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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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不登校の子どもを持つ親として

 子どもが発達障害だったり不登校だったりする親として、また多少は福祉や医療畑にいた立場として、私自身の性格的なものや、仕事・個人的な子育てへの興味関心から学び取ってきた知識的なものも含めて、あくまで個人の見解として思うところをこのブログ通して考えてきました。
 また同じ悩みをもった人のブログを読ませていただいたり、同じカテゴリーのブログの内容をいろいろ渡り歩いてみたり・・。
 
 不登校について書かれてあるブログで多いのは、わが子の不登校をきっかけに親も学びなおしの機会を与えられ、親が変わったら子どもの変わった。だから、この成功体験をなんとかほかの悩んでいる人に教えたいというもの。
 もうひとつは、子どもの毎日の動向をつぶさに観察し(今日のわが子の様子など)、一喜一憂し、ブログに書くことで自分の気持ちの内面を吐き出し心の整理と共感して欲しいという切なる心の内面を吐き出すもの。まるで子どもの観察日記のようなもの。
 そのほかには、いわゆるその道の自称「専門家」という人たちの「相談受け付けます」と講座的内容のブログ。
その「専門家」は必ずしも国家資格のような肩書きでなくても、「○○カウンセリング認定コース」とか、「○○コーチング養成講座」の受講後に認定資格のライセンスをいただいた方も多く、不登校マーケティングに進出し、カウンセリング(電話・メール・対面)料金をいただき支援したがる人が多いようです。
 
 その中でも 不登校のわが子を持つ方が、子どものことを知りたいという動機からお金をかけて自分もそういう講座に参加するのは自由ですが、自分の子どもが不登校から立ち直り学校復帰したとたん、今度は自分が認定セラピストなどの資格を活かし、(お金をかけて認定証はもらったので)、1時間○千円、○万円、××コースの研修受講費○十万円とか、たった1~2年足らずの体験でさえもその成功体験を有料で支援しようとしている人の多いことに気づきます。

  そういう親(特に母親が多いですが)のブログで共通しているのは、「最初は子どもが学校に行けなくなったことにショックで、落ち込み苛立ち、一時期は親も子も修羅場をくぐった。しかし、親自身も子どもの気持ちを理解しなければと思い、某カウンセリング講座等に参加し学ぶことで子どもへの接し方が変わったら、子どもも変化しだした。」というもの。そしてこの「変化」もたいていは「学校復帰した」というもの。
 だから、こういう人たちのブログは「不登校のわが子をいかにして学校復帰させるか」のノウハウ的なものになるきらいが大きい。もちろん「親の価値観や考え方がかわったから」と、言葉の上では表現していても本音の部分は変わらないのだから、再び不登校になりはしないかと、どこかはらはらしながら子どもを見ている。
 そういう人が書いているブログを一通り眺めてみると、あんなに「私は子どもの気持ちがわかり、理解した母親です」といっているのとはうらはらに、相変わらず、子どもの動向に一喜一憂していることには変わりない内容もいまだ持って多いことに気づくのです。
 頭の知識では理解しても窮極の目標は「学校に行けること」にあるので、自称カウンセラー母親たちは、そういう「商売」をしてしまった以上、わが子が再度失敗すること(不登校になること)にとても神経質になっているのが文面からも伝わってきます。

 不登校への支援は子どもよりも先に、親の精神状態の安定や、親自身もこれまでの生き方や価値観を問われるものになるわけですが、そういう場が最初は必要なのは理解できます。
 多くは既存の地域にある各種親の会に参加したり、数多くの体験書籍を読み漁ったり、講演会や研修会などに参加して知識を吸収し、それを自分の問題としても捉えなおすことができれば、何もお金をかけてまでカウンセリングを受ける必要もないような気もするのです。
 私の場合は身近にいる職場の人や価値観が煮えいる不登校を持ったことのある知人のお母さん(仕事を通しての仲間)の体験談や昔当事者たっだ人の思い(あのとき親にどうしてほしかったのかなど)を聞くことで、いまの自分の立ち位置を振り返ることができたような気がします。それは必ずしも学校復帰がゴールではありません。退学したり、学校に行かないことを選択した当事者の思いをしっかりと尊重しながら親としてできること(愛情)をどうかけていくか、どんな境遇に陥ったとしてもけっして見捨てずにあきらめない、そんな親のあり方というものを学びました。
 でもそういう機会に恵まれない人やネットで情報を得たい人にとっては、かっこうのターゲットになるのだろうなあと思いながら読んでいました。
 あげくのはてにあるブログでは「不登校の子どもが学校に行けるようになるまでのノウハウを伝授します」といいながら、「半年間は講座を受講してもらいますが(それでも何十万円の受講費がかかります)、学校復帰できなくても当方は責任を負いません」なんていう内容のものもあり、子どものための支援というより、自分の承認欲求を満たすための目的じゃないのかとすら思えるものが多いです。
 
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虐待の疑いをもたれた母親

  不登校支援や若者支援をしているあるNPOのスタッフの方で、子どもさんが小学生で不登校のお母さんがいます。
 自身も不登校の経験をお持ちで、自らもフリースペースのお手伝いをしているので、不登校になるわが子の気持ちは普通のお母さんたちよりは理解しているため、一緒に親の会に参加している姿も子どもの思いを大事にしている様子が伺えます。
  しかし、だんなさんと夫側の家族は学校に行かないことを是とする妻や嫁に対しては意見が合わず、結局子どもを連れて別居を決意。母子家庭になるため、役所とも公営住宅や学校とのやりとりなど事務的なことを相談している矢先に、夫側から役所に「子どもを学校に行かせないで虐待している」と”通報”。
  虐待の通報があれば、行政は事実確認をし、虐待の有無を判断しなければならない責務があるのですが、そのとき母親のとった行動は、NPOの活動の場に(お子さんは参加者やスタッフとは顔見知りで事情もみんなわかっている人ばかりなので)、役所の人に見学にきてもらうことを要望し、先日担当の方がお見えになりました。
  まず、誰がどう見ても活動風景の場をみれば、「虐待」(この場合は学校に行かせないという養育の放棄にでも該当するのでしょうか)なんてありないことは明らかです。
 お子さんは多くの利用者やスタッフからも可愛がられ、母親の態度もなんら問題ないわけですから。
 結局、その担当者は、活動風景を見学するだけでは手持ち無沙汰だったようで、スタッフと一緒に活動のお手伝いをするはめになり、そそくさと帰ってしまいました。
 役所に戻ってなんて報告するのでしょうか?

 つい最近大阪の中学校でネットアイドル活動をしている中3の娘に対し、母親が娘の活動を応援したいということで学校に行かせなかったことを、「学校教育法(就学の義務)違反」で訴え、逮捕されるというニュースが流れたばかりでした。
 でも、その後の記事や当事者の訴えによると、小学校からいじめにあい、不登校だったが、姉と一緒にアイドル活動に居場所を見つけ、母親も、最初から学校を否定していたわけではないが、本人たちの思いも尊重したいということもあったよう。  
 学校としては再三、6回も登校指導をしたのになしのつぶてで、去年の夏には東京に転居届けを出したことが「就学の義務違反」として逮捕の要因になったようですが。
 しかし、そもそもいじめがあったことや子ども自身の悩みなど学校(担任)は把握していなかったのか、母親もその辺については学校とも相談をしていなかったのか、まず警察に相談する以前の問題だろうと思います。

 そして、なによりも教育現場が誤解しているのが、学校教育法の解釈の仕方にあり、就学の義務は必ずしも学校に行かせる義務ではないこと。教育を受けさせる義務の解釈が問題。
 でも、こういう話題が一度マスメディアを通して世間に広がると、不登校を抱える親御さんの心境はこれまでよりももっと複雑になってしまうだろうとこのニュースを聞いたとき、不安になってしまいました。
 「教育を受けさせる義務=学校に行かせる義務」という解釈がまかり通ると、不登校支援をしていた個人や団体もまたその解釈の訂正に翻弄されてしまうかなあと思ったり、今回の例のように、家族で意見が合わず母親が悪いとばかりに責任転嫁してしまう。
 子ども自身が学校に行かないという選択をしたとしても、周りからは「学校に行かせない親」という認識になり、その認識がひいては「養育の放棄=虐待」というカテゴリーに組み込まれてしまうことに、恐ろしささえ感ぜずにはいられません。
 当事者(母子)の知らないところで、そういう情報は公の機関に伝わっているという現実。
 日本の教育現場や行政は、みな『学校信仰機関』(教育行政をつかさどるところは不登校児が増えたら困るのですから)ですから、増え続ける不登校対策にはなんら手を打たず(打てず)、その分民間の不登校の支援団体が多く立ち上がり、教育の多様性を訴えても変わることは難しいでしょう。
 たとえ国の政策が変わっても、地方に浸透するまでも10年はかかるといわれていますし、昨今のいじめの問題も昔となんら現場の先生たちの態度も変わっていない。
 いじめ、不登校、逮捕、虐待・・・・結びつかないキーワードです。


自分と向き合う

 ある日の新聞に柳田邦男さんの人生観について書かれた記事がありました。
 私は柳田邦男さんがノンフィクション作家という程度しか関心がなかったのですが、次男の自死と妻の精神の病に苦しみもがいた体験をお持ちの方だったということを正直新聞記事で初めて知りました。

 氏の死生観についていろいろ考えさせられるところが大きい内容です。
(引用)
 対人恐怖などに苦しみ自宅にこもっていた25歳の次男が、自室のベッドで自死を図ったのは1993年の夏。
  感情の起伏が激しく、抑うつを抱えて入退院を繰り返していた妻の人格が、愛息の死を受け止めきれず破綻の危機に追い込まれた。台所から刃物を持ち出し、首をつるなど問題行動が続発。柳田さんも心労で心身の平衡を失い「妻にも息子にも申し訳ない気持ちでいっぱい。無力感と事跡の念が胸をふさぎ、死んで誤りたいと思った」と打ち明ける。
 
氏は後の著書『悲しみは真の人生の始まり』の中で、「内の地獄を書け」という次男からの言葉に対して、
 「一番厳しい問いでしたね。一番書けない、あるいは書きにくいところです。・・・家族の遍歴というのは何かといえば、私自身の内面に関わる問題、あるいは自分がたどってきた生き方の問題だと思うのです。だから『うちの地獄を書く』ということは、深いところで、自分自身と向き合い、対決していかなければ書けないことです。そこを見つめずに家族を対象化して、観察の対象、科学研究の対象のように、家族の悲劇やつらさを書いても結局、本当のことは書いたことにならない。自分と家族を断ち切って眺めているだけになってしまう。自分に絶えず問いかけ、我が身の問題として、自分の心の問題として、自分と向き合いながら表現活動をして生きていく、それが『地獄を書く』ということなんだろうなあと思いました。」と言っています。

  不条理を生きていく道を探す

 (本文より)
 「人間にはもともといろんな苦しみがあり、それにつきまとわれない人生があったら、それは例外だと思います。つらいこと、苦しいこと、大変なこと、孤独を感じること、それらがなかったら、むしろそっちのほうが、アブノーマルじゃないかとさえ思います。
 世の中を見ると立派な家屋やマンションに、家族が幸せそうに暮らしているように見えますが、屋根の下の現実派、すべてがうまくいっている家族は、おそらくいないんじゃないかな。みんないろんな問題や悩みを抱えている。子どもが問題を抱えていたり、親が問題を抱えていたり。病気、障害、心の問題、経済的困窮、子どもの引きこもり、家族の不和、財産争い、実に多様です。
 人生のデコボコ、あるいはハリネズミに刺されるような状況は、人間が生きていく過程では避けられないことだと思います。
 生きるというのは、それらを受け入れながら自分を見つめ、自分自身がよりよく生きていく道を探すよりほかはないでしょう。その探すということは、おそらくつらいことでしょう。自分で自分の道を見つける。これくらい大変で、しかもつらいことはない。そのつらさを引き受ける。それこそが人生だと思うんですね。」

  癒しとは、胸をかきむしらんばかりの
  苦しみ、悲しみを抱え、
  そこから逃げずに必死に生きようとする
  その人生そのもののこと
  それが癒しの本質です
  (幼子を亡くした母親の言葉より)

支援者の心理

人を学歴で判断したり、自分に変に自信があり人を(たとえ上司であろうが)見下すような人は、だいたい共通の人格を持った人だなあと思えます。
このへんは、多くの心理学的な書籍や多くのネットブログでも書き込まれていますから、活字でも目にすることが多いですが。

 人を見下す人、批評ばかりしたがる人、悪口(陰口)を言う人は、
○プライドが高く、劣等感の強い人
○勝気な人、負けず嫌い
○いつも自分と他人を比べて優位に立ちたい
○自分に自信がなく、自分と周りをいつも比較している
○ストレスに弱い人
○他人のうわさ話が好き(特に悪いうわさ)

たいていこんなところが共通しているものです。

あるSNSにこんな文章がありました。
(引用)
「自分の身を守りたい」
人間がある程度一貫した行動をとり、周りから普通の人だと思われるためには、心の中の要素が矛盾だらけでは困る。心の中がある程度一環していないとだめだ。
 しかし、実際には、人間の心の中にはお互いに矛盾する観念や欲望がいっぱいつまっている。
 そこで、人間は自分の一貫性の邪魔になる観念や欲望に対して攻撃をしかける。
 自分が自分の内部の要素に攻撃をする。
 内部の葛藤は耐え難いので、攻撃をするようにうなる。
 これが、自分の外部に対する攻撃のメカニズム。
 内部に矛盾を抱えていない人はいないのだから、人間は誰でも外部を攻撃する。
 自分が勝手に思い込んでいる規範で他人を裁いている。


 人間である以上、みな心の中に何らかの矛盾や葛藤を抱えながら生きています。自分の心の安定のためには人を批判したり、見下したりすることで承認欲求を満たし優位性を保とうとしたりすることもあるでしょう。時には嫉妬や不の感情を抱くことだってあるでしょう。
 だってそういう感情や特徴なんかは、自分が育った環境、親の育て方、自分の素質や性格とも大いに絡んできているからです。

 でも、こういう人が弱者支援にまわったときは、本当に厄介な場合が多いことは容易に推測できます。
 私は、以前は福祉の現場(行政機関でしたが)で、今は医療の現場で仕事をしていますが、大体権威(役所というだけで権力や権威を与えられたようなものですが)のある場にいると、ずっと公務員しか仕事の経験がなく上記のような性質の職員ほど自分がさも「してあげてやっている」という意識が強いです。
 そういう人たちが専門職だったりする場合はなおさら厄介だなあと思っていました。

 常に優先順位を意識して生きている人(学歴、容姿、金持ち、貧乏、性格、恋愛、環境)では、すべてにおいて上下関係に敏感ですから、職場での彼・彼女らの話題といえば、時分の子どもそれらのレールを外れることにはすごく気になるようです。
 会話の端々に、障害者や貧困者、低学歴、不登校・ニートなどの人たちを揶揄したり見下すような発言が多く、またそういう会話に混ざる人、言いだしっぺの人ってたいてい決まっているのですが、観察しているとみな何らかのコンプレックスや自身のなさを強がることで覆い隠しているような人が多いです。
  
 人を支援する職業に就く人の動機が劣等感を覆い隠すための手段だったり、「してあげている」という自己満足だったり、自分の生き方への悩みの解消だったり・・・。

 ホームレス支援・貧困者支援・不登校支援・障がい者支援・引きこもり支援・・・・。
自己成長ステージで生きている人(本当に自信のある人は人の乳母らしい面を見つけて学ぼうと思ったり、相手の良くない点を批判するより、良い点をみつけてあげようとする)はそういう人たちからも何かを学び取ろうとするし、支援しているという意識は少ないはずだ。
 いくら表面上は「あなたのことを本当に心配していますよ。支援していますよ」という態度をとっていても、裏の態度や言動を見せ付けられると、「おいおい」となってしまう。

 生き辛さを抱える人たちの支援にあたる人こそ、自分の心のからくりや心理を見つめなおして欲しいと思いますが、なかなかそういう人に限って気づいていないんですね。

 


 
 

 



 
 

市会議員に期待したのに

 地域で子ども育成会で一緒に活動した町内のあるお父さんが市会議員に立候補しました。
 地域で交流しているときは相手の職業などは聞くこともなかったのですが、立候補の挨拶でその方が教員だとわかりました。
 その当時、次男が不登校であるフリースペースに通っていたとき、その居場所の代表にも挨拶にみえ、今の学校の問題をいろいろ訴え、「自分はそんな教育現場を変えたい。不登校や発達障害などさまざまな課題を抱える子どもたちも地域でどうどうと生きてける子どもたちに暖かい地域福祉を作りたい」と熱弁していきました。
 町内のかたでもあり、まんざら知らない人でもなく、また教育畑の人材が市会議員になれば現場からの意見としていろいろ革新にせまった意見を議会で発してもらえるのではないかと期待し、夫と彼の後援会に入ることにしました。
 初めて決起集会、個人演説会などに参加してみました。初めての選挙に勝てるという確信もない中での出馬とあって、不退転の決意で望んでいるその姿にかなり期待もしていました。
 結果はかろうじて当選圏内にはいり、市会議員1年目としてのスタートを切ったわけです。
 2年目を迎えた今、この1年を振り返ったとき、教育に関する議会でも質問は今のところぜんぜんありません。
 議員1年目は何かと圧力もあるのか、あまり言わせてもらえないのか、勉強不足かはわかりませんが、定期的に開催される「議会報告会」や、支援者に配る「報告書」などを読むと、およそ教育とはまったく関係のないところでの活動や質問をしているよう。
 「学校改革」「教員の忙しさを改善し、子どもたちとのかかわりをもっともてるような方策」などについて何かひとつでも支援者に約束したような質問でもしてくれればと期待していたのに・・・。ちょっと期待はずれです。
 よく、「現場にいても何も変えられないから、議員になって制度を変えたい」とのたまう候補者が多いのですが、口先だけでは困ります。有限実行してもらいたいです。有権者の一人としては、そこのところを厳しく見ています。 
 

貧困問題について(その2)

貧困状態で暮らす日本の子どもは約6人にひとりといわれている。
「一億総中流」といわれていた時代もかつてはあった。
たとえ中卒で社会に出ても、その後も道筋はいかようにもあった。
高度経済成長期には地方から『金の卵』として中学卒業と同時に集団就職をして仕事や家庭を築いていった人たちが大勢いた。
私の中学時代の同級生の何人かも、高校には入らず(入れず)住み込みで職人さんや美容師の卵として巣立っていった人もいる。
今は『中卒」では仕事もない、就職にも不利という風潮がはびこり、そこに経済的貧困が合わさると『挽回』がきかない社会構造になってきている。

朝日新聞の記事より(2016年7月10日付)共感できる内容が書いてあったので引用します。
(立教大学社会福祉学教授 湯澤直美さんの書評より)

 「貧しくてかわいそうな子どもたち」というネガティブなステレオタイプは、差別や排除小強めるおそれがあり、「独自の利害と声と主体性」を持つ存在として子ども自身の経験を明らかにする必要を指摘。
たとえば「学校内部での排除」。義務教育であっても制服や学校給食、遠足や修学旅行など私費負担は重い。学校の諸活動に参加できなければ、学校の内側で排除されていく。日本では、無料の学習支援をはじめ各地で居場所づくりが進められている。その意義はあるものの、そもそも学校こそがあらゆる子どもの居場所になる必要がある。
 「子どもの貧困」とくくることで、謝った認識を助長する懸念もある。よく、「子どもにはつみはない」という言葉を聞く。あながち間違いではないが、「子どもの貧困は自己責任ではない」が、「大人の貧困は自己責任」という見えない境界線うぃつくりかねない。貧困を細分化していくまなざしもまた、差別や排除につながりやすい。

 貧困は見えにくいといいうが、路上で暮らす人々の仲に、子ども期の貧困状態が見えるはずだ。家計が苦しく、10代から働き続けてきたものの重労働で病気になり入院。職を失い一気に路上へ。しかし、社会は「自己責任」というまなざしを安易に向けやすい。
 
 貧困は資本主義社会の構造が生みだす不平等の帰結であるいもかかわらず、個人の努力で克服しうる課題とみなされやすい。家族主義が強い日本では、「家族依存型」の政策のもと、家族ぐるみの努力が称揚される。家族の限界まで行使される自助努力の果てに、親子心中や孤立死が繰り返されている。


以前、関東地方の市営住宅の家賃が支払えず、退去を迫られていた母親が新学期が始まる矢先に娘さんを殺してしまったというニュースがありました。
 ぎりぎりのところで踏ん張っている親子に対して、容赦ない仕打ちをするものだと。
 このニュースは最初は母親が子どもを殺したということで、虐待なども疑われたかもしれません。報道の第1報は”親がわが子を殺した”という事実だけで事情を知らなければ「なんて悪い母親だ」と親を悪者にしてしまうだけ。子殺しの背景にはこのような貧困問題もかなり多く潜んでいるような気がしています。

 ところで今は貧困の子どもが書くクラスの6人に一人とか?(この数字以前は発達障害児のクラスに閉める割合でした。今や発達障害は世間的なブームは過ぎ去り、貧困児童(生徒)のほうに世間の関心も移っています)
 そんな福祉の課題に取り組もうと各地でNPOや有志の方たちが子どもの「食」を安心させたいと『子ども食堂』を開設しています。
 NPOなどその主催者によって、目的や対象者、内容などいろいろ切り口の違いはあるものの(経済的な貧困で食べられないこの食事を確保してあげようとするものから、孤食になりがちな心や環境の貧困に対しての居場所作りの目的が大きいものなど)、支援する側も経済的基盤のない中、助成金や支援金で運営費をまかない、支援者の熱意や善意に頼っているのが、今の子ども食堂の現状でもあります。
 ある主催団体が、本当に困っている子どもの情報を学校等に聞いても「個人情報」の問題もあり、教えてくれない。パンフレットを私必要な親御さんに渡して欲しいとお願いしても、興味を持たない先生のほうが多く、本当に必要な子どもに支援がいきわたっていないことを問題にしていました。
 担任の先生が、から、「「給食になるとがつがつ食べる子がいる」、「昼食(弁当)の時間になると席を立ち教室からいなくなる生徒がいる」という話を聞いたある方が、「何か私たちにできることがないか」と聞いても、先生たちはそういうことにあまり関心がないみたいだ」感想を聞かせてくれたこともありました。
 もっと世の中の人情があった時代は、心ある先生はえこひいきにならない程度に、かげながら援助したり自宅につれてきて食べさせたり、友達の家庭でご馳走になるなんてこともあったはずなのに・・・。
 お互い様の精神もうすれ、貧困を自己責任とみなす風潮がますます強くなり、「貧しいのはあなたの努力が足りないからだ」と大人は言われているような感じになるから、なおさら誰にも相談できず自分の現状をさらけ出せず、結果的に孤立し最悪は無理心中や子殺しなど切羽詰った挙句の悲劇がうまれるのです。
  
 

   


貧困問題について(その1)

 最近新聞・ニュースをにぎわせているのが、「貧困問題」。
 以前は「労働者派遣法」改正で、時の小泉政権が非正規雇用者をどんどん増やしました。
 その結果、若者でも就職先では非正規扱いで収入も安定しないから結婚への夢も薄れ、結婚したとしても夫婦共働きでなければ家庭を維持できず、子どもができても保育園に預けなければ仕事も継続できない。その保育園すらも、需要と供給がミスマッチし、待機待ち状態。子どもを預けられなければどっちかがやめざるを得ず、結果的に経済的貧困に陥る・・・。
 (私が以前福祉関係の行政にいたころは、「年越し派遣村」などの言葉が世間の関心を呼び、こういう地方で困窮していると相談に来る人に対し、「年越し派遣村にでも行かせて、あっち(東京でということ)で支援してもらえ」という心無い言葉を平気でいう上司がいました)
 保育園問題だって、女性の社会進出への意識のほかに、経済的に働かなければならない事情も大きいと思います。
 また、子どもを生み育てたいと思っても、物理的(ハード面)な不足や社会的偏見(保育所を作ろうとしても昨今は近隣住民が”子どもの声の騒音問題”で反対にあうなど)、保育者不足(昔の3kに似たような雰囲気になっている?)などいろんな要素が幾重にもからみあっての今があるのではないでしょうか?

 

ご無沙汰していました

 約2年ぶりのブログ更新になります。
 なんか、いったんブログから遠のくとそのままPCに向かうのも億劫になっていました。
 その間、我が家では子どもたちの状況も変化し、それに伴い親の心情も、仕事人としての思いも、一人の人間としての生きかたもまたその時々で感情の変化も大きく、これまで溜め込んでいた思いをまたここで吐く(格)ことで、自分自身の内面を見つめなおすことにしようと思いました。 
 また思うままに本音の「ひとりごと」を綴っていきたいと思います。

地球の名言

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TTmama

Author:TTmama
医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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