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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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卒業にあたって

 次男の小学校の卒業式でした。県内でも児童数としてはマンモスに近い学校ですから、式にもたくさんの来賓の参加もありました。
 学校の卒業式というものは、それなりの式次第のとおり進められます。中学生の制服に身を包み、先生達も正装をするだけでも、おごそかな儀式となり、そこに保護者の感動を誘うような演出も加わると、まあ毎年恒例に行われる催しものなのですが、やはり感激するものでもあります。

 次男は特に4年生のときには、最初の4月を除いて、ほとんどクラスには混ざれませんでした。5年生の時クラス替えになって担任も変わったことで、クラスになじみ、6年生も持ちあがりで最後は友達がたくさんできて卒業することができました。
 そんなことを思うと、結果論ですが、クラスメイトと一緒に卒業証書をもらえたことは大変喜ばしい出来事でもあるでしょう。
 長男の中学校時代も2年生からは学習室登校で3年生はほとんどクラスに混ざっていなかったのでしたが、卒業練習の時期になって数回クラスメイトに混ざって、最後の最後にはきちんと卒業式に参加しました。
 校長は「卒業生○○○名、全員この場で卒業証書を手渡すことができました」と祝辞のさいに強調していました。
 きっと、わが子が出ないといえば、ひとり校長室での授与も親としては覚悟していたことでもありましたから・・・。
 最後にクラスに戻り、担任の先生から一人一人の頑張りを称えた「2番目の卒業証書」を手渡すときは、長男の番がくると、先生は感極まり数分何もしゃべれず涙を流し続けました。それだけ担任にとっては、最後の晴れ舞台、クラス全員が卒業証書をもらえたということは、大きな感動と「成果」の一つなのだと思います。

 しかし、こういう儀式的な卒業式に参列していて、思うことは、参加させたくても参加できない子どもだっているだろうということ。それが、我が家の子どもたちだってそういう環境や心理状態におかれていたら、そういうことにもなりかねなかったかもしれない。
 結局、子どもたちは自分で考えて、自分なりに成長してくれた。

 長男は中学3年時から通っているフリースクールの卒業式に高校生になっても行きたいと言って、学校を休んでまでフリースクールの卒業式に「在校生」として参列しました。(昨年は中学を卒業するということで一応の卒業生として記念品をいただきました)
 生徒自体も数名しかおらず、その中の卒業生は二人です。二人とも高校生でしたが、不登校になりフリースクールで大検を受け、今春関東地方の大学に入学するそうです。
 長男に言わせれば、学校で行われる儀式としての卒業式も感動はあるけれど、フリースクールでの少人数での心温まる卒業式の風景もまた別の感動があるようです。

 わが子は二人とも必ずしも順調な道のりを歩んできたわけではありませんが、それゆえ、いろんな学校のありかたやいろんな価値観の人との出会いをつくってくれたと思います。
 普通の小中学校の入学式や卒業式、養護学校の入学式や卒業式、そしてフリースクールでの卒業式などさまざまな「学校」とそこに関わる人との出会い。

 
 長男が、次男に言いました。
 「中学校だけは、少しくらい嫌なことがあってもクラスにまざっていた方が絶対いいよ。友達を大事にしろしろよ。僕はあのときクラスに入れなかったことを今は後悔している」「中学校は楽しいよ」

 あんなにクラスメイトの目線が気になり(特に女子)、「学校なんて燃やしてやる!!。先生なんて嫌いだ!!」と帰ってくるなり学生かばんをぶん投げて怒りをあらわにしていた長男でした。
 不登校も経験し、その後はクラスに混ざれず支援学級でも同級生と感覚的になじめず、学習室で過ごす時間が多かった長男でした。
 その長男が次男に「中学校だけは嫌なことがあっても毎日行けよ。あとで後悔するから・・・」なんてアドバイスできるくらいにまで心の成長をしていたことに感動する私でした。

 自分の中学生活を考えても、思春期の多感な時期、その渦中にいるときは正直しんどかったけど(ちなみに私は卒業時の寄せ書きには「中学生活面白くなかった、早く高校に行きたい」と書いています。)小中高大学を通して懐かしい思い出も(いいことも嫌なことも)一番多いのも中学生活なのかもしれません。
 
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虐待報告の裏にあるもの

新聞紙上で、「児童虐待・高齢者虐待の件数が過去最高」との報道がありました。

 この数字の根拠となるものは、市町村(児童虐待の場合は児童相談所)に毎月報告を求める件数の数字をもとに県内の数字を取りまとめるのでしょうが、現場にいると、「本当に虐待としてあげてもいいのか?」と思われる(疑い)のものまで、すべからく計上してしまうきらいは否めません。
 
 県の方としては、「啓発の結果、住民も関心が高まり行政にも通報しやすくなったのではないか」と分析しています。
 また、最近では、地域ネットワークの重要性も指摘されています。
 警察署なども、これまでは事件性が伴わない事にはあまり介入したがりませんでしたが、未然に防止するという観点からも行政とも連携を図ろうとする傾向に変わってきているようですが、そんなこともあり、虐待の疑いのレベルの人でもすぐ行政に「虐待通報をします」と行政に文書で報告が入ることがあります。


 ある老夫婦世帯、どちらもまだら認知の症状がありましたが、もともともの夫婦関係と性格から、夫の方は妻に対しては何でも命令して家事をさせるようなタイプでした。妻は妻で性格的に大人しく夫には口答えできず、息子さんと夫との確執などにも頭を痛め、うつ的症状や徐々に認知症状も加わっていきました。家事もこれまで通りにできにくくなっても、夫は妻の状態に理解を示し事ができずにいました。介護保険サービスでデイサービスなども行っていました。
 夫は妻が満足に家事ができないと、自分の思い通りにならないことで妻を時々叩くようになりました。妻はその度嫁に行った娘さん宅に一時的に退避するような生活で、娘さんも困っていました。

 あるとき、その妻がいなくなったということで探しまわり(結果的にはもう一人の娘さん宅にいたことがわかりましたが)、警察の方も介入することになりました。あとで、警察の人に妻が夫に叩かれることもあるとふと漏らしたとたん、警察は行政に「虐待の通報をします」といって文書で報告がありました。
 本来「虐待かどうか」を判断するのは行政ですが、警察が虐待と判断するのもどうなのか?

 また、このケースにはケアマネジャーもついており、本来それぞれの夫婦の性格や関係性、認知症への理解など、信頼関係を築く中で、それぞれの夫の思いや妻の思いなどを十分にくみ取った対応や支援をすべきところが十分にはできていなかったようにも感じます。デイサービスでは、妻はデイでの調理実習などでも「今晩夫に何を作ったらいいか」などと、スタッフと一緒に献立を考えたりして調理することにも楽しんでいたと言います。
 「ついカッとなってイライラして叩いてしまう」「ちょっと夫のそばから離れて一人になってみたい」なんていう感情は誰にだってないといったら嘘になるでしょう。
 それなのに、行政の職員達は「虐待」と認定し、夫婦を「分離」し「措置」としての入所を勧めました。
 当然、何も知らない夫はいきなり妻が目の前からいなくなったことに納得できず、夫へのサービスも拒否するような状況にもなりました。
 妻は妻で施設に入っている意味がわからず、夫への思慕も募り、帰宅願望を訴えます。娘さんも措置といえども、入所費用はあくまでも家族負担ですから、経済的理由もあり入所を解除することになり、結果的には娘さん宅に預かって今は夫婦別々に生活しています。
 しかし、このケースに関しては、担当するケアマネジャーやサービス事業所も皆、今回の処遇には納得していません。夫婦一緒の生活もこれからだって可能だと事業所は考えています。要は、認知症がかっている夫婦の生活を家族のみならず、地域の人やサービス事業所も一緒に支援していくことで、ご本人達の思いに寄り添って行けば解決されうるケースではないかと分析しています。しかし、当の「虐待だ!」と判断してはばからない行政スタッフには「あの夫婦をこれから先一緒にしたんではまた同じことが起きるから」と言って、夫は虐待者として県にも報告が上がってしまいます。
 
 虐待と認定された数字の裏には、このような当事者達の生活の実態があります。

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市民後見人養成のその後

 3年前、東京大学が主催した「市民後見人養成講座」を修了した卒業生のその後の報告会を兼ねての集まりがありました。
 その当時主任講師としてご指導いただいたお二人の先生が来県され、受講生も20人くらい集まりました。
 受講後、実際に市民後見人として活動しているかと言えば、いろんなしがらみや障壁や課題が多く、後見人としての活動はできていません。
 まず第一に、裁判所が認めない事。(当県の裁判所は全国的にも厳しいところだそうです)
 それから、県内は3団体(弁護士・社会福祉士・司法書士)の圧力が強いこと。新たな団体が参入してくることを極端に嫌う(傾向がある)。
 そのくせ、後見人になり手がいないと不足を訴えているにもかかわらず・・・です。

 東京大学もその後、弁護士会から圧力がかかったそうです。養成講座では後見人の不正などもその主任講師の先生は盛んに問題提起していたのですが、「そういうことを講義で言ってもらっては困る」と。
 外部の圧力に大学の上層部の教授たちは屈したそうで、その主任講師だった先生は、その後養成講座の担当を外され内圧を受けてしまったようです。結局、今年度いっぱいで大学を辞めざるをえなくなり、これからは独自で活動をしていくことを話されました。

 その先生のもとには、後見人の権利や尊厳を侵害するような報告や相談は数多く入るようで、今後はそういう相談窓口を立ち上げたいとおっしゃっていました。
 後見人の不正があとを断ちません。
 財産のある高齢者などは、所詮弁護士や司法書士がつくことが多く、中には身上監護よりも、財産管理に重きがおかれ、それも後見人の思うままに財産が処分されるケースもあるとか・・。
 「被後見人の権利を守る」ことを盾に、その家族の権利を逆に侵害してしまうような事態もあるとかで、なかなかいろんな問題を含んでいる成年後見制度の実態を知りました。

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自閉症の世界(3)

あるがままに自閉症です ~東田直樹の見つめる世界~あるがままに自閉症です ~東田直樹の見つめる世界~
(2013/12/21)
東田直樹

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(本文より)

困難 
 僕の困難は、言葉の意味をわからないことではありません。
 普通の人は、言葉がけをして、その意味が伝わらないと言葉の意味がわからないのだろうと考えます。会話ができなけてば、そう思われるのも無理はありません。
 たとえば、僕が文章を書いている時には、意味をわかって使っているつもりです。状況の設定はすべて自分が行い、人物像やあらすじなども僕が決めます。それは僕がつくる物語だからです。
 けれども、言葉を聞いて行動に移す時には言葉の意味を思いつかないのです。
 その言葉が、どういう意図で指示されているのか、何をどこまで表しているのかつかめなくなります。
 まるで、野球を見ている時にはすべてを把握している監督のようなのに、バッターボックスに立ったとたん、バットも握ったことのない幼稚園児になってしまうみたいな感覚です。

クレーン現象 
 小さい頃は人の手を掴んで、その人に物を取ってもらっていました。なぜそんなことをしたのかというと、どうやれば取れるのかわからなかったためです。
 僕にとっては、物を取るのと意識して物を手に入れるのは、全く別のことだったからです。
 例えば、テーブルの上のお菓子を自分で食べることができても、テーブルの上に取り慣れない者が置いてあったとしたら、それを自分で動かすことはしませんでした。「僕が取る」という発想がなかったせいです。
 物を取るというのは、「手が物をつかむ」ことです。そのシーンを再現するためには、人の手でなければならなかったのです。

服を噛む
 簿君は悔しかったり苦しかったりすると、すぐに着ている服の袖口を噛んでしまいます。噛みながら「ウーッ」とか「イヒー」などと意味不明なうめき声を出すのです。それは、気持ちを落ち着かせるためです。
 いらいらすると、どうしようもなくなります。すると、ぱんぱんに膨らんだ風船みたいに、ちょっとのことで破裂してしまうのです。
 袖口を力いっぱい噛むと空気が少しずつ抜けて、風船がしぼむみたいな感じで落ち着くことができます。
 服を噛むなんてみっともないですが、今の僕が気持ちをコントロールするためには必要なことなのです。

パニック
 混乱してパニックになった時も、自分の感情をコントロールできません。理性で感情を抑えられないのです。人が何を言っても聞くことができません。聞きたくないのではなく、聞こえていても何を言われているのかわからなくなるのです。自分の感情におしつぶされそうになり、とにかくこの苦しさから一刻も早く開放されたいのです。
 パニックの時、してはいけないことをするのは、わざとやっているわけではありません。苦しさから解放されたいためにしてしまう行為です。もちろん、それは悪いことだとわかっています。でも止められずに、自分でも苦しんでいるのです。
 パニックになったら、問題行動を起こさないように見守ってください。間違っても、それをしたらすっきりするだろうとは思わないでほしいのです。
 
空気を読む
 僕は空気を読むのがどういうことなのか、それ自体わかりません。口で言わないことも想像して、人の気持ちを考えることでしょうか。
 それなら、話せない自閉症者だってやっています。でも、考えるだけではだめで、どう行動するかが問題なのだと思いますが、なぜそのことを「空気を読む」というのか不思議です。
 その場の空気というのは、みんなでつくるものです。たとえ、中の一人が、ちょっと変なことを言ったり、おかしな行動をとったりしても、周りの人がカバーすれば、それでうまくいくのではないでしょうか。
 僕は、カバーできない人間です。だからかもしれませんが、カバーしてくれる人が好きです。
 空気を読めない人をバカにするのではなく、みんながカバーできる人に憧れたり、カバーできる人を尊敬したりすれば、いいのではないでしょうか。
 
通じる
 心が通じていると感じるのは、相手との関係において、とても重要ではないでしょうか。
 話せない人にとっては、話せないことが日常です。話せない自分が、ありのままの自分なのです。感覚的には、普通の人と違うところもあるかもしれませんが、普通の人と別の種類の人間ではないのです。
 心が通じるということは、自分の思いを相手に理解してもらうことではありません。
 自閉症の人に対して、伝えたいことが伝わらないのは、言葉が通じないという理由だけではないと思います。相手が心を開こうとしているのか、相手も自分と同じように心を通わせたいと考えているのか、そのことを忘れてはいないでしょうか。
 本当に話せる人が何でも分かっている人で、話せない人が何にもわからない人なのでしょうか。
 試されているのは、自分の方かもしれないということを忘れないでください。

小さい花
 僕はすぐに辛くなってしまいます。なぜかというと心の中が、辛いことでいっぱいだからです。すぐに辛くなるのも、心の中が辛いことでいっぱいなのも、同じだと思われるかもしれませんが、それは違います。
 すぐに辛くなるのは、辛いことが心の中でいっぱいになってしまった結果です。
 辛いことというのは、雪と似ています。
 少しずつ積っては溶ける人もいれば、吹雪のように目の前が一気に一面の雪で覆われてしまう人もいます。雪がすぐに溶けてしまう人には、毎日凍りつくような日々を送っている人の気持ちはわかりません。
 すぐに辛くなる人は、どうしたらいいのでしょう。
 僕は雪が溶けるのを待ちません。凍ってしまった心の雪は、簡単には溶けないことを知っているからです。
 だから、そこに花を咲かせるのです。
 吹雪の中でも咲くことのできる、小さいけれど可愛い花です。それが何なのかは、人によって違います。自分を認めてくれた言葉だったり、自分にやさしくしてくれた人だったり、今生きていることの支えのようなものです。

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自閉症の世界(2)

あるがままに自閉症です ~東田直樹の見つめる世界~あるがままに自閉症です ~東田直樹の見つめる世界~
(2013/12/21)
東田直樹

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(本文より)

迷い 
 僕は自閉症の援助において、専門職といわれている方々も迷いながら対応されていることを知りました。それはある意味、人間として正常な感覚だと思います。もし、こんな時はこうすると、全ての対応がマニュアル化されたら、僕は人生に絶望するでしょう。
 僕は、心も感情もある一人の人間です。接する時に迷ってくれるのは、僕を一人の人間として見てくれている証拠です。僕だって初めて合う人に対しては、どんな人なの、僕のことをどう思っているのだろう、仲良くなれるかなと考えます。一人の人間として接してもらいたいというのは、パニックを起こさせないようにすることではありません。

頭を叩く
 僕はこだわりを我慢しようとすると、それをやりたい気持ちと我慢したい気持ちがぶつかって、怒りの感情がふきだしてしまうことがあります。そうなると、自分の頭を叩きます。
 気持ちはきちんとしたいのに、脳がそれをじゃまするからです。僕は脳に腹を立てて、つい命令しても気持ち通りに行動できます。
 頭を叩いている時、他の人から「何をやっているんだ」と怒られながら止められると、とても悲しい気持ちになります。そうせずにはいられない気持ちをわかってもらえば、何とかやめなければと思えるのです。
 自暴自棄になればなるほど、脳との戦いで頭を叩くのではなく、自分をこらしめるために叩いてしまいます。
 どうかそういう人にも思いやりのある言葉かけをしてあげてください。

告知 
 告知は障害があることについて、親から告げられることに大きな意味があるのです。
 告知で最も大切なには、「たとえ障害があっても、そんなことはたいした問題ではない。なぜなら、私たちはあなたを心から愛している」ということを、その子にわかってもらわなければいけないことです。
 子どもは障害があること自体について、普通の人が想像している様に悩んでいるわけではありません。
 自閉症児の場合、障害がない自分なんて知らないわけなので、どんな自分でも自分であることに変わりはないからです。
 子どもが本当に心配なのは、障害があるためにこれから先、何が起こるのかではないでしょうか。中でも一番心配しているのが、そんな自分を親がどう思っているかです。子どもは自分が原因で、いつも親が困ったり、泣いたりしているのも知っています。その苦労は、障害のせいだとはっきりしたのです。親から見捨てられるのではないか、そう考えずにはいられない子どもの気持ちを、わかってもらえるでしょうか。
 親が同じような障害を持っていない限り、親と言っても障害者の本当の気持ちはわかりません。知っているふりをしないことです。
 「障害は誰のせいでもない」そして「私たちはあなたを決して見捨てないし、あなたが成長する野を応援し続ける」と約束してあげてください。真剣に心を込めて言ってください。子どもはきいていないような態度をとるかも知れません。でも、聞いていると信じて伝えてください。
 告知は子どものためにすると思っている人がいるかもしれませんが、子どもは自分の育ちの中で人と違うことくらい、とっくにわかっています。
 告知は親のためでもあるのです。親が告知するのは、子どもの人生に責任を持つ宣言だと思います。告知は、親が子どもの自立のために、これから一緒に頑張っていこうと言ってくれる近いであってほしいと願っています。
 告知されたあと、子どもがどんな気持ちでその後の人生を送らなければいけないのかを心配するより、親としてこれからどのような気持ちで子どもと接するのかを気にしてもらいたいのです。

反応 
 障害を理解してくださっている人さえも、自分の思いを相手にわかってほしい時には、普通の人と同じような反応を、話せない自閉症者にも求めてしまいます。怒っている時には反省している態度を強く求め、好きという気持ちには、やさしくしてくれる態度を期待します。
 しかし、それができないから、僕たちは困っているのです。 
 そんな時も忘れていけないのは、相手を思う気持ちと優しいまなざしです。

心が揺れる 
 僕は興味のあるものでも、安心して見ていられるものでなければ、じっと見続けることができません。美しい風景や素晴らしい芸術を前にすると、とても緊張し苦しくなってしまいます。
 たぶん感動し過ぎるのだと思います。そこからたくさんのメッセージを受け取るのです。とにかく心が揺り動かされるのです。
 そうなると、どうしようもありません。悲しい時と同じように、泣いたりわめいたりします。旅行やお出かけの時も、幸せ過ぎたり楽し過ぎたりすると心が揺れるのです。普通の子どものように、言葉や態度で嬉しい気持ちを伝えられず、まるで嫌がっているかのように見えてしまうこともあります。それがわかってもらえなくて、僕のせいで周りの人まで不愉快な気分にさせてしまうのです。そんな時、僕はとても悲しいです。
 
できない気持ち 
 誰でも自分が簡単にできることは、他の人もできてあたりまえだと思いがちです。
 障害者にとってつらいのは、普通の人ができることができないことではなく、できない気持ちをわかってもらえないことではないでしょうか。
 できないのを、さぼっているとか、ふざけているとか、わざとしないとか言われることほどつらいことはありません。それは、普通の人と障害者の間だけでなく、障害者同士の間でも起きる問題なのです。
 苦手な事を克服する努力はもちろん必要です。けれど、障害が原因で起きることについては、急に良くなることの方が少ないと思います。ひょとすると、もうどうしようもないのかもしれません。それでも治す努力を続けていかなければならないのです。
 なぜなら、そうしなければ少数派の僕たちの居場所は、この社会にはないからです。
 誰もが必死に生きています。それは大切なことですが、そこが寂しいと感じるのは僕だけでしょうか。

理由まで決めつけないで
 何かを嫌がっているように見える時、その人が理由を話せない限りは想像するしかありません。相手の気持ちを思いやることは大切ですが、自分がこうだから、相手もこうに違いないと思い込むのは危険だと感じます。
 例えば、我慢ができない事があった場合、辛いという気持ちに共感できても、なぜ我慢ができないのかは、その人によって理由があるのではないでしょうか。
 相手の気持ちになって共感してあげることは重要だと思いますが、理由まで決めつけないでほしいのです。もし、それが間違っていたとしたら、余計に相手を傷つけてしまうからです。
 「私は、こうではないかと思っているのよ」でいいのです。
 自分の気持ちを、すべてわかったように言われると腹が立ったり、悲しくなったりするものです。普通の人でも同じように、理由を決めつけられて嫌な思いをしたことがあるのではないでしょうか。

泣くことを受け止める 
 障害があって話せないと、なぜ泣いているのか原因を知ることばかりに気を取られます。けれども、いちばん重要なのは、その子の泣いている気持ちをどう癒せたかではないでしょうか。
 泣いている原因がわかるのと、泣いている気持ちを癒すのは別だと感じます。原因を探すのが上手な人が、うまく気持ちを癒せる人とは限りません。逆に言えば、原因がわからなくても気持ちを癒すのが応ずな人もいるということです。
 大人になって素直に泣けなくなる前に、自分のすべてを受け止めてもらえる体験をすることが大切だと思うのです。
 受け止めてくれる人が、一人いればいいのです。そうすれば、人は自分を見失わずに生きていくことができるのではないでしょうか。

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自閉症という世界

あるがままに自閉症です ~東田直樹の見つめる世界~あるがままに自閉症です ~東田直樹の見つめる世界~
(2013/12/21)
東田直樹

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東田直樹さんのオフィシャルブログからご本人が印象に残った文章に加筆・修正を加えて出来上がった最新版の本です。

自閉症という社会的にはコミュニケーション障害があると言うものの、その内面世界はとても豊かです。
しかし、いかんせん、今の世の中では、自閉症者の取る行動や言動の本来の意味をよくわからない、わからないものは理解不能として私たちの見る世界からでしか、彼らを評価できない。
本当は私たちこそ、健常者という枠組みから自由になることが必要なのではないでしょうか。


(本文より)

 どこかで自分は人と違うと感じていました。
 なぜなら、みんなが僕を変だと噂したり、訓練が必要だと言ったりしたからです。
 しかし、できるだけ子どもの自尊心を傷つけないようにしてもらいたいのです。
 不必要なテストや勘違いな特別扱いをしないでほしいのです。
 都合のいい時だけ、この子はわかっていると判断したり、何にもわかっていないと決めつけたりしないでください。
 僕たちは、そんな人たちの態度に傷ついています。

ごほうび
 僕は、何かをした時にごほうびをもらえるという療育を家ではしていません。
 僕がごほうびをもらいたくなかった理由は、指示された行動の結果、ごほうびがもらえるということに抵抗を感じたからです。
 ごほうびをもらうことで、将来働く意味を知ることができるという人もいます。そう学べる人にとっては、いいのでしょう。
 本人に合った療育かどうか、見極めることが重要です。そこが、支援者の力量だと思うのです。
 療育で傷つく子どももいます。そして子どもの傷ついた心は、すぐには元通りにはなりません。
 自分から療育の方法を選べる当事者は少ないでしょう。親や先生にとって、やってみた療育がその子に合わないと判断するのは勇気がいることですが、心を癒すために、さらに膨大なエネルギーをつぎ込まなければならないのは、とても悲しいことではないでしょうか。


学び
 成功体験というのは、課題ができることではありません。
 いちばん大事なのは、次もやってみようと思えることです。

味方
 幼稚園や学校で普通の子の中にいる障害児は、わからないことばかりで、できないことだらけです。頼れるのは担任の先生だけです。
 なぜ、みんなみたいにやれないのかということを考えるより、どうすればその子が毎日楽しく保育園や幼稚園に通えるのか、それを考えてほしいのです。
 小さい頃、誰も助けてくれなかった記憶は、一生その人を苦しめます。小さい頃の自分と言うのは、自分であって自分ではありません。しかし、なんとかして欲しかったという思いは、今の自分と重なるのです。
 小さい頃幸せなら今辛くても、きっとあの時のように誰かが自分を助けてくれると、人を信じられるようになります。
 一人が好きだと思われて、ひとりぼっちにされるのは本当に寂しいものです。どうかその子の味方になってあげてください。

本番
 普通の人にとって本番は晴れがましい発表の場かもしれませんが、僕には、いつもと違う場所というイメージにしか感じられないのです。
 練習でうまくやれたり、何度も経験したりしているのに、本番で失敗するとなぜだろうと思われるのかもしれませんが、どうしようもないのです。
 期待しながら見ている人は、残念でしかたないかもしれません。しかし、どうか本人に頑張ることを強制しないでください。言われなくても頑張りたいと思っています。応援してくれる人ががっかりすると、とても悲しい気持ちになります。
  
悩み
 どんなに重度の障害者でも、普通の人との違いや差別は感じているはずです。
 僕がはっきり自閉症だと知ったのは、小学校3年生の頃でした。
 悲しいとか辛いと言う感情も特になかったです。
 不安だったのは、この先どうなるだろうということでした。
 なぜなら障害名を知っていても知らなくても、僕の生き辛さが変わるわけではなかったからです。
 苦しいのは、自分の明日が見えないことです。
 将来なりたいものと言われても、何になれるのか、わかりませんでした。
 働くことは、尊いことです。遊んで暮らしたいと思っている子どもはいません。働けるのに働かないのと、働けないのは全く別です。人の役に立てるのがどんなに嬉しいことか、いつも人に助けられている人ほどわかっています。


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子育て支援

新年度の予算が決まろうとしています。

 目玉としてどの部門に予算を多くつけたかが、各自治体によって差がでてきますが、たいていの自治体は「子育て支援」にいろんな理由をつけて新規事業を立ち上げたり、予算を増額しているようです。

 わが市でも、乳児訪問を専門とする嘱託職員を新たに採用することでの予算が認められました。
 でも、その実態はといえば、正職員での保健師等の採用が難しいため、年間170万円で、訪問専門の人員を採用するというものです。
 これまで保健師たちが赤ちゃん訪問をになっていた部分です。
 
 これまで職員としてになってきた部分が、国や県の事務移譲のためにますます、地域に密着した業務ができなくなり、安い人件費で賄おうとする。
 そんな管制ワーキングプアの人たちがどんどん増えていきます。
 
 「子育てするなら○○市」とうたっているある自治体。
 そこの自治体に住む、3歳の男の子のお子さんを抱えるお母さんと話すきっかけがありました。

 子育てに一生懸命と行政は言うけど、実際はどうなのかと聞けば、「確かに他の自治体よりは子どもの遊び場のようなハコモノは立派だけど、それだけ?っていう感じ」だとか。
 そのお母さんも旦那さんの転勤に伴い、県内を転々とし、今の市に住んで半年。お子さんも心臓疾患があり、投薬で様子をみている。予防接種などに不安があり、子育ての悩みなど気軽に相談できる人も場所もない、と言います。

 子育て支援に力を入れていると言っても、その内実は子どもの医療費の無料化の年齢の引き上げや児童手当等の経済的援助だったり、○○センターのようなハコモノの建設だったり、安い人件費をつかっての職員の増員だったりです。
 ○○センターのような遊び場を作っても、そこで子どもを遊ばせている親たちは、子どもと一緒に遊ぶどころか、皆ホールの隅に列を組んで座って、それぞれが自分の携帯やスマホとにらめっこ。ましてやほかのお母さん達とおしゃべりするようなこともしていない。そういう場所にきていてさえも、母親たちは孤独なのだなあと感じます。
 以前、わが子がまだ小さいときにその遊び場につれていったときの光景です。

 本当の子育て支援って何なのでしょうか?
 子どものことを支援する前に親支援(それも単に物理的な支援ではなく、親自身を肯定してもらえ、子育てに自信をもってもらえるような支援・・)。
 今は、どうしても、子どもの状態によって親を評価するような眼差しがあまりにも多すぎます。

地球の名言

プロフィール

TTmama

Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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