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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

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発達障害の援助を考える(2)

子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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(本文より引用)

○発達障害が誤解されたとき
 家族や関係者が手に入れている発達障害についての知識は、歴史的な変遷や概念上の複雑さ(見ようによってはあやふやさ)まで説明されたものではなく、その時その時に流布している断片的な知識になりがちである。そのような風潮に張り合っているのか迎合しているのかはよくわからないが、訳知り顔によりこまかい知識をひけらかすだけで、肝心の発達障害という問題が説明できない専門家も存在するような気がする。そのような知識を断片的に手に入れただけでは、それがたとえどんなに新しい知見であっても、発達障害という概念についての基本的な理解を持つことは難しい。たしかに、もろもろの行動の特徴や特定の能力についての偏りをもとにして発達障害は診断されるのだが、その結果そうしたものの集まりが発達障害だと考えてしまうと、私たちの援助はたくさんの制約を受け、いつかどこかで大きくつまずく結果になるだろう。
 発達障害では機能と環境のぶつかり合いから、症状と見なされるいろいろな問題が起きてくる。時間が進んでいく限り、環境が入れ替わるたびごとに、あるいは本人の機能が変化し発達していく道筋によって、次々と新しい「症状」が出ては消えていく運命にある。それを障害の本質だと誤解した家族や関係者は、そのような「症状」をなんとか解消しようとして、新しい「症状」が出現するたびに追いかけては対応することを繰り返していくが、いつか消耗してしまうのではないかと心配になる。熱心な臨床家は新しい「症状」を見つけるたびに、新たなターゲットの出現を見て闘志を燃やしているようだが、どこか自己満足の気配はないだろうか。

 発達障害への援助について、援助者の立場が違ったり、よって立つ理論が違ったりすると、目標が異なって混乱してしまうといったエピソードがしばしば話題になる。たとえば施設に入所している子どもたちが学校へ通う場合、まずは日々の生活を安定させたいと考える施設の職員と、なんとか早くAならAという能力を身につけたいと考える学校の教師との間で軋轢が生じることはすくなくない。同じような目標や優先順位の食い違いが、家族と職員や家族と教師の間でも生じて、場合によっては感情的なやりとりが見うけられるkともある。
 問題は、複数の援助がお互いに相容れない場面が生じたためだと見えるかもしれない。解決にはどちらの援助が優先されるのか(どちらの援助がエラいのか!)というお決まりのいざこざが用意される。(だいたい良心的なほうが退いて収まるようだ)。この手のお寒いいざこざは、関係者が発達障害の概念を誤解しているために生じていると考えられる。つまり「症状」や「機能の偏り」が発達障害の正体であり、「症状」を解消すること、「能力」を身につけることが何にもまして必要だと思いこんでいるからである。皮肉な言い方をすれば、大人同士が勝手にいざこざを起こしていても別にかまわないのだが、問題はそのような人たちによる援助が子どもたちに害を与えたり、互いの効果を相殺したりしかねないという点にある。
 発達障害の症状の多くは、彼らが生活をしていくなかで、さまざまな刺激にぶつかることで生まれてくる波しぶきのようなものである。優先されなければならないのは波しぶきを消すことではなく(もちろんそれは小さいほうがいいのだが)、彼らの進路が開けていくこと、すなわち彼らの人生がたくましく進んでいくことにほかならない。援助はあくまでも手助けに過ぎず、彼らという船が自分たちの横を通り過ぎるときに、たとえば風をよけるとか、波の抵抗が小さくなるように手伝うとかいった方法で応援するのが本文なのである。応援団である関係者によっては、「症状」と格闘するようなイメージはあまり必要でない気がする。むしろ人生という冒険の同行者として、時には波しぶきを楽しんでもかまわないとさえ思うのだ。

 繰り返すが、筆者には臨床家が日頃行っている援助を否定する気持ちはまったくない。特定の場所、特定の方法で私たちは具体的な援助を行うべきなのである。しかし、はたしてその援助がこれまで述べてきたような発達障害の基本的概念に沿ったものになっているかどうかは、援助者の目が発達障害をみるまなざしであるのか否かにかかっている。そんなに優れた技法でも、「症状」を打ち消すことだけを目標にしている限り、彼らの人生を肯定的に見つめることはできないだろう。役に立つ手助けを研鑽すると同時に、彼らとともに人生の旅路を楽しめるように、発達障害についての本質的な理解を進めようではないか。
 もし家族が発達障害を誤解したままでいたら、ハンディを持ちながらたくましく成長していく子どもたちの姿と、家族が持つであろう期待、発達障害がよくなるとかあるいは8余り使いたくはないけれど)治るとかいった言葉からくるイメージがまったく重ならない事になってしまう。実際にも、専門家以上に知識を集め、敬服に値する努力をはらって養育に取り組んだ結果、見事なまでに子どもが成長しているのにもかかわらず、こころの穴が埋められない家族に出会うことがある。その不幸をいったいだれが背負うというのか。専門家のなすべき仕事は、このような不幸を起こさないように、発達障害の概念をうまく家族に伝えることから始められるべきだろう。

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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