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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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他人への評価は自分への評価の裏返し

引用

●人の批評ばかりする人の心理
 ・批評家はlコンプレックスを抱えている。
 ・自己顕示欲からくる批判
  自分より下の人に対して偉そうにふるまうことで、自分は詳しいとかすごアピールをすると同時に、下を育てないことで、自分よりも上になる可能性をつぶし、自己顕示欲を満たし続けることができる。

  その心理は  ・自分に自信がない
           ・実は注目されたい
           ・自分の人生に不安がある
           ・自分の考えが正しいと思い込んでいる 
           ・親が厳しい
           ・承認欲求が強い  
           ・恐怖心が強い 
           ・ストレスを抱えている


●人の悪口(陰口)を言う人の心理
  ・プライドが高く、劣等感の強い人、勝気な人
  ・いつも自分と他人を比べている人
  ・いつも自分をよく見せたいと思っている(自分がその人より上位に立ったような気持ちが生じるから)
  ・自分が褒められたいため、他人を貶め、気分を代替
  ・仲間との絆の確認のため
  ・常に順位を意識して生きている(学歴・容姿・金持ち・貧乏・性格・恋愛・環境等で全てにおいて上下関係に敏感、そういうのに劣等感を感じる人)
  ・人一倍傷つくのが怖い
  ・他人に言う悪口、実は自分への悪口でもある⇒⇒ 人は自分の悪い面を認めたくないとき。他人にその悪い面を押し付けてしまうという心の働きがある。自分に強いコンプレックスを感じている人は、他人の短所にひどく反応する。
    
 攻撃のメカニズム 
 ・自分の身を守りたいから
  人間がある程度一貫した行動をとり、周りから普通の人だと思われるためには、心の中の要素が矛盾だらけでは困る。心の中がある程度一貫していないとだめだ。
  しかし、実際には人間の心の中にはお互いに矛盾する観念や欲望がいっぱい詰まっている。
  そこで人間は自分の一貫性の邪魔になる観念や欲望に対して、攻撃をしかける。
  自分が自分の内部の要素に攻撃をする。内部の葛藤は耐え難いので、攻撃対象を自分の外部に投影してそいつを攻撃するようになる。
  これが自分の外部に対する攻撃のメカニズムである。内部に矛盾を抱えていない人はいないのだから、人間は誰でも外部を攻撃する。
 自分が勝手に思い込んでいる規範で、他人を裁いている。

●人を見下す人の心理

 ・コンプレックスや精神不安から自分のプライドを維持するため
 ・嫉妬心があるから
   見下す人は他人の噂話が好きな傾向にある(人の悪い噂話を楽しそうに話す)
 ・優越感が快感になってしまう(他人をばかにすることで、ストレス発散)
 ・周りにちやほやされている(天狗になっている)
 ・自分の信じている選択肢以外は論外
   自分の信じてきた道を正当化しようとする心理
 ・なんでもできると思い込んでいる
   実際に実力で劣ってしまった時に、負け惜しみで人を見下す。口だけの人間のパターンが多い。
 ・自慢話ばかりする人ほど見下している  
   見栄をはりたいための噂話やネット情報の知識自慢が多い。


 こういう感情を支援者・専門職の方の中でもだいぶ持っている人は多いと思います。実際に前の職場にも、今の職場にも一定数はおります。ここにあげたような特徴を持つ人たちは、本当にみなさん共通しているんですね。障害者や弱者を見下し、馬鹿にし自分の仕事に自信があり、人から指示されることは嫌い、そのくせコンプレックスやストレスを多く抱えている人たち。
そういう人たちの支援で共通しているのは、「○○してあげる」「やってあげている」という言動や態度。そこに「させていただく」当事者から学ぶ思いなどはあまりありません。
 
 程度の差こそあれ、みなその個人の置かれてきた環境や背景は様々であり、そういう環境や背景があったからこそ、今自分はこの仕事に就いているのだともいえるのかもしれませんし、それが自分の人生の必然だったのかもしれません。
  
   

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障害者を切り捨てる優性思想

 NHKの朝のニュースの一コーナーでの特集を視て。
戦後の日本で、知的障害者の女性たちが、結婚しても子どもを作れないように、本人たちには内緒で不妊手術を施こされたという実態があり、体験者として80代の女性が紹介されていました。その後結婚しても子供ができないので離婚されるに至った。その理由を後で知って、すごいショックをうけたこと。80代になった今でもトラウマとして心の傷として残っている、というもの。

 戦後の日本の混乱期には増える人口増加のなかで、生まれる子供を選別する必要から、「いい子を産むこと」「社会の役に立てる子供を産むこと」という優性保護法が施行され、国の施策として代々的に繰り広げられたようです。
 そういう施策のもとで、障害を持つ子の親や親族も、「子供が社会の偏見にあうのが不憫」「子供を作ってもとうてい育てられないだろう」との考えから、本人には内緒で不妊手術に同意したといいます。
 当時、その手術に携わった医師(80代)が実名・顔出しでTVに出ていました。今の時代の感覚と当時の感覚はもちろん異なるものの、あの当時は自分も医師として何の疑問も持たないで国の言うとおりに従ってきたことを、反省と懺悔の念を抱きながら話していました。

 有名な第二次世界大戦下のドイツナチスのアウシュビッツ強制収容所や精神障害者の毒ガスによる大量虐殺などもどこか共通するものがあります。
 また当時の日本においてはハンセン氏病の隔離政策もしかり。施設内での結婚に対しても、子供は作らないようにされた事実。
 
 今、障害者の人権とさかんにいわれているけれど、この優性思想に基づく大きな事件が昨年おこりました。相模原の重度障害者施設内でおきた殺傷事件です。
 犯人の男性は「障害者は生きていても幸せになれない」といって、自らの持論を振りかざし殺人を犯しました。(今回、自己愛性パーソナリティ障害だったと彼自身の障害特性も明らかになりましたが)。
 
 この男性の犯した犯罪の部分は大きな罪に問われるものですが、障害者に対する見かたが特異な人格障害ゆえの考えに基づくものとして結論づけていいものでしょうか?
 今回この事件に関して、福祉団体や同じ重度障害を持つ親御さんの心境などを間接的にある研修で聞く機会がありました。ニュースでも取り上げられているように、一部の方を除いてはいまだに被害者は氏名や顔写真を出して報道されていません。

 講演の中で講師の知的障害者団体の理事長は次のようにおっしゃいました。
 警察からは今回の報道にあたり、「氏名を出しますか?」と最初に被害者家族は聞かれたそうです。普通は被害者はその人権を本来は尊重されるべきなのに、「普通の事件」だと被害者の思いとは関係なく、「報道の自由」や「知る権利の自由」ということで勝手に氏名が出されるのに、何で障害者だとわざわざそのような質問をぶつけるのかと。「普通の人」は氏名を出されることでまた別の意味でマスコミに追われたり、被害者の人権が無視される状況になったりする。今回は重度障害者への「配慮」からそうしたのかもしれないが、その「配慮」がまさに「偏見」を生んでいるのではないかと。しかし、大部分の被害にあわれた親御さんは「世間や親せきに迷惑をかけたくない」という本音もあるということです。
 反面、わが子が産まれて生きてきた存在までもなくしてしまいたくない・・その狭間の中で大きく苦しんでいるということ、などなど・・。

 世間みんなが理解ある人たちばかりじゃないという事実。福祉団体に寄せられる心無いバッシングもないわけではないという事実をどう受け止めるべきでしょうか?この犯人のように実行には至らないとしても、本音の中では「重度の障害者なんか生きていても何の価値があるんだろうか?」と、思っている人だっている。表立って表明していないだけで・・・。
 
 今でも、障害者同士の結婚により子供を産み育てることというのは、障害の内容や家庭環境にもよりますが、ハードルは高いのも確かです。特に知的障害を持つ人の場合は、「自分の生活もままならないのに、子供を産んでどうやって育てるのだ」という声もこの時代にだってあります。実際に彼・彼女らを支援している専門職の方だって本音の部分ではそういう考えの人もないわけではありません。 
 身体障害だけの人はそれほど大きな問題になることは少ないような気がします。それは実例として立派に子育てしていたり、身体的ハンディは他の人的支援やテクノロジー・福祉用具等である程度代替できるからです。
 しかし、知的障害者の場合、そのハンディキャップや社会の偏見はまだまだ大きいものがあるのも事実です。親でさえ(わが子かわいさ、不憫さゆえに)反対するのですから・・。

 一人の女性としての人権と、社会の偏見や優性思想からの脱却。自分の身に降りかかった時にひとりひとりの価値観が問われるものなのだと思います。
 深く、きついテーマを朝から突き付けられた思いです。

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成年後見制度の課題 

毎日新聞(2016年2月21日)の記事より一部抜粋

地域の取り組みに温度差 
 「(成年後見制度の)利用を促進するには、成年後見を必要とする人の把握と、その人を支える体制をどう作るかにかかっている。
  東京品川区社会福祉協議会の斉藤修一・品川成年後見センター所長は指摘する。
  同センターは「ワンストップセンター」として相談の受付から家裁への申し立て、後見の実施まで担う。区の高齢福祉課と情報を共有。月2回開くケース会議で関係者が協議し、後見人をつける必要があるかの方針を決定する。その後医師や弁護士・福祉関係者らによる審査を経て、家庭裁判所に後見人の選任を申し立てる。
 同社協は法人として後見人になることが認められており、職員17人で分担している。資産が少ないケースや家族関係が複雑でない場合は、区などで養成した市民後見人が担うこともある。
 同区の市民後見人の一人、Kさんは定年退職後、とが実施した市民後見人の養成講座を受講。2年前から市民後見人として活動している。
 これまでに4人を担当。週1回は自宅に赴き、契約など本人のさまざまな選択を支援する。本人が高額な化粧品を買ってしまったことを知った時は、企業と交渉し全額返金してもらった。報酬は1万円。
 「ボランティアではなく職業人としての自覚が求められる」と話す。社協職員とは常に連携し、判断に迷ったときは一人で抱え込まないようにしているという。
 だが、品川区のように体制が整うところは多くない。
 また後見人の数を確保するには、弁護士ら専門職だけでは限りがあるため、厚生労働省は11年度から市民後見人の養成事業を36都道府県役160の自治体で実施し、役1万人を養成した。市民後見人への期待は高いが、実際に家裁の選任を受けるには、品川区のようなバックアップ体制が必要だ。

後絶たぬ不正被害
 後見人らによる不正の被害は14年に年間で831件あり、被害総額は56億7,000万円に上った。親族の後見人だけでなく、職業として後見人となる弁護士や司法書士などの専門職でも不正は後を絶たない。
 後見人の立場を悪用して、認知症の高齢女性3人から1億円以上を着服し、キャバクラ代などに使ったとして業務上横領に問われた元弁護士に対し、東京高裁で10月に開かれた判決公判。裁判官は懲役6年の実刑を言い渡した。
 
 制度上、後見人の監督は原則、家庭裁判所が担うが、政府の有識者委員会では、「事務負担が増えており、家裁の監督だけでは不十分だ」との意見が多数だ。
 対策の一つとして注目されているのが、12年から始まった「成年後見制度支援信託」だ。本人の財産のうち、日常的な支払いをする預貯金は後見人が管理し、普段は使わない金銭は信託銀行などに託す仕組み。信託財産を払い戻したり解約したりするには家裁による指示書が必要なため、多額の不正はしにくい。
 同制度の利用者は14年2,764人(1,090億円)、昨年は6,563人(2,109億円)と飛躍的に増えている。これに伴い、15年の後見人らによる不正件数は前年より約4割減り、被害額も5割近い29億7,000万円に抑えられた。
 しかし、銀行側にとっては収益につばがりにくく、新たなシステム導入など経費負担も大きいため、大手信託銀行以外が導入するにはハードルが高い。
 そのため、計画原案には「成年後見制度支援信託に並立・代替する新たな方策の検討」が盛り込まれ、今後地方銀行でも実施できるような簡易な方策が検討される見通しだ。



  2,000年の制度発足以来、今なお、多くの課題を抱えている。 
  これからますます認知症高齢者は増える一方。障害者も例外ではない。役所はさかんに普及・啓発の大義があるから、さらにこの制度活用を勧めようとしているでしょう。
 しかし、品川区のように市民後見人をきちんとした形で養成し、そして活躍の場を実際に広げてもらわなければ、いつまでたっても専門職後見人が幅をきかせて圧力をかけてこないようにしたいものです。
 残念ながら当地では社会福祉協議会の職員そのものが社会福祉士会に所属している専門職が多いので、それだけで社会福祉士団体がやっている「パートナー」(後見業務を行業界う団体の名称)と拮抗することを避けているのか、なかなか市民後見人を活躍の場にという機運はありません。

 

後見人問題

 先日あるTV番組で「成年後見制度の問題」についてレポートされた内容が放映されていました。タレントが視聴者から寄せられた問題について現地に赴き、状況を聞きだしそれをメディアで流すことで視聴者に問題提起をするという番組です。

 その中の事例は以下のようなものでした。
 父親が認知症になり、成年後見制度で「後見」相当と認定され、弁護士が後見人についた例。
 父親と暮らす50~60代の娘さん。父親が認知症となったため、父の介護のために自分の仕事を1/3に減らし父の所有するマンションに同居した。(これまではひとり暮らしだったのでしょうか)
 家賃11万円、生活費6万円は父が支払っていた。毎年恒例で3万円のお節料理を取り寄せてお正月には祝っていた。そのおせち代も認知症になる前から父がお金を出して子どもたちに振舞っていた。
 今年のお正月にもいつも通りにお節を頼み、その請求を弁護士にしたら、全額請求は認められず、娘も食べるのだからと半額の支払いしか認められなかったと。
 また、「家賃と生活費も父と娘がそれぞれ折半し、半額ずつ支払いなさい」と言われた。自分には父の介護のために仕事もセーブしているので、収入も少く困っている。
 父親も「こんなことなら、制度を利用しなければよかった」と困惑している。
 といったような内容でした。

 しかし、このように堂々と自分の意見を言える父親なら、そもそも「後見」相当との認定がまずおかしいと思いました。
 せいぜい、補助・保佐人レベルで妥当な方。
 この番組では娘さんが父の年金を当てにして「経済的搾取」をしているかのようにもとらえようによっては見えるかもしれません。 後見人の弁護士もこれまでの親子の生活背景を聞くこともなく目の前の事象だけでそのように判断しているのかもしれません。
 この事例の父親は、見た目も生活スタイルも家の雰囲気も、なんとなく財産があるような方です。だからこそ娘さんも将来的な揉め事を少なくするために、父親が認知症になったので(※TVを視ている限り、せいぜい軽度認知症のように見受けられます)、成年後見制度を利用したのでしょう。 
 しかし、財産があるだけに弁護士が後見人についた。
 実際、医師の診断書も(誤解を恐れずに言えば)いい加減なものが多く、「補助・保佐人」相当でも「後見」相当と判断されることが多い。
私が以前見聞きした実際の例として、ケースの申立てのため、社福士が診断書を書いてもらうため、ある開業医=専門医ではない=にお願いしたとき、その開業医は『なんて書いて欲しいんだ』と社福士に聞くので、その社福祉は「先生、『後見相当』でお願いします」とこちらからその後の展開がしやすいように誘導していたこともあります。「後見」にしたほうが、その後の後見活動をしていく中では後見人の意図のとおりに進みやすいからだと推察します。その社福士は「医者の診断書なんてちょろいもんだ」とのたまっておりました。
 だから、いろんなマスメディアに事例として出てくる人たちをみていると、その言動・行動から「後見」相当は違うんじゃないかと疑ってみてしまいます。
 まず、自分の意思や意見が少なからず言えるのなら「後見」ではないはずです。「後見相当」とは、判断能力のない認知症の進んだ人になるからです。
 財産があれば、家裁はまっさきに弁護士を後見人につけるでしょう。この事例の場合では娘さんが後見人に申立てすることも可能だったでしょうが、家族間の課題があればその辺は第3者に頼んだほうがいいという考えもあるから一概には言えませんが・・。
 そうして弁護士に支払う報酬が月々数万円。本人も家族も不満や後悔を抱きながら生活を強いられるのだったら、何のための「成年後見制度」なのでしょう。
 昨今は、親の介護のため、あるいは子ども自身のリストラとか、非正規雇用などの社会状況から親のほうが資産を多くもっている家庭も多くなってきているかもしれません。
 今回のケースのように、父親と娘がお互い納得の上で金銭の支払い分担を行っていても、「経済的詐取」というふうにみなされるのか?あるいはなんとしてでも「折半」しなければいけないのか?
 お節料理注文の件は、見方によっては父親の子への愛情の一環からお金を支払っているとみることもできるけど、反面娘が父のお金を当てにしているという見方をする人も。
 個々の事情を汲み取ることなく、そういう生活のスタイルだけをみて何でも「親の財産をあてにして詐取している」とみなされたのでは介護する家族のほうも困惑するのではないでしょうか?
 専門職後見人は、論理的に物事を判断しやすく、その立場上マニュアルどおりにことをすすめようとする傾向があります。
 成年後見制度を活用するさいに、個別の生活状況やこれまで生きてきた親子の価値観や背景がないがしろにされてしまうことへの危惧を感じました。


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成年後見制度は専門職のサイドビジネスではない

 成年後見制度は2000年に発足しました。制度が徐々に世の中に浸透するにつれ、新たな問題も多く発生しています。
 制度が始まったころは、親族後見人が多数を占めていましたが、財産を巡る親族内でのトラブルが目立つようになり、専門職の選任が増加していきました。
 しかし、被後見人の財産を横領する専門職後見人が続出。被後見人の面倒をまったく見ないで(後見人の役割である身上監護をおろそかにし、財産管理のみにしか関心のない弁護士や司法書士が多い)報酬だけをむしり取る専門職後見人が横行し、多くの被後見人とその家族が苦しめられています。
 最近はマスメディアでも事件化された事例も取り上げられています。
 
 障害者を貪る「弁護士後見人」の一例(雑誌より一部抜粋)

 「私(Tさん)はいま71歳ですが、金銭面を含めこれまで知的障害者の息子の面倒をキチンと見てきました。それなのに家庭裁判所(以下家裁)は、親の私ではなく息子の生い立ちや人生観、健康状態など何も知らない弁護士を息子の後見人に選んだのです。
 親が後見人になれば報酬は不要ですが、第3者の弁護士後見人の場合は、限られた息子の財産の中から毎月数万円の報酬を死ぬまで払い続けねばならず、それだけで息子の財産はなくなってしまう。家裁も弁護士も『息子の財産を守るために後見人が必要だ』と言いながら、弁護士報酬などで息子の財産を無駄遣いさせようとした。」
 後見人選任時点の息子名義の預金は1090万円。Tさんと夫がH氏(息子)の将来を案じ、44年コツコツ貯めた苦労の結晶だ。その中からH氏は専門職後見人への報酬として、毎月数万円の出費を余儀なくされた。44歳のH氏が存命中ずっと弁護士に報酬を払い続けたとすると、計算上それだけでH氏の預金は消えてしまう。
 その後弁護士と家裁はH氏の預金を信託銀行に預ける「後見制度支援信託」の活用を勧めた。後見信託を設定すると、ボーナス(手数料)として被後見人の資産から数十万円が後見人に支払われる仕組みがある。『コツコツためた数十万円ものお金が一瞬でなくなり、手続きも煩雑。息子には何のメリットもなかった』
 昨年7月、Tさんは自分と姪の2人をH氏の後見人に追加する申し立てを家裁に起こした。Tさんは申立書の中で、H氏と同世代の姪と母親の自分が後見人になることがH氏の将来にとって最適であり、弁護士への報酬や後見信託は「貴重な預金を目減りさせ経済的合理性がない」などと主張。申し立ては家裁に認められ、弁護士は辞任した。

 Mさんの長男A氏は交通事故で脳に外傷を負った。生命保険会社に「保険金請求に後見人が必要」と言われて後見人を申し立てたMさんは家裁から後見人に選任された。後見人選任は最終的に家裁判事の「腹一つ」なのだ。A氏は入院中ずっと寝たきりで話もできず、病院からは「4~5歳児程度の知能」と言われた。
 Mさんは介護とリハビリに専念するため仕事を辞めた。その甲斐あって2年後には車椅子なしで歩け、会話ができるまでに回復した。今は新聞を読め、テレビの録画もできるという。
 だが、保険金でA氏名義の自宅を購入したことから歯車は狂っていく。MさんはA氏と相談して家を購入した。Mさんが亡くなっても、家があれば娘さんにA氏を託せると考えたのだが、これが一部から「息子の財産を使い込んだ」と見られた。Mさんは後見人辞任に追い込まれ、弁護士2人と社会福祉士1人が新たに後見人に就任した。だが、「弁護士2人は就任直後に一度、自宅に挨拶に来たものの、A氏の将来の生活や社会復帰に向けた職業訓練などのことは一切話さず、すぐに帰ってしまった」と関係者は話す。
 さらに弁護士らは、A氏の自宅を売却しA氏をリハビリ施設に移した。後見人3人には売却代金からそれぞれ数十万円のボーナスが支払われた模様だ。A氏は「母と一緒に暮らしたい」と手紙を書いたが弁護士は黙殺。Mさんはアパートを借りた。
 A氏が39度の高熱を出して病院にかかりたいと言っても、『立て替えておいて』の一言。弁護士はA氏の資産額、土地の売却額も教えないし、A氏が保管すべき障害者手帳も渡さない。A氏の障害者等級確認のためMさんが市役所に質問したが、『後見人が教えなくていいと言っている』と突っぱねられた。
 なお、この弁護士は地元自治体の精神医療審査会委員や地元弁護士会の高齢者・障害者の権利に関する委員会委員などを務める「人権派」弁護士だ。

 一般社団法人「後見の杜」の宮内氏の弁;(後見問題の相談などに応じている)
 「専門職後見人が高齢者名義の居住用不動産を高齢者が生きている間に売却すると、売却収入から1件あたり平均100万円程度のボーナス報酬が支払われるんです。家裁では一般的に、認知症の高齢者は自宅ではなく、特養などの施設に入るのが幸せだとする空気があって、裁判所の側から売却に異を唱えることはまずありません。」 
 このように認知症などの被後見人の不動産を処分する申請は年間7000件、家裁に提出されている。
 「後見人が横領などの不正行為をした場合には、本人や親族が家裁に解任請求を出すことができます。しかし、『後見人が何も仕事をしない』というだけでは解任が認められることはまずありません。
 一方辞任件数はこのところ急増しており、悪質な後見人に対して、本人や親族が爆発し、解任請求が提出されそうになると、後見人が先手を打って、あれこれ理由をつけて家裁に辞任を申請している結果だと考えられます。」
(解任されれば後見人として家裁に登録もできなくなりますが、辞任ならばまたほかの事例の後見人に選任されることも可能です)
 


以前高齢者の部署で仕事をしていたときに、身寄りのない認知症高齢者等(たいていは財産もなく親族の支援もない場合が多い)の市長申し立ての手続きについて携わっていたことがあります。
 具体的には社会福祉士がその実務を担当していましたが、必要な予算的措置は担当部署が担っていました。
 申立てする際の診断書代(医療側に支払う)や家裁への申請手数料、弁護士(または司法書士等)への報酬も公費でまかなうのですが、総額で年間100万くらい(対象者を2件として)予算を取っていました。
 申立てをすれば最終的には家裁が適当な後見人を選任するのですが、一般的に財産がある場合は弁護士や司法書士が選任されることが多く、財産のない高齢者は社会福祉士あたりが選ばれている実態。
 宮内氏によると弁護士報酬で2~8万円と言われています。(だいたいの相場は弁護士で3~4万、司法書士で2~3万、社会福祉士で1~2万円程度。)
 弁護士などはお金のない高齢者の後見はしないときっぱりしているところもあるのか、家裁も相手の資産をみて選ぶのでしょう。家裁と3団体(弁護士会、司法書士会、社会福祉士会)が県を介して制度については根回ししているようなところもあり、当方の社福士は事前に業界団体にケースを打診し、自分のお目にかかった同職の専門職を家裁に推薦し、内諾をもらっていました。(家裁だって団体から後見人候補者リストを渡されても誰がきちんとやってくれる人物かの判断までは難しく、結局は各団体が推薦する専門職の中でもすでに実績を持っている人や、団体の推薦を受けた人を家裁に連絡しているようです)
 それぞれの団体が後見人になる人を養成し、またその実績をあげるためにあえやこれやと裏で動いているのです。中には後見報酬をあてにした生活設計を考えている人もいたり(独立型社福祉士)、弁護士や司法書士など一つの再度ビジネスとして考えている人も。
 「この人(職種)には後見人になってほしくない」と思っても、家裁は当事者(本人親族)に聞くこともなく家裁の決めた(何を基準に決めているのかも明確にせず)人物が、後見人と名乗りをあげる。信頼関係を築く前から『変更もできない』と言われ、仮に後見人と相性が悪くてもよほどの不正行為がなければ解任もできない。
 報酬にむらがる専門職たち。新た参入しようとする団体には既存の団体が自分たちの新たな職域のチャンスを守らんとして圧力をかけてきたり。だから市民後見人は一部の先進的な地域でしか広まっていかない。
 本当に高齢者や障害者のためになっているのでしょうか?


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社会福祉士の仕事って?

以前職場で一緒に働いていた社会福祉士の女性のことについて。
 彼女は現在はアラフィフの女性ですが、社会福祉の大学を出たあとにある特養ホームの相談員として数年勤務後に、行政に入りました。
 入職仕立てはまだそんなに任せる仕事もなく、上司も徐々に慣れてもらおうと考えていたのでしょうが、
「あの上司は私に仕事を任せてくれない。何のために専門職採用したのだ」と陰で同期入職者たちに愚痴をこぼす毎日。

 福祉課という職場では行政職あがりの(福祉大学卒業でない)ケースワーカーも多いわけですが、「専門職」として入った彼女は、何とかして自分も一人前に認められたい(むしろ行政職採用者よりも自分のほうが福祉については」知識・技術が上だといわんばかりの態度)、ケースを任せてもらいたい一身で先輩に取り込んだり、けっこう陰では足の引っ張りあいを繰り返していました。
 数年後にようやく職場での地位も少しずつ認められるようになると、業界団体の理事に立候補したり、その立場を活かして県や国へ働きかけたりしながら、「○○市の福祉課には、××さんがいるから」と自分の存在価値をみせつけようと必死の次期がありました。
 確かに彼女は論理的に物事を進められ、社会福祉の「専門家」としての「自負」もあり、仕事もばりばりこなすタイプの女性ではあります。
 ただ、来所する困難を抱える相談者やケアマネジャーたちが、うまく要領よく相談ができないとじれったくなるのか、「結論から先に言って!」「つまり要点はなんなの?」とじっくりと話を聞いているのが耐えられなくなるようです。彼女に相談を持ちかけるときは、ケアマネジャーたちも緊張して言葉を選んでしまう人もいるようです。
 福祉の専門職という自らのプライドもすごいので、彼女のテリトリーに入ろうとする人への敵意もむき出しになります。
 自分が業界や団体から認められているときはとても気分がいいのですが、ひとたび周りから自分の仕事のやり方を否定されたり、業界団体の理事をはずされたりしたときには、とたんにこれまでの態度が豹変し、相手への批判や誹謗中傷も増え、自分の考えを正当化するので周囲も表立って反論できずに追随せざるを得ず、結局相手のほうが悪者になってしまうのです。

 あるとき職場に病院から一人の看護師が異動になって私たちの部署に配属されました。彼女は(今でいえばアスペルがーの特質を持ってい女性だったのでしょうが)、新人で病院看護師として採用されたものの、仕事や人間関係でのトラブルが多く(同じ市なので)、上司同士の判断で行政の相談窓口に異動になったのでした。
 社会福祉士と看護師というペアで相談業務に就かなければならない仕事のため、彼女はその新人の上司となったのですが、案の定さまざまなトラブル(トラブルと言っても発達障害、アスペルがーの特性を理解していればうまく対応することも可能なレベル。でも当時はそういう概念すら世の中にない時代)の数々に自身もうつ状態になっていったようでした。
 また陰で、新人看護師をやめさせてもらえるように再三自分の上司に愚痴をいいまくり。かといってまた病院に戻すわけにもいかず、結果的に保育所の0歳児保育の現場に異動となりました。
 異動が決まり、何かの役に立てばと思い、自分が以前使っていた保育(看護)関連の本をプレゼントしたとき、それを聞いた彼女は「あんな人にそこまで親切にすることはないですよ。どうせ裏切られるだけです」とばっさり切り捨てるのでした。
 
 調査や聞き取りなどで入院しているケースを訪問したとき、職場に戻るなり、「ナースステーションに声をかけたのに、みな私を無視して、なんなの、あの看護師たちは!」と怒りを吐き出しました。
 また、同僚の保健師の独りよがりな行動にはいつも、彼女のいないところでほかの同僚たちに彼女の悪口三昧。「いつも勝手に相談もなしに単独行動は良くないよね」といいながら、ケアマネジャーたちから相談があり、警察やほかの公的機関などと連携をとらなくてはならないケースのときは、絶対自分がそれを遂行したい下心もありありなので、陰でいろいろ画策をしながらも、これは私の出番とばかりに、それこそ単独行動を批判していたのに、自分も単独行動に出る。
 あるケースが不審死した際にも、真っ先に自分が率先して現場に出かけていきました。人の非難をする割には自分もそういう態度をとっているのですが・・・。戻ってくるなり、また愚痴の連発です。

  若い捜査担当の刑事から、第一発見者としてケアマネジャーとともに事情聴取されたのだそうですが、(発見者にも警察は一通り住所・氏名など素性を質問するようです)日ごろから警察とも認知症者の対応などで連携があり、行政の××さんとして警察の生活安全課から一目置かれていた彼女としては、部署の違う刑事から改めていろいろ聞かれたことで自分のプライドが傷ついたと感じたようです。
 「あの刑事は大変失礼な奴だ。”私の名前をあなた(自分より若い刑事)は知らないの?私は○○市役所でお宅(警察署)の生活安全課のT課長とはいつも一緒に仕事している関係なんですよ。(そんなことも知らないのか?)私のこと(氏名、仕事先)はT課長に聞けばわかるから”と言ってやったわ」と自慢げに話すのでした。
 客観的に聞いていて、とても自信過剰で、かなりプライドが高い人なんだと改めて確信するにいたったのですが、周りの同僚たちも返す言葉がなく(変に反論したりたしなめても結局それを言った人が悪者になって陰で言われるのが目に見えているからか)、
一応相槌を打っったり「大変だったねえ」とねぎらう言葉をかけたりでやり過ごしていました。

 処遇ケースが知的障害者だったり、生活能力の低い層には頭ごなしに「○○しなさい。××しなければだめだ」とばかりに威圧的・指導的言動・態度(相談している本人の前で腕組みをし椅子の背もたれにふんぞり返ってそういう言動を言っているのです)。
 そしてそういうケースが自分の意のままに行動してくれないと相手に対して憤慨するのです。毎日の行動を紙に書かせて自分のところに持って来いと、行動を監視したり、「ああいうやからは厳しくしないとだめだ」とばかりに一方的に指導・叱責する始末。
 とにかく彼女は、貧困・精神障害・知的障害などで生活能力の低い人たちにはどこか馬鹿にしていたり、そういう人たちが基本的に許せないようなのです。(実は彼女の親族に精神障害者がいるという事実もあるにもかかわらずです)
  
 また一方では自分のやり方を実現したいという意欲も大きいので、いい意味ではいろんな施策を考えて実践に移してもいるので、そういうところは対外的にも評価され、ある事業では「先進的事例」としてマスメディアにも積極的に広報したこともあり、県外外からも注目されるようになっていきました。
 確かにそういう「能力」については周囲も認めざるをえず、彼女の功績も大きいものがあります。

 そういうタイプの人と一緒に何年か仕事をともにしてきて、正直社会福祉士という職業につく人も皆が皆福祉への思いは一様ではないと気づかされましたし、あまり「専門職」面している人って信用できないということも感じました。
 少なくとも私は、この社会福祉士と一緒に仕事をする中で、自分自身の価値や信念のある部分が彼女によって脅かされ(後半はさんざん陰口を叩かれたりあからさまな態度を取られたり・・)、また自分が内面では違うと思うことでも組織の御旗にも逆らえず(多数決の原理で彼女に逆らえないような空気で、みなが彼女の意見に同調することになるのですが)、結果自分を抑うつ状態に追い込んでしまったことがありました。心で思っていることと、反対のことを選択しなければならない中間管理的な立場としての立ち位置も自分を追い込みました。
 家に帰れば、彼女が嘲笑するような発達障害の子どもを持つ一人の親ですし、わが子の通う養護学校には重度の知的障害者もたくさん通い、何よりも自分自身も障害児療育を実践してきた一人として、障害児を持つ母親の思いもたくさん学ばせていただいた身でもあります。仕事を通してみせる彼女の対応にどうしても納得のいかないものを感じながら何年か一緒にやってきましたが、限界がありました。
  
 個々のケースに信頼されるよりも、業界団体や連携先の関連団体に自己アピールすることのほうが優先されている人。自分の存在価値を認めさせてやりたいという気持ちのほうが優先し、目の前の社会的弱者に暖かいまなざしを向けられない人。
 自分の本質的な内面の課題を解決することなく、対人援助にかかわることで、自分が抱える葛藤を相手にすり替えて癒そうとする。その一つの手段が社会福祉士という職業に就くことだったりする人って実は案外多いのかもしれません。
 
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学生実習

職場には1年を通して学生の実習を受け入れています。
 私の所属するリハビリ部門でも2~3ヶ所の学校から理学療法士や作業療法士の学生が実習に来ます。実習も1年次は1週間の見学実習から3~4年次ともなると臨床実習期間も2ヶ月近くに及びます。
 私が学生だったころは(今から○十年も前)、学校も乱立していなく、せいぜい国立療養所系列や私立の専門学校、文部省(今の文科省)管轄の医療短大くらいしかなかった時代。実習先も卒業生の勤務する病院等等が多く、何かと後輩学生として公私にわたり面倒をみてもらってたことを思い出します。
 実習地も県外だと実習先の宿舎を斡旋してもらい家賃も払わずに実習に専念できていましたが、今は県外への実習となると学生自らが別に宿泊先を確保しなければならず、学校も補助してくれないから、二重に経済的負担ものしかかるようです。
 そんな事情もあってか、今の親の経済事情も反映してか、公立の大学に通う学生も苦学生が増え、ほとんどがアルバイトをしているようです。
 
 そして今や、養成校は乱立しています。実習先を確保することも大変です。
 毎回毎回やってくる学生を担当するほうも、ルーチン化して、機械的に学生も扱われてしまっているような感じです。
 「養成校のランク=学生の能力」とばかりに「今度の学生は偏差値の低い高校から○○専門学校に入った子だから頭悪い」なんて平然と言ってのける指導者の療法士。そういう人に限って、患者さんをもランク付けしたがる人です。自分の治療を省みることなく、何でも患者のせいにする人って、物事を外見で評価しがちのようです。

 最近の学生のこの職業に就きたい動機として
 1)学生のときに部活動(スポーツ)で怪我をして、自らがリハビリを受けた経験があるのでそういう職業を知ったという人。
 2)リハビリの仕事がしたいというより、大学進学が優先で、学校選択の際に自分の偏差値で入れるところを選んだという人。
 医療系の大学だと資格も取れるし、就職にも有利と考える人。
 3)家族に高齢者や障害者(児)がいて、リハビリを受けたことがあり、理学療法や作業療法という言葉も早くから知っていたという人。
 などさまざまです。
 頭脳(学力)だけで進路を選択した学生は、その後対人援助がうまくできず、一人の職業人として踏み出す前に悩んでしまうようです。四年生の医療大学出身の学生はそれなりの偏差値で受験をクリアしてきているので、机上の学力はあるかもしれませんが、患者さんとコミュニケーションがうまくとれなかったり臨床で技術を磨いて患者さんのためにつくしたいというモチベーションが低い子もいます。
 
 医学教育全般に言えることですが、知識やテクニック(技術)の前に、目の前の病める人に対する医療人としての対人援助はその根本にあると思うのですが、医者ですら頭だけよくても患者さんやスタッフとうまくコミュニケーションをとれずに何かとトラブルの元になっている人は実際うちの職場にも何割かはいます。

  まずは、実習先で何を学ぶか・・・。医療人としての心構えのベースをしっかり学校でも教えるべきでしょう。

一人の支援者として

 以前、役所の福祉担当部署に勤務していたときは、その行政機関という立場上個人的に関わってあげたくてもできない現状がありました。
 もちろん担当課(係)が違えば、ほかの係の仕事まで余計な口出しができないのは当然ですが・・。
 でも、役所というところはあくまで「公平・中立」だからと、時には「合理的配慮」を求めなければいけない部分までも「排除」してしまう傾向もあります。
 たとえば、発達障害児へ加配教師(保育士)をつけることさえ、「一人だけ特別待遇ができない」などがいい例でしょう。
 また、生活困窮者に対して、明日食べるものもないなど切羽つまった状況にあっていても、その人にだけ「個別対応」すること(たとえば職員の自腹を切ってまで食事提供してあげるとか)は「よけいなこと」として上司判断では却下されてしまう事案でしょう。

 「官でできることと民でできること」は違うんだからそういうことは民間(社協・NPOなど)にまかせればいいとか、「まずは自助努力がたりないからこうなった。自己責任だ」とか、自助・共助があってそれでもだめなら行政(公助)の出番だという論理でくるので、目の前におこっているさまざまな困難事例になすすべもなく立ちすくむことも多く経験しました。

 住所不定者(二つの自治体にまたがる橋の下で車で寝泊りしていた人)に対して、それぞれの自治体で支援のなすりあいがはじまる。支援すれば生活保護だの、さまざまな関わりをもたなければならなくなるからお互いの担当者が「そっちの住所地で処遇してくれ」といって譲らない。
  高齢者の支援で関わった(ゴミ屋敷・栄養状態悪化のため措置で老人ホームに入所)家庭の無職の青年(もともと養護学校卒業でその後県外にでたがうまく生活できず、もどってきても軽微な犯罪を繰り返す)の処遇では、適当bな支援機関につなげることもせず、「厄介者にはふた」とばかりに電車代だけは公費で負担してさっさと県外(都市部)へ送り出してしまったこともありました。
  生活困窮者が病気をしたり、関わらざるをえない状況になると、きまって吐かれることばや態度が、「どうしようもない」「厄介な人」「こっちが助けてあげているんだ」というもの。
 経済的にも生活能力的(食生活も不摂生で病気になり入退院を繰り返す)にも支援が必要な人に対して、「カップラーメンでも食べられればありがたいと思え」とばかりにいかにもこっちがめぐんでやっているという担当者の会話。
  ほかの担当者の考えや対応(困難者を見下すような対応や一方的な押し付け的指導など)に対しても、そうじゃないんじゃない?という疑問や不満も数多くありましたが、数の論理(上司も含めて同じような考えが多いと、処遇はそっちの方向へ流れていきます)にも勝てずに、悶々としたことも。

  それはとりもなおさず、自分の置かれた環境(子どもが不登校だったり発達障害をもっていたり、社会不安障害だったり)と目の前の困難を抱える対象者とがどこかでリンクしていたり、自分の若いころの夢(以前は児童擁護施設や障害を持った子どもたち、に関わる仕事がしたかった)や貧困問題への関心などとも関係しているからかもしれません。
 
  今、公的な立場を離れて、一人のボランティアとしてあるフードバンク関連の支援を始めました。もともとやりたかった分野でしたが、これまでは立場上できなかったことと、ボランティアに専念する余力もありませんでした。幸い立ち上げた方と知り合うきっかけがあり、お手伝いのつもりで参加させてもらっています。
 そこから見えてくるものは以前私が行政にいたころとはそんなに違いはありませんが、今はそういう人(家庭)に対して食材を配達したり(、時には調理ができない人もいるので直接自分が作った惣菜物を届けたりすることもあります)する中で、じかに接することができることはやりがいもあります。以前のように指導や助言的な立場にはないのでただ困っていることに対しての部分だけを支援しているわけですが・・。

 活動していく中で、一緒にボランティアとして参加してくれている女性も、わが子と似たような環境にある方だと知りました。(不登校経験者で生きづらさをかかえている方)
 なんか必然的にそういう人との出会いをつくってくれたような気がします。
 以前は行政的な視点からばかり話を進めていかなければなりませんでした。たとえそれがいかに理不尽な考えだと思っていても・・。(いい年して仕事もしないで経済的に困ると結局こっち(役所)に相談するくせに・・・とか、発達障害者や精神障害者をばかにしたような態度や発言の数々)
 しかし、こうして当事者といわれる人たちといろいろと接したり付き合う中で、当事者の本当の悩みが聞こえてきたりその中で自分はどうあるべきかを考えさせられます。
 彼女は言います。「今までは自分は障害があると思って生きてこなかったが、できることとできないことのギャップが大きいとかんじてきた。ずっと生き辛かった。不登校もあったし、ボーダーなレベルなので仕事でも簡単な計算もできなくて”こんなこともできないのか””よほど親に甘やかされて育ってきたんだろう”と周りからは思われてきた。発達障害があるとわかっても認めたくなかった。でも今はこういう(ボランティア活動を通して)いろんな人とも出会い、価値観をかえてもらい、障害があることは隠さないで前向きに考えて生きていけるようになってきている」と話してくれました。

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不登校の親の会

  不登校の子どもを持つ親の会に参加して感じることです。

  その会を主宰する人は自身も二人のお子さんが不登校を経験し、自分が悩んできたことやその後の子どもの立ち直りなどの経験を、同じ悩みを持つ親同士で共有したいとの思いで立ち上げた会です。
  その会は比較的最近立ち上がった会なので立ち上げから参加していました。
  そこも、あるNPO法人がバックアップしているため、微妙にそのNPOの思想がはいってしまう面もあります。
  
  親の会に参加した母親(父親の参加も少数あり)たちは、顔を合わせるたびにみな一言ずつ最近のわが子の様子や親の心模様をしゃべり、同じ経験のある親や悩みを克服した親たちから共感の言葉や助言などもあり、お互いに情報を共有したり安心感を得る場にもなっていることも確かです。
 しかし、中には毎回参加しても子どもの状況は変わらず、親の心模様も晴れないままにみんなの話を聞いていなければならない方もいたりします。
 自分の中でいろんなことが消化されない親たちは、徐々に足が遠のき来なくなったりもします。
 また、口では「学校なんか行かなくても、楽しく生きていければいいよ」と悟ったような言い方をしていても、話題に上がるのは、「でもやっぱり学力は必要だよね。学習支援をしてくれるところはないか」と言う話になり、「高校はどうする」という話題になります。
 不登校そのものを否定はしなくても、先の将来への準備としてはやはり、基礎学力を身につけさせたいという気持ちはみな共通するものがあるようです。
 「親が変われば子どもも変わる」とばかりに変わった子を持つ母親は、自分の体験談(成功談?)を語っていくのですが、ぜんぜん進展がない親にとっては、そういう話を聞くことは心のなかでは苦しくせつなく感じることもあるのではと思います。
 誰かの成功(良い方向に変わったこと)はわが子の失敗を見せつけられるような感覚になり、親としてのいたらなさをつきつけられるような気分になります。 
 ある母親は4人の子どものうち3人が不登校・引き子もり体験者で、現在進行形。おまけに唯一問題がなかった子どもさんも大学生になった1年目に不登校になりかけています。
 そのお母さんが「○○さん(代表世話人)が、お子さんが学校に行くようになってよかったのだけれど、なんだか周りがいい方向にいくとかえって気分が沈んでしまう自分がいる」と率直な感想を話してくれたことがありました。

 たしかに学校信仰でがんじがらめになっている頭の中の価値意識を変えることで、子どもも救われ本来の自分を取り戻し学校以外の居場所や、新たな生き方を求めて立ち上がろうとする親や子どもは素敵です。
 「普通の」(といわれる)であれば。学校へ行かなくなっても、自分なりに別の場所や環境に居場所を見つけたり、勉強の機会(塾やフリースクールなど)を持つことは(本人の意欲さえされば)できます。
 しかし、中には子ども自身の持つ本来の特性からなかなか抜け出ることができないお子さんもいることも事実です。
 社会不安障害や対人恐怖、強迫性障害、うつ症状など何らかの精神症状を併せ持つ子どもさんにとって、不登校や引きこもりはある意味必然のことだったのかもしれません。
 親がこういう会に参加して親としての学びをえたとしても、それがそのままわが子に応用できないこともあります。
 学校に行かないだけでなく、生活からも引きこもる子も。
 そういう子を持つ親にとっては、いい方向に変化していくほかの親子のエピソードは、顔では笑っていても心では正直な気持ちとしては自分だけが取り残されていくような心境になるのかもしれません。
 発達障害の二次障害といえるようなものや精神症状も併せ持つタイプの子どもを持つ親にとっては、単なる不登校というカテゴリーの部分だけで話を進められてもどこかピンとこない複雑な思いがあるのです。
 

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親の会

 以前学習障害児(LD)の親の会に参加していた時期がありました。
 初めてLD児の親の会に参加したときは長男が小学校の4年生のころでした。
 最初は保育園や幼稚園で悩みを理解してもらえる親や先生も(あの当時は)ほとんどいなかったこともあります。
 話をすると、「みな同じような悩みを経て今に至っているんだ」と同感や共感の言葉をいただき、自分だけが悩んでいるんじゃないって安心感をもらいました。
 たいていあとから参加するときは、すでに立ち上がっているところに入るので、最初に会を立ちあげた人の思いや立ち上げたきっかけをも聴くことになりますし、また古株の親たちのお子さんも高校生や社会人となっている例も多いです。
 そこに、幼児期・学齢期の子どもを持つ親たちも何かヒントを得たくて自分が参加したい親の会の情報を探して参加の門をたたきます。
 しかし・・・定例で開かれる会に参加するにつけ、初めて参加してきた人たちの何人かは徐々に足が遠のき次第にドロップアウト。退会しなければいつまでも幽霊会員のままでいるか、思い切ってその会と決別してしまう結果になります(私も)。

 何がそうさせるのか・・?親の会の主催者の意図や会の雰囲気と自分の求めていたものとのギャップ、対象となる子どもたちの障害の特性や年齢層の違いなどからくる話の共有性の問題などいろんな要因があげられます。
 そのLD児の会のほかにも、地域にはアスペルガー児の会、ADHD児の会、自閉症児の会、知的障害者の会など障害名を細分化したような大小さまざまな親の会がありました。
 そこでは単に親の愚痴や悩みを言い合うだけの会もあれば、行政等にも提言するために組織固めをしようとしたり、全国組織の支部的役割を担っているところなどとさまざまです。
 
 私が参加したLDの会の会長さんは知的障害を持つお子さんで当時は養護学校から作業所(就労支援事業所)に通所させている方でした。学習障害といっても狭義の読み書き計算が苦手な子どもさんではなく知的障害をベースにしているので、本来定義されているLDの会というものでもなく、当時の障害名のトピックになっていたのが、LDやADHDという言葉でした。(障害名はそのブームとともに変わりうるものです)その当時立ち上げた親御さんたちも何人か参加していました。
 だからLDの会とはいうものの、ほとんどのお子さんは知的障害や発達障害児(ADHDや自閉症酢ペクトラム、アスペルガーなど)の子どもさんでした。

 確かに先輩親子の現状を聞くことは、まだその年齢に達していないお子さんの親たちにとっては、学校とのやり取りや進路などの情報については一つの参考にはなるかもしれません。
 しかし、会に参加するにつれて、次第に自分が今悩んでいる内容と会のあり方へのギャップも次第に大きくなっていくものです。 特に全国組織の支部的な位置づけのある会だと、中央からのノルマに応えなければならなかったり(会の運営に対する上納金の納入や各種研修会への動員要請など)、何事も会長の一存で事が進んでいくことへ私は疑問を持ち始めたのでした。
 定例会に参加するたびに、誰が決めたのか、「来月は○○先生を呼んで講演会をするから、スタッフとしてみなさん役割分担して」とすでに話が決まっていたり、季節の行事が前からしているところだと、それを当然のごとく新しく入った人も参加することが前提で行事の担当を決めさせられたり。・・・。
 新たに参加した人にとっては、何も意見も言えず(言えばこれまでの会の運営を否定されたように思われても困るので言い方も気をつけなければいけないが)、前向きな意見を言うことも許されない雰囲気。最初からいる会員のほうの意見が優先されるような・・・。そして後から参加した人たちは何となく肩身を狭くしながら関わることになるから、次第に新規参入しても会員が増えず昔からの会員だけが今も残り、子どもの年齢も悩みの種類も変化しているにも関わらず、相変わらず「LD児親の会」という名称のままに団体登録していることになっていくのです。

  不登校親の会についても同じです。
  私は二つの親の会に参加していました。(一つは今も継続中です)
  最初の親の会も、あるNPO団体の不登校支援に子どもの相談をした当事者だった親が、自分の体験通して親の居場所作りの必要性からそのNPO団体の建物の一角を借りて主宰しています。主宰して十数年になります。
  その会長さんのお子さんも当時は中学生・高校生のころで現在は20代後半・30代になっています。
  初めて参加の方(大部分は中学生や高校生を持つ親が多い)に対しては、自分の体験談を延々独り舞台のようにしゃべります。最初のころは先輩親の話をみなうんうんとうなずいて聞いていますが、毎回新しい人が参加するたびに同じ話を聞かされるので「またか」という気分になります。自分たちの発言や気持ちを吐露する時間も少なくなり、結局会長さんの話を聞きにきたような消化不良な気持ちになったこともあります。
  彼女のお子さん(二人とも)はは学校復帰はできませんでしたが、その後も精神症状のほうがメインになり精神科受診を通してむしろそっちの方面の支援を受けたり、引きこもったり体調に左右されやすいようです。
  自分の体験(私はこういう子をもったことでこんなに勉強したとか、こういう子達はこういうふうに対応すればいいんだという持論)を聞かせたい意図がありありで、彼女がしゃべると話が長くなります。
   その会でも当事者を呼んだり、自分たちが聞きたい講師を呼び勉強会をしたりで、それはそれで情報として参考にもなったし、わが子の将来像もある程度推測するヒントにもなったことは確かですが、やはり、その会もだんだん自分の求めているものとのギャップから行かなくなりました。
  もともとそのNPO自体の理念や運営の仕方にあまり賛同しかねていたこともありますが、何よりも会長さんの「私はわが子をとおしてこんなに勉強してきたんだ。こんな私を認めて欲しい」オーラがバンバンに伝わってきたから。
 
 しかし、会長さんのお子さんは誤解を恐れずに言えば、社会参加はできていません。新しく入ってくる親たちは何とかして(あわよくば)学校復帰へのノウハウを教えてもらいたいだったり、不登校の子の将来が心配だから、学校に行かなくても生きていける道を探してあげたいという思いでヒントをもらいたくて参加する人たちです。最初は誰しもそんな心境でしょう。
 でも、会長さんが話すことは、「私なんかここまでくるのに10年もかかったのよ。ゆっくりでいいのよ。まずは子どもの気持ちを組み込むことよ」と。もちろん、どちらの考え方や言い分も間違いではないのでしょうが、新たに参加した人にとってはその言葉を聞いて、「ええっ!そんなにかかるの?社会にも出れないんだろうか・・・」という新たな不安を呼び起こしてしまう・・・・。
 会長自身、こんなに子どもたちのためにがんばってきたのに、子どもは相変わらず引きこもっている現実。子ども二人とも社会になじめず精神科のお世話になっているという地域での世間からの評価などに対する複雑な思いなど、本音の部分では語りにくい心境もあるんじゃないだろうかと慮ることはできます。

 だから会長自身にとっては、「自分の居場所」としてこの親の会をいまだに「会長」という立場で運営主宰しているのではないか。
 会を運営していればいろんな意見もあったり、NPO団体との中での課題もあるようです。
 会長は「わたしだってやりたくて会長になったんじゃな。もう(10年以上)やっていると、誰か私の後を引き受けてくれる人はいないかって思うけど誰も引き受けてくれないから仕方なしに(会長を)やっている。」「姑も認知症になり介護でくたくた。こっち(親の会)のほうまで手が回らない。私が休むと会も休会になってしまう」と私にぼやいたことがあります。
 私は「そんなにやめたいならほかの人に会長を譲ればいいじゃないですか」と返したら、「でも、誰か替わりに定例会をやってっていっても誰も手をあげないのよ。だから仕方なく続けているのよ」と。
 (そのときは私が会長の悩みや愚痴の聞き役になったことがありました。会長から突然メールがきて、「最近お会いていませんね。何か悩みがあったら個人的にお話しましょう」と誘われるので、何回かに1回は外で会ったこともありましたが、いつも私の話を聞くよりも自分の話をずーっとするので、私が呼ばれるときは自分のストレス発散の意味あいが大きいのだろうなあと思いました)
 本当は自分自身が一番その会長という役割を捨てたくない。そしてそのことは会のみんなも感じているからあえてでしゃばったことができないんじゃないかと思ってしまいます。
 
 少なくても私が参加した親の会の会長さんの実情です。
 みんな会を立ち上げた当初は仲間意識を求め合ったり、居場所作りに一生懸命取り組もうとするのですが、参加する方もそれに参加する目的や子どもの対象年齢もさまざまであり、それを会としてまとめ、存続させるための工夫やエネルギーも大きいと思うし、会長の負担も確かに大きいものもあるかと思います。
 しかし、それぞれの立場の親の思いをどう汲み取り、いろんな意見や要望があっても、立ち上げた人の感覚や意見が優先され、結局は会長自身も「自分の居場所」として会長という役割を譲りたくなくなり、過去の体験談を新しい人にもお話しすることで、自分の存在価値を認められたいのじゃないかと思ったりしてしまいます。
 また、何よりもテーマの情報は会長のところに集まってきますから、またほかの団体の人たちとも人脈をつくれるし、それもこういう会を主宰している人たちのよりどころになっているのだろうと思います。


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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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