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ひとりごと ~障害・福祉・医療・子育てを考える~

発達障害の子を持つ親として、また医療・福祉・介護にかかわる仕事を 通 して感じたことをつづるブログです.

「還る家」をさがす子どもたち

「還る家」をさがす子どもたち―「よくやってるよ」そのひと言がほしかった「還る家」をさがす子どもたち―「よくやってるよ」そのひと言がほしかった
(1997/05/01)
富田 富士也

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 もともと子どもは、親の負を背負っていても、そんなこと親も好きでそのように産んだわけではないことはわかっているので、言わないものです。そんなことを言ったら、親だってその親には言いたいものです。親がいかなる身になっても、子の自分を見捨てない、と信じ切っているからです。元をただせば、親の負を背負って子どもは娑婆を生きている。そのことを親は心に留めていてくれると思うからです。でも、苦しいとその親の気持ちを確認したくて言ってしまうのです。
 ところが、にもかかわらず、「お前が努力しないからできないんだ」と言われると、血が逆流するんです。みんな勉強しています。努力しています。だけど、できないものはできないということがあるのです。この子どもの心を親が受け止められないと、子どもは言いたくなるのです。
 「じゃあ、どうして強い子に産んでくれなかったのか」
 「頭のいい子に産んでほしかったよ」
 「だれが産んでくれと頼んだ」
と言いたくなるのです。元をただせば、 
 「親であるおまえのせいじゃないか。気の弱いのも、おまえの責任を俺が背負って生きていくんだよ。俺には責任がないのに、責任があるとしてそのリスクを背負っていかなければならない。それでも生きたいと思っているんだよ。」と言いたくなるんです。
 はじめから親の責任を追及する子はめったにいないものです。いまある自分の苦しみは、「親がすべての責任だ」と言い切ったアダルトチルドレンの話題も熱が冷めれば、みんなその真意に気づき、新たな親子関係をさがしはじめています。
 みんなはじめは自分で背負っていこうと思っている。その背負っていこうという気持ちを無視して、「おまえは努力が足りない」と言うから子どもは「それはないよ」と言いたくはないけど言ってしまうのです。だから子どもにこんなにまでして親を責めるような言い方をさせてはいけません。
 
 人は関係の中に身をおいているかぎり、必ず“言い訳”を持っているものです。だから事の善し悪しを安易に決めつけられたくはないのです。
 正直な思いを受け止めてもらえない経験を重ねると、報われなさが増幅し、話すこともあきらめたり、トラブルをおこすことが怖くなったり、うそをついたりしてしまうものです。話しても無駄だと思うのでしょう。それだけになかなか正直に気持ちを語れない子には、積極的に周りは話したくなるような聞き方を心がける必要があります。
 それには、親の不安(子どもの欠点や弱点)を打ち消すような尋問的な問いかけは後回しにして、まず「そうせざるを得なかった」気持ちを汲み取るような聴き方に努力してみたいものです。
 事実の前に、おこした気持ちを肯定してくれると思えば、うそをつく必要もなく、またその事実も謙虚に受け入れていけるものです。
 
 ・大切な何かを一つ捨てなければ、新たな一歩を踏み出せないときもある。
 ・正しいから何を言ってもいいというものではない。
 ・うそをつくのは自責の念と否定されずに安心して正直に話せる雰囲気がないからだ。
 ・「努力」の可能性は本人が決めること。他人が口出すことではない。
 ・症状や行動には必ず意味があると思い寄り添うとき、光がさす。
 ・人は心寄せてくれる人との出会いの中で生き直していく。
 ・時に人は寂しいとき、苛立ったり暴力的になる。
 ・「心」とは、関係の中でしか生まれない。
 
 人は成長する大事なところで否定ばかりされていると、人から認められていない、今の自分を確認するという悲しい体験の積み重ねをしていくことになる。そこで反発するエネルギーを出せる子はそれが励ましになるかもしれない。でもだれもがそうはなれない。
 その子なりの「努力」を称えるのは、「そのまんまの自分でいいんだよ」という周りの人からの肯定的な声かけである。今の自分に自信が持てない子にとっては、「励ます」言葉が傷つける言葉になることもあるのだ。

 大人は個別的な事情を持って生きている。しがらみ、思惑といったら少しあくが強すぎるだろうか。その中に無垢なまま子どもたちは放り込まれていく。だから、大人にとってその出会いは子どもの健気さ、純真さ、幼さ、かわいさの連続で、忘れていた子ども心が目を覚まし、娑婆の疲れを癒すことができる。
 そして、子どもは少しずつその境遇の中で人間関係の喜びとしんどさを学んで、その子なりの「色」を身につけていく。その「色」に対して親は自分の「色」を塗り込もうとして躍起になりがちである。それが「わが子かわいさ」といったらいいだろうか。「わが子かわいさ」があるから何としても守ろうとするし、その責任も求められる。だが、一方で、その強さが「押しの強さ」となり、子どもの人格をないがしろにする危険があるのだ。

(富田富士也 教育カウンセラー)


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この人が語る不登校

この人が語る「不登校」この人が語る「不登校」
(2002/02)
全国不登校新聞社

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(本文より)

 ●落合恵子(作家) 
 最もしたくないことは、分析して絶対化してしまうということです。人間の気持ちや感情の揺れを見えなくしてしまう。そういう部分は、正直にいってわからないというほかなくて、それをわかったものとしてどんどん進めてしまってはいけないと思います。
 いま起きている多くの事件は、社会システムと深く重なった事件であって、そういう視点が落ちると、個人にすべてが集約されてしまう。マスコミの論調のように「フツーの子がキレた」と。
 それから、文部省(注:文科省)が「心の教育」などと言っていますが、心は自分なりに自分で育てていくものであって、外側から教育できるものではないですよね。
 結局、「心の教育」なんて言っても、管理を強めるということでしかない。学校がいままでチェックしてきたことを、さらに家庭でまでチェックしていこうということのように思います。
 ただでさえ、子どもたちが深呼吸できない状況があるのに、これ以上子どもを追いつめるようなことはしてはならないと思います。

 社会では、「正常」と「異常」というのがクッキリとあるように思われがちだけど、実際には本当に一本の絹糸一本の線を越えた瞬間に、「正常」が「異常」ということになったりする。母の場合も、病院に行ったとたん「こういう薬を飲みなさい、こういう治療が必要ですよ」と言われ続けた。
 母は一時期、本当に一間の部屋から出ることができないことがありました。それから、洗手恐怖症といって、一日中指紋がなくなるくらい手を洗い続けるという症状をもっていたりもしました。
 その母が、ある日「私はこの状況にいるのが一番ラクなのよ」と言ったんですね。私は、彼女にとってそういう状況がラクならば、いまこの状況しか考えられないじゃないかと思いました。
 ベストかどうかはわからないにしても、ベターであるならばいいじゃないか。いま、ここにある彼女の個性として受け入れるしかないじゃないか。彼女に見える景色、むしろ私が学んでいこいう、と。
 まわりは、「なんでみんなと同じにできないんだ」「どこかおかしい」と言い、「フツー」に戻そうとしました。でも、そうしたら、どこにも彼女の居場所がなくなってしまう。だったら強迫神経症を一つの居場所として、そこから見ていってもいいんじゃないかと思ったんです。


 ●立川志の輔(落語家)
 自分の子が不登校でもないのに、不登校のことをちゃんと深く考える人は、あまりいないですよね。そういうちゃんと考えていない人たちが上に立って、文部省の諮問を受けたりして、わかったような顔をして話している。
 自分がバクチや借金で苦しんでいる人は、落語なんか聴きに来ない。むしろそういう経験のない人が「いい話ね」と涙しながら聴いている。それと同じようなことが言えると思いますね。
 不登校のつらさなど、まるで分かっていない人が、公のところで不登校を語っている。不登校を暗いイメージで語るのではなく、それでいいじゃないかとい言えるのは、不登校の子どもや親だけだと思います。


 ●ひろさちや(評論家) 
 作家の安部譲二さんから聞いた話ですが、安部さんが刑務所に入って、お母さんが刑務所に面会に来た時、安部さんは「お母さん、ごめんなさい」と謝ったそうです。しかし、お母さんは「何を言っているの。人が見られない刑務所を見ることができてよかったわよ」と言ったそうです。
 安部さんは、「その一言で自分は立ち直れた。あのとき、否定されていたら、自分は立ち直れなかったかもしれない」とおっしゃっていました。
 私は、これはすごく大事なことだと思います。刑務所に入った人間に、入らなかった方が良かったと言って何になるんだ、と。全面的に自分を肯定してくれる言葉があって、立ち直れるんですよ。本当に愛情の言葉は何かといったら、あなたがあなたであっていい、ということを認めないといけない。

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カウンセラーの人が書いた本

生きにくい子どもたち―カウンセリング日誌から (岩波現代文庫)生きにくい子どもたち―カウンセリング日誌から (岩波現代文庫)
(2009/03/17)
岩宮 恵子

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(本文より)
●無責任な偏食批判
 世の中には、偏食のある子どもをみると、「子どもの好きなものしか食べさせないような、子どもに甘い親が悪い」と、詳しい事情を知りもせずに無責任に親の行動の一面だけを取り上げて批判してしまう人も多い。
 しかし、離乳食の頃から少しでも自分の食べられないものが入ると、ブーッすごい勢いで吹き飛ばしてしまうような、厳しい反応をする子との対応に真剣に取り組んでいる親にまで、その批判が向けられることがあるのではたまらない。
 批判や批評をする人は、世の中にいくらでもいるが、力になるような話し相手になってくれる人は、なかなかいないようだ。
 不安を適当に解消することもできず、どんどん気持ちに余裕がなくなってくると、きっかけはたかが子どもの偏食であっても、自分たち親子は普通の世界から落ちこぼれてしまっているのではないか、というところまで追いつめられてしまうこともあるのだ。
 そうすると、やり場のない気持ちが、「あんたのせいで私がこんな目にあうのよ」といった攻撃的な形をとって、子どもに対して噴出してしまい、食卓が偏食を治すためのすさまじいまでの戦いの場に発展し、親子関係がこじれにこじれてしまうこともある。
 そのこじれてしまった結果だけを見て、こんなに良くない母親だから偏食も治らないんだと判断してしまう人も、これまた世間には多いが、そんな判断をしていても、親も子も救われない。
 そこまで追いつめられた母親の苦しみや悲しみに心を向けていくことの方が、ずっと建設的な働きかけになる。
 子どもの偏食に頭を悩ませている親の中には、幼稚園や学校からのお知らせ帳などに、「給食の野菜を残してしまいました」などと、ただ事実関係が書いてあるだけでも、ショックを受けてしまう人もいる。そして、「食べられるようになるため、家でも練習させてあげてください」などというアドバイスがより一層落ち込ませる材料になることもある。
 まして先生のほうに、好き嫌いがあるのは問題だ、何とか矯正しなくてはという価値観が強いと、よけいに親をせめているようなニュアンスが伝わってしまうので、ショックが大きくなる。

●明るい話の裏の闇 
大人の言うことを「シカト」して聞こえないふりをしたり、「うるせえなあ」「だまっていろ」とすごんだりするようなわかりやすい形で、「今、自分はいろいろ心の中がごちゃごちゃしていて大変なんだよ」ということを、ストレートに表現してくれる親切な子どもなかりではないのだ。
 中には、楽しげな話や簡単な悩みを話してみたりすることで(それはその子にとってはどうでもいいような表面的な話なのである)大人を一応安心させておいてから、自分の殻にこもっている子もいる。そういう子どもの中には、実のところ、生きるか死ぬかといったレベルの深刻な問題を抱えている子もいる。
 素行のよくない子をその表面的な問題だけで、悪い子だと決めつけてはいけないのと同じように、過剰適応といってもいいほど、大人から見て問題のない子どもの中に、深刻な問題を抱えている子がいることも、忘れてはならない。
 表面的ではない見方で自分を見守ってくれる大人がいるだけでも、ずいぶんその子は救われる。しかし、そんなふうにがんばって適応している子どものなかには、「この子は実は無理してやっているんだな」ということがわかる大人に対してだけ、妙に反抗的になる子もいる。ぼろを出さないように、鉄壁の防御で現実適応しているのに、そのほころびを見つけられたような気がして、ものすごく警戒してしまうのだ。
 そういった子の抱えている課題の重さがわかったからといって、下手にそれを普通の日常的な会話のレベルで触れてしまうと、深く傷つけてしまう危険もあるので、注意が必要である。わかりながらもごく普通に接しているのが一番安全であるし、支える力になる。
 自分が実は大変だということもわかってほしい。でも、わかられすぎるのもこわい。自分の弱さをわかってほしい。でも弱さを知られた相手には憎しみもわいてくる。
 こういった複雑な心境が、思春期の子どもの心の中には渦巻いていることを、頭の片隅にいつも置いておく必要がある。

(臨床心理士)

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「僕たちはいらない人間ですか?」

僕たちはいらない人間ですか?―少年院からの手紙僕たちはいらない人間ですか?―少年院からの手紙
(2000/10)
伊藤 幸弘

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(本文より引用)
●子どもたちの荒れについて
 基本的な問題としては、子どもの中に自己嫌悪感、あるいは自己否定感というものが強くあると思います。それはなぜかというと、人から肯定してもらう経験の足りなさだと思います。
 親は「子どものことを一生懸命に思っている」と言いますけど、それは「自分の思い通りの子になってほしい」と言っているだけなのです。そういう発想でいくらお金をかけても、手をかけても子どもの中には自己肯定感は育ちません。
 「望むような子になってほしい」ということは、「望むような子どもになっていない」ということですから。そうすると、親としてまだ承認しきれない、好きになりきれない、あるいは肯定してあげられない・・・ということばかり伝えていることになります。
 
 例えば、警察を呼べば「これは家庭内のことだから民事不介入です。お子さんがこうなったのは親御さんの責任です」
 学校の先生は、「学校でやっているのなら学校にも責任がありますが、家庭でのことは学校には関係ありません」と。そのあげく「精神病院に入れろ」です。
 精神科では、「異常なし」ということで退院。ところが「よくも俺を病院に入れたな!」と子どもはさらに暴れるわけです。すると親は「精神科の医者が悪い」となる。
 子どもは子どもで「俺がこんなことになったのは、お前たちのせいだ」と親を責める。誰もこの子どもをきちんと最後まで受け止めようとしないのです。これではダメですよね・・。

 著者:伊藤幸弘(非行カウンセラー)← プロフィールはこちら


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援助の中で自分が見える(2)

ケアへの出発―援助のなかで自分が見える(岸 良範、佐藤俊一、平野かよ子共著 医学書院)

 (本文引用)
●不登校の子どもをもつ母親の気づき
 彼女は自分の娘が死んだ夢を見た。自分の心の中に、娘の死を願う気持ちがあるのではないかと戸惑いを感じながらも、夢のなかでは今までに意識しなかった娘に対する自分の感情に気づいた。
 これまで彼女は、不登校を続ける自分の娘を激しく叱り、また「親がこんなに子どものためにしてあげているのに、その報いがない」「せっかくここまで育ててやったのに、私がしてほしいことは何一つやってくれない」との感情を娘にぶつけてきていたのである。それは、親が一方的に子どもに尽くし子どもを育ててきて、子どもの側からは何も受け取るものがなかったという気持ちをあらわにしてきていた。

 娘が学校に行かない、今まで本当に良い子であった娘が急に学校に行かなくなることは、どの母親にとっても、大変な苦しみである。娘を一方的に「悪い子」「異常な子」という枠組みのなかにくくらなければ、「どこに出しても恥ずかしくない家族」をつくりあげてきたという母親自身にとっての依って立つ基盤は、保つことができなくなってしまうものとなるわけである。そのためには、娘が「いけない子」になったから、「異常」になったから、こうなったのであって、私には何も落ち度はないという感情を母親は持ち続ける必要があったのである。

 この母親は、子どもを一方的に「責める」という形であったが、その責めるという形において実は一生懸命に子どもに関わりを求めていたのである。そして、そのプロセスのなかで、次第に自分のさまざまな問題が見えてくることとなり、何も子どもだけを一方的に支えてきたわけではなく、彼女自身も子どもの存在そのものに支えられていたということに気づくのである。

 その母親の背景には、青年期の進路の自己決定について挫折があった。また親の反対を押し切っての結婚、夫の職業を、「世間に後ろ指をさされてはならない」職種として感じていたこともあり、自分の親族や世間から見て、何の欠陥もない家族を強引につくろうとしてきた。その意味においては、子どもには献身的にふるまうことによって、逆に親の希望どおりの生き方をしてほしいという願いを強く持っていた。子どもに自分の人生を託す形としてかかわり、結局は子どもに依存する生き方となっていたわけである。

 しかしながら、この夢を契機として、子どもに自分の処理できないでいた問題をひき受けさせていることに気づき、自分のなかでこれまで未処理としてきた問題を自分で解決していく道を探し始めたのである。
 ここでの「子どもの死」の夢は、自分で依存していた対象の喪失であるが、逆にそれは母親自身が、自分の生き方を模索する始まりとなったのである。
 このように、われわれはたとえどんな感情をもっていたにしろ、誰かにかかわり続けていくとき、自分の意識では思いもつかなかった自分の姿に、突然に触れることがある。そして、それはむしろそのときに本人にとっては、とても大切な、その時点での成長への課題であったりするのである。

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子ども理解は自分を見つめること

●「人生学」ことはじめ(河合隼雄)
 「お母さんだけには何でも正直に言いなさい」と説教する母親がいるけれど、子どもが自分の秘密を大切にするということ、信頼や誇りを守ることについて無知すぎるのではないか。

 「嫌な子で、家庭に問題があるのでは」というのは、それだけで分かった気になる「閉じた理解」です。ところが自分には注意が払われていなかったことを鋭く感じ取っていたわけで、「感じの悪い子」をつくっていたのは読み手側の責任。
 「ああ、そうだったのか、感受性の鋭い子だなあ」というのが、「開かれた心の理解」で、より発展性のある理解です。
 「開かれた理解」をするためには、相手に対して自らの心をいつでも開いた状態でいることが必要です。開きすぎでもなく、突き放しもしない心の状態で、日々の真摯な訓練が必要です。

 誰か困っている人を救ってあげたいという願望は、多くの人が持っている。そのような願望が意識的・無意識的に動き出すと、困ったことに「善意の押しつけ」が始まる。
 本人は良いことをしているつもりだが、されている方は「土足で踏み込まれる」「傷を逆なでされる」とさえ感じるのだ。
 たいてい人間は、「良いこと」をしていると無反省になる。良いことをしているつもりで他人を苦しめていることなどと考えてもみない。
 一番大切なことは、安心感を与え、感情を共にする人が傍らに居てくれるということなのだ。そのような人間関係に支えられ、苦しみ悲しんでいる人の心の底に、自己回復、自己治癒の兆しがそっと生れてくる。
 人間は簡単に人を「救済」などできない。

 「心のやすらぎ」とは、その場にいるだけで何かほっとした気持ちになる。別に何かを話すとか何もないのだけれど、心がやすらいでくる。このような場所とか人とかを持っていると、その人はどんなにか幸福であろう。


 ●カウンセリングと児童文学(『カウンセリングを考える』河合隼雄) 
 学校へ行かない子 
 「どうしたら学校へ行けるだろう」というようなことを話しているんですけれども、「どうしたら学校へ行けるでしょう」というのは、日常生活の話です。
 しかし、その背後には必ず、“学校とは何を意味しているんだろう”とか“なぜ、我々は学校へ行かねばならないのか”とか、“高校生というのは何を目的にして生きているんだ”という非常に深い問題が隠されています。

 我々大人が善意―――正しいことだ、良いことだと思ってやっていることが、残念ながら―――人の子どもを死の方へ追いやっていく結果になっているという恐ろしさです。

 本当は、カウンセラーと言っているけれども、ぼくらは一体何をしているのか、そして自分の態度というのは、本当にどういう意味を持っているのか。
 つまり、○○という子と接するということ、それは子どもを救ってやるとか、かわいそうな子どもを良くしてやるとか、そんなことではないのです。
 そうした子どもは、私はなぜ生きているのか、私のアイデンティティは何か、ということをもっと考えなさい、もっと深めなさいということのために遣わされた天使だ、というふうに、この本も読めるわけです。
 我々は、それを大きい顔をして拒否しているだけじゃなく、偉そうに言っていないかというふうなことを考えさせられます。

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自分の心次第で生き方は変わる?

e love smile ~いい愛の笑顔を~ memory.1 (PARADE BOOKS)e love smile ~いい愛の笑顔を~ memory.1 (PARADE BOOKS)
(2011/07/20)
島田 妙子

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e love smile memory.2 〜いい愛の笑顔を〜e love smile memory.2 〜いい愛の笑顔を〜
(2011/09/20)
島田 妙子

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 この本を書いた島田妙子さんは、小学校2年から中学2年まで実父と継母からの壮絶な虐待を経験しました。
 幼児期の実母との別れ、父子家庭から継母との生活から壮絶な虐待(身体的、ネグレクト)がはじまり、自分たちを愛してくれていた実父からも虐待を受けるようになります。
 中学2年の時は、「このまま家にいたら殺されるかもしれない」とまで虐待がエスカレートし、担任の先生等からの協力もあり虐待が発覚し、島田さんは2回目の養護施設生活を送ることになり、ほどなく継母と実父が離婚。
 しかし中学卒業を目前に、父親が自殺(未遂)を図り、中卒後は父の看病とアルバイトや住み込みで働きながら生活。その父親も死亡。
 その後映像会社に転職し、結婚後は認知症の舅と車椅子の姑の介護、自閉症の息子さんの子育て、一番信頼していた小兄の闘病生活への支えなど、身の回りのこれでもか、これでもかと起こる様々な試練に、いつも一つずつ前向きに向き合ったきた足跡を綴っています。

 現在は、高校生の娘さんを筆頭に3人のお子さん(長男が自閉症=アスペルガー症候群)の母親として、またDVDアルバム製作会社の経営者として、姑の介護もこなす嫁としてのまさにパワフルな生き方をしている方です。
 そして、自身の体験をもとに、「子ども虐待防止オレンジリボン運動」の支援企業として各方面で講演会活動を通じ、こども虐待の現状と親支援の必要性を訴えています。
 
 虐待は、単に「虐待している人」を通報し「悪者」にし、子どもを保護しただけではその根本の問題は解決しないこと。実父からの虐待にも、あえて公に支援を求めなかったのは、それをしてしまうと実父とはこの先一緒に生活できなくなるのではないかという不安から、「どんなに世間からは虐待する親が非難されても、子どもは親が大好きなんだ」ということを分かってほしい。そして虐待者にもそうせざるを得ない「事情」があり、そこを支援してあげる必要があることを、それこそ実体験から講演し、啓発活動を行っています。
 
 この本はそんな自身の生い立ちから虐待の体験、また兄弟愛や親への思い、自分の体験を通して感じた生き方の姿勢が書かれています。

 一番親の愛情が必要な時期に、壮絶な虐待を体験したにも関わらず、なぜこんなにまで親のことをどこまでも肯定し、また自己否定や卑屈にならないで、前向きに自己肯定してこれたのか、そこには、その時々で登場する周りの人たちの愛情ある関わりがあったことも大きな要因ですが、この本を読んでいくとそれだけではなく、決して環境や周囲のせいにはしない、島田さんの「強さ」を感じることができとても感動しました。
 また虐待の事実も、目を覆いたくなるようなものが中にはユーモアも交えながら書かれてあり、一気に読んでしまえる本です。

 本のなかで島田さんは言っています。

「自分の身に起こること全て“大肯定”して生きているから・・。
どんな事も経験させてもらって、“ありがとう・・”って思うだけで感謝の気持ちが溢れでてきて気持ちも身体もとても軽くなるのです。
 私の人生は今までも、そしてこれからも“経験”とまわりの“人”の存在で成り立っていくのではないかなと思っています。
 生きている事は、辛い事の繰り返しだと思っています。
 辛い事の内容は人それぞれ感じ方も違うと思いますが、自分がそれを“辛い”と決めてしまって発生している場合もあるのではないかな・・って。

親への恨みを持っていた時は、何をしてもうまくいかなかった。
 うまくいかない事は全て、人や環境のせいにしてきた。
 
 『過去の事は水に流して、昔の恨みや悲しみをいつまでも考え続けることは絶対にしてはいけない。』
 
 『自分の人生を決めるのは必ず自分・・・』
 
 私には、自分だけの神様が心の中に住んでいます。
 自分の中の神様には絶対に嘘はつけないし、ごまかせないから私は自信をもって真っ直ぐに生きて生きたい。

 『人の口癖はその人の運命を変える』と思っています。

 どうせ今日も起きて同じ一日を過ごして寝るなら、前向きないい言葉をどんどん使っていきましょう。
 本当に前向きない言葉を使っていると、奇跡は起こります。
 そしていい心で溢れている人の傍らへどんどんくっついていってください。
 人は自分より劣ると思う人の傍にいて、自分を安心させてしまうところがあります。
 自分より、凄いな!と思う魅力的な人の傍からあえて離れる人が多いんです。
 不平不満ばっかり言っている人の傍には、同じような人が集まる。
 溢れるパワーのある人の傍には、更にパワーを持った人がいい笑顔でやってくるのです。」

 
 なんかちっぽけなことで悩んでいる自分が恥ずかくなる。
 逆境をも「肯定」してしまうような島田さんの生き方こそ見習いたい!
 なんかとても勇気をもらいました。そして感じることがいっぱいありました。

 島田妙子さんの会社・ブログ・講演会(HP)はこちら。→ http://www.e-jet.co.jp/

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ケアの本質

 最近は、日ごろ職場での人間関係にいろいろ考えることの多い毎日。いろんな職員の対応や言動を反面教師として、「自分だったら、どう対処するだろうか・・・」と、考えることが多いです。

 自分自身、子どもの発達障害がなく、順調な子育てを経験していたら、あまり深く考えなかったかもしれません。また、以前は、障害を持つ子や親御さんと関わってきて、「障害」ということ、「ケアをするとは?」「支援するとは?」何だろうかと、自分なりに考えることが多かったからでもあります。

 「自信満々」な「上から目線」の支援者面した人たちから、自分たちの思うような方向にコントロールされる支援は、もうたくさんだと言いたくもなります。
 いつも当事者たちの前ではいかにも一生懸命にあなたたちのことを考えているという態度ですが、蔭では「支援してやってあげている」という態度がありありな言動です
 そういう裏表で違う態度を見せる支援者も残念ながら少なくありませんね。


 だいぶ前に読んだ本で、「ケアの本質」を書いたものがありました。(『ケアへの出発』援助のなかで自分が見える 岸良範 外)臨床で働く看護や福祉・心理職向けに書かれた本です。 読んでいて忘れないようにと、心に響いたところを書きとめておいたものです。
 医療者として関わる際の学びともなった本です。今の自分と重ねあわせて読み返していると、またいろんな心の在り方が見えてくるような気がします。


(内容より一部抜粋)

 臨床という場は、相手をどうこうしようとか、どうこうさせる場ではなく、互いに相手をコントロールしえない人間同士として、そこで共に過ごし関わり合う状況なのだと思う。
 一般的に、相手が援助者の計画通りになり、援助者には達成感まがいの満足感はあっても、相手が内なる促しで意欲的に生きていると確信できなければ、心の奥底に不安が残り空しさが湧いてくるだろう。援助者自身は変わらないまま、相手だけには変わっていただこうというたくらみを持っていると、いつかしっぺ返しをくうことになる。
 専門的な対人援助者(外部)は、相手に変えられてしまうことにもっと勇気を持ち、相手のなかに飛び込んでいき、今自分と相手に起きていることを感じ、とらえる力をもつべきだと思う。互いが変わり互いの成長と起こる場(状況)を生み出す。この状況の生みの親が対人援助者ではないだろうか。


 肯定的な働きかけに躊躇する人もいる。例えば誉めたりすると、相手がつけあがると思い、どうしても誉めることができないと言う人が存在する。
 そのような人を見ていると、自分の思いの方が先にあり、今自分の目の前にいる人が何をしたいかについて正当な正確な理解をする前に、自分の未処理な心の問題の方が先に現れ、相手の行動の理解に至らなくなる。その背景には、強い存在への不安とみてとることができる。
 自分のなかに存在する未処理な感情がある場合は、相手に対しての肯定的な評価や感情は伝えにくくなる。伝えるよりも自分の方に向けての肯定的評価を要求し、他人どころではない。むしろ、自分がいかに他者に支えられるかが無意識のうちの第一目標となる。
 

 日常の臨床活動の中で、我々が人を知るその仕方は、互いに顔と顔を合わせる関係の中で生じる。そしてこの関係はあくまでも、相互的であり見る人がまた見られる人である。つまり、「私」が相手をわかろうとするときには、「私」も相手にわかられるのである。
 このようにみてくると、「理解・解釈」はあくまでも関わり合いを土台にし、そして互いの変容を導くことができる。その意味では、「理解・解釈」の一連の流れは、変容と創造のプロセスということができる。
 つまり、「わかる」ことは、互いに「かわる」ということになるのである。

 日常生活の対人関係において、人と異なる意見を言うことに躊躇する人は、やはり援助の場面においても患者さんやスタッフに対しても違いを際立たせる行動はとらない。しかし、他者への援助を真剣に行っていこうとすれば、その援助過程において、そうした自分の在り方が問われたり、乗り越えなければならない課題となる場面がでてくる。
 他者のケアに関わっていくことは、そんな問題であれ、他者の社会性に関わっていくことであり、それは同時に自分の社会性を抜きにできないことだからである。
 

 役割とは、「職場において仕事をするために身につけなければならない鎧である」とか、「人間関係を良好なものとし、組織においてはみ出し者とならないようにふるまう仮の姿である」と考えられていることがある。そうした考えの背景には、本当の自分はもっと別の良さを持っているのだが、社会生活を円滑に送っていくためにやむなく社会的ペルソナを身につけて生きていかねばならない「もう一人の自分」を持っていることとなる。
 他方で、そうした役割の身につけ方を当たり前のこととして長く生活していると、いつの間にか職場において求められる組織人としての自己がすべてその人になっていく。
 

 役割を引き受けることによる自分の在り方や、組織に対する矛盾はそこでは回避されたままとなる。その結果、他者との対人関係は二次的なものになり、役割行動をするための手段となる危険性がある。社会的存在として、人が背負い、悩み、逆にその過程から自己が豊かになっていくこと(自己同一性)の歩みが静止したままとなる。

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本の紹介

縁・愛・願―子と親・家族を語る縁・愛・願―子と親・家族を語る
(2002/10)
富田 富士也、松原 泰道 他

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 教育カウンセラーとして、講演活動やカウンセリング活動・ワークなどを通して、私たちにいつも「関わる」とはどういうことかの気づきを与えてくれる富田富士也さんの著書です。
 私も何度かワークや講演会に参加したことがあります。
  
 
(引用)
 心の相談の活動をしていると、孤独、時代、希望と向き合うことがたびたびです。
 孤独とは報われなさであり、その悔しさや悲しみを一人で背負く心細さです。
 時代とはめぐり合わせです。その時代だからゆるされたり、願いがかなったり、かなわなかったりしたのです。
 そして希望とは、その抱える現実から何かを学びとった時に湧きおこる可能性です。生かされていることへの気づきとも言えます。闇の中に“愛”が射し込む瞬間でもあります。

 相談室を訪れる一人ひとりとその苦悩を語り合う時、この三つの世界と向き合わなければ、心の葛藤は見えてきません。孤独にふれなければ、その相談は押しつけになり、時代が語られなければ、現状認識が的外れになります。また、希望がなければむなしさばかりです。
 孤独と時代と希望を語る共感的関わりの積み重ねの中で、現実は何も変わらなくても、心がおだやかになる道筋が見えてきます。
 それが、「縁・愛・願」なのです。私たちは、これなくして生きていくことはできないように思います。「縁があったんだ」と事実を率直に受け入れ、「そこに私の救われる愛がある」ことに気づくことで、「私がこの世に生れてきた願い」に再び一歩踏み出していけるのです。
 人が人とコミュニケーションをとっていくのは、「縁・愛・願」に支えられた肯定的な出会いを信じているからではないでしょうか。


 この本の中は富田さんのワークショップに二人の講師の先生を招いたときの講演録をもとに書かれています。

 「共働学舎」代表の宮嶋真一郎氏の講演録より。
  
  共働学舎には、こういう人でなければ入れないという規則はいっさい作っていません。本人が希望するだけです。私のところから書類などはいっさい出しませんから、書類は一枚もないのです。
 だから、事務をする職員は一人もいません。その分、余計なお金を使わなくてすみます。
 私にとっては履歴書なんか必要ありません。どんな履歴でもいいのです。どんな生育歴であっても、どんな学歴であっても、私のところでは価値なしです。資格も同じです。
 ただ人間でありたいと思い、人間であればいいのです。
 「君が、あなたが、ここでみんなと一緒に生活したいか?」
 「ウン、いいよ」
 これが書類です。
 お役所は、無駄な費用と時間を使って、どれだけ大事なことができているか疑問です。学校教育も同じです。私たちの共働学舎には、成績というものがまったく必要ないのです。


 人間にとって一番大きな心の病はなんでしょうか?
 それは寂しさです。どんな人にとっても、一番大きな言葉にならない、人にも告げられない、けれども「ああ、どうしよう」という一番大きな深い病気は寂しさだと、私は思っています。
 その寂しさを見ようとしないのは、常識人だと思います。常識人は理屈でものを考えます。
 世の中がこうだから、私もこれでいいんだ。私もこうしていれば、まあまあ人に嫌われずに話ができるとし、調子を合わせていけるわけです。
 とにかく常識人です。私はそういう人とはあまり話ができません。
 人間の寂しさは常識では理解できません。
 私の願いは、寂しさ故に人のことがよくわかり、人を愛する人間になりたいということであります。

 「南無の会」松原泰道氏の講演録より

 私たちは教育、教育と言っているけれども、これはどういうことなのでしょうか。
 子どもは大人と共に成長するということです。だから、私に言わせれば、教育は大人が偉そうに教え、育てるのではなく、子どもに教えることで大人も成長するのです。
 具体的に言うならば、子どもの恩です。
 子を持って知る親の恩ではなく、子を持って知る子の恩だということです。
 子どもの恩がわかる親が、本当の親ではないでしょうか。親の思いばかり出していると、子どものおかげで大人が大人になれることを忘れがちになります。
 
 「生徒さんが集まってくださるお陰で、私は勉強ができるんです。みなさんがいらっしゃらなかったら、私は勉強をしません。どうしたら、みなさんにわかってもらえるか、それだけです。
 だから、みなさんにわかってもらうためには、ひとつのことを五倍マスターしたのではだめなのです。
 やはり、十倍くらいマスターしなければ、みなさんの中にストンと落ちるようなお話はできません。でもなかなか十倍の勉強はできません。だから、みなさんのおかげということはお世辞ではありません。」
  
 「ああ、あれが本当の教育ということなんですね。教えよう、教えようと思っていたけれど、本当は学ぼう、学ぼうということなんですね。」と、感動を示したのは、若い女性の講師でした。
 
 学ぶと言うことは一番の若返り法でしょう。
 まして、子どもに学んでいくと思うと、子どものお陰でどれだけ育てられたかわかりません。
 伝えようと思っていてはダメなんです。伝えよう、伝えようと思うと押しつけになります。
 自然に伝染していくものなのです。

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子どもをめぐる「援助」の本質とは

 
子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)子どものための小さな援助論 (こころの科学叢書)
(2011/06/20)
鈴木啓嗣

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 以前も紹介しましたが、この本を読んでいると本当に私が考えていた漠然とした思いを、著者の先生が見事に本の中に表現してくれています。

 治療者、特に心理的援助の専門家に向けて多く書かれていますが、子どもを取り巻く「援助者」と言われる人たちに一読していただきたい本だと思います。

 テーマ別に・・・
1「小さな援助論」とは 
・援助は善行でも何でもなく、人が生きていくなかで起こる必然的なかかわりあいに過ぎない。
・援助するという行為はしばしば相手の主体性を奪う。
・援助に限らず人と人との関係は、どちらが主導権を握るかという点で、競合的な一面を必ず持つものである。特に互いの間に能力的な違いがある場合、能力の劣る側が主導権を握ることは容易でない。
・現代はブームと呼んでよいような心理的援助の隆盛だ。
・心理学的援助が高い人気を得ているのは、実は援助の方法を伝える側の専門家たちが、心理学人気の流れに遅れまいと浮き足立っているように見える。
・今日の心理的援助への傾倒には、それを選ぶ人たちの「援助が必要だ」「援助したい」という素朴な欲求の増大が絡んでいるのではないか。
・まるで多くの人の心の奥にある援助的なかかわりを持ちたいという思いが、実現可能性のある道筋を見つけて大きな流れとなって出てきたかのように見える。

2 援助の専門家と侵襲
・社会の構造が複雑になっていくのにしたがって、職業としての援助の提供はしだいに社会システムのなかに組み込まれていく。その結果、個人的な間柄で行われていた援助の場合とは異なった現象が認められるようになった。その一つが援助の効率化である。
・援助が専門化すると、お互い様であるとか立場を逆にするとかいう発想は少し難しくなる。
・職業として行われる専門的な援助が広がることによって、援助の提供者と利用者との間にはっきりした区別ができあがった。そして援助を提供する側の機能だけが援助であると理解されるようになった。さらにそのなかでも、提供者が具体的に何か役に立つものを与えるという部分だけが「援助」と考えられている。
・「援助」の意味から抜け落ちたさまざまな作用が、専門家の視野から消えてしまったため、ふだんの人間関係として備わっていた援助のさまざまな要素は、「援助」の観点では検討されていない。

3 臨床家の仕事と専門的援助
・私たちが学ぶ専門的な援助方法は、あまりに不自然なやり方(しばしば有害なやり方)に思えてならない。
・すべてが専門家のコントロール下にあるならば、それは利用者不在の援助と呼ばれても仕方がない。
・特に心理的援助が社会現象化して強い力をもつことに危惧を示した。この現象の背後には現代人の親密性への欲求があり、それが心理的援助を推し進める強いエネルギー源になっているが、専門家・利用者間の不平等について、無自覚な場合には、このようなパワーが悪影響を及ぼす危険が高くなってしまうのである。
・専門的援助は、援助のある部分に特化することで、効率的に援助を行おうとする方法である。

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医療・福祉・介護分野で仕事をしてきました。息子が発達障害をもっています。仕事や子育てを通して感じたことを個人の見解として綴っています。

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