体が交流があり、地元の人たちからも、不登校や引きこもりなどの支援に対して理解を持ってもらっているから、長男の感覚にもフィットするのだと思います。
 そんなわけで、自宅からは遠いけど、一緒に寄り添ってくれる今のフリースクールにたどり着き、関係を持たせてもらっているのでした。
 彼らのような特性を持った人たちを「支援されるべき対象者」という見かたをしてしまうよりも、一緒に同じ空間を共有し、付き合うというスタンスをとってくれるのが本当の支援ではないのか?そしてそういう環境に身を置き、そこから学ぶことが教育ではないのか?と思います。
 
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特別支援学校の児童生徒の急増が意味するもの

排除する学校―特別支援学校の児童生徒の急増が意味するもの―排除する学校―特別支援学校の児童生徒の急増が意味するもの―
(2010/04/14)
鈴木 文治

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(本文より)

 特別支援学校生が急増し、どこの特別支援学校もその受け入れに苦慮しています。
 特別支援学校では児童生徒数が増えても、学校に教室がないために、児童生徒数が法律によって定まっているにもかかわらず、無理矢理詰め込んでいるのが現状です。
 特別支援学校生急増の背景には、いわゆる軽度発達障害の子どもたちの増加と、保護者の特別支援学校への期待があると言われています。
 しかし、現場から見えてくるものは決してそのような楽観的なものではないということです。私には、通常の教育から落ちこぼれた子どもたちが、大挙して特別支援学級や特別支援学校に押し出されていると考えられます。
 LDやAD/HD、高機能自閉症のような軽度発達障害の子どもたちに焦点が当てられことは、特別支援教育の大きな成果でありますが、個別のニーズをとらえ、個別に対応することが、結果的に通常の学級から排除され、特別支援学級へ、さらに特別支援学校へと流れを作っていると思うのです。

 
ホームレス障害者: 彼らを路上に追いやるものホームレス障害者: 彼らを路上に追いやるもの
(2012/09/20)
鈴木文治

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(本文より)

 教育現場からの排除

 学校現場での排除が起こっていることは、私が就学指導委員会や校長会、保護者との面談といった現場での活動の中でもった実感である。
 障害のある子どもたちが特別支援学校・学級に在籍していること自体は排除ではない。そうではなく、障害のない子どもたちが投げ出されていることが排除なのだ。
 このような状況を作り出している大きな背景として、発達障害の専門家の存在がある。彼等は言う。「発達障害の診断を受け、個別の教育をしてくれるところで学ぶことが大切だ」。これを聞いた親たちは診断書を取り、それを見た普通学級の教師は「障害者は自分の指導領域ではない」として、特別支援学級へと子どもを送り込む。
 知的に問題のない子どもたちが、数の概念も言葉の理解もできない障害児と同じ学級で学ぶことの不適切さ。視覚的でわかりやすい手がかりを用いた指示が必要な子どもがいる一方で、普通の高校生のような問題行動を起こす生徒も同時に指導することの困難さ。
 発達障害は、認知や行動の偏りを特徴とするもので、診断基準をみてみれば、私自身も多くの点が当てはまる。大学の授業でこれを取り上げても、診断基準を当てはめて、自身を発達障害と思う学生が多くいる。このように、言ってみればある傾向でしかないものを、「障害」と呼ぶことに問題はないのか。「発達凹凸」「発達のアンバランス症候群」などと呼ぶべきだと言う専門家もいるが、すでに「障害」という言葉が一般化してしまっている。
 発達障害が障害ではなく、人のもつある傾向を示すものであるなら、普通学級で配慮しながら指導すればよい。手のかかる子どもたちに「発達障害」のラベルを貼って追い出す教育は、さまざまなニーズのある子どもたちの共生を不可能にする。そのような教育を受けて育った子どもたちは、障害者を差別・排除する大人に育っていく。アメリカの医学界での基準をそのまま持ち込んだ、日本の専門家の良識のなさを思う。
 発達障害の専門家が、教育に関しても専門家であるとは限らない。ましてや自分達の診断が、世界的なインクルージョンの潮流に逆行しているとは夢にも思わない。専門家たちは自分たちの言動が社会の中でどんな意味をもち、人々をどんな方向に導いていくかを知ることが必要である。
 発達障害の専門家は、みずから発達障害者であると自認する人が多い。だが、医師であったり研究者である人は、自身が発達障害の診断を受けても、それで解雇されるわけではない。専門家という枠で守られているからだ。だが、子どもたちはそうではない。また大人でも発達障害の診断を受けたために職場を解雇されたり、婚約が破棄される例はいくらでもある。「障害」のラベリングが引き起こした結果である。
 このような状況をしっかり認識し、また社会全体の動向にアンテナを張ったうえでの言動が望まれる。肝心なのは、一定の枠や基準を設けてそこから追い出すことをやめ、一緒に生きる学校や社会を作ることではないだろうか。

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障害を持つ人たちがなぜ、ホームレスになってしまうのか?

ホームレス障害者: 彼らを路上に追いやるものホームレス障害者: 彼らを路上に追いやるもの
(2012/09/20)
鈴木文治

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 (本文より)
 ホームレスの人たちの中に障害者が多く含まれている、というニュースが最近よく聞かれます。
 ホームレスの中に障害のある人たちが多くいるということが事実なら、どうすれば適切な支援を行うことができるか、またどのようにして彼らがホームレスになっていったのか、その過程を知り、福祉や教育、労働、保健や医療などの分野にまたがって、具体的な対策を講じることが求められています。
 私は神奈川県川崎市南部にある教会の牧師として、約20年にわたりホームレス支援活動を行ってきました。私たちの活動は、教会にやってくるホームレスを含む人々と仲間として生きることであり、食事を共にすることもその一環です。その意味では、いわゆる支援活動とは趣を異にしています。立場の高い者が低い者と触れ合うという意味での「交流」ではありませんし、「炊き出し」という言葉も使いません。神の家で弱い立場の者同士がお互いに助け合いながら、共に生きる営みなのです。
 私たちはこの「川崎の路上生活者と共に生きる取り組み」を始めたばかりの頃から、ホームレスの中に障害のある人が大勢いることに気づいていました。ただ、教会にはもともと障害のある人が多くいたため、彼らに対して特別な対応をすることもなく、自然に仲間として受け入れてきたのでした。

 私は牧師であると同時に、障害のある子どもたちを教える教師として人生の大半を生きてきました。彼等は「生きにくさ」「コミュニケーションを取ることの難しさ」を抱えており、学校生活に入る前から、重い課題をもった子どもたちでした。
 このような子どもたちとの出会いは、私の教育観、子ども観、社会観に決定的な影響を与えました。障害は子どもたち自身の問題ではなく、周囲の大人たち、さらには社会全体の問題なのだと考えるようになったのです。
 
 ホームレスは世の中から差別され、排除されやすい人々です。しかし、一人ひとりと深くかかわっていくと、彼らの心の奥底にはそれぞれ重い人生の棘のようなものがあることがわかります。それがなければ、彼らはホームレスにはなっていなかっただろうと思わせるものです。ホームレスは「怠け者」「飲んだくれ」「好きでやっている人」などといわれることがありますが、決してそうではありません。
 まして、障害者がホームレスになることはあってはならないことです。元教師の私からすれば、障害児教育のどこかに機能不全があることは明らかで、本人というより周りの支え方に問題があると言えます。
 

 厳罰化が進む社会
 「共生」や「他者への思いやり」「人権尊重」はかけ声だけで、障害者への偏見や差別はいっそう深刻になり、ホームレスや外国人に対する排除が依然として続いている。人と人との絆が断絶し、差別する側もされる側も、多くの人々があえいでいる日本社会は、貧しさの中にある。
 一般的に排他的な社会では、厳罰化政策がとられることが多い。近年、日本でも従来では考えられなかったような厳罰化の傾向が生じている。少年犯罪への対応は特に顕著だ。
 犯罪や非行に走る少年たちは、その背景にさまざまなものを背負っている。親の虐待であったり、貧困であったり、いじめであったり、発達障害であったりする。そうしたことが要因となって、周囲との関係に不適応を生じ、何かのきっかけで爆発してしまう。
 少年による犯罪が起こるたびに、マスコミは騒ぎ立つ。少年犯罪の凶悪化を伝え、教育における道徳性の重視や、厳罰化の必要性を煽り立てる。実際には少犯罪、凶悪事件の件数は大きく減少しているにもかかわらず、その事実は無視される。
 とくに問題なのは、凄惨な少年事件が起こるたび、加害者が発達障害の傾向をもっていたことがまことしやかに語られることである。他者を物のように感じていたとか、共感することができないとか、人とうまく付き合えない性格であるというように、犯罪は特別な少年によって起こされた特別な出来事であるという刷り込みが、世間に対して行われる。人々は「専門家」と称される者たちのそうした話を聞いて、「やはり普通ではない『障害者』の仕業なんだ」と考える。こうして「障害者は犯罪者予備軍」だという誤解が作り上げられてしまう。
 私は教師生活を通して、親に捨てられたこどもの苦しみに何度も直面してきた。母親が自殺をしてその第一発見者になり、父親に連絡したら、アパートに戻った父親が怒って母親の死体を蹴り続ける場面を見た子もいた。そうした子どもたちは、他人の幸せが許せないほどの苦しみを背負い、非行に走り、暴力を働いてしまうこともある。
 人はみな弱さを持って生きている。それを許さないなら、自分もまた許されないことになる。厳罰化は、みずからの弱さを知らない人たちのすることである。

発達障害の僕がホームレスになった理由(わけ)―訓練、就労、そして再出発発達障害の僕がホームレスになった理由(わけ)―訓練、就労、そして再出発
(2012/01)
荒木 龍三、豊中市社会福祉協議会 他

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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