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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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本当の特別支援教育とは?

 少子化の世の中なのに、なんでこうも「発達障害」と診断される子どもが増えてきているのでしょうか?

 確かに昔は「ちょっと個性的な子」と思われていた子も、それなりに社会に適応し、最終的には親兄弟や親族の助けも借りながら人生を送ってきていたと思います。
 
 
 「特別支援教育」=「ひとりひとりの個性を重視した教育体系」といううたい文句も、本当に発達障害の子どもたちにとって支援につながる教育なのか?

 最初から「発達障害」といわれる子どもたちの「特性」を活かした教育なんて名ばかりで、実際は文部科学省が示す学習指導要領をそのまま踏襲し、学習の指導法も現場の教師にお任せで、あくまでも「左脳」を中心とする教育指導のなかでしか教えられない教師たち。

 当然、目の前の「右脳」優先の子どもたちにとっては、教室という空間さえもが「過ごしにくい場」ともなってしまいます。

 一斉に一人の教師の発する言語を聴覚で聴きとり、また同時に視覚で黒板の板書を書き移す。中には感覚過敏な生徒の場合は他のクラス内の大勢の生徒のざわめきは刺激が大きすぎて、それでなくてもパニックや多動になる子さえ存在します。

 普通の子どもたちに教える方法でしか、学習指導要領は書かれていないから、それぞれの子(個)の脳力(脳のしくみや思考回路)に応じた理解の仕方には目もくれない(例えばインド式算数の計算の仕方などもあるがそっちの方が頭に入りやすい子の場合もある)。

 発達障害を専門にしている学習塾経営の方が言っていました。「学校では文科省の学習指導要領をそのまま律儀に踏襲して、目の前の障害を持つ子に指導しても、もともと頭の理解の仕方が違うのに、却って混乱を招くもとになっている。」
 「大学で“特別支援教育を学んできました”といっても、実際にこういう子たちを前に教えると使い物にならない先生は沢山いる」と・・・。また「障害児教育といっても、所詮最初から“こういう子はここまでしかできない”という知的能力の限界が先にあり、才能を伸ばすとか学力を伸ばす指導法など教わってはきていない学生がほとんどで、そういう人たちが教師となり学校で障害児を教育しているのだ」と・・。

 発達障害の子どもさんの中には、特別に右脳が優れている人たちも多く、芸術分野で秀でる人たちも中にはいます。
 しかし、そういう人でも、幼少期や学童期は必ずしも「優秀」だったかと言えば、エジソンもしかり、山下清もしかり、みんな教師からは「馬鹿」と言われたり「問題児」と思われたりしてきた人たちです。
 しかし、エジソンの母親が息子の興味関心を大事にし、「この子は素晴らしい才能がある」と信じたおかげで、また山下清の絵をある大学教授が「素晴らしい絵」と認めたことで、彼らの才能が大きく花開いたという事実があります。(認める人の存在がなかったら、山下清も単なる放浪癖のある知的障害者で終わっていたでしょう)
 決して、学校教育の「おかげ」で能力が発揮できたわけではないのです。
 何か一つの才能(とまでいかなくても、得意な分野)を強化することで、彼ら自身も「自信」が湧き、ますます「やる気」をおこし、ひいては世の中に貢献できる業績に結びついたわけです。

 もう、学校教育のやり方に「発達障害」の子どもたちを合わせる教育ではなく、教育のやり方を「発達障害」の得意性を伸ばす方法に変えていかない限り、いつまでも「算数が苦手」だの、「読み書きができない」だの、そんな次元の部分だけを頑張らせようとするあまり、二次障害を引き起こしたり、ますます社会への生きにくさを抱える子ども(⇒大人へ)たちを作ってしまうのではないかと感じています。

 知的に高い発達障害の場合は、学力的な部分はクリアーしても対人関係のつまずきで職場になじめず、結果的に二次障害になったりうつになったりしてドロップアウトする人たちもいます。そして挙句の果てには「精神障害」というレッテルをはったり、一般就労の場がなければ仕方なく「精神障害者手帳」を取らせ「障害者雇用」での就労の場を確保したり、障害者として福祉的就労の場に紹介されるような道しかないように思えます。


 今の、学校教育は、将来の企業就労やこれからのグローバル社会で生きぬくための国際力を身につけさせるための目的があるから、結局はそういう一部の適応できる子どもたちにとっての教育であり、発達障害児の「一人ひとりにある独特な個性」を重んじる教育にはなっていません。

 わが長男も、絵を描くのが得意で、自閉傾向のあるお子さんに共通な「一度見た風景はすべて頭の中にインプットされており、細部を思い出して(何も見なくても)細かく再現して描く」能力があります。
 彼の描く絵は、一般に学校教育の美術の単元で指導されるような絵ではありません。また学校の美術の時間の課題として出される絵には興味を示しません。
 しかし、彼の絵を見る人たちは、「すごい才能があるね。こんなに細かくどうして描けるのか?」と驚嘆します。学校教育の美術ではアウトサイダー的な彼の絵は評価されません。学校の教師たちも、彼が自由に描く絵は誉めてくれても、じゃあ、それをもっと伸ばしてあげようという発想にはならないのです。(中学校の特別支援コーディネーターの先生は美術の先生なのにもかかわらず・・・)

 彼の絵をある方にお見せしたところ、その先生は「凄いじゃないですか。こんな絵を描けるのはサバン症候群の特性があるかもしれない」ともおっしゃってくださいました。そこまで大げさなものではないかもしれませんが、親としてはそういう目で評価されることは非常に嬉しいものです。
 たぶん、そういう部分をもっと周りも評価し、学校の中でも教師や生徒同士も「得意なもの」を大いに認め存在を認めてもらえるならば、学校に行くことだって苦痛ではなくなっていたかもしれません。

 こういう子たちは(わが子に限らず)独特の世界観や芸術性を発揮できる潜在能力を秘めていると思います。そういう「キラリと光る」才能を早いうちから見出してあげ、「普通の子とは違うカリキュラムで、個性を伸ばせる教育」をしてあげたならば、自尊心も高いままでいられるだろうと思います。

 「ひとりひとり違ってみんないい」なんて表面的な標語だけが独り歩きしたまま、学校教育は何にも変わっていません。
 
 ある養護学校の教師が、以前職場に養護学校卒業後の進路についてのお願いにやってきたことがありました。
 聞こえてくる会話は、「いやあ、養護学校を卒業しても、雇ってくれる職場も少なくて・・。福祉作業所くらいにしか行き場所がないだよ、ああいう子たちは・・。」
 養護学校の教師ですらそんな意識です。「ああいう子」という表現にもとても違和感がありました。

 今の、文科省の学習指導要領や日本の障害児教育、発達障害児を対象とした「特別支援教育」のありかたを根本から見直さない限り、この子たちを取り巻く社会や世間の目は変わっていかないでしょう。

 税金が納められること(それは必ずしも一般企業への就労だけをめざすのではないのですが)、それぞれの能力の範囲内でお金に変えられる職業を見つけだしていくこと、それがどんな分野であっても発達障害の人たちも特異を得意に変えられるように・・・。
 学びの方法にも彼らなりのやり方で学んでいける仕組みづくりが今、本当に問われているのだと思います。

 ある人が言っていました。「発達障害の子たちも税金を払える社会にならなければ・・。」「いつまでも社会のお荷物的存在、施しを受ける存在では日本の経済的にも維持できない社会がいずれ来てしまうかもしれない。」「これからの企業は、こういう子どもたちにも目をむけ、働ける場を提供していかなければ企業の社会貢献度も評価される時代にきている」と・・・。

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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